海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(49)

2010-08-13 11:36:02 | 歴史
 前回まで、この野添日記を綴ってきたが、またまた大きな読み違いというか読み不足があったことに気づき、今やや意気消沈している。と同時に、私の『薩南血涙史』に対する抜き難い偏見がここまで強かったのかと改めて驚いている。
 この私の偏見というものをもっと具体的にいえば、出水事件や大河平事件ばかりでなく、数々の斬殺・処刑をまるでなかったかのように記述した、この厚冊の本を許せなかったということなのである。薩軍側の最初の鎮魂の書であり、その子孫たちのバイブルとなっただけに。
 それゆえ、できるだけこの厚冊の本を紐解きたくなかった。そういう私の心情が、大きく反映していたのだろうか。今回もその結果の読み落としがあったことに昨夜気づかされたのである。
 言い訳ばかりしてもしょうがないので、結論を先に言おう。野添日記にある赤塚源太郎の投降日に関する話は、『薩南血涙史』の記述と矛盾しなかったのである。
つまり、『原田直哉覚書』の中に収められている「野添日記」の信憑性が高まったと同時に、『薩南血涙史』の記録性も無視できなくなったということだ。
 これらのことを詳述する前に、前回の野添日記の続きから述べていこう。まだ赤塚らの話は出てきていないし、出てきたときに『薩南血涙史』と照合していけばいいのだから。ただ、今回の失態を話しておかないと、あとで辻褄合わせに苦労すると思い、正直に先に触れたのだから。

 さて、篠原らが戦死した3月4日の戦い以降、野添の隊は大小の戦いを繰り返しながら、しばらくの間、吉次峠を死守している。しかしながら、4月1日の「思ヒノ外大戦争」で、野添本人が負傷してしまい、戦線を離脱せざるを得なくなった。それから、撤退する病院を追って川尻,三船(みふね)と移動し、4月3日に木山町の病院に入る。そこで、治療を受け、自宅療養が可能と判断されたのか、帰郷願いを出すと、翌日、その許可がおり、その日の夕方、同行の者数人と鹿児島に向け出発した。野添本人の負傷がどの程度のものか、またどこをどう負傷したのか何も書いていないが、少なくとも歩けることから、足を負傷したということでなさそうである。そして、それほどの重傷でもなかった。