海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(37)

2010-08-01 11:09:56 | 歴史
 西郷の出発時期云々はこれぐらいにして次に進むと、この話を語った女の子、のちの山田芳子刀自が登場する。いわば前振りとしてかの女がどんな性格の女の子かを紹介しているのだ。好奇心旺盛で、物怖じしない、男の子のように描かれているが、この書き手にはそう思われたのだろう。
 「偉な体格の上から金色燦然たる陸軍大将の服を」着た男の顔などまじまじと見つめられるのは、無邪気で無辜な子供くらいだろうから。
 これに対して西郷がどう反応したかは、何も書かれていない。おそらく、西郷もあのギョロ目でしばらくじっと見つめ、それから笑って何か言葉を発したかもしれない。いや、その前に周囲にいた誰かが女の子をそこから去らせようとしただろう。しかし、女の子は「毫(ごう)も臆する色なく、やつぱりまたたきもせず一心に西郷大将の容子(ようす)を眺めて居つた」と綴られている。が、実際は何も耳に入らず、金縛りにあったようにじっとしていたに違いない。というのは、この郷土史の書き手とは違って、恐怖や不安感から、いわば怖いもの見たさで西郷の前に進み出ていたのだから。
 女の子は、父親や周囲の者から、西郷の話は聞いていた。もちろん、父親はよく言わなかっただろう。島津家の忠実な家臣だったのだから。それゆえ、不安だったのだ。父親もこの男に連れさられて戦争に行ってしまうのではないか、と。

 さて、時が進んで、それから5ヶ月後の5月12日。これは新暦では6月22日に当る。そして、この日付は、計3度繰り返されている。だから、よほど記憶に残る日だったのだろうと思われるが、今まではよくわからなかった。というより、ほとんど正確に記しているとはいえない数字が多いのでそれほど気に留めなかったというほうが当っているかもしれない。ところが、昭和43年版の『姶良町郷土誌』に何気なく目を通していたとき、意外な項目があるのを知り、その中に、6月22日は、この地域にとってもっとも記憶に残る日だったということがわかってきたのである。
 この昭和版『姶良町郷土誌』は、ほぼ完璧な平成版のそれを強調するあまり、私自身もあまり注視していなかった。というより、戦前版の写しが欲しかったのにそれが含まれていなかったので、ほぼ等閑にしていたのである。頁をざっとめくるだけで。
だから、今回、黒江豊彦らの行動が概略記されているのを見て私自身が驚いてしまったのである。