海鳴記

歴史一般

奈良原家の怪(補遺2)

2013-11-15 10:51:15 | 歴史
                     (補遺2)
 それなら、その本籍地を変更したということはどういうことなのだろうか。それも鹿児島市内で。
変更した新しい本籍地は、おそらく実際に引っ越した場所なのだろうが、この高麗町というのは、喜左衛門や繁が生まれた地区だった。ただ、繁は明治になって、代々の土地を受け継つがなかった。繁がのちに屋敷を構えたのは、生家から通りを隔てた広大な土地に、だった。おそらく、西南戦争中に生家が焼き討ちや略奪にあったからだろう(注1)。もう懐かしむ土地ではなかった。
 ただ、雅雄が移動した本籍地は、すでに沖縄県知事を辞め、鹿児島の繁の屋敷とはそれほど離れていなかった。だから、ひょっとすると、繁が引き寄せたのかもしれない。もちろん、これもよくわからない。単なる偶然だったかもしれない。しかしながら、奈良原雅雄は、繁が亡くなった六年後の大正十三年、彼の最終の地となる東京に本籍地を移している。これも、本籍地のみならず住所も移動したということだろう。

 さて、彼にはセツとの間に三人の息子と二人の娘がいた。だから、すでに東京に住んでいた長男や次男の所を頼って移ったのだろう(注2)。どちらにせよ、彼には、鹿児島に骨を埋める何の理由もなかったのである。
奈良原雅雄は、東京に移った二年後の大正十五年(1926)に亡くなっている。享年七十一だった。
 
 なお、奈良原繁の本籍地は、鹿児島市高麗町百七十六番地だった。これと同じ本籍地をもっているのは、繁の孫娘である三次の娘の緑子である。戦後、結婚もしないまま亡くなったと思われる緑子の墓が、どこにあるのか、私は知らない。

(注1)・・・西南戦争中、大久保派あるいは彼に与する側とみなされた者の家は大なり小なり焼き討ちや略奪にあった。
(注2)・・・新潟の隼雄の子孫氏によれば、隼雄と雅雄の家族とはその後も関係を保ったという。それどころか、隼雄は義弟たちの教育費等の経済的援助もしていたようだ。軍人になったセツの長男は、隼雄の家を訪問しているという。


奈良原家の怪(補遺1)

2013-11-13 14:13:06 | 歴史
                   (補遺1)
 やや結論を急ぐあまり、話を飛ばしてしまっていたので、ここで「補遺」という形で記録しておきたい。奈良原雅雄の履歴に関してのことである。
 私は、奈良原トミの戸籍抄本を入手した際、原田雅雄の本籍地を知った。それが新潟の郡部であることは既に述べた通りだが、私は、何とかその子孫氏も探りあてることができたのである。
その子孫氏は、雅雄と中山ハナとの間の男児・隼雄の直系だった。これはどういうことかというと、雅雄は、明治十九年、谷山の橋口平六の三女・セツと結婚した。ところが、前年に中山ハナとの間に隼雄をもうけていたので、隼雄はセツにとっては継子だった。そして、セツは翌年、彼女の初めての子である輝雄を生んだ。このことが契機なのかどうかわからないが、どうもセツが隼雄をいじめていたらしい。いわゆる継子いじめである。それを見かねた周囲が、明治二十七年、雅雄の新潟の実家に養子に出したという。実家のほうもそれを受け入れたのは、雅雄の兄夫婦に子供がいなかったからのようである。だから、私がコンタクトをとり、その方の好意から除籍謄本を入手したのは、隼雄の子孫氏なのであった。
 私は、この子孫氏に辿りつくまで、何軒かの原田家にあたっていた。抄本の住所と現在の住所が大きく違っていたので、最初どの原田家なのか皆目見当がつかなかったからである。しかしながら、百年以上も前の話を近所の人たちはよく語り伝えていた。その地域では、それほど印象に残る養子入りだったようである。
 それもそうだろう。槍持ちこそ先頭を飾らなかっただろうが、一面に田んぼが広がる中を、行李や荷物を担いだ何人もの男たちに守られながら、奈良原隼雄は原田家に入って行ったのだから。近隣には、大臣さま(注1)の隠し子ではないかなどという噂もたったという。大臣云々はともかく、これらの語り伝えは、当時の鹿児島ではまだまだ武士(士族)の威風が残っていたという証左でもあろう。
 とにかく、継子の問題はこれで終わった。では、その後の雅雄はどうなったのだろうか。
 隼雄が養子に行った五年後の明治三十二年(1899)、雅雄の謄本には、東京市牛込区××から、奈良原トミが所有していた鹿児島市樋之口町四十七番地へ転籍(注1)、とある。これはどういうことだろう。雅雄は、鹿児島へ移って、結婚した後もいわば現住所は東京においたままだったということだろうか。そう判断するしかないが、それならやはり奈良原トミ所有の土地を譲り受けることが、雅雄が鹿児島に移った最大の理由になるのではないだろうか。
 ところが、大正元年(1912)、今度は樋之口町の土地を手離しているのである。これは旧土地台帳にある記述で、戸籍の記載ではない。
 東京から鹿児島へ住所移動した次に戸籍に書かれているのは、大正二年に、鹿児島市樋之口町四十七番地から高麗町十九番地へ本籍地の変更届である。ということは、明治三十二年の転籍というのは、本籍地の変更だったのだろうか。
 どちらにしても、ますますトミさんの跡を継ぐことが鹿児島へ移ることの前提だったことは変わらない。現住所移動より本籍地移動のほうがより重い意味を持つだろうから。

