海鳴記

歴史一般

日本と英国の出会いー薩英戦争まで

2023-07-13 10:42:44 | 歴史

            (13)薩英戦争までの英国人死者は24名

 ラザフォード・オールコックは、最初の襲撃事件後、日本人警備兵は信用できないと訴え、自国の水兵をも配置することにした。しかし、そう言いながら、その後公使館を横浜に移した。そして、翌年2月には賜暇で帰国している。その代理としてニール陸軍中佐がなった。ところが、ニール代理公使は、再び、東禅寺に公使館を移している。理由はよくわからない。それから、それほど日が経たない、5月29日、警備をしていた松本藩士が、同じく警備をしていた英国兵2名を斬り殺すという第二次東禅寺事件が起こったのである。

 また、この3か月後の8月21日(陽暦9月15日)、薩摩藩による英国人殺害事件が起きている。川崎宿と神奈川宿の間にある生麦村でのことだった。薩摩藩の行列に巻き込まれた英国商人の一人が殺害されたのである。

 この一報は、横浜居留外国人たちをいきり立たせたが、英国代理公使のニールは懸命に宥(なだ)め、その報復を止(とど)めた。それが賢明な判断だった。当時の薩摩藩は攘夷気分が圧倒的に強かったし、もし、居留民が発砲でもしていたら、収拾のつかない事態を招くのは必定だった。ともかく、騒乱には至らず、薩摩藩も翌朝早く帰路に着いた。

 ただ、この約1年後、薩英戦争が起こる。薩摩藩は、前年の生麦事件で犯人も出さず、賠償金も支払おうとしないので、業を煮やした英国側が2、400トンの旗艦ユーリアラス号を含む軍艦7隻で鹿児島湾に押し寄せたのである。  

 英国側はペリーに倣(なら)い、軍艦を背景に犯人引き渡しと賠償金をせしめればそれで充分だったが、そうはならなかった。英国側が、鎌倉以来の武士集団を刺激してしまったからである。そして、結果を先に言ってしまえば、英国側は、砲台に接近してしまっていたことと、荒天のため、思うように身動きができなかったこともあり、最初の戦闘で、ユーリアラス号の艦長と副長を含む20名の死者、50数名の負傷者を出してしまったのである。それに対して薩摩藩側は、3日間の戦闘で5名の戦死者と9名の負傷者のみだった。

 これは戦傷者という点からだけ見ると、英国側にとって、異常に多い数字である。たとえ、戦闘準備もしておらず、また悪天候のような偶然があったとしても、薩摩藩の台場からの大砲は、爆発もしない旧式の玉が発射されただけなのだ。一方、英国艦には最新式のアームストロング砲という火砲が装備されていたにも関わらず、である。とにかく、最初から大英帝国の軍艦7隻が何の脅しにならなかったと言えよう。当然、英国側に油断があった。それは、清国での安易な勝ち戦(いくさ)がそうさせたのかもしれない。どうも英国は、日本が武士社会であることをすぐ忘れてしまうようだ。それはおそらく、最初、緩い徳川政権と接触して来たからかもしれない。なるほど、江戸期は、戦争に明け暮れていたヨーロッパなどと違って、この上なく平和で安定していた社会だった。しかし、それは主として徳川の直轄地や譜代大名領地の話である。

 たとえば、関ヶ原で豊臣方についた外様藩は、戦争こそなかったものの、何かしら戦国期の遺風や形態を持ち続けることを強いられていた。例えば、薩摩藩などはその典型で、肥大化した戦国期の武士団を解体することなく、藩内各地に居住させたため、江戸期を通して25%の武士層を維持せざるを得なくなってしまったのである。そして、江戸幕府が強いた参勤交代の制や幕府領の治水事業を負担(補足6)させられるなど、武士層の50パーセントほどが無俸禄社会ではその厳しさは推して知るべしだろう。とにもかくにも、鎌倉から続く武士の矜持のみで生き抜いてきたと言っても決して過言ではない。

 ここで一つ、幕末期の薩摩藩士の象徴的な例を挙げてみよう。

 文久2(1862)年8月15日、生麦事件が起こる4か月ほど前、幕政改革を求めて上京した島津久光一行が京に着いて間もなく、藩内の攘夷過激派で大坂に留められていた有馬新七らが、暴挙を起こすという話が久光の耳に入った。そこで、彼らを説得するよう大久保らを派遣すると、有馬らは大久保らの前では納得する素振りを見せた。しかし、それはうわべだけで、その後彼らは大坂を出発し京に向かう。京都所司代などを襲撃するためだった。これを有馬新七の上司だった永田佐一郎という人物が止められなかった。そのため彼は責任を感じ、大坂の藩邸で自刃してしまったのである。 

 この永田という人物はそれほど地位の高い人物ではない。せいぜい什長(十人組の長)辺りだった。彼が有馬を説得できなかったからと言って、上から責任をとらされたわけでもない。しかしながら、平和な時代と呼ばれる江戸期とは異質な空間で生きて来た武士たちに、鎌倉・戦国期の気風を失わせることはなかった。

 おそらく、英国側も、この戦争で、徳川幕府とは全く異質な気風を感じ取ったに違いない。

 結局、薩摩藩側もアームストロング砲による多大な物的損害を被(こうむ)った。その結果、藩上層部は攘夷の無謀さに気づき、以後英国に接近するようになったのである。英国側も江戸幕府とは違った、かつて経験したこともない果敢な武士集団に一目置くようになり、交渉のテーブルに向かうことになった。この一目置くという意味は、生麦事件以来、死者への賠償金と犯人引き渡しが英国側の絶対条件だったのに、薩摩藩側が犯人引き渡しを最後まで拒否したことで英国側も妥協させられてしまったのだ。より具体的にいえば、英国側は、犯人引き渡しという条件を薩摩藩側の強硬さのため、ウヤムヤにさせられてしまったということなのである(補足7)。

 この時の薩摩藩は、幕府に対しても強気だった。英国に支払うと約束した賠償金を支払わせているのだから。

 (補足6)宝暦4(1754)年2月、幕府より木曽三川(長良・揖斐・木曽川)の改修工事を命じられた薩摩藩は、千名ほどの藩士を送り込んだ。そして、翌年の5月の工事完了まで、幕府役人の嫌がらせや計画変更などで工事費用がかさんだこともあり、51名の自害者、33名の病死者を出した。鹿児島では、この事実を明治半ば過ぎまで封印していた。

(補足7)薩英戦争後、計4回の講和談判が開かれたが、3回目で、薩摩藩は、賠償金、生麦事件の下手人捜査を約束した。そして、最後の4回目で、賠償金と犯人処刑を約した証書を取り交わして終了した(『鹿児島県史』第3巻)。ところが、賠償金は支払われたが、薩摩藩は犯人処刑などした記録はないし、英国側もこのことに関して以後何も訴求していない。ということは、どちらも記録に残さない、裏交渉があった、と私は確信している。何度も強調してきたが、英国は「国益のため」に何でもすると宣言して憚らない国なのである。


コメントを投稿