海鳴記

歴史一般

清水次郎長との邂逅 静岡県令時代の奈良原繁(8)

2009-08-31 10:10:50 | 歴史
 次郎長を単なるヤクザの親分で終わらせなかったのは、幕末維新という大きな時代の変わり目にいたことだった。
 その契機となったのは、慶応4年3月末、旅先の常住だった三河寺津(愛知県西尾市)から清水湊に戻っていた次郎長のところに、駿府町差配役判事伏谷如水(ふせやにょすい)から出頭命令が来たことによる。
 これより前の3月5日、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひと)を大総督とする徳川慶喜追討軍が駿府に至ると、駿府周辺は事実上無政府状態になった。そこで追討軍は、尾張藩に続いていち早く勤王を表明していた浜松藩に、徳川幕府の駿府町奉行に代わって治安維持に当たるように命じていたのである。そしてその責任者として駿府に赴任してきた家老・伏谷如水(ふせやにょすい)は、不案内の地で自分の手足となって動いてくれそうな人物を探しているとき、次郎長を見出し、かれに白羽の矢をたてたのであろう。
 博徒が二足のわらじをはくのを嫌っていた次郎長は、最初、固辞した。しかし伏谷は、次郎長の過去の罪状を挙げ、「天子様の新しい時代になったのだから、悔い改めて奉公せよ」と説得すると、ついに次郎長も「沿道警固役」を引き受けた。そして、この時点で過去の罪状もすべて帳消しにされ、破格の帯刀も許されたという。23歳の年に清水湊を離れ、旅から旅の26年、49歳でようやく、制度の内側へ、つまり再び表社会の一員になったのである。
 ところで伏谷は、静岡藩の成立によって、同年6月末には離任して駿府を去っているが、次郎長がそのまま「沿道警固役」を続けていたのかどうか、私は知らない(注)。  
 ただその後、次郎長にまた別な表社会の勲章が加わる。
 それは、8月19日、榎本武揚の率いる艦隊が品川沖を出港し、箱館へ向うことから始まった。その艦隊が、東京湾を出た直後の房総沖で台風に遭遇し、自力航行が出来ず、回天丸に曳航されていた咸臨丸の引き綱が切れ、咸臨丸はそのまま漂流し、9月2日、何とか清水湊に辿り着き、そこで修理をすることになった。ところが、それを知った新政府軍軍艦三隻によって、9月18日、咸臨丸は襲撃され、20人余(『太政官日誌』)が討ち取られ、海中へ投棄されたのである。
 新政府軍の軍艦が去ったあとも、海中に投棄された遺体はそのままだった。賊軍に加担する者は厳罰に処す」というお触れのためだった。
 困ったのは地元の漁師たちだった。遺体を網に引っ掛けて、代官所に引っ張られては漁が出来なくなる。そこで、かれらは次郎長に泣きついた。
 次郎長は、その訴えを聴くとすぐさま若い者を集め、その日の夜の月明かりを利用して7名の遺体を収容させ、翌日、知り合いの住職の読経とともに鄭重に埋葬したのである。

(注)・・・田口英爾氏は、駿府藩が成立した7月以降も清水港の警固役を「自任」していた、と書いている。そうだとすると、「沿道警固役」は、伏谷の離任とともに解消していたのであろう。


清水次郎長との邂逅 静岡県令時代の奈良原繁(7)

2009-08-30 17:47:27 | 歴史
 人がこうした土地に生まれ、気の荒い舟乗りや、女郎屋に入り浸りの商店の若旦那や、暇さえあれば博打に狂じている無宿者たちの間に混じって育つとしよう。かつ、たとえば、個人の資質としても次郎長のように周囲が手に負えない悪ガキで、成長しても喧嘩早く、それで人を傷つけたとなれば、人別帳(注1)から外され、無宿者になっていくのはある意味で自然だろう。そして、渡世人として各地の博打場を転々としていく者や、各地の賭場のもめ事や縄張り争いに借り出され、不具者となり、死んで行く者も大勢いただろう。
 次郎長もその世界で多少名の知れた親分だったにしろ、そういうアウトローの一人には違いなかった。たとえのちに、天田愚庵(五郎)(注2)という文才のある人物が次郎長の目の前に現れ、次郎長を主人公にした「水滸伝」(注3)のような物語を書き、美化されたとしても。
 次郎長は、幕末までは制度外の、つまり裏社会の一介のヤクザの親分にすぎなかった。
 
