海鳴記

歴史一般

招魂社(場)より靖国神社へ(5)

2013-12-14 14:06:37 | 歴史
                                  (5)
 話はまだ続く。
 私は、ずっと鹿児島の歴史に興味をもってきた。そして、今まで何度も言ってきたことだが、鹿児島の歴史は、西南戦争前とその後は全くその様相を異にしている。 
簡単に言ってしまえば、それまでの華々しい官軍の歴史、つまり「勝ち組」の歴史と、のちの賊軍としての歴史である。だから、会津藩の子孫氏たちように、単純に「負け組」の歴史を背負わされたとは言えない。かなり入り組んでいる。現在の鹿児島の子孫氏がそれを意識しているかどうかはともかく、無意識的というか、結果としてその複雑な感情が歴史出版物に表れていた。
 私は、鹿児島で古本屋をしていたかたら、断言してもいい。過去の歴史出版物で、維新期に活躍した人物たちの作品が異様に少なかったことだ。いや、これでは曖昧な言い方でわかりにくいかもしれない。より正確に、かつより具体的に言えば、地元の作家や歴史家で大久保について書いた人物は一人もいなかったことである。あるいは、大久保側やその周辺で西南戦争を境に鹿児島を離れた人物たちをも、である。もちろん、これは東京で鹿児島出身者が書いたものを除外してである。
 私が「生麦事件」に深入りしたのは、こういう奇妙な現実があったからといえば、言えるだろう。「生麦事件」に関わったとされる奈良原兄弟に関する作品資料など皆無だったのだから。唯一あった男爵・奈良原繁の伝記は、沖縄で出された『南島夜話』のみで、それも著者は鹿児島人でも沖縄人でもなかった。
だから私は、墓石調査から始めなければならなかった。そうしているうちに、なぜこんなことをしなければならなかったか、その理由が初めてわかったのである。西南戦争後、賊軍として鹿児島に残った人たちは、西郷か西郷周辺の人物たちしか書けなくなったのだ、と。
 なぜなら、賊軍として亡くなった、6,800(注1)人余の子孫たちは、明治22年に復権した西郷を唯一の頼りとして生きてこなければならなかったからである。西郷南洲翁を盾(神)にしなければ、彼らの武士の末裔としての尊厳が保たれなかったからである。
 こういう状況が、まさに会津側の子孫氏たちの状況でもあった。彼らも薩摩と同様、一度は天皇側に立って戦ったではないか。それがなぜ、なぜこうも痛苦を与えられねばならなかったのか。
 会津側が、薩摩藩も裏切りものだと考え、長州藩と同様、未だに許しがたいと考えているとすれば、それはどうも違うように思う。武士の誇りを傷つけられたという点では、鹿児島側も同じだし、ある意味では、もっと悲惨だったかもしれない。身近に成功者がいたとなれば、なおさらであろう。

 この結論は、一坂太郎氏と星亮一氏との対談への補足として付け加えたが、私は会津側の遺恨が、鹿児島にいたからこそ理解できると考えている。

(注1)・・・この中には薩軍以外の熊本や宮崎出身の戦死者も含まれているが、圧倒的に薩軍が多かった。

招魂社(場)より靖国神社へ(4)

