海鳴記

歴史一般

日本は母系社会である(7)

2016-12-31 10:09:06 | 歴史

                           (7)


 ここで私のごく身近(みぢか)な例をあげる。

 私の家の向(む)かいに趙(ちょう)さんという韓国(かんこく)系(けい)在日(ざいにち)の人がいる。70歳(さい)前後で(ぜんご)で今(いま)では年金(ねんきん)生活(せいかつ)送(おく)っているようだが、名前を訊(き)ないかぎり、どこにでもいるごく普通(ふつう)の日本人と変(か)わりがない。特(とく)懇意(こんい)にしているわけではないので、時々(ときどき)散歩(さんぽ)顔(かお)合(あ)わせて挨拶(あいさつ)をする程度(ていど)だった

 ある時、海岸沿(かいがんぞ)いの散歩道(みち)出遭(であ)った際(さい)、私はふと思いついて、趙さんの家系は何代(なんだい)ぐらい前まで遡(さかのぼ)れるのか訊(き)いてみたことがあった。すると趙さんは、やや考(かんが)込(こ)んでしばらく宙(ちゅう)を見るような表情(ひょうじょう)をした。私は趙さんを困(こま)らせてしまったかな、と一瞬(いっしゅん)後悔(こうかい)した。しかし後(あと)でわかったのだが、趙さんは私により正確(せいかく)情報(じょうほう)与(あた)えたかったようなのである。その散歩の終(お)わりに、私を家に招(まね)き、A4判(ばん)大(だい)分厚(ぶあつ)2冊本(にさつぼん)の家系図を見せてくれたのだから。

 私はある程度は予想(よそう)をしていたが、これほど本格的(ほんかくてき)なものとは考えもしなかったので、本当に驚(おどろ)いた。そしてこれは誰(だれ)が作ったのかと尋(たず)ねると、韓国にいる弟(おとうと)作(つく)って送ってくれたのだと言う。それでは弟さんは何をしている人なのかと問(と)うと、地方(ちほう)公務員(こうむいん)だったそうで、退職(たいしょく)してから家系図作(づく)りに励(はげ)んだというのである。

 ちなみに趙さんの直接(ちょくせつ)の先祖(せんぞ)、いわゆる本貫(ほんがん)地(ち)までだと、30代まで遡(さかのぼ)れるという。何とまあ、驚(おどろ)くほかない。庶民(しょみん)の名もない日本人で、これだけ先祖を辿(たど)れる人はいるだろうか?

 もう一つ、中国(ちゅうごく)のことにも触(ふ)れておこう。

 まだ10代だったか、20代だったか忘(わす)れたが、テレビのニュースで、孔子(こうし)の百(ひゃく)何代目かの子孫(しそん)が話題(わだい)になったことがあった。孔子は、日本人にも多大(ただい)な影響(えいきょう)を与えた思想家(しそうか)だが、紀元前(きげんぜん)に活躍(かつやく)した人物である。だからかもしれないが、いやそれにしても、普通の中国人が、誇(ほこ)らしげに百何代目だなどと名乗(なの)る社会に吃驚(きっきょう)したので、いまだに記憶(きおく)に残っている。


 


日本は母系社会である(6)

2016-12-30 11:38:50 | 歴史

                         

                         (6)

            日本人の大半は、なぜ先祖を辿(たど)ろうとしないのか。

 

 大抵(たいてい)の日本人は34以前(いぜん)の先祖はわからない。というより基本的(きほんてき)に関心(かんしん)がない無作為(むさくい)調査(ちょうさ)したとしても、私は、日本人の家庭(かてい)父方(ちちかた)(母方もそうだろうが)曾祖父(そうそふ)<3代前>以降(いこう)9割(わり)近(ちか)くの人は答(こた)えられないのではないか、と思える。もちろん、残(のこ)り1割位(ぐらい)の人は、即答(そくとう)できないとしても、それらしき家系図をもっているかもしれない。しかしながら、それなりに信頼(しんらい)できる系図を所有(しょゆう)しているのは、数(すう)パーセント位の割合にしかならないのではないだろうか。それもあまり当(あ)にならない、と思うが。