(注1)・・・正確には大臣とは言わなかったが、何という語彙だったか忘れてしまった。ともかく、背後に当時沖縄県知事だった奈良原繁の名前が浮かんでしかたがなかった。

奈良原家の怪(6)

2013-11-11 13:57:32 | 歴史
                       (6)
 明治十七年、奈良原繁が養子にした櫻田太吉少年が一人戸籍だったように、奈良原トミもそうだったのだ。だから、それ以前の関係を辿れなかったのは当然といえば当然であろう。ただ、太吉少年の場合、「廃家名」にできたが、トミの場合、それはできなかった。なぜなら、奈良原喜左衛門の家名を残すために原田雅雄を養兄にしたのだから。それほど、繁は兄・喜左衛門に何かを負っていたのだ。その何かというのは、自分のために兄が犠牲になったことに対する終生の負い目である。より具体的にいえば、本当は自分がリチャードソンに切り付けた「犯人」なのに、それが不問にされ、兄・喜左衛門のみが責任を負わされたということである。兄・喜左衛門があの行列の当番供頭だったというだけで。
 実際、生麦事件関係の喜左衛門犯人説の文献を読んでみるといい。兄・喜左衛門は久光の駕籠周りにいて警護していたという(注1)。だが、数十メートル(十数メートルでもよい)先の異変に気づいた。もし、その異変というのが、多くの文献にあるように、リチャードソンが馬の踵を返そうとしていた混乱のことをさしているのならば、奇妙なことなのだ。なぜなら、駕籠の前方にはやや列を乱し始めた二、三十人の小姓組がいるのである。喜左衛門はそんな中をまだ踵を返していないリチャードソンのところへ二、三秒(五、六秒でもよい)で辿りつけるだろうか。せいぜい二、三間(3.6~4.8メートル)の道幅なのだ。
 私は無理だろうと考えている。誰かが小姓組の前にいて、リチャードソンの動きを見ていて斬りつけたのだ。その合図は、行列の責任者である喜左衛門が抜刀して近づいて来るのを見たからだろう。単なる供目付だった喜八郎(繁の当時の通称)は、小姓組の先頭にいた(注2)。そして、兄が近づいて来るのを見たから、斬り捨て御免の許可が下りたのだと判断し、リチャードソンに襲いかかった。

 もちろん、これらはあくまで私の想像にすぎない。しかしながら、私が奈良原繁を追えば追うほど、これらの想像を許すさまざまな証拠や状況証拠が出てきては私を悩ませている。それゆえ私は、嘘偽りなく、もう私の想像を拒否する証拠が出てきてくれないか、とすら思っている。

(注1)・・・松方正義もその近くにいた。彼は、周りが騒いでいたのにも関わらず、泰然自若として駕籠のそばを離れず、のち久光から褒められた。
(注2)・・・どの文献にも奈良原繁が行列のどの辺りにいたのか誰も書いていない。まるで、繁の存在を意図的に消しているかのように。同じく供目付だった海江田信義が行列の先頭で、最終的にリチャードソンに止めを刺したことをいやというほど書いているのに。



奈良原家の怪(5)

