海鳴記

歴史一般

西南戦争史料『破竹・雷撃本営雑誌』 (25)

2010-04-30 08:35:59 | 歴史
 7月6日になると、前述した間諜族姓云々の書類を回送したという一つ書きの他は、特に変わった記述はない。本営への出入りや他地区の進軍状況の条があるだけである。ただ気になることといえば、無銃兵を組織した云々の条項があるところだ。以後、度々弾薬製造所へ人員を派遣したことなども出てくるが、いかに武器弾薬が不足してきたかの証左であろう。
 さて、翌日の7日は、また今までとは違う、異彩を放った記述が出てくる。この部分の一部を抜き出してみる。本営隊長である河野主一郎がどこかから帰陣した一つ書きの後に書かれているので、そこから始める。

一、河野主一郎 午後三時帰営
       鵬翼五番中隊 左半(半は二重線消し=見消)小隊半隊長
           樋脇 菊池重太
一、年三拾八歳
一、身ノ丈 中男
一、面 長キ方
一、色 白キ方
一、少々疱瘡アトアリ
一、眉目髭刺ヒ
一、着物 単へ 竪縞ノ鼠色
一、刀帯

 以下、まずこういう人相書が5つ並んでいる。そしてかれら5人は、7月5日の晩に脱走したとある。
 半隊長というのは、何人の部下を従えているのか知らないが、2番目に押伍という肩書きの人相書が出てくる。これは以前も触れたことがあるが、5人くらいの部下がいる伍長クラスだろう(注)。以下3人は、兵士である。最初の半隊長は、樋脇(ひわき)と書かれているが、残り4人は特に書かれていない。しかし、樋脇郷出身士族だろう。というのは、次に、7月3日の晩に脱走した樋脇郷出身の2人の人相書が出てくるからである。もっともかれらは、士族ではなさそうである。夫卒とあるので、いわば隊長クラスに付く従卒で、平民かあるいは卒族とよばれる人たちであろう。

(注)・・・加治木常樹著『薩南血涙史』でも、押伍と伍長は区別している。しかしながら、戦後の刑罰では「除族の上一年(の懲役)」という分隊長の下で、「押伍・伍長・小荷駄・兵士は自宅謹慎」とあるから、押伍というのは幕末期の什長クラスに相当するのかもしれない。




西南戦争史料・『破竹・雷撃本営雑誌』 (24)

2010-04-29 08:44:58 | 歴史
 それでは、次の記述に進もう。翌日の2日であるが、野尻番兵所で捕らえられた大河平人が小林本営に連行されて来た日である。つまり、この日、高岡で護送人に手傷を負わせた山田郷士族が打ち果たされたことと、妻に手傷を負わせた高崎士族が牢に入れられた日のことである。
 翌7月3日は、戦闘以外で、久しぶりに血しぶきが飛んだ日である。もっとも味方ではなく、生け捕った官軍兵のことだ。

一、分捕(ぶんどり) 生捕四五名 都(すべ)テ斬首 乗馬弐(に)頭

 まさか、四十五名を生け捕って斬首したということではないだろうが、四、五名という数がはっきりしないのも奇妙なことだ。すべて斬首したと書いているのだから、4人か5人などという曖昧な数字の書き方はどうなっているのだろう。敵だから、名前はもちろん、4人だろうと5人だろうとどうでもいいのだろうか。
 ところで、次の4、5日は、各戦線への出軍記録や各部隊の本営への出入りなどがほとんどで、それもかなり詳細に記述している。戦線が散らばり、どこも兵員が足りていないことが伝わってくる。5日は、総軍配置したことのある飯野口さえ破られそうになったことを書き留めているほどだ。
 また5日は、上荘内軍務裁判所から2日に本営へ送られてきた大河平人を送致するように連絡があった日で、大河平人の名前が出てくる最後の日でもあった。さらに、以前(20)、高岡(現在の都城市より宮崎市に近い地区)より間諜族姓云々の書類を郷継ぎを以って、上荘内軍務裁判所へ回送した(7月6日)ことを大河平人と関係があるかのように言及したことがあったが、この日、これと関連していると思われる一つ書きがあった。うっかり見落としていたものだが、次ぎのような条である。

