海鳴記

歴史一般

日本は母系社会である(31)

2017-01-21 10:52:55 | 歴史

                           (31)

  日本人にはなかなか理解(りかい)し難(がた)いこの米国憲法は、西洋諸国家群の、言ってしまえば父権性社会の行きつく先(さき)だった。

 エンゲルスが指摘(してき)するように、ギリシャ・ローマといち早く<文明>社会に突入(とつにゅう)した古代から、すでに母権・母系制家族は崩(くず)れ、どの階層も父が家族の長となる社会に変貌(へんぼう)していった。以後、種族(しゅぞく)・民族(みんぞく)の異(こと)なった隣接(りんせつ)国家<あるいは階級(かいきゅう)・宗教間(しゅうきょうかん)>同士(どうし)、その覇権(はけん)・勢力(せいりょく)争(あらそ)いにその歴史の時間を費(つい)やす。そしてある時期、その分派(ぶんぱ)が新大陸に渡(わた)り、より強い父権性社会を築くことになったのである。

 だが、初めの頃、この新しい共同体は、旧(ふる)い<父>からなかなか逃(のが)れられなかった。かれらの理想も、厳(きび)しい現実の前にしばらくは旧い<父>たちの力に頼(たよ)らざるをえなかったのである。

 その間にも、接(つ)ぎ木した新しい共同体は力を蓄(たくわ)えていった。穏(おだ)やかな、未(いま)だ母系的な社会に暮(く)らしていた土着(どちゃく)の部族共同体を駆逐(くちく)し、古代ギリシャ・ローマの歴史に倣(なら)い、合<法>的に奴隷制(どれいせい)を敷(し)きながら。

 そして最終的(さいしゅうてき)に、独立(どくりつ)戦争という旧(ふる)い<父>からの解放(かいほう)を勝ち取ると、その共同体は、また新(あら)たな<父>が出てきても戦えるようにと、さらに、彼らが獲得(かくとく)した自由を守(まも)るため、各自に銃(じゅう)を与えることにしたのである。こうして彼らは、旧世界(きゅうせかい)でもなし得なかった個人の自由の権利として、<野蛮>な火力(かりょく)を入手(にゅうしゅ)したのであった。

 これが、強固(きょうこ)な<父権>性社会の象徴(しょうちょう)である合衆国憲法修正第2条の意味合いである。

 今となっては、大いなる矛盾(むじゅん)を社会にもたらし、しばしば<野蛮>と<文明>の狭間(はざま)にいるような結果を生じさせているが。

 もう一つ、アメリカが旧世界より父権性が強いと思われる徴候(ちょうこう)がある。ある時期、やや異様(いよう)と思えるほど、社会主義や共産主義体制を嫌悪(けんお)する<空気(くうき)>があった。<赤(あか)狩(が)り>と称(しょう)し、自国(じこく)の自由主義者さえも徹底的(てっていてき)に糾弾(きゅうだん)しているのだ。その後、多少寛容(かんよう)になってからも、ソーシャリズムとかコミュニズムをという言葉を使うことを極端(きょくたん)に嫌(きら)っている。もともとそういう言葉を生み出したのが、旧世界の<父>たちだったからだろうか?かつてないほど強い父権社を築(きず)いたのに、なぜそんなに怯(おび)えるのだろうか?

 なるほどマルクスやエンゲルスが、人類史の黎明期(れいめいき)に原始共産制社会を想定(そうてい)し、それをある種の理想(りそう)とみなした。そしてこの原始共産的な社会とは、母権・母系制社会であったのである。


日本は母系社会である(30)

2017-01-20 10:24:10 | 歴史

                        (30

                     父権・父系制とは

 ここから、逆に日本および他国(たこく)における父権・父系制について考えてみる。

 その前に、私は母権とか母系とかいう概念(がいねん)無造作(むぞうさ)に使ってきたが、古代史研究者はいろいろな定義(ていぎ)をしている。

 例えば、洞(ほら)富雄によれば、というより彼が(よ)(どころ)にしている唯物(ゆいぶつ)史観派(しかんは)の研究者たちの中には、母権と母系ははっきり区別(くべつ)しなければならないという人がいる。なぜなら、その発生(はっせい)原因(げんいん)(い)にするからだという。一般(いっぱん)に、母権と結びつくのは、招婿(しょうぜい)婚、母系財産相続、母系職位(しょくい)継承(けいしょう)などで、母系系統は、出自(しゅつじ)が母方によって辿(たど)られるという事実を示す語であるらしい。

