海鳴記

歴史一般

島津77万石とは(32)

2009-11-30 10:12:10 | 歴史
 要するに、鹿児島城下は、たとえ奄美や琉球という限られた島嶼群だけにしろ、交通の結節点でもあったのである。
 そしてそこから揚がる利益は、決して小さなものではなかった。それどころか、琉球や奄美諸島との「交易」は、記録に現れた量より、現れなかった量のほうが多かったのではなかろうか。奄美諸島への過酷な税の収奪(注1)はもとより、鹿児島沿岸地域には「密貿易」屋敷が点在した。そしてそこから揚がる、実態のはっきりしない「利益」は、最終的には城下に集約されたのだろうから。
 その論より証拠に、寛政年間(1789~1803)の長者番付で、大坂の鴻池や平野屋、伊勢三井八郎らと肩を並べる富豪になったという第4代浜崎太平次(注2)という豪商を生んだではないか。
 かれの利益は、当然藩庫にも収められたが、そればかりでなく、かれの周りに集まる商人や町民にも報われたはずなのである。その結果、町民層の人口増加となり、長崎や堺などの港町と肩を並べられるようになった理由だろう。

 さて、薩・隅・日三州の実質穀物生産高の伸びである7万5千石ほどに対して、人口30万の増加の理由をこのように考察してみたが、どうだろうか。
私は私なりに満足しているが・・・。

(注1)・・・奄美側の郷土史家は、声高にこのことを強調するわりに、鹿児島本土側の郷土史家は沈黙しているので、今一つすっきりしない。もちろん、奄美側は、それなりの資料をもって話をしているのだが、ほとんど具体的資料の残っていない鹿児島本土の農民収奪も負けず劣らず激しかったので、どうも何か説得力がないのだ。ただ私は、ここで論じられるかどうかわからないが、やはり、奄美への差別や収奪のほうが本土より激しかったのではないか、と考えられる「痕跡」を知っている。
(注2)・・・ネット検索だが、7代目太平次は家業を傾けたが、次の8代目で盛り返し、「安政年度長者鑑」の筆頭になったという。いつから同じ鹿児島湾内の指宿に拠点を置いたか知らないが、それらの利益は、藩庫を、また城下を潤したはずである。

島津77万石とは(31)

2009-11-29 10:43:19 | 歴史
 なぜなら、「仙台、岡山、熊本、広島、徳島、福井・秋田が2~3万で、武士を入れると4~5万」(『日本の人口』関山直太郎)といい、「港町として繁栄した堺と長崎が5~6万を数えたというから、人口の点だけからでは鹿児島は、三都(江戸・京・大坂)、名古屋・金沢(それぞれ10万ほどだという)に次ぐ都市で、堺、長崎に並ぶ都市(人口)といえよう」(『鹿児島市史』第1巻)というほどだからである。
 江戸初期の城下の人口ははっきりしないが、慶長7年(1602)に、江戸期の島津氏の本拠となる鶴丸城構築が決まったというのだから、かなり新しい城下町なのである。それが、江戸の終わりごろには、長崎や堺と並ぶ人口の都市になっているのだ。驚くべき増加ぶりではないだろうか。
 もとより武士階級人口の多いところだから、やや強制的に城下に集中させられた部分もあったのかもしれないが、それより何より鹿児島は港町であることを忘れてはならない。つまり、陸地的にどん詰まりにあるのだが、海の交通という点では、大きく南に開かれた土地柄なのである。
 このことは鹿児島人も含めてあまり言わないが、もしかりに強固な徳川政権が確立しなかったら、鹿児島が長崎の代わりをしていたはずだったのである(注)。
 なぜなら、最初に鉄砲が伝わったとされるのは、種子島であり、それから6年後の天文18年(1549)にフランシスコ・ザビエルが最初に上陸したのが鹿児島なのである。
 このことだけでも南蛮船が北上する際、長崎などよりいかに到達しやすい地域だったか、おわかりになるだろう。もちろん、鎖国を経て、唯一長崎のみがオランダや明や李氏朝鮮との窓口になったが、鹿児島だって、琉球や奄美諸島という「甘い蜜」を確保していたのである。

(注)・・・これは決して「たら」に終わる話ではない。その証拠に、幕末期、いち早く南からの情報に接することができたことで、他藩に先がけて事が起こせたのだから。事を起こすのに情報量がモノをいうのは、今も昔も変わりはない。


島津77万石とは(30)