 現代についていえば、明治とそれ以前の社会体制(たいせい)制度(せいど)違(ちが)いが大きく、先祖を追(お)いにくくしている点もあるだろう。ただ問題(もんだい)はそういうことではなく、もともとそれぞれの時代(じだい)の父系的(ふけいてき)基盤(きばん)が弱(よわ)かったため、強力(きょうりょく)な父系制度が定着(ていちゃく)しなかったことの証明ではなかろうか。逆(ぎゃく)な言い方をすると、日本は古代(こだい)より長(なが)母系社会が続いたため、それぞれの時代の上(うえ)からの押(お)付(つ)けなどあまり効力(こうりょく)がなかったのだ、と。だからこそ、日本の為政者(いせいしゃ)たちは、父系をたどれる戸籍(こせき)>制度など作(つく)ることもなかったのだ

 

 


日本は母系社会である(5)

2016-12-30 10:40:28 | 歴史

                           (5)

 それなのに、なぜ奈良原男爵家(だんしゃくけ)(ほこ)らしげに系図(けいず)(のこ)さなかったのだろうか?(なに)記録(きろく)(のこ)せない不都合(ふつごう)や、または不名誉(ふめいよ)なことをした先祖(せんぞ)でもいたのだろうか?しかし、これは私が調(しら)べあげた(かぎ)りでは、ありえそうもない。なぜなら、もしそういう事件(じけん)事例(じれい)にかかわっていたなら、(はん)公式(こうしき)記録(きろく)かにっているはずなのだ。私は、そういう記録出合(であ)うことは一切(いっさい)なかった。というより、それなりの活躍(かつやく)地位(ちい)のある先祖の記録(きろく)しか(み)いだせなかったのである。

 では(たん)に自分(じぶん)たちの先祖に関心(かんしん)興味(きょうみ)がなかっただけなのだろうか?あるいは、そうかもしれない。少なくとも先祖を辿(たど)ることが重要(じゅうよう)なことだと(かんが)えなかったことだけは(たし)からしく思える。もっと(べつ)(い)(かた)をすると、奈良原繁のような階層の社会でも、父系(ふけい)相続がそれほど(おも)意味(いみ)をもたないという「空気(くうき)」があったのではないか、ということである。

 残念(ざんねん)ながら、奈良原男爵のような華族(かぞく)やあるいは(た)の支配層の地位を(きず)いた家系のなかに、自分(じぶん)たちの先祖に関心のない家があったのかどうか、私は知らない。そのことにさほど興味(きょうみ)もない。なぜなら私は、奈良原家の(れい)だけでも、現代(現代)日本の母系基盤(きばん)の強(つよ)さを暗示(あんじ)するのに充分(じゅうぶん)だと(かんが)えているからである。 

 

 


日本は母系社会である(4)

2016-12-29 10:29:46 | 歴史

                           (4)

 たとえば武家(ぶけ)社会(しゃかい)では、跡取(あとと)りの男子(だんし)がいない場合(ばあい)、婿養子(むこようし)をとって家を存続(そんぞく)させることは普通(ふつう)のことだった。それは大名家(だいみょうけ)を含(ふく)め、上級(じょうきゅう)、下級(かきゅう)にかかわらず、ほぼ徹底(てってい)していた。そのためにそれなりの系図(けいず)も整(ととの)えていた。養子縁組(えんぐみ)で釣(つ)り合(あ)わせる家格(かかく)があるからである。またそういうことをしなければ、代々(だいだい)受(う)け継(つ)いできた禄(ろく)、すなわち収入(しゅうにゅう)がなくなる恐れ(おそれ)があったのである。

