(補遺2)
それなら、その本籍地を変更したということはどういうことなのだろうか。それも鹿児島市内で。
変更した新しい本籍地は、おそらく実際に引っ越した場所なのだろうが、この高麗町というのは、喜左衛門や繁が生まれた地区だった。ただ、繁は明治になって、代々の土地を受け継つがなかった。繁がのちに屋敷を構えたのは、生家から通りを隔てた広大な土地に、だった。おそらく、西南戦争中に生家が焼き討ちや略奪にあったからだろう(注1)。もう懐かしむ土地ではなかった。
ただ、雅雄が移動した本籍地は、すでに沖縄県知事を辞め、鹿児島の繁の屋敷とはそれほど離れていなかった。だから、ひょっとすると、繁が引き寄せたのかもしれない。もちろん、これもよくわからない。単なる偶然だったかもしれない。しかしながら、奈良原雅雄は、繁が亡くなった六年後の大正十三年、彼の最終の地となる東京に本籍地を移している。これも、本籍地のみならず住所も移動したということだろう。
さて、彼にはセツとの間に三人の息子と二人の娘がいた。だから、すでに東京に住んでいた長男や次男の所を頼って移ったのだろう(注2)。どちらにせよ、彼には、鹿児島に骨を埋める何の理由もなかったのである。
奈良原雅雄は、東京に移った二年後の大正十五年(1926)に亡くなっている。享年七十一だった。
なお、奈良原繁の本籍地は、鹿児島市高麗町百七十六番地だった。これと同じ本籍地をもっているのは、繁の孫娘である三次の娘の緑子である。戦後、結婚もしないまま亡くなったと思われる緑子の墓が、どこにあるのか、私は知らない。
(注1)・・・西南戦争中、大久保派あるいは彼に与する側とみなされた者の家は大なり小なり焼き討ちや略奪にあった。
(注2)・・・新潟の隼雄の子孫氏によれば、隼雄と雅雄の家族とはその後も関係を保ったという。それどころか、隼雄は義弟たちの教育費等の経済的援助もしていたようだ。軍人になったセツの長男は、隼雄の家を訪問しているという。
それなら、その本籍地を変更したということはどういうことなのだろうか。それも鹿児島市内で。
変更した新しい本籍地は、おそらく実際に引っ越した場所なのだろうが、この高麗町というのは、喜左衛門や繁が生まれた地区だった。ただ、繁は明治になって、代々の土地を受け継つがなかった。繁がのちに屋敷を構えたのは、生家から通りを隔てた広大な土地に、だった。おそらく、西南戦争中に生家が焼き討ちや略奪にあったからだろう(注1)。もう懐かしむ土地ではなかった。
ただ、雅雄が移動した本籍地は、すでに沖縄県知事を辞め、鹿児島の繁の屋敷とはそれほど離れていなかった。だから、ひょっとすると、繁が引き寄せたのかもしれない。もちろん、これもよくわからない。単なる偶然だったかもしれない。しかしながら、奈良原雅雄は、繁が亡くなった六年後の大正十三年、彼の最終の地となる東京に本籍地を移している。これも、本籍地のみならず住所も移動したということだろう。
さて、彼にはセツとの間に三人の息子と二人の娘がいた。だから、すでに東京に住んでいた長男や次男の所を頼って移ったのだろう(注2)。どちらにせよ、彼には、鹿児島に骨を埋める何の理由もなかったのである。
奈良原雅雄は、東京に移った二年後の大正十五年(1926)に亡くなっている。享年七十一だった。
なお、奈良原繁の本籍地は、鹿児島市高麗町百七十六番地だった。これと同じ本籍地をもっているのは、繁の孫娘である三次の娘の緑子である。戦後、結婚もしないまま亡くなったと思われる緑子の墓が、どこにあるのか、私は知らない。
(注1)・・・西南戦争中、大久保派あるいは彼に与する側とみなされた者の家は大なり小なり焼き討ちや略奪にあった。
(注2)・・・新潟の隼雄の子孫氏によれば、隼雄と雅雄の家族とはその後も関係を保ったという。それどころか、隼雄は義弟たちの教育費等の経済的援助もしていたようだ。軍人になったセツの長男は、隼雄の家を訪問しているという。