一、高岡郡代事務掛 長野助兵衛ヨリ間諜は族姓云々之義申出 右書面 裁判所江廻達ス

 これは、大河平人山口弥四郎を上荘内軍務裁判所へ送致するという一つ書きの次ぎに書いてあるので、右書面(一つ書きは縦書)というのは、やはり大河平人と関連があることなのかもしれない。ただ、大河平人は野尻番兵所で捕まっていて、高岡とはかなり離れているので、実際はよくわからない。



西南戦争史料・『破竹・雷撃本営雑誌』 (23)

2010-04-28 09:18:53 | 歴史
 話は、また取りとめないところへ行ってしまったが、元へ戻そう。薩軍の規律の緩みのことである。
 6月24日、つまり、内山覚左衛門の妻子が病院に送られた翌日のことまでは記述したので、それ以降のことを見てみる。
 この5日後の29日、この日は、覚左衛門の妻子の傷が癒えたのか、高城病院から小林本営に、入牢させるかどうか問い合わせてきた日でもある。この日は、逃亡や捕縛の件に関する一つ書きが3つある。それぞれ抜き出してみると、

一、蒲生(かもう)郷江御用封出ス 遁逃人一件ナリ
一、飯野原田村農民等六名捕縛シ来レリ
一、蒲生逃亡人 石神宗之進已下(いか)七名 吉田本営ニ送附ス

 である。最初と最後は、関連しているのかどうかよくわからない。もし関連しているとすれば、石神宗之進以下7名のことを問い合わせるために、かれらの出身地に手紙を出したということだろうか。もっとも、私には蒲生(郷)はともかく、吉田本営の場所がどこにあるのかもわからないが。
 ただ、ここで救われるものがあるとすれば、24日もそうだったが、斬罪という語はないということである。やはり、冷静になってきたのだろうか。
 では、次に移ろう。7月1日にこんな記述がある。

一、蒲生脱帰人三名旧学校江入置(いれおき)候

 文字通り読めば、蒲生郷の脱走人が本営に帰ってきたので、旧学校(その地区の私学校の校舎?)に入れて置いた、ということだろう。前回の石神宗之進以下の7名のうちの3人ということはないだろうが、ひょっとして、最初の遁逃人のことだろうか。つまり、宗之進以下7名以外にも逃げたものがいて、それで、本営側は蒲生の戸長へ探索のために手紙を出していた、というように。
 だが、かれらは逃げ延びることができないと判断してまた本営に戻ってきた、と解釈するのも可能である。

(注)・・・現在は鹿児島市に組み込まれているが、旧鹿児島郡吉田町のことだろうか。

西南戦争史料・『破竹・雷撃本営雑誌』とは (22)

2010-04-27 09:30:17 | 歴史
 私は、明治維新が革命であるかどうかという議論はともかく、西南戦争は明治維新を推進した戊辰戦争の延長上にあると考えている。 
 だから私は、この水戸藩の陰惨極まりない内部抗争を知ったとき、すぐに大河平事件を連想した。そしてこれは、たとえ局地的な事件だったとしても、ある意味で水戸藩以上の過激さでないか、と思ったのである。と同時に、やはり、水戸藩のような報復合戦だったのだろうか、と。
 しかし、もしそうであるならば、何かそれなりに納得のいく史料や言い伝えが出てきてもよさそうなのだが、私にはその痕跡すら見い出せなかった。

