海鳴記

歴史一般

静岡県令時代の奈良原繁(4)

2013-10-31 10:48:35 | 歴史
                      (4)
 ではまず、戸籍にはどう書かれているかを見てみよう。
 「櫻田太吉願済廃家名入籍ス」とある。これはどういう意味か。最初、私にはどう判断していいのかわからなかったので、戸籍を見慣れている専門家に尋ねてみた。すると専門家は、家名を廃することができるのは、両親がいなかったからだ、と推定できるという。どういうことかというと、櫻田太吉という少年は「捨て子」で、しかしながら、戸籍は必要だったから、少年個人のみの戸籍を作ったということらしい。
 私は、日本の戸籍制度には詳しくないが、仮に「藁の上の捨て子」でも、それが見つかったら、役所ではその「捨て子」の戸籍を作らねばならなかったようである。だから、櫻田太吉少年は「捨て子」だったらしい。
 そうだとすれば、繁はその辺にいた「捨て子」を、気の毒だから養子にするという慈善家だったのだろうか。繁には確かにそういう人のいい面はあった。しかし、これはどう考えても無理がある。なぜなら、そんな慈善家なら、孤児院なり、養育所なり造れる地位も財力もあったのに、そんな形跡はどこにもなかったからだ。むしろ、それとは正反対の、料亭通いで浪費を繰り返す借金王だったのだ、奈良原繁という人物は。
 そういうことから判断すれば、櫻田太吉という少年も、繁の子供だったと考えるのが最も妥当なのである。それも母親からも捨てられていたことがわかり、繁は気の毒に思って引き取った。そう考えるのが、一番納得のいく回答であろう。
 ちなみに、太吉少年が生まれた頃は、島津家の家令をしていた頃だから、本妻スガさんや多賀タキさんは鹿児島にいた。だから、東京でつくった子供であろうし、同じ頃に生まれたタキさんの子供は認知したとしても太吉は憚れたのだろう。 
 こういう推理が正しいとすれば、西洋人との間に子供が生まれても何の不思議もないし、世間体が悪いから養子に出したとしても、これを疑うことも難しい。そして、ちょうどその頃、西洋人との子供は養子に出したばかりだった。だから、櫻田少年を養子として迎えるのは、その罪滅ぼしだったのかもしれない。私は、これらの推測にそれほど矛盾はないと思う。矛盾があったとすれば、繁の家族のほうだった。太吉少年は、どうも奈良原家にふさわしい青年に育たなかったのか、明治二十七年四月七日、日本橋の長田家の次男として養子に出されている。そしてそこで「棄児姓小柳ニ新立ス」とあるように、複雑な生い立ちを背負わされているのである。
 このあたりのことは、私の追及外であるのでここで終わりにする。が、本来、静岡県令としての仕事であったはずの吉原の石水門再築は、安積疎水のように大がかりなものでなかったことも含めて、ほとんど繁の手を必要とするものではなかった。それゆえか、静岡県令十か月ほどの繁の評価はかくの如くである。

「繁は、両替町(静岡市)の磯馴(そなれ)という料亭に毎日通い、梅吉という美妓を侍らせ浅酌低吟していた。急を要する書類の決裁などは、永峰弥吉(大)書記官がそこに出掛け、梅吉から判をもらった」(『県民読本 知事四十代』)という。


静岡県令時代の奈良原繁(3)