 本当はもっと込み入った解説や定義があるのだが、推論に上屋(おくじょうおく)を重ねているだけで素直(すなお)には(うなず)けない。だから私の場合、こういう(こま)かい定義ともあまり(えん)がない。

 私が「日本は母系社会である」というとき、単純(たんじゅん)に「父方親族より母方あるいは母系系統親族により強い結(むす)びつきがある共同体」という程度(ていど)であるし、それ以外(いがい)にあまり考えていない。むしろこのことが、わが共同体に(およ)ぼす影響(えいきょう)を問題にしたいと思っているだけである。ただ現代(げんだい)の父権・父系社会を論じる時、かつて存在(そんざい)した、古代の母権社会なり、母系社会の概念や意味をある程度(ふ)まえておいたほうがよりイメージが(あら)わになると考えたから、披瀝(ひれき)したまでである。

 さて、現代の諸国家の中で、とりわけ後々(のちのち)まで、母権・母系的社会が続いてきた日本も、鎌倉期(かまくらき)以降(いこう)貴族(きぞく)や武士層のみならず、庶民一般層まで家父長制(一夫一婦・単婚(たんこん))社会に移って行ったことを私も否定はしない。現在もその過程にあると言っていい。しかしながら、中国やアジア大陸諸国家も含めて、欧米(おうべい)社会の父権(patriarchy)性は、その強度(きょうど)において日本社会とは大きく違った様相を見せている。もちろん、程度の(さ)といってしまえばそれまでだが、そうとは言い切れない重い歴史的背景があり、盤石(ばんじゃく)なようにみえる。

 建国の<父>に、ピルグリム・ファーザーズを(いただ)くアメリカ社会を取り上げてみよう。私は米国史を眺(なが)めると、西洋諸国家の究極(きゅうきょく)の父権性がそこに見えてくると思っている。一番わかりやすいのが、米国憲法(けんぽう)修正(しゅうせい)2条である。ネットで簡単(かんたん)にとりだせるので、(うつ)し出してみる。

             The United States ConstitutionBill of Right Amendment II:

A well regulated militia, being necessary to the security of a free state, the right of the people to keep and bear arms, shall not be infringed.

 「規律(きりつ)ある民兵(みんぺい)は、自由(じゆう)国家(こっか)安全(あんぜん)にとって必要(ひつよう)であるから、市民(しみん)武器(ぶき)(ほゆう)し、また携帯(けいたい)する権利は、これを(おか)してはならない。」(米国サイト確認)

 


日本は母系社会である(29)

2017-01-19 10:12:50 | 歴史

                             (29)

 これからは少し<落ち>をつけた話になる。

 16世紀初頭、ルターによる贖宥状(しょくゆうじょう)(免罪符)批判による宗教改革の嵐(あらし)が吹きすさぶにつれ、ヨーロッパ各地でいわゆる宗教がらみの戦争が頻発(ひんぱつ)するようになる。フランスにおけるユグノー戦争(1562~1598)しかり。80年戦争<オランダ独立(どくりつ)戦争>(1568~1648)しかり。ボヘミアから勃発した30年戦争(1618~1648)しかり、と。

 当然のことながら、イギリスも対岸(たいがん)の火事(かじ)というわけにはいかなかった。

 カトリックを破門(はもん)されたヘンリー8世は、独自(どくじ)の宗教改革で英国国教会の元(もと)を打ち建(た)てようとし、死後(1547)、幼(おさな)いエドワード6世<9歳(さい)から15歳まで>を経(へ)て、2代目のメアリー1世女王(じょおう)時代(1553~1558)に反動(はんどう)が起る。というのも、彼女の母は、ヘンリー8世の最初の妻(后)スペイン・アラゴン王家から嫁(とつ)いできたキャサリンだったためか、女王自身(じしん)、ガチガチのカトリックを信者(しんじゃ)だったからである。しかしいったん進(すす)めた針(はり)は戻せない。彼女の死後即位(そくい)した、アン・ブーリンの娘(むすめ)であるエリザベス1世(1558~1603)は、父・ヘンリーの後を継(けい)承(しょう)し、最終的にローマから離(はな)れ、イギリス国教会を確立(かくりつ)する。

