海鳴記

歴史一般

続「生麦事件」(50) 海江田信義書簡(15)

2008-11-29 11:31:44 | 歴史
 今のところ、私は、西郷が唱えたのは征韓論、遣韓論のどちらかはよくわからない。自分でもう一度資料にあたって、私なりに満足する結論を得ていないからだが、これは毛利氏の論があまりにも印象深かったからであろう。ただ、この話を原口清氏にすると、氏は、
 「うーん、私もはっきり調べたわけではないので何とも言えないが、確かに、征韓論的部分もあれば、遣韓論的な部分があって、明確でないところがあるからねえ」
 と言っていた。ということは、簡単に結論づけられないということだろうか。

 今年初め(?)、鹿児島県知事・伊藤祐一郎名で教科書会社に遣韓論を訴えたところ、一社が征韓論を遣韓論という表記に変えたという。それに対し、田村貞雄氏が、静岡大学名誉教授という肩書きをつけず、一投書家として地元新聞に投稿し、知事の無知ぶりを批判している。
 もっとも、知事・伊藤祐一郎氏も全く知らないというわけではなく、ただ、政治家として鹿児島の大勢に従っただけかもしれない。それはよくわからないが、この知事氏の先祖は、出水郷士族の伊藤祐徳らしい。
私が鹿児島にいたとき、すでに知事に当選していたから、これはすでに鹿児島で聞いていることである。
 この伊藤祐徳は、出水部隊の隊長として戊辰戦争にも従軍し、戦果を上げ、西郷からも高く評価されたようだが、地方郷士は城下士に露骨に差別され、それを嫌って、明治政府には残らず出水に帰ったという。また、戊辰戦争の賞典禄も城下士優先で、地方士族には遅れたことに対する不満からか、西南戦争の際は、出軍はしたものの、ねばり強く戦わずに退却したといわれている。以来、西南戦争に敗れた城下士たちは、伊藤祐徳を非難しているというのだ。
 それゆえ、その子孫である伊藤祐一郎知事が、そんなことを言うのか、と出水出身の歴史作家である桐野作人氏も憤慨している。


続「生麦事件」(49) 海江田信義書簡(14)

2008-11-28 11:07:51 | 歴史
 毛利氏が、『明治六年政変の研究』を出版後、専門の研究者たちの間で、原口清氏を代表者(会長?)とする「明治維新研究会」(?)の会合(学会?)が京都で開かれた際、田村貞雄氏は、毛利氏のこの著作を、毛利敏彦氏の目前で批判し、原口氏も賛同したというのである。そして、これに対して毛利氏は、その場で、何の反論もしなかった(できなかった?)ので、もう私の論(征韓論)で、決着がついたと思っていたというのである。
 田村氏は、取り上げた資料の解釈も一方的だし、だいたい、大久保の資料など時期が違うものを自分の都合のいいところにもってくるなど、でたらめも甚だしいという。あまり正確には覚えていないが、素人はだませても、専門家の間では、話にならないとも言っていた。
 私は、自分の読みの甘さ、いい加減さを指摘されたような気になって、やや戸惑ったが、ああ、これが、海音寺潮五郎いうところの関東の学者の説云々かと、妙に感心もした。つまり、西郷びいき(遣韓論者)の海音寺は、田村氏のような研究者が圧倒的に多い関東(鹿児島以外)に住んでいたので、そういう皮肉な書き方で、憂さを晴らしていたのかもしれない。
 私も、ずーと鹿児島にいて、鹿児島の歴史に批判的だったにも関わらず、鹿児島の空気に慣らされていたわけだ。だから、田村氏の論は、むしろ新鮮で、手元に『明治六年政変の研究』があったら、もう一度それを紐解き、照合したいと思ったが、残念ながら処分しているので、それもできそうもなかった。というのは、古書価も高いし、こちらの図書館にも在庫していなかったのである。だから、この本のことを憶い出すと、何か隔靴掻痒を感じるのである。

 ともかく、歴史研究者の間では、より多くの資料を提示し、その資料の解釈が分かれる場合は、より多くの賛同者がいないと定説とはなっていかないようだ。だから、私が感心した毛利氏の「遣韓論」は、どうも鹿児島以外では、多数の支持を得ていないようである。


続「生麦事件」(48) 海江田信義書簡(13)

