海鳴記

歴史一般

日本と英国の出会いー薩英戦争まで

2023-07-10 14:04:19 | 歴史

                     (12)開国以降 

 安政元(1854)年1月16日、ペリーが再来。老中・阿部正弘が選んだ幕府側全権の林大学頭との交渉で、最終的に、通商を除いた、漂流民保護、薪水給与、下田・箱館の開港という和親条約を結ぶことになる。ここで、林の外交交渉が評価されるようになったことは以前述べたが、逆に言えば、日本語版望厦条約を結べなかった軍人ペリーの力量不足だった。幕府との扉を開けたことは間違いないものの、日本を去ったペリーは、琉球王国に寄り、そこでは日本では果たせなかった望厦条約日本語版(修好条約)を結んで帰国したようである。

 この後は、英国、オランダ、そして、前年から長崎、下田とウロウロしていたプチャーチン使節とも和親条約を結ぶことになる。そして最終的に、アメリカはサンフランランシスコの船持ち商人だったタウンゼント・ハリス(1804~1878)を日本に送り込み、安政5(1858)6月、関税自主権のない、治外法権を認めた通商条約を結ぶ。また、神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫・箱館を開港地とした。以後、3か月内に、オランダ、ロシア、英国、フランスと同様な条約を締結することになる。

 もっとも、開国の先陣を切った米国は、この時期、南部奴隷州を維持し、また新たに獲得した州も奴隷州にしようとようとする民主党と、これを是としない北部工業地帯が地盤の共和党との対立が深刻な問題となっており、清国との貿易云々どころではなくなっていた。1860年に共和党のリンカーンが大統領になると、翌年にはいわゆる南北戦争というアメリカ史上最大の犠牲を払った内戦に突入するのだから。

 こうした中、安政6(1859)年に開港した横浜に真っ先に乗り込んできたのは英国だった。以前、触れた、清国とのアヘン売買で巨利を得たと言われるジャーデン・マセソン商会が開港地の一番地を確保したことがこれを物語っている。そして同年6月、ラザフォード・オールコック(1809~1897)が初代英国総領事として日本に着任した。彼は、アヘン戦争後の1844年に福州領事となり、上海(46~55)、広州領事(55~59)を務めた。また、上海領事時代に、当時首相だったパーマストンに手紙を送っている。あの「わが英国にとって、永遠の同盟もなければ永遠の敵もない。あるのはただ一つ、永遠の国益のみ」と謳(うた)ったパーマストンに、である。内容は、市場開拓のため、再戦論を訴えたらしい。そしてその結果、第二次アヘン戦争と呼ばれるアロー号事件を招来しているのである。だから、彼が日本に赴任して来るということは、弱みや隙があれば、領土を狙い、「市場開拓」に精を出せということなのだろう。

 ところが、1856年、ペリーの後、「通商交渉」締結のためにやって来たタウンゼント・ハリス(1804~1878)によって出鼻をくじかれていた。というのも、アメリカは英国のようにアヘン供給地をもっていなかったため、ハリスはアヘン輸出禁止を日本側との交渉カードとして使っていたのである。つまり、英国と清国との間にあったアヘン売買条項を削除していたのである。こういう前例があったから、結局、ジャーデン・マセソン商会などは武器や船の売買を切り替えざるを得なくなったのであろう。これは、日本にとって幸運なことだった。もし、英国が先に乗り込んで来て、この条項を飲まされていたなら、武器とは比較もできない惨状を齎(もたら)していたかもしれない。

 さらにまた、日本は清国と違って武士社会だった。いや、追々そういう違いを彼らは見せつけられるようになった。開国を巡って目覚めた攘夷派に手こずることになるのだから。正確に数えたわけではないが、明治になるまで外国人の死者のほうが多い。少なくとも、薩摩藩一藩と英国人との場合を見る限り、圧倒的に英国人犠牲者のほうが多いのである。

 さて、ラザフォード・オールコックは、安政6(1859)年6月末には領事館(のち公使館)となる品川の東禅寺に居を構えた。その2年後の文久元(1861)年5月28日(陽暦7月5日)、水戸藩の攘夷派志士たちが公使館を襲撃したのである。その結果、オールコックは難を逃れたものの、書記官ローレンス・オリファント、江戸出張中の長崎駐在領事であるジョージ・モリソンの2名が負傷し、彼らはすぐに帰国している。もちろん、戦闘になったところから、警備をしていた郡山藩や西尾藩の警備兵2名と襲撃側の水戸藩士3名も死亡しているが。

 オールコックにとって、こういうことは、清国では経験したことがなかっただろう。だからこそ、幕府側が警備上の問題で、再三、注意しているのにも拘らず、条約で勝ち取った国内旅行権を強硬に主張し、長崎から江戸へ陸路を取ったりしたのである。これらのことは、当然、攘夷派にとって我慢のならないことだった。