2013-10-29 15:05:16 | 歴史
                       (3)
 そして、繁が正式に男爵位を受けた約一か月半後の七月二十二日に、今度は、二男だった幸彦を多賀タキの私生児ニ付キという理由で除籍し、それまで三男だった三次を二男と訂正している。さらに、その三日後の七月二十五日にまた、幸彦を実子として再入籍しているのである。
 どうしてこんなややこしい戸籍変更を繰り返したのか、正確にはわからない。ただ、一つ言えることは、受爵後、後継者を届ける必要が出てきたのかもしれない。もし受爵前に届けなければならなかったとしたら、四月の時点でそれなりの変更しておかなければならなかったのだろうが、それをしていないからだ。 
もっとも、そういうことより、本妻である(毛利)スガさんと、二号さんである多賀タキとの確執があった可能性がある。なぜなら、二人とも鹿児島の加治屋町出身といわれているのである。
 加治屋町というのは、西郷を筆頭に維新の元勲を多数輩出した、下級武士家族の地域である。西南戦争前までは、例外なく士族しか住めなかったと考えられる。だとすれば、スガさんもタキさんも士族の娘であった。繁自身もそれなりの対応をしなければならなかった。だからこそ、戸籍上では「私生児」などという表現になっているが、実子二男として入籍したのだろう。しかしながら、男爵位の後継者となれば、本妻のスガさんも黙ってはいまい。三男だった三次を二男にしたのもそのためであろうし、三日後にまた戻したのは、繁の配慮であろう。
こういう想像が成り立つのは、沖縄県知事時代、繁は本妻スガを東京に居住させ、彼自身は幸彦(注1)らと一緒に住んでいたからでもある。そして、そこで幸彦には妻帯させ、鹿児島に戻ってからも亡くなるまで一緒だった。さらに、繁の死後、鹿児島にある繁の土地は、すべて借金の抵当物件だったのにかかわらず、幸彦の子供、つまりは繁の孫である隼人という男児名義の土地だけは、それから外れているという気遣いをしていたからである(注2)。
 奈良原繁というのは、こういう人物だった。そうだとすれば、明治十七年に養子に入れた櫻田太吉という男児は、どういう少年だったのだろうか。

(注1)・・・このとき、幸彦の母親である多賀タキは、すでに亡くなっていたのかマスという女性と繁は一緒だった。なお、幸彦の墓は、繁の墓とは別の場所にあるが、その墓域には母親である多賀タキの墓はなく、奈良原マスの墓しか見い出せなかった。
(注2)・・・繁が明治四十一年に沖縄県知事を辞めたあとは、鹿児島を拠点に時折、本妻や三次らの住んでいる東京に行っていたようである。だから、鹿児島では、マスや幸彦夫婦と一緒に千五百坪の「奈良原殿屋敷」に住んでいた。その屋敷内での、幸彦や孫の隼人と一緒の写真もある。そして大正七年、繁が八十五歳で亡くなった一年後には、百坪ほどの隼人名義の土地を除いて、すべて金貸しと推測できる他人に渡っている。


静岡県令時代の奈良原繁(2)

2013-10-28 14:19:20 | 歴史
                     (2)
 この一月十五日付けの書簡の本文内容はよくわからないのだが、「別啓」には、前年十二月二十一日日に病死した次女トキへの見舞に対して、鄭重にお礼を述べているのである。そして、まだ娘の死の悲しみから癒えず、会社にも出ていないことを切々と訴えている。
 当時、繁は日本鉄道社長であり、東京を拠点にしていたからか、墓は品川の海晏寺にあるとされている。が、私はそれを確認できなかった(注1)。だから、彼女の生年がわからなかったのである。
では、繁の跡を継いで男爵となった次男の三次はというと、最初の戸籍では、明治九年十二月二十九日の生まれであった。最初の戸籍というのも奇妙な言い方だが、のちに訂正しているので仕方がない。その訂正というのは、繁が男爵位を受ける前のことであった。
 奈良原繁は、明治二十九年六月五日、男爵位を授けられている。これは、維新期の活躍のためではない。維新期に活躍したとされる薩摩藩士は、ほぼ明治十七年の華族令が出された時に、受勲している。大抵は、武力倒幕に参加した藩士たちである。松方の伯爵位はともかく、黒田清隆の伯爵、海江田の子爵などはそうであった。繁の場合、主君久光のために活躍はしたのだろうが、国のためではなかったからだろう。第一、慶応三年の派兵には反対している陣営に属していたのだから、外されるのは無理もない。それゆえ、繁の受勲は、明治政府に仕えてからの勲功であった。それも安積疎水事業が大きな割合を占めていた。静岡県令は一年にも満たず、さらに沖縄県令もまだ三年ほどだったのだから。
 ともかく彼は、受勲に際して、身辺整理をしなければならなかった。男爵位の内示はいつ頃だったのかわからないが、受爵の二か月前の四月四日に、三次の生年月日を明治九年十二月二十九日から、明治十年二月十一日に変更している。
 この理由が私には全くわからなかった。跡取りであった長男の竹熊が亡くなっている以上、本妻であるスカ(すが)の次男である三次が跡取りになるなら、それはそれでわかる。だが、この時点では、少なくとも戸籍上は、二男は私生児の幸彦で、三次は名前が示す通り、三男の扱いだった。だから、明治八年七月六日生まれの幸彦より前の生年月日に変更するなら、理屈にかなう。しかしながら、三次の実際の生年月日より後に変更しているのだから、どういう意味の変更なのか皆目わからないのである(注2)。

