海鳴記

歴史一般

チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(90)

2011-08-31 11:19:26 | 歴史
左門委員長;「それでは、皆さん、全員お集まりいただきましたので、最終審理裁定の公表をしたいと思います。
 長岡氏が訴えた、奈良原幸五郎すなわち奈良原繁が、イギリスの商人であるチャールズ・レノックス・リチャードソンに最初に斬りつけたかどうかということについて、我々委員7名は、6対1をもって有罪と判定しました。
 では、審理過程を簡単に申しあげましょう。私には少し意外でしたが、第1回の審理で5対2の有罪評決となってしまいました。   
 ですから、これで最終評決としていいではないかとの意見もありました。しかし、もっと審議すれば、全員一致の評決が得られるのではないかというD委員の説得により、2回、3回と討論を重ね、結局、3回目の最後にE委員が無罪から有罪にまわり、これを最後の評決としたのです。
 さて、最初から最後まで無罪を訴えたのはA委員です。A委員、皆さんの前でもう一度、簡単に無罪とした理由を述べてください」
A委員;「はい、わかりました。私は、とくに長岡さんの訴えに対して、おかしいところがあると言っているのではありません。いえ、むしろその証拠収集といいますか史料収集への意欲には驚嘆させられました。そして、推測も含めて長岡さんの言う通りかもしれません。ただ現在のところ、たとえ、弟・幸五郎の名前が2度3度出てきたとしても、またそれを隠そうとしたのかどうか知りませんが、幸五郎すなわち奈良原繁が生前いかに怪しい行動を取ったとしても、私はどうしても奈良原繁を有罪とすることができませんでした。
 一つには、今までの長い間、なぜ兄の喜左衛門が冤罪の罪をきせられてきたのか、私にはどうしても理解できなかったのです。つまり何パーセントかの疑いでそうなってしまっていたとしたら、弟・繁も同じような運命になるのではないかと思えたのです。
 さらにもう一つ、長岡さんもおっしゃっていましたように、今後、どんな史料が出てくるのかわからない以上、私は判断を留保すべきだと考えるようになったのです。そして、それは長岡さんの推測を強固にするものでも、あるいはその逆であっても、です。つまり、もっとより多くの史料を判断材料に加えてからでも裁定は遅すぎることはないのではないかという考えが有罪をどうしても躊躇させるのです。もっと具体的にいえば、喜左衛門が無罪に至るまでこれだけの時間を必要としたのなら、もう少し時間をかけて真犯人を見つけるべきではないか、と考えたのです。
 うまい説明になっているかどうかわかりませんが、私はこれらの迷いを消せない以上、今のところ特に有罪とする判断は留保すべきだと考えたのです」
左門委員長;「ありがとうございました。A氏のある意味での誠実さには頭が下がりますが、残りの委員は、現時点の史料で充分なのではないかという意見でまとまりました。その結果、我々審理裁定委員会は有罪と認定したのです。
なお、最終的にはブログ陪審員の方の投票も可能ですから、また1週間待ちまして、その結果を経て、最終評決とさせていただきます。もちろん、それがない場合、あるいはそれでも決着がつかない場合、当委員会の決定が最終決定となります。
 では、今日のところはこれで終了します。ご出席ありがとうございました」


チャールズ・L/リチャードソン殺害事件審理裁定(89)

2011-08-23 17:04:01 | 歴史
 最後にもう一つだけ付け加えさせていただきますと、私は、『空気の階段を登れ』や『南国のイカロスたち』の著者・平木国夫氏から、奈良原繁の辞表類のコピーを戴いたことがあります。これらは、平木氏が奈良原三次の弟子筋にあたる伊藤音次郎家にあった三次の遺品の中にあったものを預かったのだそうです。それら以外の遺品も預かったそうですが、どこにしまい込んだのかもわからないと言っておりました。ですから、まだまだ何か出てきそうな気もします。 
 いや、これ以外にも何か様々な史料が出てくる可能性はあります。皆様も充分注意を払っておいてください。しかしながら、大筋において、ここで述べた結論を裏切らない史料ばかりだと私は確信しております」
左門委員長;「長々とありがとうございました。皆さん、質問等はもう宜しいですね。それでは、われわれ委員だけの審議に入りたいと思いますが、その前にお願いがあります。すでにお渡し資料類は持ちかえって検討することはできますが、除籍謄本類はコピー厳禁ですので、ここだけの閲覧になります。一応、私がお預かりをして、後日、長岡さんに返却します。長岡さん、それで宜しいですね。では、早速、昼食を挟んで、午後から討議に入りますので、皆さん、その積もりでいてください。
 なお、評決は全員一致を目指す予定ですが、3回の審議でも一致を見ない場合、最終的に3分の2以上、すなわち5人以上の票をもって有罪、無罪の決定をいたします。もちろん、最初に言いましたように、ブログ陪審員が10人以上15人未満の方が評決に加わった場合、審理委員との合計の3分の2、ブログ陪審員だけで15人以上参加した場合、その3分の2以上の票のみで有罪か無罪か決定します。それで、決定しない場合は、再度委員の方々に審理をやり直してもらい、その決定に従うことになります。
 では、評決は1週間後の×月×日、午前9時より、当委員会室で行いますので必ずご出席願います。皆さん、お疲れさまでした」


チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(88)

2011-08-22 11:03:47 | 歴史
左門委員長;「なるほど、言わんとするところはわかりました。ところで、ここでB委員のほうからもう一つ質問があるということで、長岡さん構いませんでしょうか。では、B委員、どうぞ」
B委員;「前回、尋ねるべきだったのですが、うっかり二つ目の質問をするのを忘れておりました。お許しください。特に事件に関する質問ではなく、やめようとも考えたのですが、好奇心が抑えられず、申し訳ありません。
 質問と言いますのは、奈良原繁の後継者である三次氏のことです。三次氏がいわゆる日本軽飛行機倶楽部の会長になったところまでは伺いましたが、その後のことは聞いておりません。この一族には今でも子孫の方はいらっしゃるのでしょうか」
長岡;「私もその辺のことは触れなければならないと思っていたので、ちょうどよい質問でした。こちらこそ、忘れていたことを思い起こさせていただいて感謝申し上げます。
 さて、三次氏は、昭和19年、飛行機造りの弟子にあたる伊藤音次郎氏が提供したといわれる千葉の市川の家で亡くなっております。享年69でした。
 日本軽飛行機倶楽部の会長を続けていたかどうかは知りませんが、男爵でsので、700円ほどの年金はあったはずですから、どうにか暮らしはしていけたと思います。しかし、娘の緑子さん以外に跡継ぎもなく、彼女に婿をとって爵位を継がせた形跡もありませんから、戦後の華族解体を待つまでもなく、三次氏が死んだ時点で、男爵家は滅んだともいえます。一人残った緑子さんも、生涯結婚もせず、戦後まで生き延びたようですが、いつ頃亡くなったのかはっきりしません。貢氏が先祖の跡を辿る昭和40代には亡くなっていたと思われます。もし生存していたら、貢氏が訪ねて行ってもおかしくないからです。
 生麦事件の研究家である浅海武夫氏は、父娘共々、品川の海晏寺に葬られたというのですが、今では確認できません。同寺の墓域の一部が道路拡張のため削られ、それにかかったらしいのです。寺側ではそれらの墓の合祀の際、新聞等で遺族に呼びかけたらしいのですが、応答のなかった家は合祀の対象にしていないと言うのです。
 私がこんなことまで辿ったのは、貢氏が、喜左衛門が切腹したのはこの寺だと思い込んでいたからです。そしてその理由は、三次氏も娘の緑子さんもこの寺に葬られたと聞いたからだと思います。それは誰からと言えば、貢氏が繁の大礼服を着た写真を受け継いだ三次氏の愛人、福島ヨネさんからです。
 私が以前、貢氏の情報源が福島ヨネさんからと言ったのも、こういうことを含めてです。

チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(87)