 この思わぬ公使館襲撃は、オールコックらを恐怖させたことは間違いあるまい。また、このことによって、英国の強気な外交政策に変更を与えた可能性がある。この事件の3か月ほど前の2月3日(陽暦3月14日)、不凍港が欲しいロシア海軍は、本国政府が反対しているのにも拘わらず、軍艦を対馬に派遣した。対馬藩は当然拒否したが、船の修理を名目に無断で上陸し、兵舎の建設に取り掛かったばかりか、修理工場の建設資材や遊女まで要求する有様だった。

 この7年ほど前、ロシアのプチャーチン外交使節は、下田で和親条約交渉にあたっていた。その時、艦船・ディアナ号が、1855年の安政大地震の津波で被害を受けて大破し、それを修理するため戸田(へだ)村へ回航中に沈没した。これを受け、戸田村の船大工たちが必死になって代替船を完成させている。プチャーチン中将も非常に感謝した。その船でプチャーチンらは帰途に着くことができたのだから。しかし、そんな6、7年前の「美談」や「恩義」など、彼らには何の関係もなかった。彼らも、パーマストン同様、「永遠の国益」のみを追求する民なのである。それも、新興国のアメリカ同様、荒々しい乱暴なやり方で。

 この傍若無人さは、文化3(1806)年、レザノフの部下が暴走し、蝦夷地を襲い、「むくりこくり(蒙古・高句麗)」と恐れられたと事件と全く同じである。これらの体験が、明治になっても日本人に畏怖の念を抱かせ、日中・太平洋戦争まで第一の仮想敵をロシアとしてきた所以(ゆえん)だろう。

 話は脱線してしまった。このロシアの対馬占拠事件では、警備の藩士が射殺される事件までに至り、対馬藩も幕府も対応に苦慮し、右往左往した。そして、7月になって、特命全権公使になったラザフォード・オールコックが顔を出してきたのである。我が国が追い払ってあげますよ、と。もちろん、この時点で本国政府には、対馬占領を提案していたというのだから、何をか況や、である。ただこうして、英国が介入してきたことで、ロシア側も撤退せざる得なくなり、半年間にわたる占領を解くことになる。その後、英国はインドや清国ではやったことを、つまりロシアが去った後の対馬を占拠することはなかった。それは、つけ入る隙がなかったというより、度重なる攘夷派のテロや自身も経験した3か月ほど前の公使館襲撃事件が少なからず尾を引いていたように思えるのである。

 またもう一つ、英国側が強気にならなかった事例がある。以前、深入りしなかった小笠原諸島の父島の領有問題である。

 文政10(1827)年、英国艦ブロッサム号が、太平洋を巡り廻っていたとき、小笠原諸島にある父島(二見港)を発見し、そこを自分たちの地図上で領有地と宣言した。その後、ハワイから、欧米系の移住者が住み着き、捕鯨船の食料や薪などの基地となっていた。これはすでに述べた。ところが、このことが幕府に知られたのは、ペリー来航後のことだったのである。

 ペリーは、日本にやってくる前に、まず沖縄の那覇に上陸し、琉球王府と開国交渉をした。おそらく、日本と同様、王府にもフィルモアの国書を提出し、回答は日本から戻った後にするように伝えたのだろう。

 ともかく、次は浦賀に向かった。その途上、小笠原諸島の父島に寄って、4日間ほど島を調査しているのである。そして、すでに入植していたナサニエル・セーポレーというペリーの同郷人から貯炭所を買い取り、彼を米海軍に編入した。あまつさえ、自治政府を作らせ、領土宣言すらしていたのである。

 幕府がこれらのことを知ったのは、和親条約を結ぶ際ではなく、ペリーが日本を去った2年後、『日本遠征記』を出してからだという。それを議会にも提出したということだから、当然、ハリスも内容は知っていた。そして日本側と父島の領有問題を協議したことで幕府側が初めて知ったのである。事の詳細は省くが、幕府外交方は、英国や米国が領土宣言以前に日本人(小笠原氏)が到達していたことを調べ上げ、彼らに領土の主権を主張した。

 そして、文久元(陽暦1862)年12月19日、幕府は、ハリスとオールコックを前に、父島を回収するため、日本人の植民者を送ると主張すると、ハリスは本国に照会してから決定するが、すでに在住している者の権益は守るようにと言っている。それに対して、オールコックは次のように主張したという。

「1827年、英国がこの無人島を初めて領有宣言したもので、日本が最初の発見者であっても、その後の管理を怠ったのであるから、その権利は欧米の法律に照らせば消滅している。しかしながら、開拓を企てる場合、これまで通り外国船の自由な停泊を認めるなら、英国はこれに干渉しないであろう」と。

 清国で強面(こわもて)外交を貫いてきたオールコックにしては、ずいぶん妥協的である。こういう弱気な発言も、その年1月、ハリスの通訳だったヒュースケン暗殺事件や5月の自国公使館襲撃事件が尾を引いていなかっただろうか。彼ら欧米人は、日本人の突発的で感情的な「残酷さ」を理解できなかった。彼らは、いわば理詰めで振る舞おうとするので、理不尽で計画性の見えない暴力を恐れるのである。日本人は何をして来るかわからない、と。

 


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