(注1)・・・寺の話では、道路拡張のため墓地の一部が削られた際、連絡がない子孫の墓は共同墓に埋葬したらしい。その中に含まれているのだろうと思ったが、名簿は見せてもらえなかった。
(注2)・・・苦し紛れに、紀元節にでも合わせたのだろうかとも考えたが、そのことに何の意味があるのかわからない。どなたか推測できる人がいれば、ご教示願いたい。

静岡県令時代の奈良原繁(1)

2013-10-28 14:10:08 | 歴史
 前回の「安積疎水責任者・・・」の章は、繁の静岡県令就任で終わった。その県令時代の事績については、「清水次郎長と奈良原繁」で述べている。が、一つだけ触れないことがあった。それは、繁の「養子問題」のことである。
 前回、奈良原吉之助を養子に出した話をしたが、繁は、この静岡県令時代、逆に養子をもらっているのである。これは、吉之助のときとは違って、繁の除籍謄本に記載されているのだから疑いようがない。
 それは、明治十七年八月七日のことであった。この日付で、明治八年九月十二日生まれの櫻田太吉という九歳の少年を養子にしているのである。これもどうしてなのかよくわからない。なぜなら、吉之助を除いても、繁にはすでに五人も子供がいたからである。
 では、当時の繁の家族構成を概観してみよう。繁には、本妻スカ(すが)との間に四人の子供がいた。長男の竹熊、次男の三次、長女のナカ、次女のトキである。他に、私生児として生まれたが、認知手続きをとってある幸彦という男児もいた。
 さて、生まれた順に紹介していくと、まず長女のナカが一番早く生まれたと考えられる。ただ、生年月日はわからない。理由は、のちに結婚したので戸籍から抜かれているからである。それなら、なぜ一番早かったと言えるかというと、明治十六年に結婚しているからである。これは、繁の伊藤博文宛て書簡からわかった。その手紙は、繁の長女の結婚式招待状だったからである。だから、当時の女子の結婚年齢や、また、繁が慶応三年頃に結婚したとも考えられるので、明治元年頃の生まれだろうと私は推定している。
ナカは、のちに東京帝大教授になる細菌学者である田中宏(注1)という人物と結婚し、良という男児を生んだ。この男児は、のちに三次の飛行機造りの手伝いをしている。彼らはいとこ同士で、家も近かったようである。
 次は、長男の竹熊である。彼は明治三年十二月十一日の生まれで、明治二十六年十月九日に病死している。『南島夜話』によれば、ドイツ留学中、結核か何かの病気に侵されて中途帰国し、鹿児島の桜島で療養中に亡くなったとされている。
 ところで、次男の三次と次女のトキの生年順序はわかっていない。なぜなら、次女も戸籍から抜けているからである。もっとも、次女は結婚して抜かれたわけでなく、竹熊と同様、病死しているからである。それならなぜ次女トキという女子がいたのかがわかったのか、というと、明治二十三年の、これも伊藤博文書簡にあったのである。
(注1)・・・『南島夜話』によれば、田中宏の母親は、繁の父・助左衛門の五女・於秋だという。