2013-11-09 16:08:25 | 歴史
                      (5)
 結論から先にいえば、まだまだわからないことが多いものの、かなり強い線が引けてきたと言っていいように思える。
 私は、最初に旧土地台帳で奈良原トミと原田雅雄を知り、何とかトミの戸籍を入手しようと考え、市役所に日参したことがあった。ただ、これは簡単なことではなかった。しかしながら、何とかトミの戸籍抄本だけは入手できた。そこには、奈良原トミの「辞戸主」により原田雅雄が「養兄」として入籍したとあり、トミは「養妹」となっているのである。これには、参ってしまった。雅雄とトミが結婚し、夫婦となり、4ヶ月後にトミ名義の土地を雅雄名義に変えるのなら話はわかるが、兄妹関係なのである。さらに不可解なのは原田雅雄の本籍が新潟だったことだった。これらは一体どういうことなのだろうか。
 私は、最初から奈良原トミは喜左衛門の娘の一人ではないかと想定していた。そして、実際の養い親は奈良原繁だろうと。なぜなら、喜左衛門の娘たちにはもう両親がいなかったのだから。またそうでなければ、トミは鹿児島市内に百七十余坪の土地所有など叶わなかっただろう。さらに繁は、東京で見込んだ男を鹿児島に送り、彼女と結婚させる(注1)ことで、喜左衛門夫婦に義理を果たしたのだろう。結婚など奈良原家に養子に入ったあとでもできるし、もし結婚できない理由があったとすれば、トミに何らかの障害があったからではないか、と。
 しかしながら、これらの想像は、何度も述べたように奈良原雅雄の戸籍を入手してから一頓挫してしまった。原田雅雄が結婚したまま奈良原家に入籍したとはどういうことか、皆目見当がつかなくなってしまったからだ。さらに、奈良原トミの養い親のことも。
 ただ、今回、鹿児島にやって来た原田雅雄の最初の拠点が谷山だったこと、また繁が谷山と深いコネクションがあることがわかったことなどを考慮すると、やはり、偶然としてはでき過ぎていることを否定できないのである。さらに、以前ほとんど考えもしなかった「辞戸主」とは一体何を意味するのだろうか。

(注1)・・・新潟出身の平民が、鹿児島で士族の娘と結婚するということは、抵抗があったに違いない。ところが、奈良原雅雄の鹿児島での身分は、役人なのである。明治二十四年の官員録に、「六等上」と記載されているのである。これは、背後にかなりの有力者がいなければありえなかったし、役人なら士族と同等と考えてもいい。


奈良原家の怪(4)

2013-11-07 15:32:33 | 歴史
                        (4)
 奈良原喜左衛門に娘がいる可能性は充分にあった。喜左衛門は若くして出仕し、嘉永三年(1850)の二十歳のときに、いわゆる「お由良騒動」に関わり、慎み、役障(やくさわり)という罰を受けている。その後、罪が許され、安政二年(1855)には江戸詰めだった。こういう経歴から判断すれば、彼は結婚していた可能性は充分ある。奈良原助左衛門家の長子でもあったのだから。そうだとすれば、男児が生まれている可能性もあったが、これは考えられない。
 なぜなら、もし喜左衛門に男児がいたら、その子供が跡を継ぐことになり、その子孫がいたはずだからである。また、あいまいな系図を持ち出して娘(女児)の子孫だなどと名乗る人物もいなかっただろう。この推測は、最終的に奈良原繁の除籍謄本を入手したときに証明されている。
それには、弟の繁が助左衛門家を継いだことになっていたからである。つまり、喜左衛門に男児がいたら、おそらく独立していた繁が父親の跡を継ぐことはなかったのだから。
 鹿児島の奈良原家の墓には、喜左衛門の墓もある。それには、彼の妻であるヒロの名前も並んで彫ってある。墓に向かって左側面には、喜左衛門が慶応元年(1865)閏五月十八日に京都で亡くなり、その頭髪の一部をここに葬る、とある。ところが、右側面には、ただ文久二年(1862)十月二日と彫ってあるだけなのである。妻ヒロの名前も、「没」など何も彫られていないのだ。しかしながら、どう見てもヒロの没年としか考えられないのだ。
 だとすれば、ヒロは幼い女児を遺して死んだと考えるしかない。そして、夫の喜左衛門はその三年後に。
とにかく、喜左衛門夫婦に子供がいたとすれば、男児ではなく女児であった。そして、可能性とすれば、二人。というのは、実際に喜左衛門の子孫だと名乗る人たちが二家系あったからである。一つは、本を出すほどの情熱をもって訴えている家系。もう一つは、奈良原雅雄の子孫の家系(注1)。
 そうだとすれば、奈良原雅雄は元々奈良原家とは関係がないのだから、雅雄に土地を譲った奈良原トミが喜左衛門の娘だった可能性を否定できないのである。だが、当時喜左衛門夫婦は、すでにこの世にいなかったのだから、一体誰が親代わりになっていたのだろうか。
そして、それが私の最初からの追及課題だったこと、さらにそれに奈良原繁を想定していたことは、最初の本でもすでに触れている。
 それなら現在、それがより確実になったと言えるだろうか。
(注1)・・・このご子孫の方とは、接触できなかった。なぜかよくわからないが、頑なに拒否されてしまった。

