次郎長を単なるヤクザの親分で終わらせなかったのは、幕末維新という大きな時代の変わり目にいたことだった。
その契機となったのは、慶応4年3月末、旅先の常住だった三河寺津(愛知県西尾市)から清水湊に戻っていた次郎長のところに、駿府町差配役判事伏谷如水(ふせやにょすい)から出頭命令が来たことによる。
これより前の3月5日、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひと)を大総督とする徳川慶喜追討軍が駿府に至ると、駿府周辺は事実上無政府状態になった。そこで追討軍は、尾張藩に続いていち早く勤王を表明していた浜松藩に、徳川幕府の駿府町奉行に代わって治安維持に当たるように命じていたのである。そしてその責任者として駿府に赴任してきた家老・伏谷如水(ふせやにょすい)は、不案内の地で自分の手足となって動いてくれそうな人物を探しているとき、次郎長を見出し、かれに白羽の矢をたてたのであろう。
博徒が二足のわらじをはくのを嫌っていた次郎長は、最初、固辞した。しかし伏谷は、次郎長の過去の罪状を挙げ、「天子様の新しい時代になったのだから、悔い改めて奉公せよ」と説得すると、ついに次郎長も「沿道警固役」を引き受けた。そして、この時点で過去の罪状もすべて帳消しにされ、破格の帯刀も許されたという。23歳の年に清水湊を離れ、旅から旅の26年、49歳でようやく、制度の内側へ、つまり再び表社会の一員になったのである。
ところで伏谷は、静岡藩の成立によって、同年6月末には離任して駿府を去っているが、次郎長がそのまま「沿道警固役」を続けていたのかどうか、私は知らない(注)。
ただその後、次郎長にまた別な表社会の勲章が加わる。
それは、8月19日、榎本武揚の率いる艦隊が品川沖を出港し、箱館へ向うことから始まった。その艦隊が、東京湾を出た直後の房総沖で台風に遭遇し、自力航行が出来ず、回天丸に曳航されていた咸臨丸の引き綱が切れ、咸臨丸はそのまま漂流し、9月2日、何とか清水湊に辿り着き、そこで修理をすることになった。ところが、それを知った新政府軍軍艦三隻によって、9月18日、咸臨丸は襲撃され、20人余(『太政官日誌』)が討ち取られ、海中へ投棄されたのである。
新政府軍の軍艦が去ったあとも、海中に投棄された遺体はそのままだった。賊軍に加担する者は厳罰に処す」というお触れのためだった。
困ったのは地元の漁師たちだった。遺体を網に引っ掛けて、代官所に引っ張られては漁が出来なくなる。そこで、かれらは次郎長に泣きついた。
次郎長は、その訴えを聴くとすぐさま若い者を集め、その日の夜の月明かりを利用して7名の遺体を収容させ、翌日、知り合いの住職の読経とともに鄭重に埋葬したのである。
(注)・・・田口英爾氏は、駿府藩が成立した7月以降も清水港の警固役を「自任」していた、と書いている。そうだとすると、「沿道警固役」は、伏谷の離任とともに解消していたのであろう。
その契機となったのは、慶応4年3月末、旅先の常住だった三河寺津(愛知県西尾市)から清水湊に戻っていた次郎長のところに、駿府町差配役判事伏谷如水(ふせやにょすい)から出頭命令が来たことによる。
これより前の3月5日、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひと)を大総督とする徳川慶喜追討軍が駿府に至ると、駿府周辺は事実上無政府状態になった。そこで追討軍は、尾張藩に続いていち早く勤王を表明していた浜松藩に、徳川幕府の駿府町奉行に代わって治安維持に当たるように命じていたのである。そしてその責任者として駿府に赴任してきた家老・伏谷如水(ふせやにょすい)は、不案内の地で自分の手足となって動いてくれそうな人物を探しているとき、次郎長を見出し、かれに白羽の矢をたてたのであろう。
博徒が二足のわらじをはくのを嫌っていた次郎長は、最初、固辞した。しかし伏谷は、次郎長の過去の罪状を挙げ、「天子様の新しい時代になったのだから、悔い改めて奉公せよ」と説得すると、ついに次郎長も「沿道警固役」を引き受けた。そして、この時点で過去の罪状もすべて帳消しにされ、破格の帯刀も許されたという。23歳の年に清水湊を離れ、旅から旅の26年、49歳でようやく、制度の内側へ、つまり再び表社会の一員になったのである。
ところで伏谷は、静岡藩の成立によって、同年6月末には離任して駿府を去っているが、次郎長がそのまま「沿道警固役」を続けていたのかどうか、私は知らない(注)。
ただその後、次郎長にまた別な表社会の勲章が加わる。
それは、8月19日、榎本武揚の率いる艦隊が品川沖を出港し、箱館へ向うことから始まった。その艦隊が、東京湾を出た直後の房総沖で台風に遭遇し、自力航行が出来ず、回天丸に曳航されていた咸臨丸の引き綱が切れ、咸臨丸はそのまま漂流し、9月2日、何とか清水湊に辿り着き、そこで修理をすることになった。ところが、それを知った新政府軍軍艦三隻によって、9月18日、咸臨丸は襲撃され、20人余(『太政官日誌』)が討ち取られ、海中へ投棄されたのである。
新政府軍の軍艦が去ったあとも、海中に投棄された遺体はそのままだった。賊軍に加担する者は厳罰に処す」というお触れのためだった。
困ったのは地元の漁師たちだった。遺体を網に引っ掛けて、代官所に引っ張られては漁が出来なくなる。そこで、かれらは次郎長に泣きついた。
次郎長は、その訴えを聴くとすぐさま若い者を集め、その日の夜の月明かりを利用して7名の遺体を収容させ、翌日、知り合いの住職の読経とともに鄭重に埋葬したのである。
(注)・・・田口英爾氏は、駿府藩が成立した7月以降も清水港の警固役を「自任」していた、と書いている。そうだとすると、「沿道警固役」は、伏谷の離任とともに解消していたのであろう。