安積疎水・明治政府現地責任者時代の奈良原繁(26)

2013-10-26 13:37:16 | 歴史
                       (26)
 たとえば、繁が沖縄県知事だった頃、北海道にいる奈良原市郎の長男である吉次郎へ宛てた手紙(注1)が残っているが、繁と市郎との間に深い繋がりがなければ、市郎亡き後の息子へ懇切な仕事紹介などするだろうか。
 要するに、この書簡が意味するものは、人が何らかの恩義を感じてなければ、あり得ないようなものなのである。
 
 とにかく私は、今回も奈良原繁にまつわる謎の結び目が少し緩んできたと喜んでいるが、まだまだ決定的なものとはいえない。もし、今後決定的なものが出てくるとすれば、繁の後を継いだ奈良原三次男爵の遺品の一部を受け継いだ人のところにあるかもしれないということだ。今ここでその人の名前を上げるより、奈良原三次が大きく関わった、日本の初期民間飛行機の「物語」の著者と言っておけば充分だろう。

 さて、ここでこの章の最後にするが、繁と西洋人女性との間の子供である吉之助が生まれたほぼ一か月後の明治十六年十二月十五日、繁は、農商務大書記官から月俸二百五十円の静岡県令となっている。

(注1)・・・繁が吉次郎に宛てた手紙は明治三十四年付けと四十年付けの二通残っているが、どちらも沖縄県知事時代である。吉次郎は、生活に窮していたようである。そして、手紙の内容から、もともと、繁と吉次郎家に親戚関係はなかったように推測される。

安積疎水・明治政府現地責任者時代の奈良原繁(25)

2013-10-25 13:01:53 | 歴史
                  (25)
今回、私が安積疎水責任者としての奈良原繁の経歴を追ったのは、一つは、彼が西洋人の女と交渉を持つ機会や状況があったか、ということだった。また、あったとしたら、一体どこで、ということだった。
 もちろん、これらのことは、具体的に何一つ明らかになったわけではない。しかし私は、今回、充分可能性のあることだ、と思えるようになった。
 その根拠は、吉之助氏が生まれる二年前頃から、安積の疎水事業の仕事がかなり暇になり、東京暮らしが多かったということだ。つまり、繁がよく通った新橋の料亭などには頻繁に顔を出すことができたということである。あるいは、新橋ではなく、横浜だったかもしれない。新橋・横浜間は、明治五年には鉄道が通っており、一時間弱の距離だったのだから。そのどちらかに、西洋人の女がいた。
 では、そこに繁と関係を持てる西洋人女性などはいたのだろうか。
 然り、である。私は、こんなことに証明はいらないと思う。なぜなら、おそらく幕末の横浜開港以来、この手の女性が尽きることはなかったのだから。彼女たちは、最初は合法的に、つまり、日本にやってきた西洋人の妻として。のちには、恋人や愛人として。そして、離婚したり、捨てられたり、置き去りにされたりして、やむなく日本に滞在しなければならなくなった女性たちがいたことを、史料のみを重んじる歴史学者はともかく、否定するほうが難しいのだ。かなり、外国との往来が盛んになった明治十年代に至れば、なおさらである。
 繁は、そういう女性と会って、交渉を持った。西洋人女性にとっても、政府高官の一人なのだから、金銭的にも困らず、子供を産むことに抵抗はなかっただろう。
 だが、繁は困った。すでに正妻の間には二人の息子、愛人との間には男子一人と跡取り候補は充分だった。おまけに、体裁上も外国人との間の子供はまずかった。だから、養子に出すしかなかったのである。それも姻戚関係にあるのかどうかわからないが、奈良原姓の人物がいたら、好都合この上ない。さらに、西南戦争で困窮していた士族なら、明治十八年、ようやく巡ってきた鹿児島士族の北海道移住を歓迎しただろう(注1)。養育料もあるし、政府高官となった繁の後押しもあるのだから。
 これらの推測を許す他の証拠も充分あった。
(注1)・・・鹿児島士族の北海道屯田兵移住は、これが最初だった。


