海鳴記

歴史一般

日本と英国の出会いー追記(2)

2023-08-05 10:24:17 | 歴史

                     追記(2)幕末のフランス

 幕末期の日本における英仏の関係は、これまで英国が薩摩や長州などの倒幕派側に付き、フランスが幕府方に付いたという認識くらいで、さほど気にかけたことはなかった。なぜそうなったのかなど考えもしなかった。しかし、今回少し西洋史を眺めてみたついでに、掘り起こしてみたい。

 以前触れたように、天保15(1844)年3月、フランス東洋艦隊所属のアルクメール号が琉球に来航した。そして艦長のデユプランは、アヘン戦争で清国が敗れ、賠償金や土地の割譲まで強いられたことを述べ、通商交渉をしたが、琉球王府は拒絶する。仕方なく宣教師であるフォカードを置いて立ち去った。その2年後の弘化3(1846)年4月6日、ゼラン率いる仏艦サビーヌ号が那覇沖に現れ、フォカード神父を船に呼び、翌日艦長とともに上陸した。この5日後、セシュ(セシーユ)率いる仏艦3隻が来航し、那覇でしばらく通商交渉をしていたようだが、結局埒が明かなかったのか、フォカードの代わりの宣教師を残してセシュらは長崎に向かった。そしてそこで、船の修繕や薪炭(しんたん)、食料を補給したのが日本への初めての来航だった。その後、再びフランス艦隊がやって来たのは日本ではなく琉球で、ペリーが和親条約を結んだ翌年の安政2(1855)年のことだった。そして、具体的な内容はよくわからないが、「琉仏和親条約」というのを結んで去っているのである。

 では、それまでのフランス本国の状況はどうなっていたのだろうか。

 1789年に起こった革命以降、フランスは激動期に突入し、革命戦争、ナポレオン戦争と全ヨーロッパも巻き込む混乱の時代が続いた。しかしながら、ナポレオンがワーテルローの戦いで敗れ、1815年、ウィーン議定書が結ばれると、しばらく安定期を迎えている。いわゆるブルボン朝の復古王政期である。ただ、一度目覚めさせた市民(ブルジョワ)意識は消えることなく、1830年の七月革命では、ブルボン復古王制は打倒される。そして自由主義者のラ・ファイエットらによってルイ・フィリップの立憲君主制が敷かれると、金融資本家の影響力が増し、ようやくフランスも産業革命が開始されることになった。こうして、徐々にウィーン反動体制に綻びが見え始めると、ヨーロッパ各国にも自由主義やナショナリズムの気運が起こるようになる。しかし、まだまだ各国内での反動勢力を打ち崩すまでにいたらず、フランスの1848年まで待たざるを得なかった。この年2月、社会主義者のルイ・ブランらによる革命で、ルイ・フィリップ国王は打倒され、共和主義者と社会主義者による臨時政府が樹立され、第二共和制の時代となった。そして同年12月、初めての普通選挙で、ボナパルトの甥であるルイ・ナポレオンが大統領に当選。ところが、この第二共和制憲法の大統領任期問題で、権力を維持したいルイ・ナポレオンは、選挙法の改正を認めない多数派勢力が占める議会と対立し、翌々年、クーデタで権力を掌握し、国民投票によって圧倒的な支持を受けたため、帝政を宣言し、ルイはナポレオン3世となる。1852年12月のことだった。これがフランス第二帝政期の始まりであった。

 こうしためまぐるしい内政下で、1855年11月、東洋艦隊のゲラン提督を那覇に送り、「琉仏和親条約」を締結する。ただ、この段階で日本に来航することはなく、3人のカトリック神父(このうちの一人がベルクールやロッシュの通訳となるメリメ・カション)を残して去っているのである。日本にやって来たのは、その3年後の安政5(1858)年9月で、フランスは全権ジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵が来日し、「日仏修好通商条約」を結んでいる。英国やロシアは「和親条約」を結んだあと、「通商条約」と段階を経ているが、フランスは一足飛びである。もっとも、1853年10月から始まるクリミア戦争の影響もあったのだろうが、この戦争は英国と同盟を結んで戦っているのである。とにかく、フランスは、シャム(タイ)やインドシナ半島への進出は試みていたが、それより東は手を伸ばさなかったし、伸ばす意思もそれほどなかったのかもしれない。