奈良原家の怪(3)

2013-11-05 15:48:55 | 歴史
                    (3)
 一体、これらのことは何を意味しているのだろうか。
 まず、結婚三年にしてなぜ原田雅雄は、本田家の養嗣子になったのか。そして、またすぐに手のひらを返すように奈良原家の養嗣子になったのか。本田家の養嗣子より奈良原家のそれのほうがいい条件だったからだろうか。それならなぜ本田雅雄から奈良原雅雄ではなく、原田雅雄のまま奈良原家の養子になったのだろうか。
 考えられるのは、実際に本田家の養嗣子の件を承諾し、戸籍手続きはとったものの、なんらかの事情でそれを破棄したということではないだろうか。もちろん、なんらかの事情というのは、正式に本田家に入る前に、奈良原家の養子の口が舞い込んだということだろう。それを物語るのは、本田家への養嗣子年月日は、明治二十二年十二月九日と記載されているのに、奈良原家への入籍は翌年の三月二十六日となっているからである。つまり、本田家から奈良原家へ移る期間が短すぎるのだ。だから、実質的にも正式にも本田家に入らず、そして戸籍手続きはとっていたものの、それを正式に破棄する前に、奈良原家を継いだということだろう。
 ただ、実際はどうだったのかわからない。そういう経緯が記載されていないからだ。わかっているのは、本田雅雄から奈良原雅雄になったのではなく、原田姓から奈良原姓になったということだけである。
私が最初に原田雅雄こと奈良原雅雄の名前を目にしたのは、奈良原トミからであった。私は、鹿児島市内の奈良原家を、最初は幕末期の城下絵図や墓地、明治以降は、主に旧土地台帳を探ることで確認していった。幸いにも、後者はかなり残っており、また閲覧も自由だった。そして、そこで私は、奈良原トミと出合ったのである。
 その台帳には、明治二十三年七月二十六日付けで、鹿児島市内の土地百七十四坪を奈良原雅雄に譲渡したことが記載されていたのであった。それから私は、この土地の所有者であった奈良原トミと同時に、原田姓から奈良原姓に変わった雅雄なる人物に興味を持ち探っていった。
 まず私は、トミという女性は喜左衛門の娘の一人ではないかと疑った。というのも、喜左衛門の娘の子孫という人物が鹿児島の郡部に存在し、喜左衛門に関する本も出していたからであった。もっとも、その本に書かれてあった系図そのものがどうも怪しかった。というより、断定はできないが、どうも別な奈良原姓の家系から出た娘のようだった。しかし、どちらにせよ、喜左衛門の子孫だと名乗る子孫は他にもあったので、トミさんはそちらの系列の可能性があったのである。

奈良原家の怪(2)

