海鳴記

歴史一般

肩ふりサロン(98)

2008-09-29 11:17:36 | Weblog
 私がその船会社の船員でなかったために、直接呼んで叱らなかったのかどうかわからないが、その船長が私をよく思っていなかったのは事実だったろう。だからといって、ああいう悪し様な対応は、許せなかった。
 もっとも、今ではそういう頑な気持ちはない。今の私は、その当時の船長の対応も理解できないわけではない年齢になっている。また、ひょっとしたら、私は誰か別の人にそういう対応とったことがあるかもしれない、と考えられるような年齢にもなったのである。
 その船長のその後は、どうなったか知らない。念願だった水先案内人試験にも合格し、甲板部船員として最高の道を歩み終えたかもしれない。また、それも叶わず、家族からも疎外され、淋しい引退生活を送らざるを得なかったかもしれない。人間の邪悪というか弱い心には、後者を望み、前者を否定する気持ちが働くことを否定しないが、そういうことより、その人間と他者との関係は、その人間が変わらない限り、同じような関係を続けるということだ。つまり、かれは私にしたことと同じことをまた他の誰かにしてしまうということである。だから、いつその関係が壊れ、結果として、いつより強いものに報復されるかわからないのである。これは仏教でいう因果応報につながっていく考え方だが、こういうことがわかってくるのも年齢のせいなのであろう。
 こういうことを実感したのも、むしろ自分自身が窮地に追い込まれ、それは全面的とはいえないまでも、元を正せば、自分自身が招いたのだという結論に達したからである。だから、他人のことを自分を中心として捉える考え方、つまり自分が正しいのだという思考法は、放棄しなければならなくなったのである。人間と人間との関係に絶対的なものはなく、あくまでも相対的なものであるのだと。
 話が抹香くさいところに飛躍してしまい、何について話をしているのかわからなくなったので、元に戻そう。
 とにかく、これらのことがあって、会社側も私のことを煩わしく思うようになったのか、10航海後に船が佐世保にドック入りした際、下船を命じられた。一年に満たない強制下船だった。


肩ふりサロン(97)

2008-09-27 11:47:48 | Weblog
 それから、船長は怒りもせず、またあきれ返ることもなく、どちらかといえば、私が全く舵を握ったことがないことに気づかなかった自分の不明さを糊塗するかのように、自動操舵から手動への切り替え操作、そして、手動での舵取りの練習をさせた。もっとも、その後一度も手動に切り替えて舵を取ることはなかったが。
 このハプニングで、私は船長の視力のよさというのか、確かさというのか、視力がいいと自慢していた私が最後まで確認できなかった物標を、瞬時に見分けた船長の長年の訓練は凄いものだと改めて感心した。と同時に、私のことを普通の船員教育を受けた舵取り候補と見なしていた迂闊さをも暴露した。逆にいえば後者は、その頃の私はセーラーとして一人前に見られていたとも取れるが、船の最高責任者としての船員把握が充分でなかったということでもある。
 その後船長は、会社へ私の素性を問い合わせたのか、以前話したようにいろいろ尾ひれのついた噂が流れた。

 この船長に対して、船員把握が充分でないと厳しい批判を加えたが、私が接した3人の船長の中では一番まともだったかもしれない。一人は完全にアル中気味だったし、もう一人は、気位が高く、自慢話ばかりして皆から嫌われていた船長だった。この船長が休暇下船する際、サロンボーイにぺこぺこし、私にはずいぶん高飛車な態度を取ったことを最初の頃取り上げたが、これはこれなりに理由があったように思われる。
 私はその頃、半年経過の6航海も過ぎ、7航海目に入ってからも会社から何の連絡もなかったので、次の乗船する船はどうなったのか手紙で問い合わせたのだ。最初の契約の際、半年ほどで別な航路の船に乗せてくれるように頼んだとき、係りの社員は頷いていたからである。
 これが、この船長のプライドを痛く傷つけた。ボットムセーラーごときが、船長の私を無視して直接会社に連絡するとは何事だ、と。
このことは、船長から直接聞いたわけではない。ブリッジ当直のとき、気のやさしい一等航海士から聞いたのである。

