鹿児島への行程は、木山町から九州山地の裾野を通り、球磨川上流の江代を経由して、4月7日に人吉に着いている。翌朝は人吉を出発し、そこから6里の旅程で、日向領(だと思うが)の真幸馬関田(まさきまんがた)、また翌日には、7里歩いてようやく大隈領の溝辺(みぞべ)に至った。それから、4月10日には加治木に到着し、そこの病院で治療を受け、種々の薬をもらっている。そして、前もって連絡をしていたのか、自分の子供や弟を含め、故郷から大勢の出迎え人とともに蒲生郷に帰った。
ここから少し時間が飛んだことを示すため一行空けられている。また、新暦、旧暦併用の日記が旧暦のみの表示に取って代わられた。地方では旧暦がまだまだ一般的で便利だったからだろう。そして、日付の飛びも大きく、戦場にいたときのようなこまめさはない。
ところで、日記は旧3月13日、新暦に直すと、4月26日から始まっている。この日は、鎮台兵が鹿児島に上陸し、蒲生郷にも闖入するという知らせを聞き、負傷病人ともども隠れたとある。そして自分は、赤塚甚左衛門氏と白男の湯ノ脇浅右衛門氏のところに「忍伏セリ」と書いている。
次ぎは、その3日後の旧3月16日(4月29日)で、「帰宅シタリ」とだけあるので、「忍伏」先から戻ったということだろう。ただ、翌日の旧3月17日(4月30日)には、鹿児島には味方の兵が追々集合し、小戦を繰り返している。それで、鹿児島に兵を出すかどうかで蒲生も「混雑ト聞ク」とあるので、白男の湯ノ脇家にでも戻っていたのかもしれない。
次ぎの日付はこれから22日も飛んだ、旧4月10日、新暦の5月22日になるが、これが今までの私に大問題だった日付なのである。この野添篤日記の中で初めて赤塚源太郎の名前が出てきた日だったのだから。
つまり、以前論じたように、私は、『人吉市史』や『薩南血涙史』などにより、6月4日の人吉隊の降伏とともに、この日、赤塚源太郎以下百余名の投降もあったと思いこんでいたのだ。だから、どうしてもこの日付に納得できなかったというわけなのである。
では、この辺りを、それぞれの史料に基づいて再度確認してみよう。
まず、野添日記では、どう書いているか全文を掲げる。
旧四月十日(5月22日)
蒲生郷二番立赤塚源太郎氏一隊七十九名従卒其他ヲ合セ百余名降参セリト赤塚雄介氏報告ニナリタリ
ここから少し時間が飛んだことを示すため一行空けられている。また、新暦、旧暦併用の日記が旧暦のみの表示に取って代わられた。地方では旧暦がまだまだ一般的で便利だったからだろう。そして、日付の飛びも大きく、戦場にいたときのようなこまめさはない。
ところで、日記は旧3月13日、新暦に直すと、4月26日から始まっている。この日は、鎮台兵が鹿児島に上陸し、蒲生郷にも闖入するという知らせを聞き、負傷病人ともども隠れたとある。そして自分は、赤塚甚左衛門氏と白男の湯ノ脇浅右衛門氏のところに「忍伏セリ」と書いている。
次ぎは、その3日後の旧3月16日(4月29日)で、「帰宅シタリ」とだけあるので、「忍伏」先から戻ったということだろう。ただ、翌日の旧3月17日(4月30日)には、鹿児島には味方の兵が追々集合し、小戦を繰り返している。それで、鹿児島に兵を出すかどうかで蒲生も「混雑ト聞ク」とあるので、白男の湯ノ脇家にでも戻っていたのかもしれない。
次ぎの日付はこれから22日も飛んだ、旧4月10日、新暦の5月22日になるが、これが今までの私に大問題だった日付なのである。この野添篤日記の中で初めて赤塚源太郎の名前が出てきた日だったのだから。
つまり、以前論じたように、私は、『人吉市史』や『薩南血涙史』などにより、6月4日の人吉隊の降伏とともに、この日、赤塚源太郎以下百余名の投降もあったと思いこんでいたのだ。だから、どうしてもこの日付に納得できなかったというわけなのである。
では、この辺りを、それぞれの史料に基づいて再度確認してみよう。
まず、野添日記では、どう書いているか全文を掲げる。
旧四月十日(5月22日)
蒲生郷二番立赤塚源太郎氏一隊七十九名従卒其他ヲ合セ百余名降参セリト赤塚雄介氏報告ニナリタリ