海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(56)

2010-08-21 08:21:40 | 歴史
 少なくとも、西郷がその現場にいたなら、処刑は見送っていただろう。そういう場面は多々あったが、その西郷本人はいつも戦闘や処刑の場面から遠く離れている。そして、時々、落穂拾いでもするかのように、そういう「哀れな」話を聞くと、見舞金などを送って温情をばら撒く。
 いったい、「神」にまで祀り挙げられたこの人物は何を考えていたのだろうか。
西郷が、最終的に軍の解散命令を出したのは、延岡北方の長井村で政府軍の重囲にさらされていた8月17日(16日という説もあるらしい)だといわれている。これでは、遅きに失したのではないだろうか。それまでは、軍令は有効だったのだから、本来は総大将である西郷がこれらの責めを負わなければならない。
 そして、西郷に関して、こんなふうに「軽く」言うことすら、長い間タブーだったのである。少なくとも、鹿児島ではごくごく少数派であり、それは私が今まで紹介してきた各地の郷土史を見ても明らかであろう。
 だからこそ、かれが、維新史上、極めて大きく、偉大な事業を成し遂げていたとしても、また、すべての責めを一心に負うかのように城山の露に消えたとしても、この戦争における西郷の「立場」を擁護することはできまい。
 なぜ、どこかもっと早い時期にケリをつけられなかったのだろうか。
なぜ、他郷の人吉を撤退し、鹿児島に戻ったあたりで、「晋ドン、もうこの辺でよか」と言えなかったのだろうか。
 もちろん、今さらこんなことを言っても、意味のないことは知っている。ただ、これを強調し喧伝しなければ、私が追及してきたように、同じ同胞でありながら、いまだに「神」の外へ追いやられた人物たちは、永遠に浮かばれないではないか。これを西郷自身も喜んでいるだろうか。いや、懐の深い、「情」の西郷と呼ばれた人物が喜んでいるはずがないではないか。
 
 かつて私は、西南戦争とは、鹿児島出身者の官軍と薩軍に分かれて戦った、「骨肉相食む」戦争だと考えていた。現代のほとんどの鹿児島人ですら、そう思いこんでいるのではないだろうか。なるほど、官軍側にいて、のちに明治政府の顕官となった人物が、この戦争のため生涯故郷に帰れなかったなどという話を聞くと、むべなるかな、という気はする。だが、本当に「骨肉相食む」だといえるのは、ともに薩軍として戦い、途中で離脱した赤塚源太郎や黒江豊彦らのその後ではないだろうか。彼らは、故郷にもどこにも居場所がなかっただろうから。