2013-11-04 15:10:22 | 歴史
                   (2)
 その関わりの一つが、前々章でも触れたように、安積疎水の責任者だった時代、彼は谷山出身の農業指導者である塚田喜太郎という人物を福島に呼び寄せたことだった。明治十三年のことである。そしてもう一つは、谷山出身の奈良原一郎という人物との関わりである。繁はこの人物に自分と西洋人との間の子供を預け、明治十八年、屯田兵家族として北海道に渡らせたのであった。
 では、これらのことと原田雅雄、すなわちのちの奈良原雅雄とどんな関係があるのかというと、彼は、東京から鹿児島に移った際、最初に居を構えたのは谷山だったのである。
 私は、奈良原家関係の除籍謄本を入手したとき、奈良原トミの前を辿れなかったことと、原田雅雄がなぜ最初谷山に居を構えたのかわからなかったので、その追及を放棄したのであった。しかし、奈良原繁が谷山に深いコネクションがあったら話は別である。
 ところで、原田雅雄とはどういう経歴の持ち主なのか。まず、それを追ってみよう。
 原田雅雄は、安政二年(1855)新潟のある郡部の農村地帯に生まれた。原田××家の二男として、である。当然、農民の子供としてあろう。農家の二男としては家を継ぐわけにはいかなかったので、東京に出た。いつ頃かはわからないが、江戸ではなく文明開化がはじまりつつある東京だっただろう。
 ところが、明治十九年八月二十六日、彼は鹿児島郡塩屋村(現在の鹿児島市谷山地区)の橋口平六の三女セツと結婚しているのである。もちろん、鹿児島の地で。それが明白なのは、戸籍簿には東京から鹿児島に住所を移していることが書かれているからである。と同時に、彼は前年の明治十八年八月二十一日、中山ハナとの間に生まれた隼雄という子供を長男として届けている。
ただ中山ハナがどんな女性か全くわからない。東京で一緒だった女性なのか、結婚していたのか。最低限想像できるのは、子供を生んだあと亡くなった可能性が高いということだろう。だから、赤ん坊を抱えた雅雄を気の毒に思い、誰かが橋口家を紹介し、そこの娘と結婚させたのかもしれない。
さて、原田雅雄が橋口セツと結婚しても原田姓に変わりがないのは当然だが、結婚の三年後の明治二十二年、雅雄は同じ谷山地区の本田某の養嗣子になっている。ということは、今度は本田家に養子に入り、その跡継ぎになったというわけだ。だから、当然本田姓を名乗ると思いきや、翌年には奈良原姓になっているのである。
 戸籍の記載によれば、明治二十三年三月二十六日、「奈良原止美(トミ)辞戸主により、雅雄(当時三十五歳)が、奈良原家に入籍、相続」とあるのである。
そして、同年七月二十六日付けで、鹿児島市樋之口(てのぐち)町にある百七十四坪の土地の名義を奈良原トミから奈良原雅雄に変更(更正)している。


奈良原家の怪(1)

2013-11-03 12:54:05 | 歴史
                (1)
 今回、ややキワモノめいた題で整理しておこうと思ったのは、前回及び前々回からブログを更新する度に、私の脳裏にある人物の名前が浮かんできては消え、消えては浮かんでくるということが起こり、ややフラストレーションが溜まってきたからだ。だからといって、気楽にこの人物の名前を出すことは、憚られた。その最大の理由は、情報量が限られていたからである。そして、その限られた情報から推測に推測を重ねることは、危険過ぎるし、ある意味で子孫氏のプライバシーを侵しかねないとも考えていたからだ。
 ただ今回、ある事実が掘り出されたことによって、限られていた情報に新しい突破口が開かれ、危険やプライバシーを凌駕するようになってしまった。さらに、こういう歴史的事件を追えば追うほど、個人的にそれを追う時間が限られていることも痛切に感じるようになってしまった。だから、このブログを読んでいる人たちにも、この探求に加わってもらいたいという意味もこめて、思いきって整理しようと考えたのである。
 前置きが長くなってしまった。とにかく、話を進めよう。私が奈良原喜左衛門と関係があると推測していた奈良原雅雄(注1)という人物のことである。
 私は、最初の本でこの人物の名前を出してから、それ以後、この人物に関しては一切言及するのをやめてしまっていた。ある一点で情報が閉じてしまったからであった。というのも、もともと原田姓の雅雄が、奈良原姓に変わったときに出て来る奈良原(止美)トミという女性の親が誰なのかわからなかったからだ。
最初の本を出したあと、私はある協力者のおかげでかなりの除籍謄本を入手(注2)したことがあった。ところが、奈良原トミ以前の戸籍はすでに抹消されており、奈良原トミの親がだれなのか一切追及できなくなったのである。つまり、雅雄の養妹として記載されていたトミは、喜左衛門系列の娘なのか、あるいはそれらとも関係のない他の奈良原家の娘なのか永久にわからなくなってしまったのだ。残念無念としかいいようがなかった。 (注3)
それなら、なぜ今回もう一度私の脳裏に奈良原雅雄の名前が浮かんだり、消えたりしたのか。それは、奈良原繁が谷山(現在は鹿児島市)と深い関わりがあることがわかってきたからである。

(注1)・・・歴史上の人物とは言い難いし、そのご子孫氏もいることだから、敬称を付加すべきだが、過去(墓碑名)の人物としてそれを省かせていただく。ご了承願いたい。
(注2)・・・合法的であることをお断りしておく。
(注3)・・・これは番外(注)だが、前章で奈良原繁の二女のトキは、繁の除籍謄本に記載されていないと書いてしまったが、私の確認ミスだった。結婚せずに病死したためか、抹消はしていなかった。生年は記載されていなかったが、死亡年月日はあったことをお断りしておく。