安積疎水・明治政府現地責任者時代の奈良原繁(24)

2013-10-24 13:50:29 | 歴史
                 (24)
 というのも、明治十八年に屯田兵として渡ったのはあくまで鹿児島士族なのだ。いかに繁に力があって下僕夫婦に士族の戸籍を与えたとしても、一緒に行った他の士族たちにすぐばれてしまっていただろう。どうもそういう様子はないし、奈良原市郎(注1)なる人物がれっきとした士族なら、この点で何の問題もない。また、奈良原市郎が西南戦争に出征したという家伝も残っているのだから、これにも矛盾しない。
 さらに、明治十三年、繁が安積開墾地の営農指導者として谷山郷から塚田喜太郎なる人物を呼び寄せていたということは、谷山という地に強いコネクションを持っていた証左にもなる。そしてその仲介者が、奈良原市郎という士族だったとしても、あるいはそうでなかったとしても何の問題も起らないのである。
 だから、今回の友野氏の発見は、私の苦しまぎれの推測をすっきりさせてくれたという点で、大いに感謝しなければなるまい。
 それでは次に、明治十六年十一月十三日に生まれた奈良原吉之助という人物に移ろう。彼は、本当に農商務大書記官だった奈良原繁の子供なのだろうか。それもフランス人(西洋人!)の子供というのは確かなのだろうか。戸籍上は、あくまでも奈良原市郎の次男となっているのだ。
 しかしながら、この問題は、男爵位を受ける前に、いろいろ自分たちの戸籍をいじくったことのある繁なら、こういう操作はさほど困難ではない。ただ、吉之助氏が西洋人の子であるということをある程度確からしくしているのは、吉之助氏の子孫氏が、繁と西洋人女性が写っている写真(注2)を鹿児島で見たことがあるという話や、吉之助氏自身とその子供である貢氏の顔が、日本人離れした顔立ち(彫りの深い薩摩隼人とも違う)をしていることだけなのである。もちろん、北海道に渡った市郎家の子供たちとも全く違っているらしい。
 つまり、戸籍を操作されている以上、今では吉之助氏が繁の子供であるということを立証できないのである。だが、状況証拠を積み上げていけば、確かさらしさの精度は上がっていく。
(注1)・・・北海道の屯田兵記録では、奈良原市郎となっているが、『国事犯免罪人名簿』の奈良原一郎とは同一人物とみて問題ないだろう。この時代、人名ですら、こういう漢字の当て方の違いは特に珍しいことではなかった。
(注2)・・・ご子孫氏は、昭和五十年前後、奈良原繁のことを詳しいという元新聞記者を訪ねた際、見せてもらったという。そこには、子供と西洋人女性とあと二人が写っていたらしい。私は、その元新聞記者を探してみたが、すでに亡くなっていたのか、住んでいた家もわからなかった。ただ、私も何かの本か古雑誌かでそれらしき写真を見た記憶があるのだが、これも不確実で何ともいいようがない。見つかれば最大の証拠になるのだが。

安積疎水・明治政府現地責任者時代の奈良原繁(23)