 ところで、フランスと英国の関係だが、第二次百年戦争に敗れ、ウィーン体制以降、英国が世界の覇権国家になると、フランスはその軍門に下った。かつて、17世紀末にオランダが英国との覇権争いに敗れ、その軍門に下ったように。フランスの敵は、勃興しつつあるプロイセン(ドイツ)や、南下拠点をクリミア半島に切り換えていたロシアに移っていたのである。それゆえ、幕末期の日本における英仏関係は、良好と言えた。そして、ラザフォード・オールコックより3か月ほど遅れて、安政6(1859)年9月6日、駐日公使としてデュシェーヌ・ド・ベルクール(1817~1881)が品川に到着。三田の済海寺の公使館に入ったのである。タウンゼント・ハリス、ラザフォード・オールコックに次ぐ3番目の正式な外交官だった。

 さて、フランスが通商条約を結んで1年も満たず、比較的早く公使を派遣したのはそれなりに理由があると思われる。おそらく、その一つの理由が、1855年に起きた蚕種(蚕の卵)の病気で、ローヌ川沿いのリヨンやアルディーユなどの養蚕会社が壊滅的な打撃を受けたことがあげられる。養蚕は、農業国家としても、当時フランスの重要な産業でもあったから、ナポレオン3世が率先して、各国の蚕種の導入や蚕の補充に動いたようである。そして、日本にも白羽の矢を向けていた。その証拠として、幕府が開市開港延期交渉使節として送った第1回遣欧使節団が、パリでの交渉の際、おそらく双方から蚕種の輸出入の話が出ているのである。この使節団は、文久元(1862年1月21日)年12月12日、英国海軍のフリゲート艦で品川を出発し、4月3日にマルセーユに着き、7日にパリに入っている。ここで、主目的の開港延期の同意をえられなかったので、一行は英国へ向かうことになった。しかし、蚕種の話はしているようなのだ。

 1862年4月16日付のフランス外務大臣より公使ベルクール宛公信の一項に、「蚕および蚕の卵(蚕種)の輸出についての日本側の要請に応じること」とあるからである(『幕末のフランス外交官』矢田部厚彦編訳)。

 たぶん、ベルクールは、日本との通商交渉の中で、この問題を幕府に申し入れていたのである。そうでなければ、パリでの会談を終えて、外務大臣からベルクールにこういう公信を出す筈がないからである。

 ただ、湯浅隆氏のpdf論文「1860年代のフランスにおける養蚕書の評価」などを読むと、これ以前の1861年には日本の蚕種や蚕が既にフランスに導入されている。しかし、これはあくまで、横浜の仏人貿易商を通した密輸品のようである。なぜなら、ベルクール宛の公信にあったように、「幕府側の要請に応じる」云々というのは、開港当時、幕府は蚕種及び蚕などは輸出制限(或いは禁輸)していたからである。

 当時、フランスは各国から蚕種を輸入し、どの国の蚕がフランスに適合するかを検討中であった。そして徐々に日本産の蚕種が適合することがわかり始めたのである。そして、本格的に日本と蚕種を含めた生糸を輸入するのは、初代公使ベルクールの後任になったレオン・ロッシュ(1809~1900)の代になってからだった。