 しかしながら、もともとヘンリー8世も親(しん)カトリックで、反(はん)プロテスタントだった。いわば単に「離婚権」を得たいがため、カトリックと袂(たもと)を分(わ)かつようになったのだから、1641年の清教徒(せいきょうと)革命(かくめい)に至るまではさまざまな紆余曲折(うよきょくせつ)、揺(ゆ)り戻(もど)しがあった。

 ただ私の場合、もうこれ以上の解説をする必要(ひつよう)はない。この時代、二人の女王が誕生(たんじょう)していることを確認してもらえればいいだけである。もっとも、これが英国の母権制の残滓(ざんし)である、とまでは言わない。しかし、少なくともこの時代、プロテスタント色(しょく)の強(つよ)い大陸諸邦(しょほう)に女王はいなかったようである。だからというわけでもあるまいが、1620年、英国の<母(はは)>に見切(みき)りをつけたプロテスタント(清教徒)たちが、メイ・フラワー号に乗(の)ってプリマスの港を出港(しゅっこう)したのは。

 米国史(べいこくし)は、彼らをピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)と呼(よ)んでいる。

 


日本は母系社会である(28)

2017-01-18 10:35:04 | 歴史

                            (28

 すでに研究者が取り上げている事象を、私が要約(ようやく)までして取り上げたのは、別な理由もある。ただし、今から(の)べることに確証(かくしょう)はない。それはイギリス映画(えいが)の話だからである。

 原題(げんだい)は、「ブーリン家の姉妹(しまい)」(The  Boleyn’s  sisters)だと記憶しているが、正確(せいかく)には(わす)れてしまった。有名(ゆうめい)なイングランド王・ヘンリー8(せい)14911547)の時代である。以下は映画の内容である。

 ヘンリー8世には、スペイン王・アラゴン家から(とつ)いできたキャサリンという妻(后)がいたが、女の子を生んだあと、なかなか跡取(あとと)男児(だんじ)が生まれなかった。ある日、ヘンリー8世は(か)りに出かけ、その夜ブーリン家の(やかた)(と)まる。そこで、のちキャサリンと離婚後、結婚することになるアン・ブーリンの(いもうと)・メアリーを見初(みそ)め、宮廷(きゅうてい)に呼び、そして女の子を生むことになる。もっとも、メアリーはあくまで妻ではなく、いわば(しょう)侍女(じじょ))の立場(たちば)であった。(あね)のアンは、妹に嫉妬(しっと)もしていたが、妹のように侍女として王と(まじ)わる気はなかった。姉妹の性格(せいかく)対照的(たいしょうてき)(えが)かれていた。妹は大人(おとな)しく従順(じゅうじゅん)に、姉は勝気で野心家のように。

 アンは、あらゆる手練(てれん)手管(てくだ)を使って王の気を(ひ)き、王は最終的に最初の妻・キャサリンと離婚し、二番目の妻としてアンを迎える。しかしながら、このことで王は多大(ただい)犠牲(ぎせい)を払った。当時(今でもだが)、離婚(りこん)を許さなかったカトリック教会から破門(はもん)され、イングランド独自(どくじ)の教会を打ち立てなければならなかったのだから。

 そのため王は、アンが男でなく女の子を生んだとき、(いか)心頭(しんとう)(はっ)し、あまつさえのちに処刑(しょけい)までしてしまう。

 こんなふうに映画の(すじ)をたどってきたが、私にとって印象的(いんしょうてき)だったのは、王はアンが女の子を生んだあと、(つ)(はな)したように「名前は何とつけたのだ」とアンに(たず)ねている場面である。つまり、当時のイングランドでも母親が子供に名前をつける習慣(しゅうかん)があったことをにおわせていたのである。(すいにん)天皇がサオヒメに子供の名前を尋ねたように。

 この映画の脚本(きゃくほん)が、オリジナルなのかイギリスの歴史(れきし)小説(しょうせつ)(もと)にしているのかどうか知らないが、どちらにしても歴史的史料(しりょう)参考(さんこう)にしている可能性はあるだろう。そしてもしそれが歴史的事実(じじつ)なのだとすれば、16世紀のイングランドにも古代母権制の痕跡(こんせき)は存在していたことになる。