 なるほど、武家政権(せいけん)が滅(ほろ)んだ明治以後(いご)、家禄(かろく)は廃(はい)され、代々(だいだい)の系図などあまり意味(いみ)をなさなくなってしまった。しかし、明治以降(いこう)の支配層(しはいそう)は、江戸(えど)時代(じだい)の支配層だった武士出身(しゅっしん)階層(かいそう)がそのまま政治家(せいじか)や高級(こうきゅう)軍人(ぐんじん)・役人(やくにん)及(およ)び知識階級(ちしきかいきゅう)の大半(たいはん)を占(し)めたのである。これは当然(とうぜん)といえば当然だろう。なぜなら、江戸期(えどき)の庶民層(しょみんそう)の識字率(しきじりつ)がどんなに高くとも、支配機構(きこう)の中核(ちゅうかく)を占めるほどの知識(ちしき)を身(み)につけたわけではなかったからである。おまけに、明治維新(いしん)の推進力(すいしんりょく)は百姓(ひゃくしょう)や町人(ちょうにん)ではなく、大半は下級(かきゅう)だが、武士層(ぶしそう)から沸(わ)き上(あ)がった「革命(かくめい)」だったのだから。

 そういうわけで、明治期になって功(こう)なり名(な)とげた人物(じんぶつ)たちにとって、たとえどこかで取り繕(つくろ)っていたとしても、彼(かれ)らの先祖(せんぞ)を書(か)きたてるのはそれほど難(むずか)しいことではなかった。さらに、彼らの中から選(えら)ばれた「華族(かぞく)」になればなおさら、系図(けいず)を並(なら)べあげても不思議(ふしぎ)ではない。いわんや、周(まわ)りには、長(なが)い家系(かけい)を誇(ほこ)る公家(くげ)出身者(しゅっしんしゃ)がほとんどを占めていたのである。要(よう)するに、明治期の華族階層(かいそう)は、形式上(けいしきじょう)でも、長い間(あいだ)父系(ふけい)相続(そうぞく)を維持(いじ)してきた家系(かけい)がほとんどだったのである。


日本は母系社会である(3)

2016-12-29 10:11:55 | 歴史

                      (3

 確(たし)かに、奈良原繁と関連(かんれん)がないとはいえない、ある子孫家(しそんけ)から系図(かけいず)は見つかっている。ただそれは、(だれ)作成(さくせい)したのか不明(ふめい)で、また郡部(ぐんぶ)出身(しゅっしん)郷士(ごうし)推測(すいそく)される、ある奈良原家(ならはらけ)家族(かぞく)を、どの系統(けいとう)かはっきりしない城下(じょうか)の奈良原家に無理(むり)やり(く)(い)れた系図のようであった。

 それ以外(いがい)(はん)公的(こうてき)史料(しりょう)にもポツリ、ポツリと奈良原家は見い出すことはできた。それらによれば、戦国(せんごく)末期(まっき)(きょう)出向(でむ)いていた、当時(とうじ)薩摩(さつま)藩主(はんしゅ)(ともなわ)れて薩摩(い)りしていることがわかる。つまり、奈良原家は在地(ざいち)家系(かけい)ではなかったようだ。そしてその(ご)末期(ばくまつき)には鹿児島(かごしま)城下(じょうか)四家(よんけ)奈良原(せい)(そんざい)していた。墓石(ぼせき)調査(ちょうさ)から本家(ほんけ)らしき(いえ)推測(すいそく)できた。しかし、その家同士(どうし)のつながりなど皆目(かいもく)わからなかったのである。

 最初(さいしょ)、幕末期の(さつえい)戦争(せんそう)明治後(めいじご)西南(せいなん)戦争(せんそう)(や)かれ、そのため資料(しりょう)(うしな)われてしまったのだろうか、とそんなふうに(かんが)えた。そう考えるしかなかった。 