2009-11-28 10:56:08 | 歴史
 なるほど、玄米を含めたこれらの穀物に比べれば、カライモはなんとやわらかくて甘いのだろう。私がまだ子供で、どちらかを選べ、と言われたら、躊躇なくカライモのほうを選んでいただろう。硬くて独特な匂いを放つ玄米や、それに麦や稗や粟などが混じった「ご飯」を食べるよりは(注)。
 それほど、サツマイモは革命的な食料だったとも考えられるのだ。それは単に鹿児島や長崎などの西日本に限らず、ある時期から瞬く間に日本中に広まったことでも明らかだろう。誰もが記憶させられる青木昆陽という人物を介して。
 
 さて、ここまで論じてきても、私自身若干苦しい説明と考えないわけではない。私はどうも食料(米)の増産云々にのみにこだわりすぎているのではないか、と。
というのは、食料(米)が足りなければ、買えばいいのだから。では、その金は?

 現在も鹿児島市域は、県内の他市町村から抜きん出て人口が多い。いわゆる鹿児島市に一極集中している状況である。たとえば、私が住んでいた時期の鹿児島市は、昭和40年代半ばに隣接した谷山市と合併しているので、人口も56万ほどを抱えていたが、その次あたりに位置する川内(せんだい)市は、10万人ほどなのだから。
 これは江戸期なども同様だったようである。それでは、『鹿児島市史』にある鹿児島城下の人口推移過程を覗いてみよう。
 まず、18世紀(1700年代)後半から19世紀(1800年代)前半にかけての城下の人口は、約5万から5万8千と推定されており、文政9年(1826)には、58、065人とある。これに谷山などの近隣の郷(村)を加えると、この時期には、72、350人ほど(いわゆる・の若干数を除いて)だったという。 このことは、相当驚いていいのである。

(注)・・・何度も繰り返すが、「白米」を食べなれているわれわれが特に感じるのであって、もともとそれしか食べなかったとしたら、それほど苦にはしななかっただろう。いや、じっくり噛んで食べれば、甘みが出てきておいしく感じるはずだ。主栄養素はでんぷんなのだから。なお、付け加えるのを忘れていたが、蕎麦や麦(うどん)も主食の一部を成す。

島津77万石とは(29)

2009-11-27 10:24:28 | 歴史
 ただ、どうもよくわからないのは、カライモが米の代わりをするほどの食料か、ということである。
 確かに穀物も芋も栄養の大半は、炭水化物、いわゆるでんぷんである。だから、この点さほど差があるとは思えないが、保存ということになると、断然穀物が長い。籾米の状態で保存しておけば、劣化も少ないという。しかし、芋類はどうかというと、誰がみても日持ちがしないのはわかる。野菜の一種なのだから。
 私が、鹿児島人の前でこう言うと、以前登場してもらったカライモ好きの郷土史家が、
「いや、日干しにすれば、かなり長い間食べられるよ」
と言い、それも好物だ、と付け加えるのである。
「うーむ」である。

 どうもわれわれ米を「主食」にしてきた者にとっては、一時期でもカライモばかりを食べているというのは、想像外であり抵抗も感じるが、鹿児島人がそういうのだから、間違いないのかもしれない。以前論じたように、味覚の好みの遺伝子も違っているようなのだから。
 それにわれわれは、米というと、食感のいい「白米」をイメージしているが、江戸時代は、おそらく「玄米」のまま食べるのが一般的だったのではないだろうか(注1)。あるいは3分搗き、5分搗きという言葉があるように、食べやすい「白米」そのものしてではなく、また、米の収穫があまりない地域では、それに麦や稗や粟などを混ぜて食べざるを得なかったのではなかろうか。
だからこそ、満足な副食(おかず)を摂らなくとも、「江戸病(やまい)」(注2)にも罹らず、それらの「穀物」だけで過重な労働にも耐えられたのであろう。
 顎も頑丈だっただろうし。

(注1)・・・私がこのことを60代、70代の人たちの前で話したことがあるが、「玄米」のままでは硬くて食べられない、とやや気色ばって言う御婦人がいたのには驚いた。われわれ現代人はそれほどやわらかくて食感のいい「白米」に慣れてしまっているのである。
(注2)・・・貨幣経済が発達するに従って、米屋でも玄米のままでは売れなくなり、それを3分搗き、5分搗き、あるいは純白米などと区別して売ったに違いない。やがて、食感もいいし、高くも売れる純白米が一般的になり、米屋で買う米は、「白米」が当たり前になった。それが「かっけ」を招いたのである。玄米には含まれていたビタミンB1だかB2だかB12だかをそぎ落としたために。
 当時、「かっけ」は死に至る病いでもあった。

島津77万石とは(28)