 当時の日本はいうと、戦国時代の末期(まっき)といっていいだろう。イエズス会宣教師(せんきょうし)として日本にやって来たルイス・フロイスは、「娘の婚姻先の決定(けってい)に母親の意向(いこう)が無視できないものであった」(「塵芥集(じんかいしゅう)」注参照)と彼の観察(かんさつ)報告書である『日本史』に記載している頃である。

 西洋史などほとんどひも解いたこともない者が、与太話(よたばなし)をしていると思ってもらってかまわないが、英国(えいこく)島国(しまぐに)である(ぶん)、他のヨーロッパ大陸(たいりく)諸国と歴史の動きにある種のズレがあるように思われる。近代以前、つまりヨーロッパ中世末期の英国は、日本ほどではないにしろ、島国的な要素が多分(たぶん)にあった。それは、長い中世(ちゅうせい)を通し、他国より大きく侵略(しんりゃく)されるようなことはなかったことを意味する。言い(か)えれば、文化やケルト的習俗の基層(きそう)にそれほどダメージを受けなかったと考えられるのだ。だから、王族(おうぞく)層にすら、幾分(いくぶん)古代以来の母権的な流れが消えなかったのだ、と。

 


日本は母系社会である(27)

2017-01-17 09:33:51 | 歴史

                             (27

 洞(ほら)富雄は、これらの事例は、「弥生(やよい)中・後期以前に存在した母権制社会の遺風(いふう)を示す」ものと考えたらしいが、関口は、特に(3)、(4)の民俗事例が、この時期から「後世(こうせい)まで残ると考えるのは無理(むり)」だといい、そしてさらに、(1)~(6)の事象(じしょう)は、彼女自身すでに考察(こうさつ)した「前・純婿取(むことり)婚期(こんき)<高群用語で7世紀末から12世紀初頃までの婚姻(こんいん)形態(けいたい)>には存在した母系的家族を反映(はんえい)したものと考える」と批判している。これらの批判と論証はまだまだ続くが、私の関心を超えるのでこれぐらいにしておく。基本的(きほんてき)に彼ら研究者の古代母権・母系制に対するスタンスが(ちが)っているから、それぞれの事象で見解(けんかい)の違いをここであげつらってもキリがないのだ。少なくとも、私にとってはあまり意味があるとは思えない。

 そもそも関口裕子は、モルガン・エンゲルス説に当てはめて、日本の古代母系社会を論証しようとしているのに対し、洞富雄は、エンゲルスらを観念的(かんねんてき)非唯物(ひゆいぶつ)史観的(しかんてき)だと批判している(べつ)なマルクス主義・唯物史観派に依拠している。それゆえ、研究者同士(どうし)のいわば(うち)ゲバを見せられているような感を(ぬぐ)(さ)れないのだ。

 とにかく私としては、彼らが(ほ)り起こした、日本の古代母権・母権制社会の徴証(ちょうしょう)なり痕跡(こんせき)を確認するだけでいい。

 その中で私が気になった(2)の母もしくは母方親族(しんぞく)子女(しじょ)命名(めいめい)権に関して、私なりの見解を(の)べてみる。以前私は、『万葉集』にあった、「たらちねの母が呼ぶ名を申さめど (みち)(ゆ)く人を誰(だれ)と知りてか」(123102)を取り上げたことがあった。ここでは母親が付けたと考えられる(むすめ)の名前を男に告げることは、結婚を意味すると折口(おりぐち)信夫(しのぶ)は断じていた。これはこれでいいのだが、母親が名付け親だった名残(なごり)はあるのだろうか?

 そこで『古事記』という「神話(しんわ)」に出てくる、あるエピソードを取り上げてみよう。もちろん、ここで無条件(むじょうけん)に、「神話」をある歴史的事実(じじつ)として(とら)えようとしているのではない。洞もこのエピソードを「命名権(めいめいけん)」の第一(だいいち)引用(いんよう)しているように、(すく)なくとも何らかの<徴証(ちょうしょう)>を示していることを否定するのは難(むずか)しいように思える。