2013-12-13 14:57:14 | 歴史
                                   (4)
 そんな中で、明治21年を迎えたのであったから、彼らは憤った。もっとも、政治力のない彼らが禁門の変で戦死した藩士を祭神として靖国神社に送りこんだのは、大正4年(1915)のことだった。
 一坂氏によれば、これでも会津藩側の戦死者だけに限ったという。つまり、禁門の変で会津に次ぐ第2の勢力だった薩摩藩の犠牲者は、祀られることはなかったのだ。これは一体どういうことだろう。政府内に薩摩出身者の勢力はなかったというのだろうか。そんなはずはない。薩摩出身者が華々しく活躍した日露戦争から10年しか経っていなかったし、政治力がなかったとはいえ、明治の元勲の一人として松方正義などはまだ存命だったのだから。明治政府の権力の蚊帳の外に置かれていた会津出身者とは比較にならないのだ。
 では、なぜ、彼らは沈黙したのだろうか。もちろん、靖国神社など取るに足らないと軽視していたわけではない。靖国神社と改称する以前の東京招魂社の設立以来、その主導権は長州閥(注1)に握られていたのだ。それ以上に、西南戦争で賊軍の汚名を着せられた鹿児島出身者には、強く出れない弱みがあった。だから、明治22年、賊軍の首領であった西郷隆盛の復権だけで我慢せざるを得なかったのである。
 ところで、明治21年の処置で憤ったのは会津藩ばかりではない。第2次幕長戦争で孝明天皇の勅に従い、賊軍の長州藩と戦った、島根の浜田藩や広島の福山藩の子孫たちも運動した。大正14年(1925)には、福山藩の14名、昭和8年(1933)には浜田藩の12名が祭神に加えられたという。
 もっとも、会津藩以外で憤懣をもらし、抗議したのは浜田藩と福山藩の子孫氏だけのようだった。例えば、同じ幕長戦争でかなりの戦死者を出した小倉藩などは、祀られていないという。小倉藩関係者は抗議しなかったのかどうかよくわからないらしいが、結果的に靖国神社の威信を傷つけたような対応しているように思える。「国事」が天皇のために戦ったということと完全に等しかった戦前の規範では、不思議といえば言えよう。あるいは、その規範を無化していると言えなくもない。
とにかく、靖国神社は戦前から政治的な、つまりごく一部の権力操作者によって形成されてきたということは疑えないのである。ということは、戦後、GHQからの指令で国家から分離され、その後太平洋戦争の戦犯が合祀されたとしても、そもそも靖国神社は当初から政治的な恣意を内包していたのであるから、取り立てて目くじら立てる必要もないのだ。
 そもそも私は、何ら操作のない「国事」という視点にたてば、会津側の戦死者も西南戦争による薩軍側の戦死者も祀るべきだと思うし、少なくとも私は、彼らを祀っていない神社なら、散歩がてらでも参拝に出かける気にはなれないだろう。おそらく、その周りに強圧的で利己的で巧緻なイアゴーたちがいなかったなら、明治天皇(すめらみこと)も参拝する気になれなかっただろうから。
(注1)・・・youチューブの映像で見ただけだが、靖国神社内には長州出身の村田蔵六こと大村益次郎の像がある。しかし、薩摩出身の東郷平八郎の像があるかどうか私は知らない。

            

招魂社(場)より靖国神社へ(3)