(注1)・・・5人組制度は、なかなか厳格で、一人の犯罪者でも連帯責任を負わされたから、寺入りして謝罪しても許されないような人物は、人別(戸籍)から抜かれ、制度から放り出された。
(注2)・・・磐城(いわき)藩(福島県)勘定奉行甘田平太夫の二男として安政元年に生まれる。戊辰戦争の際、父母と妹が行方不明となり、明治4年、18歳のときに父母妹の行方探索に生涯を賭けることを決意し、東京に出る。以後、放浪遍歴の旅に出て、一時は鹿児島で桐野利秋の世話になったこともあるという。明治11年、天皇御巡幸の供奉を務めていた山岡鉄舟が、かねてから親身にしていた天田五郎に連絡し、五郎が巡幸先の静岡に至ると、山岡は五郎を次郎長に引き合わせ、親探しを次郎長に依頼した。次郎長はそのまま五郎を連れて帰り、探索に力を尽くした。そして、翌年春までの数ヶ月間、次郎長と寝食をともにした五郎は、その間に次郎長の一代記を執筆したのである。明治14年2月、次郎長の後継者だった大政こと山本政五郎が病死すると、旅先から駆けつけた天田五郎がそのまま後継者(養子)となり、大政が現場監督を務めていた富士裾野開墾場に出向き、3年間ほど開墾に従事した。しかし、明治17年2月には、養子縁組を解消し、元の天田姓に戻っている。のちに出家して愚庵と名乗り、歌人としても名を残す。
(注3)・・・正確には、明治17年4月、東京輿論社から『東海遊侠伝』として出されている。

清水次郎長との邂逅 静岡県令時代の奈良原繁(6)

2009-08-30 08:44:42 | 歴史
 私は、正直言ってヤクザ(八九三?)なるものがいつごろ生まれ、日本の社会に巣食うようになったのかよく知らない。ただ、中世の室町期あたりに、治外法権的な特権を与えられた一部寺社内で浮浪の徒らが集まり、公然と賭博が行われていたという話はどこかで読んだ記憶がある。そして、その場を提供している寺に当然ショバ代としての金が入るが、これが今でも使われる「寺銭」のいわれだということも。
 ここで、私は浮浪の徒という言葉を使ったが、のちに香具師(やし)と呼ばれるようになった集団の始めではないかと思う。
 というのは、室町期ごろから徐々に農業生産も増し、また商品経済が発達するようになると、それらを各地に運び、また門前市などで売りさばく人手が必要になってきた。とくに、寺社の祭礼などのとき、商品を売りさばく特権を与えられた者たちが、その余暇に寺社を借りて博打にふけるようになったということは充分想像できるからだ。もちろん、これが正確な認識かどうか知らないが、かれらは当時の社会の制度外にいたことだけは確かなような気がする。
 時代が下って、室町も後期になり、いわゆる戦国時代と呼ばれるような時代になると、かれらの一部は武士の集団に組み込まれ、中には活躍して制度の中に入って行った者も大勢いただろう。
 さらに時代が下って江戸時代に入ると、初期のころはともかく、半ばごろになると、厳しい5人組制度から除け者にされ、寺が管理していた人別帳(戸籍)からも消去される人物が出てくるようになる。いわゆる無宿者(注1)の増加である。
かれらの行き着く先は、初めは主として江戸や大坂という巨大商業都市だったろうが、幕末期に至ると、その周辺の商業が盛んな町々にもかれらが巣食うようになっていった。幕末期、地方で名を挙げたヤクザの親分たちは、たいていそういう物資が集積する商業都市だったそうである(注2)。
 清水次郎長も例外ではない。清水湊というのは、公的機能として幕府代官の支配地だった甲斐の国から、富士川経由で年貢米を集め、一旦倉に収めてから江戸へ送る中継基地であり、また瀬戸内海や伊勢地方などから塩を買い集め、それを今度は富士川を遡って甲州や信州まで運んで売る、という港湾商業地だった。つまり、農村などと違って、無宿者を養うこともできる、余剰な富も集積したのである。
(注1)・・・町方文書によく「宿」という言葉が出てくるが、ほとんど「家」と同義であって、一時的に住む「宿屋」という意味合いではない。当然、無宿の宿も「家」という意味である。
(注2)・・・国定忠治が博徒として拠点とした地域も、利根川周辺の物資集散地だったのではないだろうか。

