海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(60)

2010-08-25 08:26:05 | 歴史
 そして、これはどうしようもないことだと思われるのは、平成版では、赤塚源五郎の名前は、吉留の報告書の中だけになり、今度は、源五郎の代わりに父親の源太郎が在郷軍事会の「漏れた」人数の中に新たに書き加えられている有様なのである。のちの調査により、一部修正したなどという文言も(注)もなく。  
 これでは、明らかに史料改ざんと言われても仕方あるまい。だから、こんな資料を使っても何の解明にもつながらないのはわかってくるが、これ以上の手がかりはないのだから、今しばらくこれを見てみるしかない。
 さて、『血涙史』の最初の投降者たちの吉留盛美はともかく、分隊長福島安(やすし)、押伍田中藤之進、鈴木弥助は、昭和版・平成版の「漏れた」名簿の中にある。但し、福島の場合は、安(やすし)ではなく、康(やすし・だろう)としてだが、これは改名かどちらかの誤記と判断してもいいだだろう。何度も引っ掛かるのは、吉留盛喜のことである。昭和版・平成版ともに福島らと同じく「漏れた」人物たちの中にいる。しかしながら、かれが吉留盛美と同一人物だとすると、蒲生郷では、最初の「裏切り者」が、戦後、戸長心得として認められているということになる。それなら、当然、赤塚源太郎も認められていてもいいのに、平成3年の『郷土誌』まで無視されていたのである。吉留の配下の鈴木弥助の勧めによって、源太郎らが投降したとなれば、尚更おかしいことになる。
 それでは、吉留盛美と吉留盛喜が違う人物だとしたら、どうだろう。こう仮定すると、『蒲生郷土誌』の中には、かれの名前は一切出てこないのだから、赤塚源太郎以上に語れない人物として無視され続けているということになる。
 もう一つ考えられるとすれば、『薩南血涙史』の吉留盛美の名前はもっと別な人物の名前と取り違えていた可能性もある。ただ、これもはっきりと破竹四番中隊とも言っているし、それらの名簿などに基づいて記しているのだろうから、これも簡単に否定できない。おまけに、いい加減な情報を2度も繰り返しているということも考えられない。
 こんな錯綜に陥っているとき、再度開いた『鹿児島史談』(第2号)の論文「西南戦争と蒲生」に、吉留盛喜の名前が出てきていたのである。それは、破竹二番中隊赤塚隊の小隊長として、赤塚とは同調せず、赤塚が投降したあとの蒲生隊の大隊長(中隊長だと思うが)として。