海鳴記

歴史一般

日本と英国の出会いー追記(1)

2023-07-16 09:59:34 | 歴史

           追記(1)長州藩の場合

 戦国期、薩摩島津氏がほぼ九州一円まで勢力を伸ばしていたように、長州毛利氏も中国地方まで勢力を伸ばしていた。ところが、島津氏同様、関ヶ原で豊臣側に付いたため、江戸期は外様大名に甘んじた。その後毛利氏は、島津氏と違って、肥大化した武士団を解体して、農民や商人に分散させている。おそらく、このほうが賢明だった。瀬戸内海の出入り口を占めていたこともあり、島津氏のように琉球から掠(かす)め取らなくとも、商業も発達し、農業も新田開発などで、幕末期には百万石の収入があったとさえ言われるまでになったからである。

 幕末期も、薩摩藩と長州藩は共通する部分とすれ違う場面があった。開国後、まず長州藩が公武合体運動を起こし、薩摩は薩摩で、申し合わせたように、すぐその後を追った。文久2(1862)年3月の島津久光の率兵上京である。ところが、長州藩はいつのまにか、一部の攘夷派に主導権を握られてしまう。例えば、文久2(1863)年12月には、高杉晋作、久坂玄瑞、井上馨、伊藤博文らが、江戸品川の御殿山に建設中の英国公使館を焼き討ちしてしまうという事件を起こす。また、文久3(1863)年7月から始まった薩英戦争の2か月前、攘夷決行として下関沖を通る外国船を砲撃するなど、過激な行動をしていたのである。この報復として、米仏の軍艦が長州の軍艦2隻を沈没させ、さらに砲台も破壊した。もっとも、長州藩も負けておらず、すぐ砲台を修復すると、今度は下関海峡を封鎖したのである。これには、諸外国の貿易に支障を来たすとして、翌元治元(1864)年8月、四国連合艦隊が下関を攻撃し、各地の砲台を占拠するに至った。前年の砲撃事件と合わせて下関戦争と呼んでいるが、トータルで四国連合艦隊側の戦死者12名、負傷者は50名だった、それに対して、長州軍は、戦死者18名、負傷者29名であった。これは戦力的にみれば、長州軍は互角以上の戦果をあげたと言えよう。四国艦隊側の戦力は、軍艦計20隻、兵力5,000に対して、長州軍は軍艦4隻、兵力2,000だったのだから。ただ、武器や軍艦の威力の差は、薩英戦争の時のように歴然としていたようで、各地の砲台などの物的損害は甚大なものだった。それゆえ、長州藩もこれ以降、攘夷から開国やむなしという方向に舵をきらざるをえなくなったのである。

 ところで、この四国艦隊を推進し主導したのは、半年ほど前、2年の賜暇を終えて日本に戻って来ていたラザフォード・オールコックだった。彼は休暇中、代理公使のジョン・ニールからの報告で、生麦事件やその後に続く薩英戦争の結果は知っていた。しかしながら、攘夷の嵐がこれほど吹き荒れていることには驚きとともに憤慨した。重要な航路である海峡を封鎖されては、国益を損なうからではないか、と。そこで、米・仏・蘭と連合し、海峡封鎖を解こうとしたというわけである。ところが、オールコックは、戦後、当時の外相であるラッセルから召還命令を受けることになってしまった。というのも、事前の許可を取らなかったという、いわば越権行為を責められたのであろう。外相のラッセルは、パーマストンのライバルでもあった。

 本国に戻ったオールコックは、懸命に抗弁したせいか誤解は解け、外相ラッセルからは再度日本に戻るよう要請されたが、彼は固辞した。清国とは違う日本には嫌気がさしていたのかもしれない。その代わり、彼が次に望んだ任地はアジアで一番地位の高い清国の特命全権公使として、だった。

 序でだが、外国人の殺傷事件として有名な堺事件も挙げておこう。森鴎外や大岡昇平が小説化している事件である。

 時は、慶応4(1868)年2月15日、明治改元まで7か月ほど前のことである。副領事や臨時日本艦隊司令官などを迎えるため泉州堺港にフランス軍艦が入った。そして、士官以下数十名の水兵たちが上陸すると、市内を遊び廻ったという。おそらく、久しぶりの解放感でワイワイ言いながら、商家を覗きこんだりしていたのだろう。夕刻になって、町民から苦情が出た。そこで、市内の警備を担当していた土佐藩兵が、現場に向かい、帰艦するように促すも、水兵たちは言葉が通じないことをいいことに、一向に耳を貸さない。それどころか、藩兵の隊旗を奪い、逃げようとする有様だった。これが、抑え気味だった土佐藩兵の怒りを誘い、逃げる仏水兵を咄嗟に撃ってしまったのである。この後、仏兵も迎え撃つという形で戦闘が始まり、計11名のフランス兵が亡くなっている。土佐藩側の死者はいなかった。数字だけからみると、普通ではない。フランス兵は、地理に不案内ということもあったろう。射撃の上手、下手だけでこんな差は生まれないだろう。水兵たちは、酒でも飲んでいたのだろうか。

 もっとも、この事件は、このフランス人の死者の多さだけが話題になったわけではない。事件後、フランス側は自分たちの非を棚に上げて、賠償金ばかりでなく、戦闘に加わった土佐藩士たちの処刑も要求したのである。その結果、戦闘に加わったと自己申告した20名の土佐藩士が、フランスの外交官や軍人の前で切腹をすることになってしまったのである。これは凄惨な場面であった。 

 未だ開国の気風に染まなかった辺境の武士たちは、この理不尽な裁定に憤怒をもって臨んだことは想像に難くない。だから、思いっきり腹を掻き切ったため、腸(はらわた)が飛び出し、中には苦痛に顔を顰めながら、その腸を手に取って叩きつける者もいたという。

 おそらく、フランス人たちはこの処刑儀式を初め好奇の眼をもって見つめていた。だが、中には、最初の腹切りで吐き気を催した者もいたに違いない。そして、途中で見るに堪えず、その場から立ち去るものもいただろう。しかしながら、理不尽な代償を要求したフランス側は、その要求をすぐには撤回できない。ようやくフランス側の死者と同数となった11人で、この処刑を中止にしたのである。

 日本人と外国人との殺傷事件は、開国以降何件もあった。攘夷が正義だと信じる武士たちがいたからだ。いわば、明治維新は、清国の場合と違ってこういう武士たちが身を挺して起こしたと言えよう。

 明治維新を<革命>だったという歴史家がいる。それと反対に、<明治維新>は、「市民」による革命ではなく、武士によるものだから、<革命>ではないという歴史家もいる。私は、どちらでもないし、どちらでもいいとも考えている。つまり、現在からの視点から言えば、どちらも変わったものもあれば、変わらなかったものもあるからだ。

 確かに、日本の歴史の流れでいえば、<明治維新>というのは大変革だった。一方、フランス<革命>というのも西洋の歴史の大変革だった。しかし、この「市民」によるフランス<革命>といっても、あくまでも白人の男子で、キリスト教文化圏の「市民」だった。これは、本質的に現在も根底にある。もちろん、日本の武士層も、明治以降も、戦後も執念深く生き残り、現在の官僚機構の中に巣くっている。それゆえ、<革命>も<明治維新>も大変革に違いないが、どちらも変わっていない部分を残しているとすれば、表面上の言葉や定義はどちらでもいいと私は考えている。

 


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