 だが、爵位(しゃくい)をもらった(ころ)や、また晩年(ばんねん)に「伝記(でんき)」が書かれた頃、どうして自分で調(しら)べたり、あるいは調査(ちょうさ)させたりしなかったのだろうか、と不思議(ふしぎ)(おも)うようになった。がそれなりの地位(ちい)名誉(めいよ)(きず)くと、先祖(せんぞ)系譜(けいふ)(お)いたがるのだから。たとえ(うたが)わしい、あるいは虚構(きょこう)系譜でも、さももっともらしく(つく)(だ)された家系は、徳川家(とくがわけ)などの(れい)(あ)げるまでもなく、(かぞ)えあげればキリがないだろう。奈良原繁も先祖調べあげるのは簡単(かんたん)だったはずだ。当時(とうじ)なら、親族(しんぞく)関係(かんけい)(い)証人(しょうにん)はゴロゴロいただろうし、確認(かくにん)する時間(じかん)経済力(けいざいりょく)もあった。しかしながら、奈良原繁男爵(だんしゃく)はそうしなかった。かれの先祖は、(けっ)して口外(こうがい)できないようなでなかったにもかかわらず、である。


日本は母系社会である(2)

2016-12-28 13:48:32 | 歴史

                      (2)

 奈良原(ならはら)繁(しげる)は、その事業(じぎょう)の成功(せいこう)を足掛(あしがか)りに、明治(めいじ)十六(じゅうろく)(1883)年(ねん)には静岡(しずおか)県令(けんれい)。その翌年(よくねん)には上野(うえの)・青森間(あおもりかん)の鉄道(てつどう)敷設(ふせつ)のために設(もう)けられた日本鉄道会社(がいしゃ)の社長(しゃちょう)を歴任(れきにん)。それから明治二十五(にじゅうご)(1892)年には沖縄(おきなわ)県令(けんれい)となり、その地位(ちい)を明治四十一(よんじゅういち)(1908)年まで保持(ほじ)し、「琉球(りゅうきゅう)王(おう)」などと揶揄(やゆ)されたりもした。そしてこの間(あいだ)の明治二十九(にじゅうきゅう)年には、男爵位(だんしゃくい)を授(さず)けられ華族(かぞく)に列(れっ)せられている。  

 こういう地位(ちい)に就(つ)いた人物(じんぶつ)だから、亡(な)くなる二年前(にねんまえ)の大正五(たいしょう・ご)(1916)年には、『南島夜話(なんとう・やわ)と題(だい)された、かれの「伝記(でんき)」が出版(しゅっぱん)されている。ところがそこには、先祖(せんぞ)の系図(けいず)がないのである。つまり、かれの父(ちち)以前(いぜん)の先祖名(せんぞめい)が書(か)かれていないのだ。

 私は、奈良原が関(かか)わった、幕末期(ばくまつき)の文久(きぶんゅう)(1862)年の英国人(えいこくじん)殺傷(さっしょう)事件(じけん)、いわゆる「生麦(なまむぎ)事件」を調(しら)べながら、私なりに丹念(たんねん)に彼(かれ)の先祖(せんぞ)を追(お)ってみた。ところが、やはりどうしてもわからなかったのである。

 もとより奈良原家(け)の禄高(ろくだか)は、薩摩藩内(さつまはんない)では決(けっ)して低(ひく)かったわけではない。階層(かいそう)分化(ぶんか)がはっきりしている藩内では、中層(ちゅうそう)の中(ちゅう)か下(げ)といったところだろう。西郷(さいごう)や大久保(おおくぼ)を含(ふく)め、維新期(いしんき)に活躍(かつやく)した薩摩藩士(はんし)の大半(たいはん)が、いわゆる下層階級(かそうかいきゅう)の武士(ぶし)だったのに比(くら)べれば、かなり恵(めぐ)まれたほうであった。それなのに、祖父(そふ)の名前(なまえ)さえはっきりしないのである。


日本は母系社会である(1)

2016-12-28 13:22:14 | 歴史

                   

         

                           (1)

 現代(げんだい)の日本(にほん)社会(しゃかい)の基層(きそう)には、母系(ぼけい)連鎖(れんさ)の流(なが)れが連綿(れんめん)として続(つづ)いている。あるいは逆(ぎゃく)に捉(とら)えれば、父系(ふけい)連鎖(れんさ)の観念(かんねん)が非常(ひじょう)に弱(よわ)い。だから、ほとんどの日本人家族(にほんじんかぞく)の三・四代前(さん・よんだいまえ)の先祖(せんぞ)がよくわからなくなる。また別(べつ)な言い方(かた)をすると、現在(げんざい)でも大多数(だいたすう)の日本人家族(かぞく)は、父方(ちちかた)より母方(ははがた)の親族(しんぞく)との結(むす)びつきがより強(つよ)いと思(おも)われる。