2013-10-23 11:04:03 | 歴史
                (23)
 参議・伊藤博文の安積訪問を最後として、おそらく安積における繁の仕事は終わった。あとは、静岡県令になる前の農商務大書記官として、十一月初旬の、多摩川上水堰口の検分という神奈川県下出張のみとなった。これが、公的記録に現れる最後の仕事だった。
 しかしながら、プライバシーに関しては、この年、繁のもっとも謎めいた子供の誕生が最大のトピックだった。明治十六年十一月十三日、祖父の繁がリチャードソンに最初に斬りつけた犯人だと名乗り出た、奈良原貢氏の父親にあたる奈良原吉之助氏が生まれていたのである。このあたりは、私の最初の本で詳しく述べたが、今回、郡山にいる間、その本の中の推測の一つが、間違っていた可能性の高い史料を入手した。
 まず、この問題から入っていこう。
 本年の三月頃、私は鹿児島大学の丹羽氏から久しぶりに電話をもらった。それは、郷土史家の友野春久氏(注1)が、奈良原関係の史料を見つけたから郡山の住所を教えても構わないかというような内容だった。
 もちろん、私は即座に了承した。友野氏は西南戦争を中心に調査されている地道な研究家で、私は彼のことを知っていたからである。が、それほど懇意とはいえなかったので、かなり驚いた。私が奈良原家を調べていることを忘れていなかったからだ。
 それからしばらくして、私は友野氏から史料コピーを受け取った。それは、西南戦争の『国事犯免罪人名簿』であった。その中に、吉之助氏を自分の次男として入籍させた奈良原一(市)郎なる人物がいたのである。それも城下士ではなく、谷山出身の郷士として。
 私は当時、城下士としての奈良原氏は調べあげていたが、城下に隣接する谷山郷に奈良原なる武士がいたとは、考えていなかった。だから、明治十八年、屯田兵として北海道に渡った奈良原市(一)郎なる人物が、その出身住所を谷山山中の畑地にしていたことを根拠に、繁家の下僕夫婦に預けたと推測していたのである。それが今回、友野氏の発見で私の推測が覆されたといっていい。
(注1)・・・私が友野氏と面識を得た頃、氏は、あのいくつかある膨大な墓地の墓を隅々まで調べていた。そして、私に大河平氏の墓を教えてくれた人でもあった。最終的に墓石名簿を作ると言っていたが、気の遠くなるような作業だ。鹿児島の墓地は、他のどの地方とも違う明治以降の歴史を如実に教えてくれる
最高の場所である。そこに足を踏み入れなければ、明治以後の鹿児島の歴史を実感できないように思える。

安積疎水・明治政府現地責任者時代の奈良原繁(22)

2013-10-22 12:22:04 | 歴史
                      (22)
 また若干前に進み過ぎたので、少し前に戻る。静岡県下巡回から帰って来た繁は、おそらくしばらく東京にいた。ただ、まだ完全に福島の仕事も終わりになったというわけでもなさそうである。というのも、この年の八月十日付けの伊藤博文宛ての書簡では、安積疎水の件で一時間ほど時間をもらいたいと書いているからである。伊藤は、前年三月から憲法調査という目的で渡欧し、八月一日に帰ったばかりであった。だから、繁は伊藤と安積疎水のことで直接何かを話し合いの場を持ちたかったのだろう。その結果かどうかわからないが、九月末になって伊藤は安積を訪れている。そして疎水工事巡覧後、伊藤は、郡山の旅館で疎水掛や安積開墾各社の社員を招いて饗応している。たぶん、それが伊藤の最後の仕事だった。ただ、繁がその場にいたという記録はないので確信はないが、いたとすれば赤面ものだったかもしれない。今残っているその場の伊藤の挨拶文によれば、伊藤は繁を手放しで褒め称えているのである。その部分を掲げてみよう。
「・・・実際ノ施措(せそ)順序ヲ総括シ百難に遭遇シテ屈撓(くつぎょう)スル事ナク辛苦(しんく)経営能ク総理ノ大任ニ堪ヘ・・・」
 これは、結婚式の新郎・新婦に対する挨拶のようなものだから、歯が浮くような面もあるが、中條のように必ずしも非難罵倒すべき面ばかりではないことも確かだった。
 たとえば、鹿児島の繁の墓地には、安積疎水水利組合(注1)から贈られた献花台もあったのである。明治二十五年から同四十一年までの十六年も知事を務めた沖縄からは何も贈られていなかったにもかかわらず(注2)。
また繁が亡くなる二年前の大正五年三月、彼は重病を患ったことがあった。それを耳にした安積郡郡長らが、翌月わざわざ鹿児島まで見舞いに出向き、医薬料として五百円、さらに感謝状さえ贈っているのである。繁の任務終了からほぼ四十年も経っていたことを考えれば、やはりそれなりの貢献はしていたと認められていたのである。
(注1)・・・だったと思うが、正式名称は忘れた。
(注2)・・・繁の自伝『南島夜話』には、明治四十一年七月四日、沖縄の奥武山(おうのやま)公園内に繁の銅像が建てられた、とある。が、戦争で破壊されたままであろう。尚、『南島夜話』は、繁の取り巻きの一人だった秦蔵吉という他県出身者が大正五年に刊行している。銅像も繁によって利益を得た人物たちが建てたのだろう。だが、沖縄で利益を得たのは、沖縄人ではなく、鹿児島を中心とした他県出身者だった。もし、そうでなかったら、戦後沖縄に繁の銅像を再建していたかもしれない。