2008-11-27 11:35:11 | 歴史
 前回、歴史家の歴史の捉え方の話で終わったが、このことに関して、かなり戸惑った経験がある。いや今でも戸惑っているというか、自分で確認していないので何ともいえないむず痒さのようなものを感じている。それは、次のような話である。
私は、古本屋をしながら生麦事件を追っているとき、歴史家の歴史論文なるものを読まざるを得なくなってしまった。そのときまで、歴史研究者の論文など読んだこともなかったので、最初かなり抵抗を感じたし、それは何点か読んだ後でも変わらなかった。
 ところがある日、店の棚にあった毛利敏彦氏の『明治六年政変の研究』を読んでみて、その抵抗がなくなった。というより、ひどく感銘を受けたのである。論文というのは、こうでなくっちゃあ、と。
 もちろん、純粋な学術論文というより、最初から本にしようとしていたからか、一般読者も意識し、より砕いた文章を心がけたのだろう。しかし、そういうことより、資料の提示の仕方やその解説を含め、論旨に淀みがなく、確信に満ちているので、すぐに次の章へと駆り立てられるのだ。そして、一気に読み終えさせられ、なるほどそうに違いない、と思わせるのである。
 当時、鹿児島における西郷の「遣韓論」を、うるさく、苦々しく思っていた私が、これを読んで、そうか、論拠はここにあったのか、と妙に感心したことを覚えている。そして、少し救われたような気になったのも事実である。つまり、鹿児島人も全く根拠なくして、「遣韓論」を唱えていたわけではなかったのか、と。これなら、少しは許せる、と。

 しかしながら、私が静岡に移って、田村貞雄氏や原口清氏らが主宰している「明治維新史談会」に入り、毛利氏の『明治六年政変の研究』の話をすると、田村氏は、あれは間違っていると、言下に否定したのである。



続「生麦事件」(47) 海江田信義書簡(12)

2008-11-26 11:13:58 | 歴史
 私は、最近、歴史に詳しい人たちにも、
 「あなたはなぜ生麦事件や奈良原繁のことを調べているのですか」と訊かれることが多い。この文脈には、そんなつまらないことや人物を調べていて面白いですか、という意味合いが暗に含まれているような気がするので、やや反発を感じる。
 私が、この事件を調べるようになったのは、直接的には、繁の孫だという奈良原貢氏のインタビュー記事を読んだときからだった。それまでは、綱淵謙錠の歴史エッセイを読むだけで充分だったし、その続きを探す努力をしているだけだった。ところが、事件から百数十年も経っているのに、加害側の子孫が、実は自分の祖父が「犯人」だったという記事を読んで、ふと、仏教用語でいう因果応報という言葉が浮かんだのだ。多少奇妙に聞こえるかもしれないが、つまり、ある事を曖昧にしたため、それが三代にわたって報い、関係者を苦しめたのだ、と。
 私は、たかだか50年ほどしか生きていないのに、それでも些細な事(他人にとってはそうではない)を曖昧にしたせいで、それに悩まされ、場合によってはかなり苦しめられたことなどいくつもある。だから、こういう歴史上の事象でも、そういうことがありうるかもしれない、と感じたのである。そして、私はそれまで鹿児島で古本屋をしながら、これだけ歴史上の人物を輩出した土地柄なのに、西郷周辺の人物しか調べられず、また西郷に敵対した人物たちは未だに無視されている現状に腹が立ち、それでは、ここでは誰も調べる人などいない「生麦事件」と奈良原兄弟を調査しようと考えたのである。
 それゆえ、「生麦事件」や奈良原兄弟を調べ出した契機(きっかけ)は、歴史(学)的興味からではない。あくまで、そういえるとすれば、文学的発想からなのである。ただ、入り込んでいくうちに、歴史学的探求の必要性から、歴史研究者たちのグループに加えてもらったり、古文書読みの勉強をせざるをえなくなったのである。場合によっては、生(なま)の史料を読まざるを得なくなったし、また、歴史家の歴史(生麦事件等)の捉え方も知りたかったので。




続「生麦事件」(46) 海江田信義書簡(11)

2008-11-25 11:28:52 | 歴史
 とにかく、春山は何に、また誰に遠慮しなければならなかったのか知らないが、海江田が語った海江田の真実を聴いていることだけは確かだ。その真実は、春山一人だけでなく、かれと一緒に海江田邸に行き、海江田の「幕末維新」の話を聴いた仲間もいたのだから、その話は仲間内で伝えられ、語り継がれていった可能性はある。要するに、それらの話が『直話』であり、『口演』だったということだろう。まさか昭和3年刊の『海軍史』の編著者が、明治39年に亡くなった海江田から直接話を聴いたということではないだろう。かつて直接聴いていたとして、全く、ありえないことではないだろうが、海江田が、かれのいう「真実」を語ったとしても、事実をありのままに語っていたという保障はどこにもない。ただ、『海軍史』の書き手は、『実歴史伝』には、ほとんど何も書かれていなかったので、語り継がれた話を総合し、その参考文献として、やや苦し紛れに、『・・・直話』や『・・・口演』などを挿入したのだろう。
 そうとでも考えなければ、海江田のいう「真実」が、明かされることはなかったであろう。
 