2013-12-12 13:56:39 | 歴史
                                  (3)
 この東京招魂社は、当初より伊勢神宮、春日大社に次ぐ一万石の社領を永代祭祀料として与えられ、明治7年には、明治天皇みずから参拝するという、のちの臨時大祭への恒例参拝の先駆けとなった。そして、明治12年6月、靖国神社と改称し、神儒仏の祭祀が混合した本来の招魂社から国家神道を基盤にする別格官幣社となったのであった。これは、明らかに長州閥を中心とした勢力の反映であろう。というのも、明治10年の西南戦争で「賊軍」となり、戦死した7千弱の薩摩士族たちは祀られることはなかったのだから。 
 明治政府内にいた薩摩藩出身者たちには複雑な思いだったろう。しかしながら、名実ともに、「国事」が天皇側で戦った戦没者を祀るための神社となった以上、誰も何も言えなかった。もとより、戊辰の役で「賊軍」となっていた会津藩出身者たちも何も言えなかった。
 ところが、のちに何とも奇怪な問題が起こってくる。明治21年(1888)のことだった。
 ここからは、以前にも触れたと思うが、山口県下関市にある東行(高杉晋作)記念館の元学芸員だった一坂太郎氏の言(注1)を借りてくるのをお許し願いたい。長州側の史料を読みこんでいる研究者の言辞だから、信用してもよいと判断したからだ。
 さて、一坂氏によれば、この年、元治元年(1864)7月、長州藩が御所に大砲を打ち込んだ、いわゆる禁門の変で戦死した藩士200人ほどと、以後、第一次、第二次長州征伐で「賊軍」として死んだ者も含めて601人を靖国神社に祀ってしまったという。ここで今さらどこの勢力が動いているかは言うまでもないが、会津側が怒るのは当然のことだろう。禁門の変で御所(天皇)を守った最大の勢力は、会津藩だったのだから。
 はっきり言えば、靖国神社が天皇側によって戦った戦死者を祀るという建前は、明治21年時点でなし崩し的に崩壊していたのである。それゆえ、戦後の極東軍事裁判による戦犯を祀ったことなど何でもないのである。過去に例があったのだから。
 結論は急ぐまい。その後の会津側子孫氏たちの詳しい動向は知らないが、当時のかれらの状況は過酷だった。会津・鶴ヶ城落城後の翌明治2年、下北半島のわずか3万石の斗南藩という形ばかりの藩を与えられる。しかし、そこに移り住んだ者の大半は生活ができず、明治7年には、1万ほどの藩士家族が会津に帰郷したという。だからといって、生活の当てなどなかった。明治10年の西南戦争の際、多くの会津藩出身者が勇んで政府軍側に付き、戦闘に加わったのも無理からぬことであった。もちろん、それが終結した後も、「賊軍」の汚名が消えるわけではない。むしろ、着々と進む天皇を中心とした国家が形成されていくにつれ、かつては天皇側に立って戦ったという彼らの歴史意識は、痛苦を増すばかりだったろう。
(注1)・・・一坂氏と会津藩側にたった著作の多い(?)星亮一氏と対談本『会津と長州、幕末維新の光と影』(講談社)引用。

招魂社(場)より靖国神社へ(2)

2013-12-11 11:01:13 | 歴史
                          (2)
 そもそも靖国神社というのは、手元の『国史大辞典』によれば、元々は招魂社と呼ばれ、その「源流は元治元年(1864)から慶応3年(1867)の間に、王政復古のために国事に殉難した英霊を慰霊する目的で創設された招魂墳墓・招魂場に由来する」(同辞典)らしい。さらに、「特に全国諸藩にさきがけて、長州藩では招魂場の建設に積極的に着手し、明治3年(1870)までの間に、藩内に建設された数は、23か所にのぼる(当時全国各地の招魂社は105社)」(同)とある。
 もちろん、源流はこればかりではない。私は、『国史大辞典』の原典まで追って詳述するつもりはないので、私の拙文以上にわかりにくいところもあるが、これを引用する。
 「慶応3年11月には、尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)は楠公社創建と同社の摂社として国事殉難者を祀ることを建白した。前者は明治元年4月21日、湊川神社創建の沙汰があり、後者は同年5月10日、<癸丑(きちゅうー嘉永6年)以来、殉難者の霊を京都東山に祭祀(さいし)する件>についての太政官布告が出された。これは嘉永6年(1853)以来の<国事に斃(たお)れ候諸藩士及び草莽有志の輩>の霊を京都東山に祠(ほこら)を建てて合祀することであり、同時に鳥羽・伏見の戦以来の東征に従軍して戦死した各藩士に対しても、これを東山に祭祀し、今後国事に殉難したものの霊をも合祀することが布告された。この前後、京都府、山口・福岡・高知・熊本・鳥取・久留米の諸藩が京都東山にそれぞれ招魂祠を建て、明治元年7月招魂祭が行われた。京都の霊山護国神社は、霊山にあった諸藩の小祠を合祀したもの。このころから諸藩においても、藩内に招魂場を建設し、藩出身の戦死者を祀るようになる。これ(ら)が招魂社の起源である」とある。
 要するに、徐々に徳川体制が崩れていく段階から、「国事」に奔走した長州藩のみならず各藩の戦死者たちの霊を祀る機運が生まれ、明治元年9月22日、会津若松城が陥落する前には招魂祭なるものがすでに執り行われていたのである。
 そして、明治2年5月18日、函館・五稜郭も潰えた翌月29日、「東京九段坂上に東京招魂社を建立、鳥羽・伏見の戦より箱館戦争に至るまでの戦死者3、588柱が合祀された」(同辞典)。
 この東京招魂社は「明治天皇の意思」(同)とされているが、おそらくこれは表向きだろう。実際に積極的に関わったのは、薩摩藩なのか長州藩なのかあるいは両方なのか確認していないので私にはよくわからないが、察するところ、長州藩の動議に薩摩出身者たちが追随したというとろではないだろうか。なぜなら、幕末からその時点までは「国事」で倒れた戦死者の数では、長州藩士が圧倒的に多かっただろうから。そのことを示すものとして、山口における招魂社数は他を圧倒していたのだ。