2009-11-26 10:51:36 | 歴史
 では、籾高13万5千石(実質7万石弱)の増加に対して、30万人の人口増加の理由をどう説明すればいいのだろうか。
 当時の日本人の年間米消費量が、一人一石(一日約3合弱)(注1)が普通だとすると、仮に玄米13万5千石でも大幅な人口増加である。
 どうもこの理由を説明するのは、容易ではなさそうだが、その一因にやはりカライモの導入と普及があったことは間違いないだろう。
 薩摩芋の導入および普及については、ネット検索にかけて調べたことを紹介するしかないが、それによると、最初はやはり琉球に伝わっている。
 慶長8年(1604)、明への進貢船が帰途持ち帰り、それを植えつけたところ、痩せ地でも育つことがわかり徐々に広まったという。
 ところで、前々から琉球と明との関係に目をつけていた島津氏は、慶長14年(1609)、幕府の許可を得て琉球に侵攻すると、そのまま薩摩藩の支配下に置いた。これが、カライモが鹿児島に伝わる端緒だろう。
 ただそれにしては、薩摩における普及は遅く、宝永2年(1705)ごろ、薩摩山川(港)の船乗り・前田利右衛門(注2)が琉球から持ち帰ったのが、一般にも広まり始めた時期だというのだ。
 もっとも、人口増加もこのころからだから、やはりカライモの導入・普及が大きかったのだろう。享保17年(1732)の西日本を襲った大飢饉でも、甘蔗が普及していた長崎と鹿児島は、餓死者を出さなかったといわれるほどなのだから。

(注1)・・・武士の給与に扶持米と呼ばれるものがあるが、この一人扶持(いちにんぶち)というのが、一日玄米5合を給するという意味である。武士は一日に玄米5合を食べるから、というわけではないだろうが、やはり一人一日米を3~4合食すという目安があったのだろう。現代人には考えられないだろうが、当時、やはり米が「主食」だったのである。今からおよそ80年ほど前に作られた宮沢賢治の詩にもあるではないか。
・・・一日に玄米4合と味噌と少しの野菜を食べ・・・。
(注2)・・・私は飲んだ記憶がないが、かれの名前を冠した焼酎の銘柄がある。



島津77万石とは(27)

2009-11-25 10:58:09 | 歴史
 この享保総内検は、慶長期から100年以上経過しているが、薩・隅・日(三州ともいう)の石高増加は、10万2千石ほどで、721、040石となっている。また、それから100年ほど経過した文政9年(1826)には、一部内検が行われており、その三州合計は753、683石で、100年前の享保総内検から3万2千石、その約100年前の最初の総内検から13万5千石ほど増えている。いや、人口増加に比べると、それしか増えていない、というべきか。貞享元年(1684)から文政9年までの約150年間で、人口は30万ほど増えているのだから。
 ところで、文政9年の一部内検における道の島、琉球を含めた総石高は899、671石となっており、ほぼ90万石である。これは、その後行われた一部内検より多いので、江戸期のピーク数である。
 では、この90万石という数字、あるいは、三州合計の75万石という数は、人口増加などと照らし合わせても、玄米の実高と見なしていいのだろうか(注)。
 もし実高と見なした場合、少なくとも、三州内における文政期の人口約65万に対して、石高75万石というのは、米不足に陥るような状況にはないどころか、やや余り気味ではないか。以前、児島穣が薩摩武士の貧しさの象徴として出した、城勤めの武士が弁当にカライモを持っていくような状況はありえないことになるだろう。
 しかしながら、このエピソードこそが、逆に75万石という数字が籾高であることの重要な証言だと考えられるのだ。つまり、玄米高に換算すると37万5千石で、人口65万だからこそ、城下のサムライでさえ、弁当にカライモを食べなければならなかったのだ、と。カライモを食べなければならないことが、惨めで貧しいことかどうかはともかく。
 そうでなければ、どうして、付籾(つけもみ)高10斗5升を1石とした場合とか、付籾9斗6升を1石とした場合などという表現が出てくるのだろうか。
 税として納める米(納米)は、その3斗5升とか3斗2升という玄米(高)としてなのに。
(注)・・・石高というのは米の高だけをいうのではない、畑高、つまり畑でとれる麦、稗、粟、大豆などもそれぞれの高計算で、石高に組み入れられる。しかしながら、たとえば、上田(収量の一番多くていい田)一段(反)に対して付籾1俵3斗5升で12、3俵の収穫があるのに対して、上畠一段(反)の付大豆の収量は、2俵ほどなのである。いかに米の生産の効率がよかったかである。大豆ほどでないにしろ、麦、稗、粟などもおして知るべしである。