 では、『古事記』<神代巻(しんだいまき)>の11代・(すい)(にん)天皇(てんのう)(ちょう)にあるサオヒコ・サオヒメの挿話(そうわ)要約(ようやく)してみる。

 天皇の(きさき)であったサオヒメは、同母(どうぼ)(あに)・サオヒコから天皇を殺害(さつがい)するようにいわれる。同族(どうぞく)の兄を(いと)しく思っていたサオヒメは、天皇が(ね)ている間に(ころ)そうとしたが、どうしても(は)たせなかった。この異変(いへん)に気付き(め)(さ)ました天皇は、理由を(たず)ね、事情(じじょう)を知ることになる。そして天皇はサオヒコを(う)つことにした。しかし兄思いのサオヒメはひそかに宮殿(きゅうでん)(もん)(ぬ)け出し、兄に(じゅん)じるために兄の(しろ)(いた)ることになる。そのとき、すでにサオヒメは天皇の子を身ごもっていた。天皇は后の(み)(あん)じ、(たたか)いを躊躇(ちゅうちょ)しているうちに、后は天皇の子を生む。そして最終的(さいしゅうてき)に、その子だけが天皇のもとに帰る。しかしその(さい)天皇は、后にその子の名前を尋ねているのだ。「子供の名前はその母親が付けるのだから」と言って。

 これが、「母あるいは母方親族の命名権」に入るということなのだろう。


日本は母系社会である(26)

2017-01-16 10:20:59 | 歴史

                            (26)

  さて、もう一度、日本古代の母権(ぼけん)・母系論にもどり整理してみる。今回は、関口も批判を加(くわ)え引用している、他の研究者が古代母権制をどうとらえているのかを垣間見(かいまみ)よう。

 関口はその批判としてだが、洞(ほら)富雄(とみお)の『新版(しんぱん)日本母権社会の成立』を取り上げて、次のように整理(せいり)している。

 古く日本に母権制の存した徴証(ちょうしょう)を示すと考える諸事象(しょじしょう)を列挙(れっきょ)している。そのうち(1)男より女を、父親より母親を重んずる言語(げんご)伝承(でんしょう)、(2)母もしくは母方親族の子女(しじょ)命名権(めいめいけん)、(3)「人間(にんげん)編入(へんにゅう)」、すなわち生児(せいじ)の社会的人間としての承認儀礼(ぎれい)における外(がい)祖父母(そふぼ)の役割(やくわり)、(4)元服式(げんぷくしき)における母方のオバの役割、(5)子女の結婚に対する母の関与(かんよ)(6)母方親族(しんぞく)の権利に関する記紀での古伝承(こでんしょう)(傍線(ぼうせん)は関口)

(1)については、私が『万葉集』から拾(ひろ)った③、④の例証、(2)は権利とまではいかないかもしれないが、⑬で触(ふ)れている。(5)も⑦や⑧の歌にほのめかされている。私にはこれでも十分なのだが、当然(とうぜん)のことながら、古代史研究者には話にならないだろう。(3)、(4)に関しては、洞(ほら)富雄(とみお)の『日本母系制社会の成立』<1957年刊>(『新版(しんばん)・・・』は入手できなかった)をみると、「人間編入」というのは、柳田(やなぎだ)国男(くにお)が使用した語彙(ごい)のようだ。それは「産後(さんご)はじめて赤児(あかご)を抱(だ)いて里(さと)の親に見せにいく<ニブイリ>」のことで、柳田は、「それが<産入(ニブイリ)>母方の祖父母(そふぼ)に承(しょう)認(にん)せられることを意味したとすれば、以前の族制(ぞくせい)なり婚姻制なりは幾分(いくぶん)今日(こんにち)のものとは異(こと)なって居(い)たのである」としているのに対し、洞はこれをさらに敷衍(ふえん)して、「母処(ぼしょ)<招(しょう)婿(ぜい)>婚的もしくは夫婦別居的(べっきょてき)母系系統制の残存(ざんそん)形態」としている。(4)も(3)と同じように柳田が採集(さいしゅう)した全国各地の元服式に、男子が初めてしめる褌(ふんどし)を、「母方親族とくにオバによって贈(おく)られる」という事例を挙げて、母権的慣習の残存(ざんそん)としている。

 


日本は母系社会である(25)

2017-01-14 09:33:24 | 歴史

                            (25

 実際(じっさい)、<野蛮(やばん)>・<未開>・<文明>、あるいは<集団婚(しゅうだんこん)>・<プナルア婚>・<対偶婚(たいぐうこん)>などと、人類史を理路整然(りろせいぜん)と分類(ぶんるい)したエンゲルスは<でさえ>、『家族・私有(しゆう)財産(ざいさん)・国家の起源』のあるところで、かつてこんなことを言っている。