 さて、海江田の『幕末維新実歴史伝』が出版された翌年の明治25年から、のちに『史談会速記録』として出される、幕末維新の事件等についてのインタビューが始まっている。そして、この年の12月に、久光の歴史編纂事業に従事した市来四郎が、薩摩藩の関係者を代表して、「生麦事件」および翌年の「薩英戦争」について話をしているが、そこで市来は2度にわたり、奈良原繁が兄の助太刀をしたと聞いていると言っているのである。
 一体、『海軍史』の編著者は、これを読まなかったのだろうか。読まなかったはずはないとすれば、なぜその記録を無視したのだろうか。その当時、奈良原繁をはじめ、事件関係者はすべて物故しており、事件から60年以上も経過していたというのに。
 私は敢えて言う。『海軍史』や『縣史』を書いた歴史家が、もっと歴史や過去に対して謙虚な人物たちだったら、こんな杜撰な記録は残さなかったのではないか、と。これは言いすぎだろうか。
 かれらは、生麦事件同様、事実を曖昧にしてしまった。私は、もし事実がわからなくなってしまったのなら、わからなくなったとして、その記録を載せるべきだった、と思う。明確な根拠も提示できないのに、奈良原喜左衛門がリチャードソンを斬り、海江田信義がかれを介錯したなどと書くべきではなかったのだ。それが歴史に対する誠実な態度であるし、誠実な歴史家であるのだと私は言いたい。


続「生麦事件」(45) 海江田信義書簡(10)

2008-11-24 14:28:25 | 歴史
 おそらく、『薩藩海軍史』(中巻)の書き手は、海江田の『実歴史伝』を読んで、生麦事件の項目がほとんど省略されていることに気がついた。だから、当時、その辺の事情に詳しい人物たちに問い合わせたにちがいない。すると、まだ海江田の『直話』や『口演』を聴いている人たちが残っていたのである。
海江田が、『実歴史伝』を出した5年後の明治29年、郷土の先輩である海江田の話を聴いたという春山育次郎という人物が、雑誌『太陽』に、「生麦駅」という題でエッセイを発表している。
 私は、41回目で、海江田は、『実歴史伝』の筆記者に、自分がリチャードソンの介錯をしたことなどは、語ったはずだとやや自信をもって書いた理由は、この春山のエッセイがあるからである。
ここで春山は、海江田が上京している郷土の後輩たちを集めては、『実歴史伝』では語れなかったことを話すのを聴いている。たとえば、喜左衛門が斬ったことを匂わしたり、京都で病気になって亡くなったことを書いているのである。ところが、断末魔のリチャードソンが何かを口走っている前で、海江田は何を言っているのかわからなかった、というところで文章をきり、肝心の止めを刺したことなどどこにも言っていない。そして、春山はそのあと、
 「子爵の此処に来たりし時、喜左衛門の弟にて当時幸五郎といへりし今の沖縄県知事奈良原(繁)男爵、家兄が外人を斬れりしよりききて来たれり、外人はいづこにあるぞと忙しく尋ねいたりしを始めとして、此間子爵の話はなお多かりけれど、憚ることあれば、省きてここにはしるさず」と括弧注を入れているのだ。
一体、何を憚る必要があったのだろうか。まさかこのあと、倒れているリチャードソンのところにやってきた奈良原繁が、海江田に代わってリチャードソンの介錯をしたなどと続くわけではないだろうに。

続「生麦事件」(44) 海江田信義書簡(9)

2008-11-22 11:37:55 | 歴史
 それから、一瞬、喜八郎と喜左衛門を混同するような単純ミスかとも考えたが、何度も校正をした当時の権威ある歴史学者たちが、まさかそんなミスを犯すはずがない、と他の項目も調べてみた。すると、繁は寺田屋事件の際にも喜八郎や幸五郎という名前ではなく、明治後(島津家の家令になった明治6・7年以降)の名前である繁で統一されている。ということは、兄・喜左衛門と明確に区別していたということだろう。つまり、確信をもって書いているということだ。
 しかしながら、この執筆者が参考にした海江田の『維新前後実歴史談』には、明らかに奈良原喜左衛門という名前が載せてあるのである。ましてや、この『・・・実歴史談』の中で海江田は、薩英戦争の際は無論のこと、寺田屋事件の前の有馬らの過激派説得にも、喜左衛門と一緒に行動していたと語っている。そして何度も強調するが、江戸城へのデモンストレーションも喜左衛門と一緒に先頭に立って行動したと書いているのに、である。