 ロッシュは、元治元(1864)年3月22日に着任すると、その年8月、四国艦隊の下関砲撃事件がおこる。賜暇から帰っていたオールコックが主導した下関戦争である。幕府はこの戦争や前年の長州藩の攘夷決行による米・仏・蘭の艦船への砲撃事件を含め、海軍力強化の必要性から、自力で軍艦製造を計画するようになった。それには、先ず製鉄所を建設しなければならない。この建設を主導したのが、外国奉行から勘定奉行になっていた小栗上野(こうずの)介(すけ)忠順(ただまさ・1827~1868)である。小栗は、文久元(1860)年の遣米使節で渡航経験もあり、最初はアメリカを頼ろうとしたようだが、南北戦争中ということもあり、断念した。そこへ、ロッシュが現れたということだろう。また、下関戦争の責任問題で本国へ召還されたオールコックが不在というタイミングもあったかもしれない。ロッシュはロッシュで、英国とは友好関係とはいえ、自国の利益を追求しなければならない立場である。さらにこれには、ある人的な交流も幸いしていた。ロッシュの通訳を務めたメリメ・カション(1828~1889)と、幕府の役人である栗本鋤雲(1822~1897)が、箱館奉行所に勤務していた時に親交があったのである。もちろん、小栗と栗本も親しい関係にあったから、事は順調に進んだ。幕府は横須賀製鉄所建設と洋装陸軍部隊をフランスに依存することになったのである。もっとも、これらには莫大な費用が必要になるが、幕府はロッシュを通してフランスに借金することで決行したのである。その返済には税制改革や鉱山開発、そして蚕種を含む生糸貿易の拡大があった。特に、この生糸貿易に関して、文久3(1863)年度には、英国への輸出が全体の26%で残りの大半が清国だった。ところが、この清国への輸出は、間接的なもので、実際は、上海経由で英国に運ばれていた(『幕末に海を渡った養蚕書』竹田敏)という。つまり、生糸貿易に関する限り、それまで英国は独占していたのである。一方、フランスは、元治元(1864)年で、1%に過ぎなかったものが、翌年の慶応元年には27・1%になり、3年後の明治元(1868)年には、英国が44・4%、フランスが50・3%と逆転している(『幕末に海を渡った養蚕書』)。当然、幕府とフランスとの貿易取引には、英国やオランダは抗議したが、小栗や栗本の親フランス派は、これを無視した。

 こうした結果、フランスは幕府方につき、オールコックの後任でやって来た英国公使ハリー・パークス(1828~1885)は、薩摩・長州方について幕末を終えたというわけである。

 さて、親仏派の小栗上野介は、慶応4(1868)の薩長の東征に対して、徹底抗戦を主張していた。しかしながら、徳川慶喜が恭順の意を表明したことで、「上野(こうずけの)国群馬郡権田村(群馬県高崎市)への土着願い」を出し、江戸を去ることになった。そしてそこで、官軍の総督府から反逆の嫌疑を受け、慶応4(1868)年閏4月4日、処刑されている。享年42だった。

 他方、栗本鋤雲は、フランスとの橋渡し役になったことから、後に外国奉行になり、慶応3(1867)年、徳川昭武のパリ万国博覧会への訪問に付き添い、幕府の大政奉還と滅亡は国外で知ることになった。フランスから帰国後は、彼の能力を評価していた新政府への出仕も断り、しばらく隠遁したという。その後、戯作者で新聞記者でもあった仮名垣魯文の推薦で、「横浜毎日新聞」に入り、ジャーナリストとして活躍している。明治30(1897)年、76歳で病死した。

 フランス公使・レオン・ロッシュは、慶喜が将軍となると、幕府を中心とした統一政権を建言したりするが、幕府への極度の肩入れは本国政府に伝わり、帰国命令が下される。しかし、それは幕府崩壊後のことだった。そして、最終的にロッシュは罷免され、明治元(1868)年6月に帰国している。

 片や、元々カトリックの神父だったメリメ・カションは、日本語に精通し、ベルクールやロッシュの通訳となるが、幕府崩壊の2年前には帰国している。理由はよくわからない。帰国後、徳川昭武が来仏した際、ナポレオン3世との通訳などもしたようだが、その後、パリの新聞に「日本は一種の連邦国家であり、幕府は全権を有していない」などと寄稿したため、フランス政府も無視できず、小栗忠順との借款契約も取り消されたという。これが、ロッシュの罷免に繋がったのかもしれない。メリメは1889年、カンヌで亡くなっている。61歳だった。