(5)
話はまだ続く。
私は、ずっと鹿児島の歴史に興味をもってきた。そして、今まで何度も言ってきたことだが、鹿児島の歴史は、西南戦争前とその後は全くその様相を異にしている。
簡単に言ってしまえば、それまでの華々しい官軍の歴史、つまり「勝ち組」の歴史と、のちの賊軍としての歴史である。だから、会津藩の子孫氏たちように、単純に「負け組」の歴史を背負わされたとは言えない。かなり入り組んでいる。現在の鹿児島の子孫氏がそれを意識しているかどうかはともかく、無意識的というか、結果としてその複雑な感情が歴史出版物に表れていた。
私は、鹿児島で古本屋をしていたかたら、断言してもいい。過去の歴史出版物で、維新期に活躍した人物たちの作品が異様に少なかったことだ。いや、これでは曖昧な言い方でわかりにくいかもしれない。より正確に、かつより具体的に言えば、地元の作家や歴史家で大久保について書いた人物は一人もいなかったことである。あるいは、大久保側やその周辺で西南戦争を境に鹿児島を離れた人物たちをも、である。もちろん、これは東京で鹿児島出身者が書いたものを除外してである。
私が「生麦事件」に深入りしたのは、こういう奇妙な現実があったからといえば、言えるだろう。「生麦事件」に関わったとされる奈良原兄弟に関する作品資料など皆無だったのだから。唯一あった男爵・奈良原繁の伝記は、沖縄で出された『南島夜話』のみで、それも著者は鹿児島人でも沖縄人でもなかった。
だから私は、墓石調査から始めなければならなかった。そうしているうちに、なぜこんなことをしなければならなかったか、その理由が初めてわかったのである。西南戦争後、賊軍として鹿児島に残った人たちは、西郷か西郷周辺の人物たちしか書けなくなったのだ、と。
なぜなら、賊軍として亡くなった、6,800(注1)人余の子孫たちは、明治22年に復権した西郷を唯一の頼りとして生きてこなければならなかったからである。西郷南洲翁を盾(神)にしなければ、彼らの武士の末裔としての尊厳が保たれなかったからである。
こういう状況が、まさに会津側の子孫氏たちの状況でもあった。彼らも薩摩と同様、一度は天皇側に立って戦ったではないか。それがなぜ、なぜこうも痛苦を与えられねばならなかったのか。
会津側が、薩摩藩も裏切りものだと考え、長州藩と同様、未だに許しがたいと考えているとすれば、それはどうも違うように思う。武士の誇りを傷つけられたという点では、鹿児島側も同じだし、ある意味では、もっと悲惨だったかもしれない。身近に成功者がいたとなれば、なおさらであろう。
この結論は、一坂太郎氏と星亮一氏との対談への補足として付け加えたが、私は会津側の遺恨が、鹿児島にいたからこそ理解できると考えている。
(注1)・・・この中には薩軍以外の熊本や宮崎出身の戦死者も含まれているが、圧倒的に薩軍が多かった。
話はまだ続く。
私は、ずっと鹿児島の歴史に興味をもってきた。そして、今まで何度も言ってきたことだが、鹿児島の歴史は、西南戦争前とその後は全くその様相を異にしている。
簡単に言ってしまえば、それまでの華々しい官軍の歴史、つまり「勝ち組」の歴史と、のちの賊軍としての歴史である。だから、会津藩の子孫氏たちように、単純に「負け組」の歴史を背負わされたとは言えない。かなり入り組んでいる。現在の鹿児島の子孫氏がそれを意識しているかどうかはともかく、無意識的というか、結果としてその複雑な感情が歴史出版物に表れていた。
私は、鹿児島で古本屋をしていたかたら、断言してもいい。過去の歴史出版物で、維新期に活躍した人物たちの作品が異様に少なかったことだ。いや、これでは曖昧な言い方でわかりにくいかもしれない。より正確に、かつより具体的に言えば、地元の作家や歴史家で大久保について書いた人物は一人もいなかったことである。あるいは、大久保側やその周辺で西南戦争を境に鹿児島を離れた人物たちをも、である。もちろん、これは東京で鹿児島出身者が書いたものを除外してである。
私が「生麦事件」に深入りしたのは、こういう奇妙な現実があったからといえば、言えるだろう。「生麦事件」に関わったとされる奈良原兄弟に関する作品資料など皆無だったのだから。唯一あった男爵・奈良原繁の伝記は、沖縄で出された『南島夜話』のみで、それも著者は鹿児島人でも沖縄人でもなかった。
だから私は、墓石調査から始めなければならなかった。そうしているうちに、なぜこんなことをしなければならなかったか、その理由が初めてわかったのである。西南戦争後、賊軍として鹿児島に残った人たちは、西郷か西郷周辺の人物たちしか書けなくなったのだ、と。
なぜなら、賊軍として亡くなった、6,800(注1)人余の子孫たちは、明治22年に復権した西郷を唯一の頼りとして生きてこなければならなかったからである。西郷南洲翁を盾(神)にしなければ、彼らの武士の末裔としての尊厳が保たれなかったからである。
こういう状況が、まさに会津側の子孫氏たちの状況でもあった。彼らも薩摩と同様、一度は天皇側に立って戦ったではないか。それがなぜ、なぜこうも痛苦を与えられねばならなかったのか。
会津側が、薩摩藩も裏切りものだと考え、長州藩と同様、未だに許しがたいと考えているとすれば、それはどうも違うように思う。武士の誇りを傷つけられたという点では、鹿児島側も同じだし、ある意味では、もっと悲惨だったかもしれない。身近に成功者がいたとなれば、なおさらであろう。
この結論は、一坂太郎氏と星亮一氏との対談への補足として付け加えたが、私は会津側の遺恨が、鹿児島にいたからこそ理解できると考えている。
(注1)・・・この中には薩軍以外の熊本や宮崎出身の戦死者も含まれているが、圧倒的に薩軍が多かった。