 最初は、『鹿児島縣史』の表記をどう判断していいかよくわからなかった。ただ、当時の執筆者たちは、海江田の嘘か「誤解」を知っていた可能性が高いということぐらいしか。
 『鹿児島縣史』第3巻(昭和14年刊)は、生麦事件でリチャードソンに最初に斬りつけた人物を、奈良原喜左衛門としている。もちろん、これがのちに定説となり、さまざまな時代小説や通俗歴史小説などに取り上げられ、普及している。では、この権威ある『鹿児島縣史』は、何を典拠にしているかというと、昭和3年に刊行された、これも重厚な『薩藩海軍史』(中巻)なのである。『縣史』の生麦事件の記述は、ほぼこの『海軍史』を踏襲しているだけで、参考文献も『海軍史』を筆頭に挙げている。では、『海軍史』は、なにを出典に挙げているのかというと、(注)として、『海江田信義実歴史伝及直話』と『海江田信義口演並実歴史伝』なのである。
 当然のことながら、こんな題を冠した本や冊子はない。

続「生麦事件」(43) 海江田信義書簡(8)

2008-11-21 10:22:33 | 歴史
 ましてや、明治期の漢学者のような編者に本を造らせているので、読みにくいことこの上ない。全くのホラ話ではないだろうが、最近、海江田らのデモンストレーションが取り上げられなくなったのは、ここに書かれている難しい漢字のせいで、忙しい作家たちはもう読まなくなったからではないだろうか、と思われるほどだ。話自体としては面白いのに。
 冗談はさておき、現在では、優柔不断な幕府側に要求を飲ませたのは、大久保らが大原卿の宿舎に出向いたとき、たまたま、老中らが大原卿のいる伝奏(てんそう)屋敷に訪ねてくる日だったので、もしまだ老中側が色よい返事をしないなら、この刀にかけて承諾させようと言ったからとなっている。大原卿と老中たちが話し合い中、大久保らが隣の部屋に待機し、大原卿が老中らのはっきりしない返事に語気を強めると、隣の部屋にいた大久保らがこれに呼応し、老中たちにかれらの存在を知らせるあの例の場面である(NHKの『篤姫』でもこの場面はあった)。これは、大久保自身が日記に書いているのだから、疑いなさそうだが、海江田の話も全くありえないことではなさそうだ。その証拠に、戦前の発行だが、その有効性が未だに信じられている『鹿児島縣史』第3巻には、この海江田の話も取り上げられているからだ。この『鹿児島縣史』も戦前に発行された本だから、やや難しい漢字が多いが、これも戦前の漢学に素養のある書き手が編纂に加わっているからだろう。だから、当然、海江田の『・・・実歴史伝』などもすらすらと読みこなし、これも可なりと、あの重厚な文体の『鹿児島縣史』に取り入れたのだろう。
ところが、あの権威ある『鹿児島縣史』では、海江田と江戸城へ出向き、デモンストレーションを掛けようとしたのは、奈良原喜左衛門ではなくて、奈良原繁なのだ。
 私は、これを最初に見出したとき、漫画の表現ではなないが、目が点にならざるを得なかった。そして、しばらく口を開けてポカンとしてしまったにちがいない。

続「生麦事件」(42) 海江田信義書簡(7)

2008-11-20 11:08:12 | 歴史
 このあと小松帯刀が神奈川宿の休憩を取りやめ、戸塚宿に直行すべきだと言ったのに対し、海江田は、神奈川宿に休憩すべきだという話が続いている。もう生麦事件の具体的な話などどこにも出てこないのである。

 さて、次に載せるのは、現在ではあまり取り上げられていないが、久光一行が勅使・大原重徳(しげとみ)卿に従い、江戸に向かい、久光らが建議した要求を幕府に差出し、それらを飲むように交渉するが、幕府はのらりくらりと返事を延ばす。そこで、痺れを切らした海江田や奈良原喜左衛門らが、小松、中山、大久保らに、腕に自信のある有志の者が江戸城へ出向き、閣老たち出てくるのを見計らって脅しのデモンストレーションをかけようではないかと談じるのである。そして、それが実行に移されてしばらくすると、幕府は、久光らが建議した、一橋慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政治総裁職にという要求を承認したという。『・・・実歴史伝』では、非常に長い部分だが、かなりの部分を省略して以下に掲載する。