 さて、大河平事件をざっと振り返ると、薩軍は、大河平地区の主家筋である鷹丸にその地区の家々の焼き払いを命じ、鷹丸はそれを実行した。前日、小林に本営を移した薩軍は、隣接地区の飯野まで進駐していた官軍がそれらを利用することを恐れたからである。だが、飯野での戦いから帰った川野道貫や清藤泰助らは、これを見て怒り、家々を焼き終えて家に戻る途中の鷹丸一行を見つけると、有無を言わせず斬りつけた。ところが、鷹丸の従者一人を打ち倒しただけで、鷹丸主従は何とか急ごしらえの家まで逃げ延びる。まあ、ここまでは、ありうることとして不自然な感じはない。たとえ同じ薩軍側にいて、かつその地区の主家筋の若殿様に斬りつけたとしても、自分たちの家まで焼かれたとあれば、無理もない、と思えるだろう。戦争中という殺伐とした空気の中にいるのだから、と。 
 しかしながら、これだけのことで、翌日、さらに十数名という徒党を組み、鷹丸や従者はともかく、5ヶ月の赤ん坊から10歳までの妻子5人を一挙に惨殺する動機になるだろうか、と考えると、よくわからなくなるのである。
 私は、生麦事件関係者の墓石調査からこの事件を知り、商売をないがしろにしてまで調べ出してからも、納得するような結論は得られなかった。何かもっと隠された動機があったのではないだろうかと必死に探しても、納得のいく結論は得られなかった。
 もちろん、一部でも(宮崎県側)この事件が明るみに出されるようになったのは、ごく最近のことなのだから、わからなくなっていたとしても仕方のないことなのかもしれない。しかし、これだけの衝撃的な事件の顛末がわからなくなったとあれば、その地の歴史の汚辱である。だとすれば、その汚辱は清めなければなるまい。清めて鎮魂しなければ、また繰り返すことになりかねないだろう。「歴史は繰り返す」ようのだから。


西南戦争史料・『破竹・雷撃本営雑誌』とは (21)

2010-04-26 08:54:06 | 歴史
 ただ高岡という場所は、現在の地図帳を頼りにすれば、小林本営から上荘内に至る道筋にはない。小林から上荘内まで、郷継ぎをもってすれば、小林の次ぎは高原、その次ぎは高崎で、最後が上荘内(都城市)に至る。いわば、大淀川上流に向って南下しているのに対して、高岡という地は、大淀川下流に東行する途中の宮崎の手前にあるのである。それゆえ、前日の大河平の件とは、関係ないと判断していいように思える。
 
 以上、この『本営雑誌』の大河平関係記事への追跡は終わった。ただ、その間の薩軍の空気を伝えるため、戦闘や異動の報告以外の斬罪処刑の記事もピックアップしてきた。これは、何も薩軍を貶めるために掲載したわけでは勿論ない。英雄の獅子奮迅の戦いばかり喧伝されてきたきらいのあるこの戦争絵巻を、よりリアルな戦争史に戻したいためである。そうでなければ、この戦争中、なぜ大河平事件のような理解し難い陰惨で残酷な殺戮が行われたのか、皆目見当もつかないからである。
 閑話休題。私は、つい最近、『黒船以降 政治家と官僚』という題の対談集を読んだ。対談者の一人は、もともと近代イスラム・中央アジア史の研究者で、維新史にも造詣の深い山内昌之氏ともう一人は歴史作家の中村彰彦氏である。その中で、幕末水戸藩の、ある報復合戦の顛末を述べた件(くだり)があった。
 それは、文久3年(1863)、水戸藩の過激派である藤田東湖の四男・小四郎や武田耕雲斉らが、幕府に横浜鎖港を迫るため、筑波山で挙兵した、いわゆる天狗党の乱を発端にしている。この乱を鎮めるため、幕府の援軍を得た保守派(諸生党)の市川三左衛門らは、いったん交戦して敗れると、水戸に戻って天狗党の家族を処刑・投獄したというのである。
 たとえば、武田耕運斉の家族の場合、妻40歳、息子二人それぞれ10歳と3歳、男孫それぞれ15歳と13歳と10歳は死罪。女孫、息子の妻43歳、武田の側室18歳は永牢という過酷な報復に出たのである。その中で、もっとも残酷なのは、「首切役もさすがにためらった三歳の乳呑児を別人がむんずと体をつかんで短刀で刺殺した」(山内昌之)ことだという。
 そして、これら陰惨きわまりない報復を、「大仏次郎は、(仏)革命のモッブでも、世界中これだけ残酷な復讐には出ていない」(山内昌之)と言っているようなのである(注)。