 

 私(わたし)は、幕末期(ばくまつき)から明治末期(めいじまっき)頃(ごろ)まで、政界(せいかい)の中枢(ちゅうすう)とは言(い)えないまでも、それなりに日本社会の支配層(しはいそう)を形成(けいせい)した薩摩藩(さつまはん)出身(しゅっしん)の一人物(いちじんぶつ)の足跡(そくせき)を追(お)ったことがある。名前(なまえ)を奈良原(ならはら)繁(しげる)<喜八郎(きはちろう>といい、幕末期(まつき)には藩父(はんぷ)・島津(しまづ)久光(ひさみつ)の信頼(しんらい)をえて、破格(はかく)といってもいい出世(しゅっせ)をしている。明治になると、一時(いちじ)、藩内(はんない)革新派(かくしんは)から守旧(しゅきゅう)派とみなされ逼塞(ひっそく)したこともあったが、やがて島津・忠義(ただよし)本家(ほんけ)や久光家の家令(かれい)となり、明治十一(じゅういち)(1878)年(ねん)、つまり西南戦争(せいなんせんそう)の翌年(よくねん)、大久保(おおくぼ)利通(としみち)の引き(ひ)で中央(ちゅうおう)政府(せいふ)入(い)りした。そしてすぐに、大久保らが掲(かか)げた殖産(しょくさん)興業(こうぎょう)政策(せいさく)の目玉(めだま)の一(ひと)つだった安積(あさか)<猪苗代湖(いなわしろこ)>疎水(そすい)事業(じぎょう)<福島県(ふくしまけん)郡山市(こおりやまし)>の政府側(せいふがわ)責任者(せきにんしゃ)となったのである。        


日本は母系社会である

2016-12-28 12:58:31 | 歴史

                          

                          はじめに

 ブログを再開するのは、本当に久しぶりになる。2011311日の大震災・原発事故以降、私は昨年まで福島県内やその周辺を何回か往き来した。そういう行動をとらせた理由は、主に二つあった。一つは、私は東北生まれだったこと。もう一つは、若い頃、原発関連の仕事をしたことがあったことであった。後者に関しては、長くなるのでここでは説明できないが、前者に関しては、20年近く鹿児島で暮らしたことと大いに関係があった。

 それは、同じ日本でも、気候風土から歴史や文化に至るまで、こんなにも地域差があるものなのかという鹿児島での生活実感であった。そして、生まれて11歳でそこを去り、肌合いとして忘れかけた日本の東北という地域を、もう一度実感したかったのである。それだけと言えばそれだけであった。だから、二つ目の理由もそうなのだが、ここで綴る大袈裟な題とは直接的な繋がりはない。しかしこれから展開する<文化論>は、鹿児島時代からずっと連関しているし、考えてきたことである。そして私の場合、すべては「生麦事件」から始まる。

 

*最近とみに視力が衰えたため、書物よりネット検索で資料を確認することが多くなった。だからネット情報から直接引用したものも多いことをお断わりしておく。ただ、この論を推し進めていくうえで、最低限必要な文献は書物を利用している。日本語のウィキぺディア等の情報がまだまだ信頼に欠けるというより、その情報源がはっきりしないからである。その点、書籍文献は何を参考にしてそう論じているのか明解である。

*日本人だけでなく、日本語を習い始めた外国人にも読んでもらいたいため、日本人に煩わしく思われるのを承知でくどいほど(ルビ)をふることにした。なぜならインターネット(ブログ)は世界に繋がっているからである。だから、ひらがなを勉強した外国人なら、辞書を片手に内容は読み取れるのではと思ったのである。そもそも漢和辞典を使用するのは日本人でも面倒なのだから。