招魂社(場)より靖国神社へ(1)

2013-12-10 15:01:14 | 歴史
                                 (1)
 本年11月末、2泊3日で福島を廻って来た。除染地の現状がどうなっているのかというのが最大の目的だったが、以前から福島に行きたいという友人がいたので、彼の車で周ったのである。
 一日目は、水戸にまで走り、天狗党の犠牲者を祀ってある回天神社や周辺墓地さらに駅のほうに戻って旧弘道館跡を巡った後、安ビジネスホテルに泊まった。陽の暮れが早く、ゆっくり巡るというわけにはいかなかったが、時代小説好きの友人は満足してくれた。私は前年の暮れに水戸を経験していたから私の先導だったのである。
翌日早く、友人も若い頃訪れたことがあるという偕楽園に向かい、葉の落ちた梅ノ木や紅葉の盛りを過ぎた木々の間を歩き、それからカーナビの指示に従い、いわき市に車を走らせた。
 いわき市に辿りついたのは、昼前だった。早目に昼食を済ませ、私は近くのハローワークに顔を出し、除染作業員の募集がどうなっているか係の人に尋ねてみた。それによると、私が予想していたより早く、原発事故による強制避難地域だった双葉郡の除染も進んでいるようだった。もっとも双葉郡四町が足並みを揃えているわけではなく、帰還不可能となった地区が多いと思われる双葉町などはまだ手つかずのようだった。
 とにかく、大体の状況がわかればそれでよかったので、一時間ほどでそこを後にし、その日泊まる予定だった郡山市に向かった。
 その日の夜のことだった。除染作業員として知り合った男に頼んでおいたホテルにシングルの空きがなく、ツインの部屋に友人と泊まることになった。そこで私が持っていったパソコンをネットに接ぎ、友人と一緒に暇をつぶすことになった。年齢的にはどちらも60を過ぎているが、TVを見ることにあまり関心がなかったからである。
 そうしてyouチューブを開き、何気なく靖国神社の戦犯合祀問題でいつもの空疎な議論が展開されているサイトを見ることになった。私は、すぐに次に飛ばそうと思ったが、友人はしばらく見ようと主張するのでそのまま30分ほどその番組に付き合うことになった。その間、戦後の靖国神社は語るが、討論者の誰も元々政治力によって建てられた神社の由来を語る者がいなかったのにうんざりし、友人にそのことを語り、ついにはパソコンを消し、私なりの靖国神社史を展開することにした。
 
 私は、どこかで既に靖国神社に関することを「書評」という形で綴った記憶があるが、福島という地で改めて再考したいと考えていた。なぜなら、福島の歴史は、近代(維新)以降なぜか「負け組」の十字架を背負わされてばかりいる地域なのではないかと考えるようになったからである。それは会津藩に対する過酷な処置と何あろう今回の原発事故のことである。