島津77万石とは(26)

2009-11-24 10:42:59 | 歴史
 では、その裏づけとなるような資料はないのだろうか
もちろん、ある。江戸期を通じて4回ほど実施された「内検」と呼ばれる領内検地の結果である。
 これは、寛永期の琉球高を加えた判物(はんもつ)高(公認の石高)以降、修正されなかったので、次第に土地の実情と離れ、藩政上不具合が生じ、税収に大きく影響してくることになった。そのため、ある程度の間隔を経て、領内総検地および一部の検地を行って、修正を加えざるを得なかったのである。
 4度の総内検の時期は、慶長(1596~1614)、寛永(1624~1643)、万治(1658~1660)、享保(1716~1735)となっているが、これらの結果だけ取り上げても、人口統計の年代とかなりずれを生じてしまうので、随時、一部内検の結果も参照して検討してみる。
 まず一番最初の慶長総内検の結果をみると、薩・隅・日それぞれの地域の石高が記されているが、それらの合計が、619、055石となっている。
これは、元和3年(1617)に幕府より提出を求められた郷村高辻帳のいわゆる判物高と多少違っているが、調査した時期の問題としておこう。それほどの差ではないからだ。
ところで、(23)で、琉球の石高が判物高に加えられるようになったのは寛永11年(1636)だったとしているが、それ以前の慶長内検では、道の島との合計高が、113、501石となっている。
 薩摩藩が琉球に侵攻したのは、慶長14年(1609)だが、一部内検として、「琉球慶長15・6年竿」という項目があり、そのときの琉球の石高は、89、086石となっている。おそらく、侵攻した翌年からその次の年に掛けて、薩摩藩が独自に検地を施したのだろう。だとすると、薩摩藩の検地高にならい、琉球も籾高算出していたということになるのだろうか。薩摩藩が実施した検地となれば、琉球だけ玄米高で算出するということも統一がとれない気がするからだ。
 これはともかく、慶長総内検の石高は、判物高とほとんど変わりがないとしておこう。次の総内検は、寛永期になるが、判物高とほぼ同時期だし、また次の万治期の総内検も時間的な隔たりがさほどでないので、最後の総内検である享保期の総内検の結果に移ろう。

島津77万石とは(25)

2009-11-23 11:08:11 | 歴史
 こうしてみると、貞享元年(1684)の最初の統計から、文政9年(1826)の最後の統計までのおよそ140年間に、総合計で31万人ほど増加しているのがわかる。そのうち、薩・隅・日だけで、約29万人の増加だから、総計の伸びの9割以上は、薩・隅・日が占めている。逆にいえば、道の島および琉球は、140年間で計2万人ほどしか増えていないことになるから、こちらのほうを注視すべきなのかもしれない。さらに、薩・隅・日には、記録上、減少した年度はないが、道の島および琉球では、減少した年度があるのだから(注1)。
 私は、奄美の蘇鉄(ソテツ)地獄(注2)という言葉を聞いたことがあるが、こういう飢饉がこれら島嶼の人口を減少させた理由なのかもしれない。

 ともかく、薩・隅・日の人口増加の理由を考えてみる。
最大の理由は、田畑の開墾により、より多くの農業生産が可能になったからだろう。薩摩藩に限らず、どの地域も江戸初期から開墾事業を積極的に行い、たとえば、以前も触れた長州藩の場合などは、江戸初期の表高(ほぼ実高)30数万石が、幕末期には実高100万石といわれるようになった。
 薩摩藩も例外ではない。シラス台地の痩せた土地が大半とはいえ、広大な面積を所有していたのだから、実高もそれなりに増加していったのは不思議ではない。明治になって、大久保らが主導した殖産興業政策のように積極的だったら、尚更である。

(注1)・・・琉球の場合、寛政12年(1800)から文政9年(1826)までの26年間で1万5千強の人口減少があった。道の島の場合は、貞享元年の最初の記録に、薩・隅・日にも琉球にも含まれない7万余の数字があったが、これが間違いなく道の島の人口だと仮定した場合、その22年後の宝永3年には、およそ5万になっている。
(注2)・・・奄美諸島で飢饉になり食べるものがなくなると、ソテツの実まで食用に給したという。ただその過程で、その実の毒を取り除かないと、それで死んでしまうことが多かったそうである。まさに逃げ場のない「地獄」だろう。

島津77万石とは(24)

