何度も繰り返すようだが、それ以上に奇妙なのは、もし兄喜左衛門の死因が何らかの病気だったとすれば、喜左衛門の後の奈良原家を継いだ繁家からなぜそういう類の手紙なり記録が出てこなかったのだろうか。そういう種類のものだったら、何も処分する必要がなかったではないか。病気などの自然死だったのなら、何もやましいことはなかったのだから。それに、何もやましいことがなかったら、晩年に兄への思いなり感慨なりを語ってもよかったはずではないか。
たとえば、兄が病気で早く亡くならなかったら、明治後もそれなりの地位を得ただろうに残念なことをした、とか。明治45年の薩英戦争50年祭の新聞記事では、その戦争で「活躍」した兄に対する言及など一切なく、久光へ思慕の念だけが語られているのだ。なぜか墓だけは立派なものを造っているが。
今度、喜左衛門の消息が亡くなる3ヶ月ほど前までわかったことは、喜左衛門が尋常な死に方をしなかったことを暗示するかのようだが、それが生麦事件の責任を取らされて自刃したからとは今のところ断定はできない。
郎女氏のように他の何かの罪で、自刃させられたのかもしれない。ではそういう形跡が伺えるかというと、どうも3ヶ月前の「空気」からは、それも伺えないように思える。
では次に、松方と兄・喜左衛門との関係および弟・繁との関係を松方の日記を紐解くことで、何かわかってくることはないか見てみよう。
ただ残念なことに、肝心の文久2年の部分は欠けているし、他も途切れ途切れで短い期間が多く、特に「何か」を発見するということはなかった。少しだけ救われたのは、大久保日記より具体的でわかりやすく記述していることだった。
なお、喜左衛門は松方の四歳年上で、繁は一歳年上である。松方の役職もかれらの後を追っているような地位に就いている。少なくとも繁の後を。
たとえば、兄が病気で早く亡くならなかったら、明治後もそれなりの地位を得ただろうに残念なことをした、とか。明治45年の薩英戦争50年祭の新聞記事では、その戦争で「活躍」した兄に対する言及など一切なく、久光へ思慕の念だけが語られているのだ。なぜか墓だけは立派なものを造っているが。
今度、喜左衛門の消息が亡くなる3ヶ月ほど前までわかったことは、喜左衛門が尋常な死に方をしなかったことを暗示するかのようだが、それが生麦事件の責任を取らされて自刃したからとは今のところ断定はできない。
郎女氏のように他の何かの罪で、自刃させられたのかもしれない。ではそういう形跡が伺えるかというと、どうも3ヶ月前の「空気」からは、それも伺えないように思える。
では次に、松方と兄・喜左衛門との関係および弟・繁との関係を松方の日記を紐解くことで、何かわかってくることはないか見てみよう。
ただ残念なことに、肝心の文久2年の部分は欠けているし、他も途切れ途切れで短い期間が多く、特に「何か」を発見するということはなかった。少しだけ救われたのは、大久保日記より具体的でわかりやすく記述していることだった。
なお、喜左衛門は松方の四歳年上で、繁は一歳年上である。松方の役職もかれらの後を追っているような地位に就いている。少なくとも繁の後を。