海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(53)

2010-08-18 08:19:11 | 歴史
 ともかく、人吉より下流の球磨川沿いで起きた最初の投降事件は、1週間後の22日、この負傷療養で蒲生近在にいた野添氏の耳に届いたとすれば、何の矛盾もない。どちらも信用にたる情報だろう。一方は腹に据えかねる事件だったとしても。
 さて、ここで、吉留盛美なる者が2度も出てくるので、かれについて少し触れておこう。但し、この人物のことは、よく分からない。というのは、この名前の人物は、昭和版、平成版『蒲生郷土誌』の出兵人名簿に名前がないのである。あるのは、「吉留盛喜」なる人物名で、最初、「美」と「喜」の間違いではないかと考えたが、どうもそう単純な問題ではなかった。
 この「吉留盛喜」なる人物は、明治10年12月30日、蒲生警視派出所へ、蒲生町戸長心得として、「十年役出兵人名簿」を提出しているのだ。つまり、戦後蒲生郷の首長になっているということなのである。一体、薩軍の最初の脱走者が、その村政の責任者に返り咲くことなど可能だったのだろうか。
 どうもよくわからない。仮に、かれが政府軍に協力し、村政が完全に政府や県の行政支配化に収まったあとだったとしても。それなら、赤塚源太郎らも堂々と村に帰り、その後も無視されずに済んだのではないだろうか。
 この問題は、再度『蒲生郷土誌』を検討する際に振り返る予定なので、ここで一旦筆を折り、赤塚源太郎の話に戻ろう。

 『薩南血涙史』の怒りとそれに惑わされた私の読み違いで、やや遠回りしてしまったが、野添日記は信頼に足る記録だということがわかった。では、まだ、残りの記録で、赤塚源太郎の一隊がどう扱われているか見てみる。
 この5月22日、赤塚源太郎一隊が投降したという報告を聞いたあと、次ぎは4日後の5月26日の記録である。
 この日は、最初に赤塚らの行動が「甚(はなは)タ以(もって)存外ノ至リト吹?シ」(注)、鹿児島本営にいる別府晋輔(ママ)氏より布達があったとして、次ぎのように記述している。

(注)・・・「?」の文字は、くずし方もさることながら、こんな漢字があるのかどうかわからなかったので、「?」にした。誰かに問い合わせてわかったら、埋めることにする。