肩ふりサロン(96)

2008-09-25 12:13:53 | Weblog
 それまで私は、内航船でも一切舵を握ったことはなく、もちろんこの船でも手動の舵を握ったことはなかった。天測後の方向修正などでは、自動操舵のつまみを3本の指で回して転舵するだけだったのだから。その最初のときも、私が、
 「自動操舵のつまみで転舵してもいいのでしょうか」
 と当直士官に尋ねると、
 「ああ、構わないよ」
 というだけで、私に舵をとったことがあるのかなど尋ねもしなかった。
 だが、今回は自動操舵のつまみを回すだけではすまないことを一瞬で察知した。というのは、「ハード・スターボード」(思いっきり舵を右にきれ)という意味だけは知っていたからだ。自動操舵で方向を変えるといっても、1、2度、せいぜい3、4度止まりだったが、今回は20度(~30)以上も舵をきれ、と言っているのだ。
 私は混乱し、躊躇した。と、同時進行的に、船長が「延縄だ」といったとき前方を凝視していたのだが、海面がキラキラ輝いているのが見えるだけで、前方には何も見つけることができなかった。
 これらはほんの1、2秒の間だっただろう。船長も私の遅い反応に戸惑っているような表情をした。それを見て私は、躊躇いながらも、また延縄を切らないためにも、自動操舵のつまみを一気に20度ほど回した。まさか横倒しになることはないだろうと思いながら。
 するとしばらく間があってから舵が効きだした。空船だったが、4万トンの船である。150メートル以上も先の船首が大きく右に曲がっていくさまを見るのは迫力があった。
 船長は私に一言も発せず、前方に向き直し、延縄の方向を見つめているようだったが、私は船長が見つめている前方を注視しても何も見つけることはできなかった。
 しかしながら、どうやら延縄を引っ掛けるということもなく、無事にそこを通過したようだ。再び、向き直った船長の顔が平静に戻っていたからだ。


肩ふりサロン(95)

2008-09-24 12:38:51 | Weblog
 こういう一等航海士は例外的だったのかもしれないが、内航船でもチョッサーは、一目も二目も置かれているような船員だった。
 かれらの存在に比べて、これといった船長がいなかったのはどうしてだろうか。船長というのは、船でわれわれセーラーと接する機会がほとんどないから、断片的な見聞の印象に左右される。それでも、何か特長のある船長だったら、面白い噂なり話が流れてきてもよかっただろうが、いい話など一度も耳にしたことがない。むしろ、否定的な話や見聞ばかりである。たまたまだろうか。そうあって欲しいものだが、一つだけ感心したエピソードがある。もっとも、これは同時にこの船長の船の現状把握のいい加減さを暴露したものでもあるのだが。
 航海中の日曜日は休みということになり、その日当直に入るコーターマスターたちは、翌日、代休になることは前にも触れたが、代わりにセーラー、ヘッドセーラー、大工長、ボースンと交互に当直を務めた。航海士のほうは、船長が代わりをしたようだ。船長と組んだこともあったからだ。
 あるとき、小柄だがハンサムで、インドの港で制服など着ると、それなりにさまになる船長と当直を組んだことがあった。甲板部の休憩のときなど、気軽に話に加わるのはいいのだが、どうも話がかみ合わない船長だった。いわば、三等航海士から船長になった大学出のエリートの典型なのである。
 その船長との当直は、やや強い風のため白波がたち、それに太陽の強い光が当たって海面がきらきらと輝いている午後だった。通常、二等航海士が当直を務める、0~4(ゼロヨン)ワッチと呼ばれる時間帯だったと思う。黙ってブリッジの前面に立ち、見張りをしていた船長が、
 「あっ、延縄だ」
 と言って、操舵機の前に立っていた私のほうを振り向き、
 「ハード・スターボード」
 と声を掛けたのだ。

肩ふりサロン(94)