(注)・・・この4年後、戊辰戦争が終わると、武田耕雲斉の息子・金次郎は、「天誅や朝敵として人を切りまくる。しかも、諸生党だけでなく、穏健な天狗や鎮派も容赦しない。尊王も攘夷もない。あるのは一途な復讐の念だけです。金次郎の天誅騒ぎが一段落するのは、明治二年から三年あたりでしょう。門閥の朝比奈知泉の家に残されたのは十二、三歳くらいが最年長の幼児ばかりだったというから同害報復は徹底していました」(山内昌之)という。

西南戦争史料・『破竹・雷撃本営雑誌』とは (20)

2010-04-25 09:34:17 | 歴史
 こう考えてくると、このあとのほうの事件は、薩軍の軍律が緩み出しているというより、薩軍が追い込まれている狂気といったほうが当たっているのかもしれない。そしてその狂気が、出軍兵士の家庭をも破壊し、入牢沙汰にまで及んでしまったのだ、と。
ただ救われるのは、入牢だけで済んでいることだ。これが斬罪にまで及ぶような過激さだったら、大河平人も入獄だけではすまなかっただろう。だからおそらく、大河平人も斬罪までに至ることはなかった、と思える。
 では、次に大河平人が出てくる記録を見てみる。7月5日である。
あっ、まだ目を通していなかったためうっかりしていたが、この日出てくるのは、前回出てきた大河平人・山口弥四郎の件だった。やはり、まだ無事だった。ともかく、この部分だけを抜き書きする。

一、上荘内軍務裁判処 河野半蔵より大河平之山口弥四郎可送附旨(送り付けるべきむね)申来(申し来たり) 当郷士族斉藤伊十郎 外弐名(ほか2名)宰領付ヲ以 郷継(ごうつぎ)ニ而 送致ス

 上荘内(庄内)というのは、現在は宮崎県都城市に組み込まれていると思うが、そこに薩軍内の(軍律)裁判処(所)が置かれていたのだろう。そこで、山口弥四郎に判決を下すから、送るようにと連絡がきたのだ。もっとも、山口弥四郎を捕らえた時点で処置に困った小林本営側が、軍務裁判所に問い合わせ、その結果、裁判所側に送るようにと連絡をしてきた、ということにちがいない。
 なお、郷継ぎというのは、上荘内まで、各郷ごとに人馬を乗り継ぐことということで、江戸時代では、どの街道筋もこれが普通だったようである。

 この後、大河平という地名が出てくるのは、7月8日で終わりになる。それも、上荘内軍務裁判処から「大河平犯罪人名簿」を差し送るように、という連絡事項である。またもう一つ、大河平に関した記事なのかどうかよくわからないが、山口弥四郎が5日に軍務裁判所へ送られた翌日の6日の最初の一つ書きに次ぎのような事項が記されている。

        七月五日 晴
一、上荘内軍務裁判所江高岡ヨリ送致シ 間諜族姓云々之書類 郷継を以廻ス
 とある。

西南戦争史料・『破竹・雷撃本営雑誌』とは (19)

2010-04-24 08:24:18 | 歴史
 まず、その変わった事件の一つを抜き書きしてみる。

一、 捕縛(二重線<墨>消し)山田郷(宮崎県)士族田中猪之丞於途中(途中に於いて) 護送人両名江手疵ヲ為負候(護送人両名へ手傷を負わせそうろう)ニ付打果候段(打ち果たしそうろうだん)高岡ヨリ届出ル

 私が、今までにない、変わった事件の一つと言ったのは、護送人の二人がたとえ捕縛の仕方が緩やかだったにしろ、被護送人一人に手傷を負わせられたことである。
 これは2人の護送人の気の緩み、油断以外に考えられない失態である。つまり、薩軍全体の空気が緩んでいたことを物語るものとして、次に挙げる事件と同様と感じられたからである。