 是時海江田並に奈良原喜左衛門は、這回(しゃかい=これまで)の勅旨を拒まんとすを聞き、窃(ひそか)に相謀(あいはかる)所あり、乃(すなわ)ち小松、中山並に大久保に謂て曰く、勅使入府以来日を歴(ふ)ること既に二旬、而して幕府の奉荅(答)甚た因循にして、竟(つい)に空(むなし)く今日に及べリ、且つ頃日余輩が耳朶に触るゝ所に依るときは、幕府は到底勅旨の条件一条だも遵奉するの色なしといへり(略)・・・・・
 請ふ足下等前論の決意を以て、暫く之を忍び、ここに両三日間を待つべしと。海江田曰く足下の所見太(はなは)た好し矣、敢て貴意に従はん、因て余輩は後挙の参考として、閣老退営の形状を一見せんと欲す。大久保等曰く、亦可なり、請ふ慎んで亡状を加ふる勿れと。海江田、奈良原乃ち各々強腕勇驍(ゆうぎょう)の壮夫を意指して、之を誘(いざ)なひしに(略)・・・

 もうこれ以上書いても誰も読みそうもないと思えるようになったので、途中だがここまでにする。ここは海江田がもっとも自慢したかった話の一つだとしても、自分も喜左衛門も関わったとされる生麦事件には1頁も費やさなかったのに、ここでは9頁にわたって詳細に描写しているのだ。もうよか、というまでに。


続「生麦事件」(41) 海江田信義書簡(6)

2008-11-19 09:57:52 | 歴史
 もし、実際の定説通り、最初にリチャードソンに斬りつけた人物が奈良原喜左衛門だったとしたら、どうして海江田は、繁に遠慮しなければならなかったのだろうか。すでに喜左衛門は亡くなっているのだし、定説通りなら、それは何度も語られた事実なのだから、もう弟などに遠慮する必要などないはずなのに。ましてや、海江田がリチャードソンに止めを刺したことが事実なら、なぜそれも言わなかったのだろうか。苦しんでいる異人の介錯をしてやったのだ、武士の情けとして、となぜ言えなかったのだろうか。
 おそらく、後者の話は筆記者にも語ったはずだ。しかしながら、本にする編集段階で、海江田はおかしいことに気がついた。介錯をしたのは自分だと語れば、では斬りつけたのは誰だという話になってくることを。つまり、どちらも曖昧にしておかないとここはおかしくなってくる、と。
 私がやや自信をもってこう語るのには、理由がある。だが、これはもう少しあとで話そう。その前に、話を少し元に戻すと、拙著では、海江田の『維新前後実歴史伝』の一部である「生麦事件」の部分を抜書きして示したが、ここではそれを控えた。それは『・・・実歴史伝』の漢字が難しすぎて、読みにくいと思ったからだが、考えてみれば、奈良原繁の読みにくい手紙なども載せたのだから、これは片手落ちではないだろうか。いや、不徹底だと考えるようになったので、ここにそれを掲載しようと思う。と同時に、拙著では載せなかったが、「生麦事件」の項と比較できる別の項目も合わせて掲載しようと思う。私が言う、「生麦事件」の項目がいかに編集、いや削除されているかを明示するために。
 では先ず、「生麦事件」の項から始める。
(一部漢字は、作れないものがあるので他に置き換えたものが多々ある)

・・・喝道(かつどう)して生麦村を過ぎんとす、時に海江田、轎(かご)に駕して儀仗(ぎじょう)の先導を為しつつありしが、會々(たまたま)外人四人(三人は男子一人は女子)並に馬に騎して前途より馳せ過るに逢ふ、しばらくありて又まっしぐらに後途より馳せ返る者あり、之を目撃するに先に過ぎたる外人三騎(二人は男子一人は女子)にして、中にも男子二人はどうして創傷を負ひたるにや、馬の躍るに従ふて鮮血淋漓(せんけつりんり)腰部より奔射しつつ、尚ほ鞭を加えて逃れ返り、其一人は既に馬上より斬り墜され、路傍の土畔に横臥して、手自から腰間の出血を拭ひつつあり、然して儀仗はこれまでの変事を見て一時騒然たりしが、久光公は輿上(こしじょう)に瞑目して神色自若たり・・・