ただ、これですっきりしたわけではない。なるほど、吉留盛喜が赤塚源太郎らとともに投降したのでなければ、のちに蒲生戸長心得になったことは理解できる。それならなぜ、自らが作成した「明治十年役出兵名簿」に自分の名前を書かなかったのだろうか。あるいは入れなかったというべきなのだろうか。
昭和版・平成版『蒲生郷土誌』ともに、上記報告書に「漏れた」人物たち、すなわち、『薩南血涙史』で最初に投降したとされる、福島安、田中藤之進、鈴木弥助らと一緒に記載されているのだから。もちろん、今のところ、吉留盛美なる人物が存在するのかどうかわからないのだから、ここでは除外するしかないが、赤塚源太郎の場合はどうだろうか。
かれの場合、昭和版の郷土史には、名前はなく、その代わり息子の源五郎の名前があった。これを平成版では、源五郎の名前ではなく源太郎に入れ替えてあった。吉留の場合、こういう改ざんというか誤記訂正というか、いわゆる修正がまったくなかったのである。
さらにこうも考えてみた。『血涙史』では、吉留盛美の盛美を「セイビ」というルビを振っていた。だが、『血涙史』の著者が当てているルビは地名でも人名でも通常と違うルビを振っていることが多い。だから、盛喜が「モリヨシ」という読み方だとすれば、それが、どこかの段階で、盛美(モリヨシ)と誤記された可能性がある。つまり、『血涙史』の著者は、名簿に「盛美」という名前があったのを、呼び方がわからなかったため、音読みのルビを振ったのだ、と。
のちに戸長心得となり、また源太郎のあとに破竹二番中隊長になった人物の名前が間違われるというのは、確かに奇妙なことにも聞こえるが、源太郎自身、中隊長になったのは、つい2、3日前なのである。それまでは、小隊長だったろうし、吉留などは半隊長か分隊長あたりだったのだから、薩軍内部では決して大物とはいえないだろう。それゆえ、誤記は充分考えられる。
しかしながら、盛美も盛喜も同じ人物だったとしても、どうして戸長心得などになれたのか、という最初の疑問に戻るだけである。
こんな堂々巡りを続けても仕方がないので、今度は『鹿児島史談』に掲載された、南實氏の「西南戦争と蒲生」に入ろう。
昭和版・平成版『蒲生郷土誌』ともに、上記報告書に「漏れた」人物たち、すなわち、『薩南血涙史』で最初に投降したとされる、福島安、田中藤之進、鈴木弥助らと一緒に記載されているのだから。もちろん、今のところ、吉留盛美なる人物が存在するのかどうかわからないのだから、ここでは除外するしかないが、赤塚源太郎の場合はどうだろうか。
かれの場合、昭和版の郷土史には、名前はなく、その代わり息子の源五郎の名前があった。これを平成版では、源五郎の名前ではなく源太郎に入れ替えてあった。吉留の場合、こういう改ざんというか誤記訂正というか、いわゆる修正がまったくなかったのである。
さらにこうも考えてみた。『血涙史』では、吉留盛美の盛美を「セイビ」というルビを振っていた。だが、『血涙史』の著者が当てているルビは地名でも人名でも通常と違うルビを振っていることが多い。だから、盛喜が「モリヨシ」という読み方だとすれば、それが、どこかの段階で、盛美(モリヨシ)と誤記された可能性がある。つまり、『血涙史』の著者は、名簿に「盛美」という名前があったのを、呼び方がわからなかったため、音読みのルビを振ったのだ、と。
のちに戸長心得となり、また源太郎のあとに破竹二番中隊長になった人物の名前が間違われるというのは、確かに奇妙なことにも聞こえるが、源太郎自身、中隊長になったのは、つい2、3日前なのである。それまでは、小隊長だったろうし、吉留などは半隊長か分隊長あたりだったのだから、薩軍内部では決して大物とはいえないだろう。それゆえ、誤記は充分考えられる。
しかしながら、盛美も盛喜も同じ人物だったとしても、どうして戸長心得などになれたのか、という最初の疑問に戻るだけである。
こんな堂々巡りを続けても仕方がないので、今度は『鹿児島史談』に掲載された、南實氏の「西南戦争と蒲生」に入ろう。
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