海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(41)

2010-08-05 11:29:10 | 歴史
 では、願書の内容に移っていこう。逐語訳的な文章になって、わかりにくいところも出てくるかもしれないが、お許し願いたい。
 前回言ったように、願人は、別府量輔、山口一斉、高山一角、中村兼武の遺族なのだから、平民・黒石川仁助を除く、4人の名前が並んで最初に挙げられている。それから、本文が始まり、3月27日、かれら4名に、重冨郷出張仮役所にいる戸長名で、出頭命令が出された、とある。そこで、4人がそこに出向くと、加治木の警察第四分署へ差し回されることになった。そしてそれは、それぞれの家族に、毛布一枚を持って来るようにと連絡が入ったことでわかった。が、家族は何の「御用」でそんなことになったのか皆目わからない。どうしようもないので、とりあえずそれぞれの家族・親類は、毛布と弁当(飯食)などを用意して、加治木に向った。すると、その途中で、4人を加治木の警察署へ連れて行った重冨の副戸長が戻って来るのに出遭う。
 家族たちは、早速かれに4人の様子を尋ねると、かれらはそこで捕縛され、かれらが携行品を預かってきたという。ともかく、家族・親類は急ぎ警察署に出向いた。だが、そこに至って、毛布等を渡したいからと面会を申し込んでも、巡査に拒否される。仕方なく、その巡査に毛布等を4人に渡してくれるように頼んで、家族たちは家に帰った。
翌日の29日朝、4人を心配している家族は、家僕に弁当を持たせて、再度、加治木の警察署へ向わせたが、4人はすでに大口郷の牛山というところに差し回されていたという。そこで、また家僕を牛山に送ったが、面会もままならず、4人も戻らなかった。
 4月1日。4人の家族は、食事はもちろん、旅費などにも困っているのではないかと、またこの日に家僕を牛山に遣わした。家僕がそこに至ると、牛山の牢(禁固)番人に、昨日、肥後のほうへ連れて行かれたといわれ、どうすることも出来ずに戻って来た。
 4月2日。(ここから主語が家族ではなく、殺害された側の人間が書いているような文章になっている)
十ノ五番隊、佐土原(薩摩藩の支藩)、綾・高原・野尻・高崎(以上日向)合併隊長土岐半介(鹿児島城下士族)、半隊長何某(佐土原士族)らに囲まれて、捕縛人12名が牛山平和泉(ひらいずみ)村の平民新助のところに連れて行かれる。