安積疎水・明治政府現地責任者時代の奈良原繁(21)

2013-10-21 14:15:45 | 歴史
                      (21)
 さて、十月一日の猪苗代湖通水完了式典も何とか無事に終わり、繁の福島での仕事もほぼ終わりに近づいた。後は、三島が主役である。
 この年の十一月末から十二月初めにかけて、河野広中を含め、逮捕者数十名にいたる、いわゆる福島事件が起こった。これは、前年の政変後、その方向性を如実に示した事例であるとともに、「鬼県令」としての三島の面目躍如たる事件でもあった。これを機に、三島が翌十六年十月三十日に栃木県令兼任となり、十七年十一月二十一日に福島を去るまで、福島は彼の独壇場だった。少なくとも、この間の繁は、ほぼ個人的な事績の史料のみでしか探れない。
 では、この前後の奈良原繁を追ってみよう。
 三島の動きを語るため先を急いだが、盛大な式典の約四か月前の六月初旬、繁は西郷従道・農商務卿とともに、北海道巡回視察に随行している。これも、個人的な記録でしかないが、私はかなり重要な旅だったと考えている。なぜなら、実際に北海道という地域を知らなかったら、のちにあれほど北海道長官の地位を望んだかどうか。それ以上に、自分の子を養子にしてまで、北海道に移らせたかどうか、よくわからないのである。だが、あまり先を急ぐ前に、順を追っておかなければなるまい。
 次は、通水式典が終わって約二か月後のことである。十二月七日付けで、農商務大書記官に任命されている。初期太政官制度では、勅任一歩手前の奏任四等の高等官である。無事何とか、安積疎水の現場責任者をこなした結果であろう。翌年の明治十六年二月末には、従五位に叙せられている。この地位から、各地の県令に異動するのは、何の問題もない。その前触れを示すかのように、三月末には、静岡県下巡回を命じられている。おそらく、富士の吉原の水門視察を主任務にしていたはずだ。なぜなら、次は繁をこの問題に関わらせるため、静岡県令に送りこんだことはほぼ間違いないことだから、である。ついでに言っておけば、繁が成功した安積疎水の現場責任者というだけの功績でもなかった。当時、静岡でも過激化する自由民権運動に対する取り締まりの意味もあったのである。繁は、福島における三島のやり方を予習していたのだから。 その証明といえるかどうかはわからないが、繁が県令となってやった最初のことは、前任者の大迫貞清(注1)がなかなか手をつけられなかったといわれる清水次郎長を監獄送りにしたことだった。これは、自由民権運動の過激派が各地のヤクザ者と手を組んだり、ヤクザ者が過激派を匿ったりすることを恐れた政府が、明治十七年二月に、「賭博犯処分令」を発していたことによる。繁はすぐにこれを次郎長に適用したのである。
(注1)・・・彼も鹿児島出身で、明治七年一月から静岡権令となり、明治十六年十二月二十五日、奈良原繁と交替するまで同県令を務めた。比較的現地になじみ、善政を敷いたといわれることもある。が、維新史家の原口清氏は「可もなく不可もない」と言っている。このあたりを詳しく知りたい方は、「清水次郎長と奈良原繁」の章を参照してもらいたい。