一、高崎(宮崎県)士族池之上八郎兵衛妻ニ手疵ヲ為負候後 帰隊之旨申出候処 同郷戸長送状相与ヘ候末 右始末親類與中(親類組中)ヨリ届出候段申出候付 致捕縛入獄申付候事
 
 正直言って、私は正確にこの内容を把握したか自信がない。主語の捉え方によっては別な風に解釈もできそうだったからである。とにかく字づら通り素直に読んでみる。
 (一時的に帰宅していた?)高崎(郷)士族の池之上八郎兵衛が妻に手傷を負わせた後、自分の属する隊に帰ることをその郷の戸長を届け出た。戸長は送り状(通行手形?)を与えたが、妻に手傷をおわせたことが親類に知られ、その届け出があったので捕縛して牢に入れた、と。
 何だかすっきりしないところもあるが、こんな意味合いになるだろうか。
ところで、主語の捉えかたによって、別な解釈も可能だ、と言ったのは、私は薩軍の緩みという先入観があったので、最初、「高崎(郷)士族が、池之上八郎兵衛の妻(を襲って)に手傷を負わせ」と読んでしまったのである。 
 ただこれでは後に続かないし、高崎士族が主語で、八郎兵衛の妻が目的語なら、「八郎兵衛之妻」となっていただろう。それに牢に入れられた本人の名前もわからずでは、全く意味をなさないことに気づき、初めの素直な解釈に至ったというわけである。しかしながら、すっきりしない、と言ったのは、なぜ八郎兵衛は自分の妻に手傷を負わせたのか。また、その報告が(妻の)親類からあって、なぜ入牢させられたのか、よくわからないのである。

西南戦争史料・『破竹・雷撃本営雑誌』とは (18)

2010-04-23 09:37:26 | 歴史
 話を元に戻そう。『本営雑誌』には、6月23日、覚左衛門母娘が病院に送られた後、その6日後に再度母娘の処置をめぐっての記述の間には、大河平に関する記録は何もない。ほとんどが戦闘や作戦の状況や異動の報告の類である。それらの中で、一つだけ違っているものがあるとすれば、24日の処刑報告である。もっとも、もうこの頃になると、斬罪とか処刑という言葉は直接出てこなくなる。小林本営付ではない鵬翼隊の兵士が、「逃亡候ニ付 御規則之通軍法ニ処候間」これを中隊長に届けます、というような書き方である。大河平事件後の多すぎる「斬罪に処す」という語に、記録者も抵抗を感じ出していたのかもしれない。

 さて、6月29日、傷が癒えた覚左衛門母娘を牢に入れるかどうか小林本営に打診があった後、薩軍の記録から彼女たちの消息は絶えた。では、その後の大河平に関する記事はというと、彼女たちが大楽という地で処刑される2日前の7月2日にあった。
では、その部分の日誌を抜き書きしてみる。

一、大河平人山口弥四郎賊兵之間諜トナリ入来シニ 野尻番兵処ニテ捕縛
  当営ニ護送ス

 反徒でも逆徒でもない「大河平人」という表記だが、事件から二週間以上も経過して、さすがに冷静になってきたということだろうか。事件当時だったら、大河平人に限らず、敵のスパイをしていてそれを白状したら、その日のうちに斬罪だったはずだ。だが、ここにはこれ以外何の記述もない。そして、その後もどうなったのかも皆目わからない。ただ、この日、他に今まで例のない2つの変わった事件があり、その一つが、この大河平人の今後を教えてくれるかもしれない。

西南戦争史料・『破竹・雷撃本営雑誌』とは (17)

2010-04-22 09:15:07 | 歴史
      六月二十三日 晴
一、大河平氏徳子ヲ鹿児島ニ送致ス
一、反徒内山覚左衛門カ妻子ヲ高城(たかじょう・宮崎県)■■病院ニ廻ス
一、午後七時比(ごろ) 河野氏野尻ヨリ帰営候事

