海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(54)

2010-08-19 08:07:12 | 歴史
 この投降に加わった分隊長以下は、知行高を取り揚げ、家屋敷を没収すること。押伍四役場は知行取り揚げで、三官も同様であること。また、分隊長、三官、押伍、四役場は、男子15才以上60才まで捕縛し、禁固に処すこと。伍長より兵士は、男子15才以上60才まで親子兄弟まで含めて座中謹慎すること。従卒は門高取り揚げのこと。
 以上の布達で、蒲生郷は「大混雑ヲ来セリ」と、野添日記は結んでいる。

 私は、四役場とか三官というのがどういう地位の兵士なのかよくわからないが、この赤塚源太郎らの隊の投降は、蒲生郷の関係者にも衝撃を与え、大混乱に陥ったことは想像に難くない。もっとも、この布達を出した薩軍にとっては、それ以上に衝撃的なことだったし、怒り心頭に発する一大事だった。
人吉本営もジリジリと追い込まれていたといえ、まだまだ薩軍やその他の地域から参戦した兵士たちの志気は高かった。それにも拘らず、最初に身内から脱落者を出してしまったのだから。

 この後の野添日記は、野添本人もこれにショックを受けたのか1ヶ月ほど空いた旧5月12日、新暦の6月22日から始まる。この日は、あの『帖佐村郷土史』でも繰り返し、繰り返し強調された日、帖佐の医師である岩爪隆助なる者が青駕篭に乗せられて連れ去られ、処刑された日でもある。いや、事実は、官軍が重冨に上陸した日であった。
 この日、この戦いのためか、即刻、蒲生郷士族26人が帰隊した、と書いている。おそらく、野添もかなり傷が癒えていたのだろう。翌日、仲間とともに出発し、その日、溝辺の石原町に泊った。さらに翌日、湯ノ尾の雷撃給養所に立ち寄ると、溝辺から3里離れた本城という所に本営があると聞き、そこで帰隊の届けを出した。すると、辺見(十郎太)より一両日休息せよ、といわれている。
 その2日後の6月26日。この日、本営から出頭を命じられ、十一番雷撃隊の給養方に配属され、すぐ前田へ宿舎を調達に出掛けた。
 こうして、重冨とは反対に内陸の方を日向路に向って転戦することになるが、この過程の7月1日に、これもまたその地の郷土史に記載されていないと思われる記事があった。