海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(65)

2010-08-30 08:00:09 | 歴史
 それでは、なぜ戸長心得となった吉留盛喜は、自身が作った「蒲生出兵人名簿」に自分の名前を入れなかったのだろうか。
 それはたぶん、まだ政府の追及から逃れている薩軍兵士がいるのではないかという指示のもとに作られた名簿だったからではないだろうか。
 だからこそ、自分を含め、福島安や田中藤之進、鈴木弥助、また平成版郷土史で訂正された赤塚源太郎など、官軍に降伏し、のち官軍に協力した人物たちは除外したのだ、と。
在郷軍人会が、吉留の作成した名簿から「漏れた」人物たちとしているのは、ほとんど「降伏組」なのである。別な言い方をすれば、吉留や赤塚らは、辺見十郎太や淵辺高照、別府晋介らの強制的な募兵によって出陣した、いわゆる「二番立(だち)」だった。
 ところが、それにも拘らず、ここ蒲生では奇妙なことが起った。本来なら、戦後、多数派である「一番立」の帰還に伴い、「降伏組」を駆逐し、かれらが実権を握るはずなのに、ここでは、逆のことが起ったのである。
 昭和版、平成版『蒲生郷土誌』ともに、加治木でも帖佐でも重冨でもなく、なぜ赤塚ら(吉留ではない)が最初に帰順したのかということについて、「始めから郷党が分裂していたからだろう」としているが、その勢力が拮抗していたということなのだろうか。そして、「一番立」の有力者が戦死したり、あるいは懲役で不在になったりしたので、降伏組の有力者であり、政府側の覚えもよかった吉留盛喜が戸長心得となって蒲生郷の実権を握ったのだ、と。
 もっとも、こういう状況も長くは続かなかった。この辺りのことを、また、「西南戦争と蒲生」の著者に語ってもらおう。

   西南戦争の後遺症
西南戦争は、わが国最後の内乱であった。わが郷党は、はじめより、戊辰の役参加者などの戦後の恩賞の不公平や、時局の洞察などによる批判組と、私学校党の二手に分かれ、その影響は血族同胞相争う悲劇をもたらし家族へも危害が及んだ。やがて入獄者も帰ると、その後遺症は長く尾を引いた。明治十四年国会開催の大詔が下ると郷内は吏党、民党の政争に変じ、小学校子弟や農夫をもまきこむ激しい争いとなった。・・・



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