 最初の大河平氏徳子というのは、主家側の縁者だろうか。鹿児島に送致する、というのなら、やはり鹿児島に家のある主家に連なる女性であろう。
 次に、前回も触れた内山覚左衛門の妻子が出てくる。妻の千代亀と娘タツのことである。彼女たちは、6日後の29日にも出てくるが、その時は、入牢させるかどうか病院から連絡があったと記している。おそらく、怪我なり病気なりが回復したと判断した病院側は、その後どう処置すべきなのか報告してきたのだろう。もっとも、二人は7月4日に、都城(みやこのじょう)の後方基地であった大楽(だいらく)という土地で処刑されている。千代亀は40歳、娘・タツは18歳であった。これは、今でも土地の人に「大楽哀話」として語り継がれている。しかしながら、7月4日の薩軍記録には、何もない。戦闘員にもなりえない母娘を殺害するにはそれなりの理由もあっただろうが、残忍で冷酷非情なことに変わりはない。
 私は、大河平事件を調べるようになってから地元の郷土史家と知り合い、この内山覚左衛門に連なる子孫家に残っている史料をコピーさせてもらった。だから、加害側にいたとはいえ、この家族の運命にひとかたならぬ同情を禁じえない。まず、覚左衛門は息子の為行とともに、鷹丸一家斬殺に加わった。そしておそらく、覚左衛門もそうだろうが、息子為行は除族(士族の剥奪)の上、鹿児島で一年の計を受けている。息子・為行の判決文の写しが残っていたのである。
 だが、この刑期を終えたあとも、すぐには大河平には戻れなかったようである。明治15年2月24日付けで、覚左衛門の鹿児島における保護観察人が出した『保釈帰村願』という写しも残っていたからである。それゆえ、覚左衛門も為行も、妻子が亡くなったことは知っていたとしても、長い間墓参りすらできなかったであろう。
 のちに鹿児島県が非を認め、そこから送られた弔祭料や埋葬金で、誰かが母娘の墓を建てていたとしても。

西南戦争史料・『破竹・雷撃本営雑誌』とは (16)

2010-04-20 09:30:39 | 歴史
 もっともこういう推測も、17日には、清藤ら加害側15名は、官軍に投降しているのだから、かれらの居なくなった大河平では、鷹丸一家の屍体をそのままにしておいたと考えるほうが不自然である。なぜなら、『大河平史』の中に、鷹丸家の忠実な家来夫婦が小林に隠れていたせつやヒデを訪ねて行った、とあるように、まだ鷹丸家の家臣や家僕が残っていたはずだから、かれらが主人家族の屍体をそのままにしているはずがないのだ。
 そして、仮にこれが正しいとすれば、大河平に至った隆芳は、かれらから鷹丸一家の惨状を耳にしてそれをのちの「嘆願書」に書いたのだろう。隆芳の記述に、遺体の腐敗過程が感じられないのもそのためかもしれない。いくら山里でも梅雨時なのだ。3,4日もそのままにしていたら、辺りは悪臭に満ち、傷口にうじが湧き、そこら中を這い回っていたとしても不思議はないのだから。

 とにかく、推測に推測を重ねても仕方がないので、次に進めることにする。6月21日の薩軍側の史料には、大河平に関する何の記述もなかったが、翌22日には、次のように書かれている。

      六月二十二日 曇
一、 惣軍進撃
一、 大河平之徒九名ヲ縛ス
一、 今夜大隊長高原ニ出張

 初めの一つ書きは、この日、飯野でまた戦闘を開始したということだろう。また三つ目の箇条書は、小林本営隊長である河野主一郎が、他の隊長たちと今後の作戦会議等のため高原に出掛けたということかもしれない。
 さて、真ん中の「大河平之徒」であるが、かれらが小林本営に投降したとも、逆賊とも書いていない。ということは、前日の大河平掃討で本営に連れてきた加害側関係者たちのことを単に縛した、つまり逮捕した、ということだろうか。おそらくこの中には、翌日の日誌に出てくる内山覚左衛門の妻子も含まれていたのだろう。
 では、翌23日の記録を見てみよう。