海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(39)

2010-08-03 11:46:14 | 歴史
 ところで、黒江らの隊のその後はというと、6月29日、官軍の一隊が帖佐の松原という地区に進撃したので、行進十番中隊も出撃したが、地の利を得ず、退却した、とある。それから、運命の7月3日、黒江豊彦および川崎吉兵衛、川崎助左衛門以下226名は、夜半ひそかに帖佐平安城を下り、重冨にあった官軍本営に投降した。その後は、重冨戸長役場に3日間留置され、以後自宅謹慎となった。そして黒江以下の士官(川崎たちもだろう)は、官軍の教導となって延岡方面まで官軍に従軍したので、その功で罪を免除された、と書いて終わっている。

 ここで、『帖佐村郷土誌』の「恐怖譚」に関する考察はここまでにして、最後に、以前途中で切ったという「西南戦争殉難者」の部分を抜き出してみようと思う。「恐怖譚」のように全章の最後の「無題録」に収められている。

(四十五)帖佐村の表彰
    表彰状(写)         鹿児島縣姶良郡帖佐村
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  昭和二年十二月十四日
            熊本税務監督局長従四位勲三等 篠崎 昇
 このような表彰状の写しが、このあと頁を変えて3つ並び、そのあとは次のようになっている。

    帖佐村の殉難者        (次第不同)
明治二十七八年(日清戦争・・・私注)戦役死者
        海軍二等水兵     ・・・・・
        同          ・・・・・
        陸軍歩兵上等兵    ・・・・・
明治三十七八年(日露戦争・・・私注)戦役死者
        上記と同じように、だが14名の戦死者名が続く。その後は、
明治十年戦役戦死者 と大見出しはあるのだが、誰の名前もなく、
(四十六)帖佐中津野の大力者 という見出しになり頁が変わっているのである。