2008-09-23 12:55:29 | Weblog
 もう一人の一等航海士も自信に満ち、てきぱきと仕事をこなしたが、前のチョッサーより10歳以上も年上のせいか万事ゆったりしていた。かれも正規の学校を出て船員になったのではないらしく、船長の資格を持っていたのかもわからないが、苦労人との評判があった。それがもっとも表れるのは、誰に対しても笑顔の出し惜しみをしないことだった。
 かれとは、一度もワッチを組んだ記憶はないが、あるとき、船の船倉の両側にあるバラストタンク内の点検作業で一緒にボートに乗ったことがあった。
最初のころ少し触れたと思うが、バラストタンクというのは、船が荷を下ろし出すと、喫水線が下がってくる。つまり、船が段々浮いてくるのだが、これはスクリューも浮き上がってくるということである。だから、ふつうそのまま船を走らせたら、スクリューが空回転をする恐れが出てくる。それを防ぐため、タンクに海水を注入して、スクリューを浮き上がらせないようにするのである。
 長さ200メートル近い船のバラストタンクなのだから、最初、その中にゴムボートを入れ中に入ったときは、その広さ、長さに驚いた。もちろん、暗いので懐中電灯を照らしてだが、まるで巨大な海の洞窟に潜りこんでいるようだった。
 もちろん、探検ごっこをしているのではなく、内部の錆びの状況や破損している部分はないかという点検なのだが、一等航海士は私とヘッドセーラーとボースンが乗ったボート上で、冗談をいいながらさも楽しそうに、鉄の梁を叩くのであった。その楽しさがわれわれにも伝染し、まるで洞窟の中を探検している子供のような気分になっていた。


肩ふりサロン(93)

2008-09-22 12:39:37 | Weblog
 ともかく、年齢のいった二等航海士は、定年まで無事に過ごせればそれでいいとでも考えているかのように、何事にも消極的で目立たないようにしていた。
また、高等商船を出て間もない三等航海士は別にして、まだセコンドにもならない30代半ばの三等航海士は、途中から海技大学校へ行き二等航海士の資格を取ったという努力家だったが、会社も途中から入ったせいか、最初から表情が固く、船で笑ったのを見たことはなかった。
 案の定、私と当直を組んだとき、すでにうすうす私の素性を耳にしていたその三等航海士は、ネチネチとかれのゆがんだ学校コンプレックスのようなものをさらけ出してきたのには、うんざりした。
ある夜のワッチのとき、どんな話の流れでそう言われたのか、当時でも全く検討がつかなかったが、ふいに、
 「おい、船では誰にも気づかれずに海に突き落とすこともできるんだぞ」
 と言われたのには、驚いて返事もできなかった。
 当時、私は下船の1、2航海前で、その船では一番長かったため、何か思い上がった偉そうなことを言ったのかもしれないが、そう言われてからはさすがに私からかれと話をすることはなくなった。

 こういう三等航海士や二等航海士と比べると、私がこの船で接した二人の一等航海士は、二人ともすでに船長の資格を持っていたかどうか知らないが、仕事ぶりも言動も自信に満ちていた。
 まだ40にもならない最初の一等航海士は、普通高校を中退して水産学校に入り直し、その高等科を卒業して船員になり、海技大学校で船長資格も取った苦労人でもあった。そのせいか、下の者に対する気配りも怠りなかった。船では、荷役や入出港を含めて、一等航海士が実質的な責任者だったから、甲板部の船員は、かれのようなチョッサーは理想的だっただろう。
 かれと一緒の当直のとき、よく天測(注)の手伝いをしたが、いつも早く時間が経つように思われた。

(注)・・・星の高度等を測り、船の位置を割り出す作業。

肩ふりサロン(92)