清水次郎長との邂逅 静岡県令時代の奈良原繁(5)

2009-08-29 11:03:12 | 歴史
 いよいよ今回から清水次郎長(注1)の登場を願おうと思っているが、そもそも次郎長という人物は何者なのか、という問いから発していかないと、主題に掲げた意味合いがピンとこないだろう。
 私も、次郎長のことに詳しいわけではないが、たまたま「明治史談会」で顔を合わせている田口英爾氏に、『清水次郎長と明治維新』(新人物往来社)という著書があったので、主としてそれを参考に話を進めていくことにする。
 
 ところで話はやや脇道にそれるが、かつて住んでいた鹿児島と今私が住んでいる清水とで、目につくものでもっとも大きな違いは何かというと、鹿児島では、市内のいたるところに幕末・明治以降活躍した「偉人」の碑があるのに、ここ清水では、当然のことながらそんな碑は皆無で、ただただ、ヤクザの親分だった次郎長の生家とか墓とかが観光名所になっているだけである。
 またもう一つだけ挙げれば、鹿児島では町を歩いていて寺がほとんどないという印象を受けるが(注2)、ここ清水は、やたらと寺が多い(注3)ということに気づかされる。これは単純に言って、豊かな地域の証左でもある。ここには、江戸期を通じて、ほぼ農・工・商の町人たちしか住んでいなかったが、かれらが豊かだったからこそ、多くの寺を養えたのだろう。それゆえ、ヤクザの町として名を売ったのも、当然と言えば当然かもしれない。なにせ、「寺銭」がいっぱい入るのだから。
 冗談はさておき、では一体「ヤクザ」とは何者か。

(注1)・・・薪炭商・三右衛門の次男として生まれる。名は長五郎。文政7年(1824)、5歳のとき、近所の米穀商・甲田屋に養子に出される。その養父が次郎八といい「次郎八のせがれの長五郎」ということで、のち「次郎長」と呼ばれるようになったようだ。「清水の」は、ヤクザとして活躍(?)していたのが、主として清水の外(三河周辺)だから他所でそう呼ばれるようになったのだろう。養家先の甲田屋は山本といい、山本長五郎が次郎長の本名である。
(注2)・・・町の中央部に広大な敷地を占めている西本願寺の別院があるが、これは明治以降に建てられたもので、鹿児島では江戸期を通じて浄土真宗は禁制だった。
(注3)・・・主として、禅宗(臨済宗>曹洞宗)が多く、浄土真宗は非常に少ない印象を受ける。

清水次郎町との邂逅 静岡県令時代の奈良原繁(4)

2009-08-28 11:06:45 | 歴史
 
 それでは、記録に残っている奈良原繁の仕事ぶりを見てみよう。
 繁が県令になって年を越した1月8日、繁は臨時県会を召集した。昨年3月の臨時県会に提出して否決され、再議にかけても反対が多く廃案となった、備考貯蓄臨時米穀購入費を計上(注1)するためだった。
 これは、新県令に対する祝儀の意味もあったのか、繁が何らかの豪腕ぶりを発揮したのかよくわからないが、1月11日に何とか原案が通過したようだ。
 また、3月の通常県会では、県立師範学校の教育費問題で減額主張の議員と理事者との間に衝突を来たし、最終的に原案の半額で決議された。しかし、奈良原県令はこれに認可を与えず、さらに再議に持ち込ませても紛糾し、増額が無理と判断した彼は、文部大臣(注2)に指揮を仰ぐことになったという。この結果、7月3日、「教育費議案の決議は認め難く原案の通り施行すること」として、議長に原案執行の旨通達している。これは、繁の豪腕ぶりにほかならないだろう。県会開設以来第2回目の原案執行という。
 これだけの例を挙げると、どうもこの2ヶ月後には、なぜ静岡を去ったのかよくわからない。しかしながら、次のエピソードを紹介すると、何となく頷けないこともない。
 
 ある地方誌の「県民読本 知事40代」というの文章の中に、繁は、静岡・両替町の「磯馴(そなれ)」という料亭に毎日通い、梅吉という美妓を侍らせ浅酌低吟していた、と書かれているのだ。そして急を要する書類の決裁などは、永峰弥吉(注3)書記官がそこに出向き、梅吉から判をもらったといわれている。多少誇張して戯画的に書いた面も否定できないだろうが、大嘘をついているとも思われない。奈良原繁には、確かにそういう面もあったのだから。またこのエピソードを拾いあげた郷土史家も、薩摩出身だからという偏見の目で見ているわけでもなさそうだった。
 つまり、こういう話が中央に伝わり、繁が何か問題を起こす前に首をすげ替えられたのかもしれない。

