では、最初に挙げた赤塚源太郎に関する資料を紹介する。
私は、友人に『蒲生郷土誌』の戦前版と戦後版を頼んだのだが、戦前は発行していないらしく、昭和44年版と平成3年版だけが送られてきた。戦前版を発行していないとすれば、これはこれで『帖佐村郷土誌』とはまた違った意味で意味深モノだが、ともかく、戦前版を補うのに充分なかつ興味深い資料が2点付け加えられていたのである。そしてこれらは、『蒲生郷土誌』ではほぼ素通りしている赤塚源太郎の関する記述を充分に補っていてくれていた。ところが、このうちの1点は、非常に厄介な問題も提示してくれていたので、前回、読みこなすのがたいへんだった、と言ったのである。
まず、この資料から紹介し、他の3点と照らし合わせながら、述べていこうと思う。
この資料は、『原田直哉覚書』という全3巻本の第2巻に収められた、蒲生郷出身の野添篤という人物の従軍日記である。しかしながら、この記録は、原田直哉(宮之城士族らしい)という人物が、どこかでこの日記を入手し、それをかれが写しとった、いわば写本なのである。それを翻刻もせず、影印本というのか写真にとって、原田直哉氏のご子孫が出版している。本来、『原田直哉覚書』が第1級史料として認められていれば、少なくとも翻刻されて出版されてもいいはずなのだろうが、それはなされていない。また私は、鹿児島の研究者による『原田直哉覚書』の評価も、その中にある従軍日記の評価も知らないし(注)、実際、私自身この史料を「西南戦争史」の中でどのように位置づけしていいのかよくわからない。さらに、これを歴史学でいう第1次史料と呼んでいいのかどうかもわからない。ただ、平成版『蒲生郷土誌』では、この日記を引用して、人物特定などをしているところから判断すると、1次と2次史料の間(私の友人の表現)ぐらいになるのだろうか。
なぜ、こんなことにこだわらなければならないかというと、確かに赤塚源太郎以下100余名の投降の記述はあるのだが、その日が、『薩南血涙史』で書いている日とは大きくズレがあるのである。
だからもし、これが本当のことだとすれば、西南戦争史の一部を変えてしまうだろうし、今までの私の考えも大きく変更しなければならなくなるのだ。
(注)・・・このことに関しては、地元の郷土史家以外、手もつけていない可能性が高い。
私は、友人に『蒲生郷土誌』の戦前版と戦後版を頼んだのだが、戦前は発行していないらしく、昭和44年版と平成3年版だけが送られてきた。戦前版を発行していないとすれば、これはこれで『帖佐村郷土誌』とはまた違った意味で意味深モノだが、ともかく、戦前版を補うのに充分なかつ興味深い資料が2点付け加えられていたのである。そしてこれらは、『蒲生郷土誌』ではほぼ素通りしている赤塚源太郎の関する記述を充分に補っていてくれていた。ところが、このうちの1点は、非常に厄介な問題も提示してくれていたので、前回、読みこなすのがたいへんだった、と言ったのである。
まず、この資料から紹介し、他の3点と照らし合わせながら、述べていこうと思う。
この資料は、『原田直哉覚書』という全3巻本の第2巻に収められた、蒲生郷出身の野添篤という人物の従軍日記である。しかしながら、この記録は、原田直哉(宮之城士族らしい)という人物が、どこかでこの日記を入手し、それをかれが写しとった、いわば写本なのである。それを翻刻もせず、影印本というのか写真にとって、原田直哉氏のご子孫が出版している。本来、『原田直哉覚書』が第1級史料として認められていれば、少なくとも翻刻されて出版されてもいいはずなのだろうが、それはなされていない。また私は、鹿児島の研究者による『原田直哉覚書』の評価も、その中にある従軍日記の評価も知らないし(注)、実際、私自身この史料を「西南戦争史」の中でどのように位置づけしていいのかよくわからない。さらに、これを歴史学でいう第1次史料と呼んでいいのかどうかもわからない。ただ、平成版『蒲生郷土誌』では、この日記を引用して、人物特定などをしているところから判断すると、1次と2次史料の間(私の友人の表現)ぐらいになるのだろうか。
なぜ、こんなことにこだわらなければならないかというと、確かに赤塚源太郎以下100余名の投降の記述はあるのだが、その日が、『薩南血涙史』で書いている日とは大きくズレがあるのである。
だからもし、これが本当のことだとすれば、西南戦争史の一部を変えてしまうだろうし、今までの私の考えも大きく変更しなければならなくなるのだ。
(注)・・・このことに関しては、地元の郷土史家以外、手もつけていない可能性が高い。