海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(52)

2010-08-17 08:16:05 | 歴史
 今回、3月4日の吉次峠の戦いまで読み進んだあと、この野添日記はかなり正確なのではないか、そしてそれを写し取った原田直哉氏に間違いはないのではないかと考え出したその夜、ようやく『薩南血涙史』の頁をめくってみた。5月22日以前の日付のある項目を。なぜなら、野添日記では、5月22日に赤塚隊が、すでに降伏したという報告を耳にしたのだから、投降は当然その前になるからだ。
 それでは、かなり長くなるが、第四節 薩軍赤塚源太郎以下降伏という見出しのある項目を掲げてみる。

五月十五日
是(これ)より先き屋敷野越の薩軍守備破竹四番中隊半隊長吉留(よしどめ)盛美、分隊長福島安(やすし)、押伍田中藤之進、鈴木弥助なるもの夜潜(ひそか)に出でゝ官軍に降れり、此日鈴木は総督よりの帰順告諭書を以て説く所あり破竹二番中隊長赤塚源太郎、小隊長山内種徳(蒲生郷の隊)は其部下九十八名を率ゐ共に官軍に降れり(此蒲生郷の兵は初め出軍の際二心あるものにして出軍を許さゞるものなりしが後、別府、邊見等再び募集せし兵なりし)大野口の指揮長淵辺群平之を聞き直に此の由を大口本営邊見十郎太に報ぜり、此時恰(あたか)も大口方面激戦の際なりしかば戦ひ止みて邊見大(おおい)に怒り蒲生郷の士赤塚眞志(しんし)湯田某に謂(いつ)て曰く「子(し)速(すみやか)に帰郷し源太郎以下のもの潜に逃れ帰らば悉(ことごと)く捕へ来(きた)れ」と赤塚等令を受け帰郷三十餘日に及びしも帰り来らざりしを以て還(かへ)つて之を邊見に復命せり(著者曰く赤塚隊中六名降伏に与(く)みせざる者あり河野之に勧めて曰く一隊已(すで)に降る卿等意あらば降れと六名胥(あいみ)かず後に至るまで其志を変ぜざりしと云惜(おしむ)らくは其名を失したり)        <下線部は、黒丸点。また、一部旧字を新字体に直してある>

 また、5月22日の項と同じような出だしだが、この吉留盛美らは、いつ脱走したのかわからない。これより先とあるのだから、15日の前の屋敷野越にいたときだろうが、5月10日の節である「屋敷野、箙瀬の戦」には、吉留らの記述は何もない。もちろん、これ以前に至ってはそういう場所が出てこないので、ありえないということになる。だから、おそらく、この著者にもはっきりした日がわからなかったので、15日の赤塚隊の降伏と一緒に書いたということなのだろう。それにしても、日時を分けて、2度も同じことを繰り返しているのは、これぐらいではなかろうか。