(注1)・・・惜しまれて去ったという前任者・大迫貞清の申し送り事項だったのだろう。
(注2)・・・当時の文部大臣は、佐賀出身の大木喬任だった。
(注3)・・・大迫県令時代から書記官を務め、静岡県行政に精通していた。だから、繁の代になっても、そのまま仕え、代理の役割を果たしていたのだろう。前回出てきた、石門再築工事費借用嘆願書の承認も永峰の代理で済ませていた。
 

清水次郎長との邂逅 静岡県令時代の奈良原繁(3)

2009-08-27 09:50:07 | 歴史
 また、この通水式に至るまで、繁はかつて農業政策を諮問するため薩摩藩に招かれた農政学者・佐藤信淵の『内洋経緯記』(明治13年9月)を復刻出版し、さらにその後も『薩藩経緯記』(明治16年11月)を出すなど、大久保らが推進した殖産興業政策に対して並々ならぬ熱意を示している。
 
 こうして、繁は着々と実務もこなし、静岡県令に至るのだが、この辞令もまったく今までの経歴と関係がないというわけではなかったようだ。 
 それは、明治14年3月、内務省へ提出した静岡県富士郡の「字吉原湊石水門再築願書」などに見てとることができる。この「石水門再築」というのは、台風や激浪による塩害から耕地を守る、いわゆる潮除堤(しおよけづつみ)構築問題と関連し、それらを再構築することは、慶応年間以来、吉原湊周辺地域の悲願であった。
 さて、同年3月末、この「願書」に目を通した内務卿・松方正義は、東海道通過の際、現地を検分し、帰京後ただちに内務省御雇オランダ人技師モルテルを派遣し、測量をさせることになった。同時に、農商務省書記官(注)だった奈良原繁・南両書記官にも現地検分をさせると、かれらの答申は「再築至難ニアラズ」というものだった。また奈良原らは、静岡県書記官永峰弥吉と再築委員だった伊達文三を福島県猪苗代湖の水門を視察させてもいる。
 こうした繁の実績は、静岡県令赴任に当然反映していただろう。ただ、在任中、実際にこの「石水門再築」で名前が出てくるのは、前任者の大迫県令に提出されていた工事費借用請願書が、明治17年2月6日、奈良原繁の代理名で承認され、一万円貸与された、というぐらいだった。だから、繁自身は、この「石水門再築」と具体的な関わりはほとんどなかったようである。そして、これらの工事が完成をみたのも、繁が去って1年半ほど経った明治19年の春だった。

(注)・・・それまで繁は内務省勧農局にいたが、明治14年4月7日、その部署が廃止され、農商務省に組込まれることになった。


清水次郎長との邂逅 静岡県令時代の奈良原繁(2)

2009-08-26 11:26:35 | 歴史
 奈良原繁がなぜやや唐突に静岡県令になったのかはよくわからない。それまでは、農商務大書記官という地位だったが、中央官庁のそういうポストが自由に地方の県令あたりに移れる地位だったのだろうか。ただ、それに至るまでは、繁は繁なりに必死に働いた。「篤実な勤王家」と評価された一面があったように。
 まず、繁が45歳のときの明治11年3月、内務省御用掛、勧農事務取扱という地位で新政府入りしている。疑いもなく、大久保の引きというか繁の依頼というか、薩摩の芋づる、である。繁は、それ以前、島津家の家令(注)をしていた。島津家が実質的に経営していた第五国立銀行の頭取も務め、それを前年の11月には辞めている記録があるから、その前後あたりだろうか。ともかく、大久保が最高の実力者として、政府内にいたときに、役人生活に入っている。
 ところで、繁の最初の仕事は、大久保が推進していた殖産興業政策の具体的施策の一つである、猪苗代湖水利事業(安積疎水事業)の現場責任者として福島へ出張することだった。以来、繁は数年の間、東京と福島を頻繁に往復し、猪苗代湖から山を越えた安積平野に水を引き、2000ヘクタール以上の水田を可能にした、明治前期の巨大プロジェクトを成立させる一翼を担っている。
 その間、というより、大久保の指令で始めた矢先の、同年5月14日、大久保が暗殺されるという一大事件が起った。繁は多大なショックを受けただろう。なにしろ、精忠組以来の同志であり、その後は彼の下で密接な関係を維持し、ともに幕末・明治と乗り切ってきたのだから。しかしながら、仕事そのものは、大久保の片腕だった伊藤博文が内務卿になって引き継ぎ、明治15年10月、岩倉具視右大臣、徳大寺実則宮内卿、松方正義大蔵卿、西郷従道農商務卿等が出席した猪苗代湖通水式で、ほぼ完成をみたのであった。このとき、繁は農商務権大書記官として挨拶に立っている。