2008-09-21 14:53:27 | Weblog
 かれら二人の大工長に接して感じたことは、時代の動きの早さに順応できず、結果として自分の能力を生かすポジションを獲得することもなく、知らず知らずのうちに、「負け犬」の烙印を押されていることである。
 もちろん、私は「勝ち犬」だとか「負け犬」だとかいう言葉は好きではないし、それらを意識しない限り、存在しない言葉だと思っている。むしろ、それらをより意識せざるを得ないのは、年齢のいった二等航海士や三等航海士だろう。かれらは、もう一つか、あるいはもう二つ上にランクされる免状を取得できないか、取得するのを断念した船員がほとんどで、ほぼ例外なく暗い表情をしていた。
 何航海目からか忘れたが、日曜日は航海中も休みということになり、コーターマスターの代わりにセーラーも当直に入ることになった。8時から12時までの三等航海士から4時から8時までの一等航海士のワッチまで、まんべんなく割り当てられたのである。航海士も休みになるのか、ときには船長と組むこともあった。
その中で一番いやな当直は、12時~4時の二等航海士と一緒のときだった。他社から出向してきた二等航海士もいたから、3人の二等航海士と一緒にブリッジにいたことになるが、真っ暗なブリッジの中で、顔の表情がわからない会話ほど難しいものはない。ましてや、生え抜きのセコンドは、どちらももともと寡黙なのか、ほとんど話をしないし、話してもぼそぼそと小さい声なので聞き取れないのだ。それで、話がどう進行しているのかわからず、ついにはこちらも話をするのを止めてしまう。何かきまづい空気の中で、4時間過ごさなければならないのである。
 かれらに比べて、出向してきた二等航海士は50歳を過ぎていたが、その会社の船員たちとしがらみがなかったせいか、かなり自由に喋っていた。というより、一千万以上もする自家用ヨットを持ち、休暇中は、それを乗り回す趣味人だった。それゆえか、二等航海士で船乗りを終わることをそれほど気にしている様子はなかった。どうやら趣味というのは、意識のバリアを取り払うようだ。


肩ふりサロン(91)

2008-09-20 12:25:21 | Weblog
 またまた脱線してしまったが、私が出合ったもう一人の大工長も紹介しておこう。正直言って、肩ふりなどのとき、私をよくからかいの対象にしていたので、あまりいい印象はないのだが、アル中のボースンと一緒に乗船してきたとき、少し驚いた。ボースンの年齢が50過ぎという感じなのに、大工長は60歳をすぎているように見えたのである。だから、最初、大工長をボースンですかと言ってしまい、それがずっとからかわれる理由になったのかもしれない。
 とにかく、若い船員を見ては、「今の若い奴は」というタイプの老人で、若い船員ばかりか、コーターマスターらにも相手にされなかった。そういう点でいえば、やはり甲板長にはなれないタイプの船員だった。ただ、身のこなしは素早くて、定年近い老船員とは思えなかった。
 あるとき、私は、船首マスト灯の電球を替えるため、そこに上るように言われたときがあった。その際、用心のために腰に安全ベルトを着けてするように言われたので、それを取りにハウス内のストアに向かおうとしたときだった。どこからともなく現れた大工長が、私のところに近づいてきて黙って電球を奪い取ると、そのままするするとマストに上って行ってしまったのである。そして、正月行事のはしごの曲芸のように巧みにあしを固定し、すぐさま電球を取り替えたのだ。これにはあっけにとられたと同時に、もし私の仕事でなかったら、拍手を送りたいくらいだった。また、このときだけは、「今の若い奴は」というこの大工長の繰言を許す気になれた。
 ところが、事はこれで済まなかった。たまたまブリッジに上がっていた船長にこれを見られてしまい、拍手喝さいどころか、危険なことは止めるようにと、ボースンともどもお叱りを受けてしまったのである。
 私は、一瞬いい気味だと思ったことは確かだが、面白い妙技を見せてもらったのだから、何も叱るほどのことでもあるまいとも思った。船長の職階を雲の上とまでは言わないにしても、自分とは全く違う人種のように考えていた大工長は子供のようにうなだれていた。
 もっともそれも数日の間だけで、その後はその反動も加わり、前にも増して老人の繰言が多く、激しくなった。


肩ふりサロン(90)

