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地元新聞の記事によれば、この再建祭には鹿児島から3人の喜太郎翁の子孫氏が集まったということだった。今、メモ帳の名前を見ているが、二人は男で一人は女性名である。塚田姓が2名と女性は嫁ぎ先の名前なのか塚田姓ではなかったが、わざわざ鹿児島から郡山まで出向いたのだから、翁の子孫氏と繋がっているのだろう。
とにかく、市長も列席したのだから、それなりに盛大な催しだったようである。ところで、その再建にもっとも尽力した人物が喜久田堀之内在の市会議長も務めたこともある遠藤直人氏だったが、『老農塚田喜太郎翁』という自伝も出していたので、直接訪ねてみることにした。
そ場所は、翁の顕彰碑からさほどの距離ではなかったが、出向いたときは残念ながら不在だった。というより、近所の人の話によると、ほぼ毎日、デイケア・センターに通っているそうで、それもやや認知症気味だから、話ができるかどうかも危ういということだった。そこで、家族のことを訊くと、息子さんがいて、それも私が何度も行ったことのある安積疎水事務所の職員だということがわかった。そこで、また日を改めて、遠藤氏の息子さんに会うことにした。
翌日、疎水事務所で働いている遠藤正一氏という息子さんに会って直接話を聞くと、どうやら自伝は、父親の直人氏が書いたという訳ではなく、後記にある編集人のようであった。また、自伝の元になった翁の子孫氏の本は、遠藤家には一冊もなく、その編集人が所有しているということだったので、その住所を聞き、そこを訪ねることにした。
何とか探りあてた家には、市役所を退職した本人が在宅し、丁寧に応対してくれたが、一冊しかない元本を譲ってくれそうもなかった。そして、奈良原繁と翁がどういう経緯で知り合ったのかもわからなかったのである。とりあえず、鹿児島の子孫氏の住所や電話番号を聞いてそこを跡にした。
結局、以後の調査は尻切れトンボに終わってしまった。電話で翁の子孫氏と応答しても、谷山地区の誰の仲介で繁は翁を呼んだのか皆目わからなかったのである。それがわかれば、あるいは私が喜左衛門の娘ではないかと推測した奈良原トミと養妹、養兄の関係を結んだ原田雅雄氏が、なぜ一時的にも谷山に住所をおき、同村の橋本セツと結婚したのか等々の糸口が見つかる可能性があったのだから。
もっとも、鹿児島でもほとんど知られていない、塚田喜太郎という人物を異教の地で発見したことで充分だった。あまりほめられる記事のない奈良原繁やのちに鬼県令と恐れられた三島通庸の記録を読むのは、あまり気乗りするものではない。しかしながら、塚田喜太郎翁はいまだに感謝され、一部の人に語り継がれているのだ。事績の大きさはともかく、これだけで充分だろう。
もって瞑すべし、である。
地元新聞の記事によれば、この再建祭には鹿児島から3人の喜太郎翁の子孫氏が集まったということだった。今、メモ帳の名前を見ているが、二人は男で一人は女性名である。塚田姓が2名と女性は嫁ぎ先の名前なのか塚田姓ではなかったが、わざわざ鹿児島から郡山まで出向いたのだから、翁の子孫氏と繋がっているのだろう。
とにかく、市長も列席したのだから、それなりに盛大な催しだったようである。ところで、その再建にもっとも尽力した人物が喜久田堀之内在の市会議長も務めたこともある遠藤直人氏だったが、『老農塚田喜太郎翁』という自伝も出していたので、直接訪ねてみることにした。
そ場所は、翁の顕彰碑からさほどの距離ではなかったが、出向いたときは残念ながら不在だった。というより、近所の人の話によると、ほぼ毎日、デイケア・センターに通っているそうで、それもやや認知症気味だから、話ができるかどうかも危ういということだった。そこで、家族のことを訊くと、息子さんがいて、それも私が何度も行ったことのある安積疎水事務所の職員だということがわかった。そこで、また日を改めて、遠藤氏の息子さんに会うことにした。
翌日、疎水事務所で働いている遠藤正一氏という息子さんに会って直接話を聞くと、どうやら自伝は、父親の直人氏が書いたという訳ではなく、後記にある編集人のようであった。また、自伝の元になった翁の子孫氏の本は、遠藤家には一冊もなく、その編集人が所有しているということだったので、その住所を聞き、そこを訪ねることにした。
何とか探りあてた家には、市役所を退職した本人が在宅し、丁寧に応対してくれたが、一冊しかない元本を譲ってくれそうもなかった。そして、奈良原繁と翁がどういう経緯で知り合ったのかもわからなかったのである。とりあえず、鹿児島の子孫氏の住所や電話番号を聞いてそこを跡にした。
結局、以後の調査は尻切れトンボに終わってしまった。電話で翁の子孫氏と応答しても、谷山地区の誰の仲介で繁は翁を呼んだのか皆目わからなかったのである。それがわかれば、あるいは私が喜左衛門の娘ではないかと推測した奈良原トミと養妹、養兄の関係を結んだ原田雅雄氏が、なぜ一時的にも谷山に住所をおき、同村の橋本セツと結婚したのか等々の糸口が見つかる可能性があったのだから。
もっとも、鹿児島でもほとんど知られていない、塚田喜太郎という人物を異教の地で発見したことで充分だった。あまりほめられる記事のない奈良原繁やのちに鬼県令と恐れられた三島通庸の記録を読むのは、あまり気乗りするものではない。しかしながら、塚田喜太郎翁はいまだに感謝され、一部の人に語り継がれているのだ。事績の大きさはともかく、これだけで充分だろう。
もって瞑すべし、である。