(注)・・・明治7年2月付で、島津忠義本家・家令となっている。ところが、明治9年6月、久光が最終的に東京から戻った約2ヶ月後には、久光(玉里)家・家令となっている。そのとき本家の家令は、島津久邦となっているから、本家から玉里家に替わったということだろうか。もっとも、同年9月22日、今度は、忠義家、久光家・両家の家令となったという記録がある。西南戦争前後を記録した市来四郎は、この島津家人事を「奇怪なことだ」と言っている。

           

清水次郎長との邂逅 静岡県令時代の奈良原繁(1)

2009-08-25 10:13:45 | 歴史
 さて、前回まで町田明広氏の島津久光や幕末薩摩藩に関する新しく、果敢で知見に満ちた『島津久光=幕末政治の焦点』に刺激を受け、しばらく、私の関心領域だけを綴ってきたが、一応前回で終わりにすることにした。
 その中で、8・18政変に関する原口清氏や町田氏と対極にある説を紹介すると書いたが、その前にもっと以前から言っていた、奈良原繁の静岡県令時代のことを先に進めようと思う。

 奈良原繁は、明治16年12月15日から翌年の明治17年9月27日まで、2代目静岡県令として辞令を受けている。10ヶ月ほどの短い就任期間である。前任者は、繁と同様鹿児島出身の大迫(おおさこ)貞清で、かれは、明治7年1月、権令として静岡県に赴任し、同9年3月、そのまま初代静岡県令に就任、以後繁と交代する明治16年9月まで在任している。
 丹羽謙治氏によれば、要所、要所の地に、薩長出身者たちを県令として配置していたというから、幕臣が多く移り住んだ静岡も要所の一つだったのだろう。
もっとも、繁の後任には、関口隆吉(注1)という旧幕臣が赴任し、明治19年7月、県令が知事と名称をかえると、そのまま初代静岡県知事となった。かれの在任中の明治19年、自由民権過激派グループによる内閣総理大臣伊藤博文その他の暗殺計画が発覚・検挙されるという、いわゆる静岡事件が起きているが、明治政府はこういう事態を一番恐れていたのだろう。
 そういうことがあったからかどうかわからないが、初代静岡県知事の関口隆吉が明治22年5月、不慮の鉄道事故で亡くなると、その後任にまた薩摩閥である時任(ときとう)為基(注2)という人物が着任している。

(注1)・・・静岡は江戸にいた旧幕臣多数が移り住んだ土地柄だけに、「初代」静岡県知事になった関口隆吉に関しては、よく調べられていたり、本もあったりするが、わりあい善政を布いたといわれる「初代」県令である大迫貞清やその他の県令・知事たちについては、当然のことながら、ほぼ無関心である。
(注2)・・・初代県令の大迫貞清もそうだが、時任為基も幕末維新期に名前の出てくる人物たちではない。戊辰戦争あたりで 頭角を現したのだろうか。
 大迫はのちに第4代警視総監、元老院議官、貴族院議員、沖縄県知事、鹿児島県知事等を歴任している。他方、時任は、高知県知事から静岡県知事となり、のちに愛知、大阪、宮城等の知事を歴任し、最後は貴族院議員で終わっている。

        

久光の「四天王」と奈良原繁(14)

