海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(55)

2010-08-20 08:30:57 | 歴史
 野添日記では、小字(こあざ)地名というのか、私の大まかな地図では、ほとんど記載のない地名を書き連ねている。そのため、私も厳密にどの辺りなのかわからない場所が多い。ここもそうで、高野村近辺で起ったことなのだが、その高野村がどのあたりなのかよくわからない。そもそも、前日の6月30日の記述では、栗野の木田という所まで退き、「そこで炊き出しをしたが」というふうに途中で切れているのである。そして、翌日のこの日は、未明に官軍の攻撃を受けたので、横川を過ぎ踊(おどり)まで来たが、ここも危ないということで、踊の府本まで至り、ここに台場を築いて陣地にしようとした。ところが、そのあと、「日不分明トナリテ」と記し、また、松永村、大久保村などを転戦している。おそらく、戦闘に追われて、日記は2,3日分をまとめて書いたのだろう。転戦地も錯綜しているし、この日の日付のあとは、7月17日と大きく空いている有様なのだから。
 ともかく、高野村のあと「荘内」とか「都城」という地名が出てくるので、日向領内だと推測しているが、期日は、この日と書いているのでこの日の7月1日に起ったことだとする。
 この日、斥候隊の馬越士族児玉太左衛門ともう一人の名前のわからない馬越士族が脱走し、干城九番隊に捕縛され、それが辺見の雷撃隊本営に報告された。そして、翌日、軍令により処刑されている。

 私は、各地の郷土史を読んできて、ときどき、辺見十郎太の「勇猛さ」や「激烈さ」を目にしてきた。その極端な例を挙げれば、『出水の歴史と物語』にあった、「偉丈夫辺見十郎太は無反りの長刀を背負い、馬を飛ばして縦横に戦線を馳駆し、在郷士族の徴募を行い、官軍に内通する者、戦線を離脱する者は容赦なく斬って捨てた。官軍に魚を売ったというだけで斬殺され、首をさらされた婦人もいた」などという記述である。
 もちろん何の裏づけのないこういう話は、私自身も信じないし、ほぼ誇張だろう。ただ、誇張されるに足る人物だったということは、この野添日記の記録でも明らかである。たとえ、軍令に沿っていたとしても、この時期に至っては見逃す隊長もいたに違いないのだ。ただ、その記録がほとんどないというだけに過ぎない。戦争は、大砲や銃や刀を使う残酷な殺戮行為にはちがいないが、それを使用する人間の行為でもあるのだから、こういう場合、必ず見逃す人間もいる。たとえば、鹿児島へ戻る途中の小林で、戸長役場の諸帳簿を持ち出そうして傷つけられた使丁に、見舞金を送った西郷のような人物なら。