2008-09-19 11:32:04 | Weblog
 しかしながら、この強いボースンには勝てず、以後頭が上がらない関係になってしまったようだ。さらに運が悪いことに、このボースンと乗合わすことが多いらしく、めぐり合わせが悪いとしか言いようがない、と力弱く笑ったのには、同情するほかなかった。しかしながら、この二人の対照的な船員を見る限り、勝ち犬と負け犬という言葉を思い浮かべざるをえなかった。そして、一方は、退職後も家庭にも社会にも馴染めず、孤独な生涯を終えるような気がしたのである。

 ところで、引退後の船員の生活を想像すると、他の陸上の会社勤めで退職した人たちとは明らかに違うように思われる。一般に、甲板部の高級職員とランクづけされる士官クラスの船員たちは、船に執着せざるをえない分だけ、より孤立を感じるような気がしないでもないが、私はむしろ部員クラスの船員ほうが孤立感を味わうように思える。釣りや模型帆船でも作る趣味でもあれば別だが、見ていると、かれらのほうが人間関係を作るのに不器用なのだ。
 もっとも、かれらの出身は、漁村とか小さな港町とか、船員という職業に従事している人が多い地域なので、そこへ帰っていけばそれなりに幸福な晩年を過ごせるのだろうが。
 またたとえば、船長まで勤めて退職した人たちはどうだろうか。
あるテレビドラマで、退職した船長が、毎日港(横浜―でないとさまにならないのか山下公園辺り)に通って、海(船?)を眺める孤独な姿を設定していた。陸に上がった船乗りのある象徴として。ありえない場面ではないだろうが、どうも尋常とは思われない。頭のおかしくなった船長を描いているのならともかく、ドラマではそういう設定ではない。
 もともと、船で船長という孤独は経験しているし、そこでの孤独や孤立は退職後よりも強いのではないだろうか。だから、退職後は船長協会などに属して、仲間づきあいしたり、あるいは甲板部の最終目標である水先案内人を目指して勉強したり、となかなか忙しくしているのではないかと思えるのである。




肩ふりサロン(89)

2008-09-18 12:35:22 | Weblog
 ところで、前回登場願った大工長のことだが、内航船にはこの有名無実の職掌の甲板部員はいなかった。インド航路の船に乗って初めて知った職階だった。
 位置的には、コーターマスター(甲板手)とボースン(甲板長)の間にあって、コーターマスターとしては年をとり過ぎ、だがボースンにはなれなかった船員の職掌だった。「大工長」というのはいかにも日本的な命名だが、英語では単に「カーペンター」で、腕に技能をもった船員という意味合いが強い。
 おそらく、木造帆船時代からの職種であろう。和船時代にそういう名前の職種があったとは思えないが、木造だったのだから、大工のような腕があった舟子(かこ)は重宝されたにちがいない。
 明治以降、西洋の船を取り入れると同時に、たとえば「大工長」などと日本独特のニュアンスを交えて(注)、船の職階などもそのまま翻訳したのかもしれない。
 私が乗っていた船では、2人の大工長に顔を合わせたが、最初の一人は、度の強い眼鏡をかけた老人という感じだった。かれは、若いころから強烈な個性のボースンに頭が上がらなかったのか、ボースンがいる前ではほとんど口を開かなかった。また、仕事は、われわれと一緒にすることはなく、ボースンが命じる修理作業などをしていた。そして、仕事が終わるとほとんど部屋に閉じこもりきりだった。
 一度、かれの休暇下船前、船室に話を聴きに行ったことがあるが、胃を壊して酒も飲めず、始終静かな声で、ボースンとは若いころ出合って、喧嘩した話などをしていた。

(注)・・・Carpenterが帆船時代以来変わらぬ職掌だとしたら、最初に日本語に訳したときは、単に「大工」だったかもしれない。そして、初期のころは、まだまだその技能を必要とする船が多かったのだから、その職種としては実際性もあっただろう。だが、段々鋼鉄化し、機械化するにつれて、本来の職種の意味合いはなくなる。そこで、職階上、「長」をつけて、ボースンにはなれない永年勤続者を報いたのかもしれない。