2009-08-24 09:25:56 | 歴史
 戦後の歴史研究者が、戦前の皇国史観に基づいた伝記を書いた歴史家や、あるいは国家主義的なジャーナリストと位置づけられている蘇峰の書いたものなど参考にもならない(注1)、というのなら、自分で確認すればよい。
 町田氏も何の疑問もなく、8月26日の幕府からの急報により、その日静岡から急使として遣わされた松方正義の鹿児島到着が、翌月の閏8月28日と明記している。
 たとえ権威ある(?)『薩藩海軍史』にそう書いていたとしても、研究者なら当然奇妙だと思わなければならない日数のかかり方なのである。静岡から鹿児島までおよそ1ヶ月の32日かかるとは。そしてこれがもし事実なら、以後松方は久光の使者とはなり得なかっただろう。だが事実は、松方は繁と並んで久光の急使として何度も京と鹿児島を往復しているのだ。通常10日前後の日数を掛けて。早いときは、7、8日しか掛かっていないのだ。況や、駿府(静岡)から京都までさほど急がなくとも4,5日の旅程なのである。
 それゆえ、町田氏がこの8月26日の幕府からの通報を根拠に、「久光自身もいち早く帰藩し、備えざるを得なかったのは自明であろう」という結論に至ったのなら、多少修正する必要があるのではなかろうか。

 私は、町田氏のような優れた研究者の、取るに足らない小さな失点を見つけて得々としているわけではない。こんなことは、ある典拠を信じ、それを引用すれば、誰もが犯すミスにすぎないのだから。それに私などは、研究者があきれて相手にもしないほど大きなミスを犯している場合も多々あるだろうし、事実、最初のころはとんでもない勘違いをしていることも度々あった(注2)。
 とにかく、ここでは、鹿児島の外で鹿児島の歴史を見ている、かなり名のある研究者の中にも、鹿児島にいて鹿児島の歴史を見ている人たちが到底採用しない数字を、あまり検証もせず、やや異常な数字をそのまま採用していることがしばしば見受けられる、ということを指摘したかっただけである。ひとり町田氏のみならず。

(注1)・・・これらのことは、私のブログ・続「生麦事件」松方正義文書(7)<2009年・2月16日>から数日間にわたって解説しているので、読んでいない人は読んで戴きたい。
(注2)・・・私が鹿児島で古本屋をしていたおかげで、たとえば、常連客でのちに友人にもなった鹿児島大学の丹羽謙治氏のような人がたえず周りにいて、私の無知やミスを指摘し、修正してくれたのである。今でも感謝にたえない。
 

久光の「四天王」と奈良原繁(13)

2009-08-23 06:39:00 | 歴史
 少々脱線気味の話を元にもどそう。
 町田氏は、閏8月9日(注1)に入京した久光が僅か14日後の23日帰藩の途についた、と書き、このときの滞京を短期に終えた事由として、通説では久光東下時の状況と大きく相違し、長州藩や過激尊攘派廷臣が朝議を支配し、久光が企図する方向での公武合体は実現不可能な様相を呈しており、それに失望したためとされているが、それより、むしろ英国の動向に負うところが大きかったのではないかと、次の例を挙げている。
 すなわち、事件から5日後の8月26日、興津宿(おきつしゅく)を発った久光一行が、昼前駿府(静岡)に至ったとき、幕府から「英艦は或ひは直ちに鹿児島に向うやも知る可からず」と急報が届いたという『薩藩海軍史』の記録(?)を挙げていることだ。
 私も拙著を出した頃はこれを信じていた。しかしながら、独特の視点で幕末の薩摩藩士を語り、かつまた私が足元にもおよばないような卓抜な想像力と文章力の持ち主であるブロガー・郎女氏から、『松方正義関係文書』の存在を教えられ、それを読み解いていくうちに、これは無視してよい、という結論に至った記録なのである。
 おそらく、晩年にやや記憶が錯綜気味になった松方正義翁が、『薩藩海軍史』(注2)の執筆者に何とはなしに語ったことを、何の批判・検証もせず、書き留めたとしか思えない記録にすぎないのである。
こう断言するのは私だけではない。晩年の松方の指名で、かれの伝記資料をまとめた中村徳五郎先生も『侯爵松方正義卿実記』ではその事項をありえないとし、またのちに乾坤2巻2千数百頁にわたる『公爵松方正義傳』(昭和10年刊)を著わした徳富蘇峰翁も、この事項を無視しているのである。
 
(注1)・・・私の年表では7日に入京し、9日は朝廷に参内した日になっているが、7、8日と伏見に留まり、9日に「入京」し参内したということだろうか。
(注2)・・・郎女氏が力説していたように、この3巻にわたる厚冊の本は、薩藩海軍を賞賛するための書なのである。たしか、序文(冠頭文)は東郷平八郎元帥の兄である吉太郎中将が書いていたなあ。