2009-11-22 09:53:08 | 歴史
 では、最初の記録である貞享元年(1684)の人口を見てみる。薩摩・大隅・日向諸県郡(以下薩・隅・日とする)の人口は、355、387人、琉球は、(不確実)と断っているが、129、995人で、総計が557、083人となっている。道の島の記録はないが、この年度の薩・隅・日と琉球の合計が、485、382人となるから、この残り、71、701人が道の島の人口なのだろうか。
今のところ、この7万余の人口はどこから出てきたのかよくわからないが、最初の薩・隅・日の人口は、前回示した判物の石高60万5、607石余の約半分強である。多少記録された時代はずれているが、この数字と一人年間約1石の米消費量を照らし合わせると、やはり60万石は玄米高ではなく籾高のように思われる。ただ琉球の場合は、人口と石高がほぼ一致するので、玄米高のように見えてくる。まあ、この問題はあとで再考しよう。
 さて次に、この記録から22年後の宝永3年(1706)は、3地域の人口が出ているので、掲げてみよう。薩・隅・日は、461、961人、道の島は、49、472人、琉球は155、108人で、総計666、541人となっている。琉球はともかく、薩・隅・日は22年間で、106、574人も増えているから驚きである。それに反して、前回の7万人余が道の島の人口だったとしたら、22年間で、22、229人減少している。割合的にみて、どちらもやや異常な数の増減である。
 私にはどちらもにわかには信じられない数字なので、次の記録に移る。
 宝永3年のあとは、元文2年(1737)年の記録になるが、これは総計の817、635人しかわからない。わかるのは、21年間で前回の3地域の合計より、151、094人増えているということだけである。
 この後の記録は、しばらく総計のみの記載で、以後極端に増えることはなく、明和9年(1772)の88万人代がピークとなっている。では、3地域の人口がわかる寛政12年(1800)の記録から垣間見よう。
 薩・隅・日が623、361人、道の島が74、593人、琉球が155、637人で、総計853、591人である。またその26年後の文政9年(1826)には、薩・隅・日が646、925人、道の島が77、667人、琉球が140、549人で、計865、141人となっている。

島津77万石とは(23)

2009-11-21 11:30:52 | 歴史
 その前にはっきりしなければならないのは、その領域である。『鹿児島縣史』によれば、藩の領域とは、「代々将軍の領知高判物(はんもつ→花押のある主筋からの書付)による所領安堵の形式を経て定められている」とあるからだ。そして、「薩摩藩に対する徳川幕府最初の判物は、元和3年(1617)9月5日下附」され、郷村高辻(たかつじ→年貢の合計額)帳を差し出すように、老中・安藤直次、本多正純連名の奉書があるという。これに対して、藩が差し出した郷村高辻帳に基づいて、判物が作られた、とある。
 即ち、この判物には、薩摩・大隅および日向諸県(もろかた)郡中164村合計高60万5,607石余りを領知すべしとあり、その地区別内訳は、薩摩31万4,805石余、大隅17万833石余、日向諸県郡11万9,967石余であった。
 また、寛永11年((1634)の領地高判物には、初めて琉球高12万3、700石を加え、正保3年(1646)知行方目録総高は、72万9、576石となっている。
 ただ、『縣史』のこの「藩の領域及び人口」の章には、この石高合計が、(付け)籾高云々の記述は一切ない。それどころか、ここだけ読んでいると、他藩と同じような玄米高のように思えてくる。だが先を急ぐ前に、薩摩・大隅・日向諸県郡および「道の島」と括られる諸島群、さらに琉球を加えた「薩摩藩領」の人口を見てみよう。
 まず人口は、宗門手札改めの結果によって知ることが出来るとし、初めて宗門手札の制を布いたのは、寛永12年で、その後同16年以降、数年間隔で、おそらく前後20数回実施しているという。ただ、これには島津一門家や独礼することできる格式高い家および家老、若年寄、大目付またその家族まで除外されている。しかしながら、その数は時代が下るに従って、120人余から70人余と少なくなっており、ほぼ無視できる数である。さらに士農工商外の、いわゆる・(注)もこの記録から除かれているが、別枠として記録が掲載されている。それによれば、明和9年(1772)には、3、253人、寛政12年(1800)には、3,971人、文政9年(1826)には、5、040人となっている。もっとも、道の島の場合、明和9年の徳之島の「乞食」11人以外に記録はないようだ。同じく琉球も「行脚」の10数人しか記録されていないので、実際はもっと多いのだろう。

(注)・・・薩摩藩には、という言葉はなく、その代わりに死苦、慶賀、行脚(あんぎゃ)、乞食という言葉が使われている。死苦および慶賀という言葉の実態が私にはわからない。ご存知の方はご教示願いたい。