要するに、鹿児島城下は、たとえ奄美や琉球という限られた島嶼群だけにしろ、交通の結節点でもあったのである。
そしてそこから揚がる利益は、決して小さなものではなかった。それどころか、琉球や奄美諸島との「交易」は、記録に現れた量より、現れなかった量のほうが多かったのではなかろうか。奄美諸島への過酷な税の収奪(注1)はもとより、鹿児島沿岸地域には「密貿易」屋敷が点在した。そしてそこから揚がる、実態のはっきりしない「利益」は、最終的には城下に集約されたのだろうから。
その論より証拠に、寛政年間(1789~1803)の長者番付で、大坂の鴻池や平野屋、伊勢三井八郎らと肩を並べる富豪になったという第4代浜崎太平次(注2)という豪商を生んだではないか。
かれの利益は、当然藩庫にも収められたが、そればかりでなく、かれの周りに集まる商人や町民にも報われたはずなのである。その結果、町民層の人口増加となり、長崎や堺などの港町と肩を並べられるようになった理由だろう。
さて、薩・隅・日三州の実質穀物生産高の伸びである7万5千石ほどに対して、人口30万の増加の理由をこのように考察してみたが、どうだろうか。
私は私なりに満足しているが・・・。
(注1)・・・奄美側の郷土史家は、声高にこのことを強調するわりに、鹿児島本土側の郷土史家は沈黙しているので、今一つすっきりしない。もちろん、奄美側は、それなりの資料をもって話をしているのだが、ほとんど具体的資料の残っていない鹿児島本土の農民収奪も負けず劣らず激しかったので、どうも何か説得力がないのだ。ただ私は、ここで論じられるかどうかわからないが、やはり、奄美への差別や収奪のほうが本土より激しかったのではないか、と考えられる「痕跡」を知っている。
(注2)・・・ネット検索だが、7代目太平次は家業を傾けたが、次の8代目で盛り返し、「安政年度長者鑑」の筆頭になったという。いつから同じ鹿児島湾内の指宿に拠点を置いたか知らないが、それらの利益は、藩庫を、また城下を潤したはずである。
そしてそこから揚がる利益は、決して小さなものではなかった。それどころか、琉球や奄美諸島との「交易」は、記録に現れた量より、現れなかった量のほうが多かったのではなかろうか。奄美諸島への過酷な税の収奪(注1)はもとより、鹿児島沿岸地域には「密貿易」屋敷が点在した。そしてそこから揚がる、実態のはっきりしない「利益」は、最終的には城下に集約されたのだろうから。
その論より証拠に、寛政年間(1789~1803)の長者番付で、大坂の鴻池や平野屋、伊勢三井八郎らと肩を並べる富豪になったという第4代浜崎太平次(注2)という豪商を生んだではないか。
かれの利益は、当然藩庫にも収められたが、そればかりでなく、かれの周りに集まる商人や町民にも報われたはずなのである。その結果、町民層の人口増加となり、長崎や堺などの港町と肩を並べられるようになった理由だろう。
さて、薩・隅・日三州の実質穀物生産高の伸びである7万5千石ほどに対して、人口30万の増加の理由をこのように考察してみたが、どうだろうか。
私は私なりに満足しているが・・・。
(注1)・・・奄美側の郷土史家は、声高にこのことを強調するわりに、鹿児島本土側の郷土史家は沈黙しているので、今一つすっきりしない。もちろん、奄美側は、それなりの資料をもって話をしているのだが、ほとんど具体的資料の残っていない鹿児島本土の農民収奪も負けず劣らず激しかったので、どうも何か説得力がないのだ。ただ私は、ここで論じられるかどうかわからないが、やはり、奄美への差別や収奪のほうが本土より激しかったのではないか、と考えられる「痕跡」を知っている。
(注2)・・・ネット検索だが、7代目太平次は家業を傾けたが、次の8代目で盛り返し、「安政年度長者鑑」の筆頭になったという。いつから同じ鹿児島湾内の指宿に拠点を置いたか知らないが、それらの利益は、藩庫を、また城下を潤したはずである。