 {両性間(りょうせいかん)の分業(ぶんぎょう)は}社会における女性の地位とまったく別の諸原因(しょげんいん)によって制約(せいやく)される。女性がわれわれの観念(かんねん)で至当(しとう)なものよりもはるかに多(おお)くの労働をしなければならないような諸民族が、女性に対して、しばしばわれわれヨーロッパ人よりもはるかに多くの真(しん)の尊敬(そんけい)を払(はら)っている。うわべだけの敬意(けいい)につつまれて、実際の労働からはすべて遠(とお)ざけられている文明期の貴婦人(きふじん)は、激しい労働をする未開期の女性よりも無限(むげん)に低い社会的地位にある。(戸原四郎(とはらしろう)訳)

 この部分は19世紀のヨーロッパ人が、南北(なんぼく)の原住(げんじゅう)インディアン(ネイティヴ・アメリカン)に対する観察(かんさつ)・報告(ほうこく)を、エンゲルスがたしなめている部分である。時代が違(ちが)いすぎるではないかという人もいるかもしれないが、エンゲルスのいう、<野蛮の上(じょう)位(い)段階(だんかい)>の、母系社会の真(ま)っただ中にいた、原住アメリカ人社会の実態(じったい)を言っているのである。

 私は、現代の日本社会が当時(とうじ)の原住アメリカ人と同じだというつもりはない。ただ、かなり遅くまで続いた日本の母系社会が、西洋的な範疇(はんちゅう)ではとらえられない、独特(どくとく)な日本社会の基盤になっていることを言いたいのである。

 日本の女権(じょけん)主義者(しゅぎしゃ)はそんなことはない、と言いたいだろうが。


日本は母系社会である(24)

2017-01-14 09:18:47 | 歴史

                          (24

 動画(どうが)ついでだから、次の話題にも触れておこう。ハーバードの選良(せんりょう)たちが、研修(けんしゅう)旅行(りょこう)か何かで日本を(おとず)れたときの話である。さすがアメリカ代表(だいひょう)するエリートだけあって、たかが「遠足(えんそく)」でも一国の首相(しゅしょう)面会(めんかい)できるらしい。その面会で、ある女性が、文明(ぶんめい)(こく)である日本女性の社会的地位がなぜ世界(せかい)で百何番目になるほど(ひく)いのかと質問したという。首相(しゅしょう)がどう答えたかは知らないが、何か戸惑(とまど)っている表情(ひょうじょう)だけは(うつ)されていた。

 この日本女性の社会的地位の(ひく)さはよくニュースになるので、私はそれ以前から知っていた。ただそんな指標(しひょう)は日本社会を知らない、西洋人の視点(してん)からの統計(とうけい)に過ぎないと私は一蹴(いっしゅう)していた。もちろん、賢明(けんめい)な西洋人の中には、よく日本社会を理解(りかい)し、そんなことは問題にならないと話題(わだい)にしない人もいるかもしれない。だから、このニュースの(かお)になった女性を、(わら)いながらたしなめる西洋人もどこかにいるはずだ。


日本は母系社会である(23)

2017-01-12 10:21:31 | 歴史

                         (23

  もう一つ、「南北朝(なんぼくちょう)町期(むろまち)以降(いこう)の武家においてさえ、女子の財産所有が全面的(ぜんめんてき)に否定された事実はない」という女性の<財産権>の問題に関して、である。もっとも、これから話すエピソードがそのことと直接的(ちょくせつてき)な関係があるかどうかは、何とも言いようがない。だからこれは、読者の判断(はんだん)に委(ゆだ)ねるしかない。

 それは現代の一般的夫婦(ふうふ)の<財布(さいふ)>のことである。つまり、どちらが家族の財政(ざいせい)を取り仕切っているかということだ。

 最近私は、(ひま)さえあればYチューブの動画(どうが)サイトを(のぞ)いている。そしてしばしば日本へやって来た外国人(がいこくじん)の動画を見て楽しんでいる。これはあるドイツ人青年(せいねん)の話である。彼は、日本人の奥さんと結婚し、日本の会社で(はたら)いているという。ドイツの大学を卒業(そつぎょう)し、イギリス滞在を経(へ)て日本へ(わた)って来たらしい。だから日本の生活習慣(しゅうかん)とドイツのそれとの比較文化(ぶんかろん)が多い。ある時、会社の同僚(どうりょう)と飲み会に出て、夫が妻から小遣(こづか)いをもらって(の)んでいると聞いて一驚(いっきょう)するのである。こんなことはドイツでは考えられない。なぜ夫が(かせ)いだ金を自由にできないのだ、そんなことありえないよ、と。

 これは、なにも欧州(おうしゅう)文化圏(ぶんかけん)だけに限るまい。一般的なアメリカ人も同様だろう。私の隣人(りんじん)(ちょう)さんの話では、西洋ほど多くはないにしろ、夫のほうが財政権(にぎ)るのがいように感じるという。

 つまり、父権(父系)基盤(きばん)(つよ)民族(みんぞく)・国家社会では、家族の財政も夫が握るのである。それに(はん)して、かなり(おそ)くまで、そして長く母権(母系)制社会が続いた日本では、妻が財政を握るのは、圧倒的(あっとうてき)かどうかは何ともいえないが、かなり多いはずである。だからおそらく、ドイツ(じん)の話を(き)いた日本人(おっと)たちも逆に(おどろ)き、(うらや)んだにちがいない。


日本は母系社会である(22)

2017-01-11 10:35:27 | 歴史

                         

                                (22

 前に戻ろう。財産権云々(うんぬん)の最後に、関口は、高群自身が(おちい)った<矛盾(むじゅん)>として、次のように(の)べている。「彼女によれば、女性が財産所有権を有している限り、その社会は家父長制家族成立以前の未開社会とされざるをえず、(したが)って日本社会は室町以前は未開(みかい)社会とされるのである」と。

 私は、それが<矛盾>かどうか、さらに室町期(むろまちき)まで日本が<未開>社会かどうかあずかり知らないし、そういうことが問題になること自体(じたい)不思議(ふしぎ)仕方(しかた)がない。そもそも私は、10世紀、11世紀まで、まだ母系社会が存続(そんぞく)していたことが証明されているなら、それで充分(じゅうぶん)なのである。なぜなら、紀元前期の古代社会において、家父長制(父系)家族が成立したとされるギリシャ、ローマ、中国(ちゅうごく)朝鮮(ちょうせん)半島(はんとう)しかり)、インド(とう)から比較(ひかく)して、日本は1000年以上も長く母系社会を温存(おんぞん)したということなのだから。これは私の母系論では、どんなに強調してもし(す)ぎることはない。私が最初に言った現代の日本社会の基層に色濃(いろこ)く母系連鎖観念(れんさかんねん)が流れているといった最大の根拠(こんきょ)なのだから。つまり、そういう<(おく)れ>が、どんなに現代まで影響(えいきょう)を与え、他の諸外国と違った<空気(くうき)>を(も)つ社会になったかを。

  (たと)えば、夫方からの離婚(りこん)云々(うんぬん)とあったが、実態はどうだったのだろうか?

 時代が(くだ)って江戸期になるが、有名な<三下(みくだ)(はん)>という離縁状(りえんじょう)がある。たった三行半(さんぎょうはん)の書き付けで、妻は離縁されたと聞くと、何と非情(ひじょう)と思われるかもしれないが、(じったい)はそんなものではなかった。そもそも江戸期の離縁状というのは、再婚(さいこん)する際にどうしても必要なものだった。重婚(じゅうこん)(ふせ)ぐということなのだろうが、夫方(おっとがた)はそうそう簡単(かんたん)に女性を離婚できなかった。離縁された女性が再婚する場合、その離縁状がないと、離縁状を出さなかった男も(ばっ)せられたというのだから。私が手にした「御定書(おさだめがき)百か条」では、それほど具体的な例を見出せなかったが、あるブログに、樋口清之(ひぐちきよゆき)依拠(いきょ)するとして、妊娠(にんしん)したら出産(しゅっさん)するまで、離縁できなかったこと。妻が嫁入(よめい)りの(さい)持ってきたものは(かみ)一枚(いちまい)でも使ったら、離縁できなかったこと。夫婦が一緒(いっしょ)になってから二人で(かせ)いだものを夫が使(つか)ったら、これもまた離縁できかった、とある。これでは、ふつう離婚などできそうもないし、もしこれが事実なら、これは逆に妻より夫を(しば)るのではと思えるほどだ。(こういうことを無視(むし)する夫は確かにいた。「駆(か)け込(こ)み寺(でら)」の存在がそれを物語(ものがた)っている)