2011-08-21 11:20:09 | 歴史
左門委員長;「D委員、それで宜しいでしょうか。では、E委員、何かご発言ください」
E委員;「私は、冤罪の恐さは、その個人の問題だけのように考えておりましたが、長岡さんが訴えていることが本当のことだとしたら、何世代にもわたって問題になるということがわかりました。ですから、慎重に討議を重ねなければならないと改めて実感した次第です」
F委員;「私も同感です。やはり、その場、その時に事実に向き合わず、事を曖昧にしたため、ことここに至ったのでしょうが、こういうことが何世代にも影響を与えるとなれば、冤罪というのは恐ろしい罪だと思わざるを得ません。
 ともかく、再度資料を確認し、慎重に判断したいと考えております」
左門委員長;「皆さん、ご発言ありがとうございました。さて、私から最後の質問をして討議に入りたいと思います。長岡さん、宜しいですね。
 えー、長岡さんは最後に、喜左衛門の名前が最初に出てきた宮里孫八郎書簡のことや明治24年の市来四郎の『史談会速記録』で言ったことには、まったく触れませんでした。
私は、宮里書簡について、あの史料しか存在しないのなら、私は喜左衛門が犯人とされても仕方がないように思います。しかしながら、あなたが指摘した文章の曖昧さや幸五郎犯人説の史料があるとなると、宮里書簡が決定的なものにはならないことも自明のことのように思われます。
 ところで、明治24年の『史談会速記録』の存在はどうでしょう。確かに30年という時間を経ておりますが、市来四郎という薩摩藩の歴史の記録者が喜左衛門だと言っているのです。むろん、弟の幸五郎は兄の助太刀をしたと言っておりますが、市来の発言はそう簡単に無視できないように思われます。そこのところをどう考えているのか、もう一度お聞きしたいのです」
長岡;「わかりました。私は確かに、繁の助太刀を強調し、喜左衛門が先だという市来の証言を軽く扱いました。それは、そもそも周囲から聞いた話だということ、またインタヴュアーから突っ込まれて繁の名前を出したことなどから、市来自身、自分の証言に自信がなかったのではと感じたからです。
 つまり、この事件については、市来は様々な話があると前置きしながら、どこかで当時の大勢(たいせい)なり空気なりに押されて発言しているとしか考えられないのです。そんな中で、繁の名前を出したことは、たとえ助太刀という補助的な立場だったとしても、重大なことではないでしょうか。というのも、すでに那須信吾の書簡に幸五郎・繁の名前があったように、一部では、繁の説もあったはずだからです。なるほど、市来は記録者として公明正大な人物だとは思います。西郷側にも大久保側にもまた繁側にも与(くみ)した人物だとは思えません。しかしながら、ある時点からすでに死んだ人間に罪をなすりつけていたのが大勢あるいは鹿児島の空気だったとしたら、市来はそれに抗しうるほど有力な確証を持っていなかったのです。
 言ってしまえば、この事件は、政治によって隠蔽され、またそれによってデッチ上げられた事件だったといっても過言ではありません。その政治力学は、市来のような公明正大な人物すら飲み込んでしまいます。市来自身も所詮その勝ち組政治の一員だったのですから」

チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(86)

2011-08-20 11:22:13 | 歴史
 確かに我々は被疑者を目の前にしておりませんが、死者の尊厳はあります。また、未だにこの事件に関わった人物たちのご子孫も生存しているのです。それらのことを考えれば、被疑者が生存していると同様な緊張をもって取り組まなければならないのではないでしょうか。私はそう考えたからこそ、長岡さんには厳しく対応してきたのです。もし、個人攻撃だと思われるようなところがありましたらお許しください」
長岡;「いや、正直、苛立つような質問だと感じたことはありましたが、結果的には私の詰めの甘いところを修正していただいたと今では感謝しております」
D委員;「寛大なお言葉感謝いたします。そのお言葉に甘えて最後の質問をしたいと思いますが、宜しいでしょうか。それでは、質問させていただきます。山口政雄氏のことです。政雄氏は、奈良原喜格が喜左衛門の別名だと思っていたと言っておりましたね。そして、妻はミネさんだと。
 ところが、鹿児島にある喜左衛門の墓には、妻はひろ子だとあなたは仰いました。ということは、政雄氏は、自分の先祖の墓をお参りしていなかったということなのでしょうか。また、喜格氏の墓というのは別にあったのですね」
長岡;「まず、二つ目のほうの質問からお答えしますと、奈良原喜格氏の墓はありました。繁家の墓地や奈良原本家とはまた違った墓地に、です。ですから、本来、エイさんが本当に喜格氏の娘だったとしたら、代々この墓地にお参りに来るか、子供や孫にはその場所も教えていたでしょう。ところが、私がコンタクトを取った政雄氏の長男などはその存在すら知りませんでした。それため私は、エイさんは喜格氏の本当の子供ではないと考えたのです。
 それでは、政雄氏は奈良原繁の墓地にある喜左衛門の墓を知らなかったのかというと、確かに本を出す前は知らなかったようです。政雄氏が鹿児島の喜左衛門の墓を知ったのは、その後のことなのです。生麦事件の110年祭で、政雄氏が貢さんと会ってから、むしろ貢さんから教わったようなのです。この辺のことは奇妙といえば奇妙なのですが、エイさん自身が親と早く死に別れ、養女にやられていたとなれば仕方のないことかもしれません。また、エイさんが嫁いだ山口家は、鹿児島市からかなり離れた郡部にあるのです。ということは、母親が亡くなった後、政雄氏が、喜左衛門が先祖だということを確信し、本を出版する頃まで、山口家の墓参りしかしていなかったのかもしれません。
 これらのことを考えてみますと、私には、山口政雄氏の本の内容がかなり矛盾の多い支離滅裂なものだったとしても、いやだからこそ、何か隠された秘密が見えてくるのです。最後に繰り返しておきますが、エイさんが喜左衛門の娘であり、政雄氏が孫であることを私は確信しております」

チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(85)

2011-08-19 11:10:16 | 歴史
左門委員長;「それでは、この辺で長岡さんの訴えから、われわれの討議に入るわけですが、その前にまだご質問や言いたいことがありましたら、一人ずつ述べてもらいましょうか。A委員からどうでしょうか」
A委員;「私はそもそも幕末史には詳しくないので、なかなか頭に入らず、最初は弱ってしまいましたが、長岡さんの丁寧なご説明で何とか言わんとするところがわかるようになりました。ただ、冤罪事件は、その被疑者が無罪であることを証明するのは比較的容易ですが、では真犯人はとなると、その特定はなかなか難しい問題になると思います。今のところ、私は提出された資料をもう一度検討し、私なりの結論を出したいと考えているだけです」
左門委員長;「なるほど、わかりました。それではB委員、宜しいでしょうか」
B委員;「私は、長岡さんの話の腰を折るような質問ばかりして、流れを混乱させてしまったのではないかと反省しております。またまたその類の質問で申し訳ないのですが、最後に宜しいでしょうか。
 奈良原貢氏は、鹿児島に出かけて行くと、鹿児島では生麦事件については未だに緘口令が敷かれていたというようなことを述べておりましたが、実際はどうだったんでしょうか」
長岡;「私自身、最初は本当にそうなんだろうかと半信半疑で取組み出したところもあるのですが、今では貢氏の誤解だと思っています。簡単に言いますと、現代の鹿児島の人たちにとって、たとえ薩摩藩が関わった事件だとしても、生麦事件のような些細な事件にはほとんど何の関心もないのです。ましてや鹿児島の最大の英雄・西郷隆盛の敵対者である久光や大久保の関わった事件ですからね。つまり貢氏が鹿児島でいろんな人に事件のことを尋ねても、ほとんどの人は事件のことなど知らないので、貢氏はそれを未だに隠しているのではと誤解したのではないでしょうか。
私は、ブログで西南戦争中の隠された事件を掘り下げ、鹿児島で西郷隆盛が神格化されるに至った過程を述べておりますが、西南戦争後、西郷周辺以外の人物たちの研究はほとんどほとんど進んでいないのです。というより、今でもタブーに近いのです。そういうことも含めて、なぜ、これまで生麦事件の真相がはっきりしなかったのかという説明にもなります」
左門委員長;「B委員、宜しいですね。それでは次に、C委員、ご発言ください」
C委員;「そうですね。私は、長岡さんの訴えはよくわかりましたし、なるほどいわば勝ち組の歴史の中には、こういうことは充分ありうると感じました。私も、もう一度資料を確認し、奈良原繁が有罪か無罪か決めたいと思います」
左門委員長;「それでは、D委員、ご発言ください」
D委員;「はい。今まで、私が長岡さんに対して一番厳しく質問してきたと思うのですが、これは、また冤罪の罪を繰り返さないためで、長岡さん個人を責めたいからではありません。


チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(84)

2011-08-18 11:27:30 | 歴史
 また、三次氏の大正元年頃は、鳳号と名づけられた奈良原式4号機で飛行興業をやっておりました。しかし、翌年11月に亀尾さんと離婚したあとは、あまり飛行機事業にも積極的でなくなり、というより部下の使いこみなどで借金を背負ってしまったようです。その後、飛行機造りの弟子たちの間からも姿を消して、三河島の陋屋にいるような噂が立てられています。
 ついでに三次氏のその後の足取りを見てみます。大正7年、繁が鹿児島で亡くなったときには、その葬儀には出席しておりますが、その前後の消息はよくわかっておりません。もちろん、父親の死後は男爵を受け継いだのですから、以後その年金で最低限の生活はできたでしょう。
 ところが、昭和の初めに、三次の弟子で飛行機造りを受け継いだかつての弟子のところへ姿を現したことから、かれとの交流が始まり、千葉の市川に住居さえあてがわれたりしております。さらに、昭和5年、日本飛行倶楽部が設立されると、陸軍中将・長岡外史らとともに顧問に就任し、またその翌年、日本飛行倶楽部が日本軽飛行機倶楽部に組織替えされると、その会長に就任し、すっかり表社会に顔を出すようになっていました。ですから、三次氏と雅雄氏の子孫との間に何かがあったということも想像しにくいのですが、過去の事象に限らず、現在でも表に出て来ない事実のほうが圧倒的に多いのですから、何もなかったともいえません。
 ともかく、私が言いたかったのは、奈良原繁の戸籍操作やそれに伴う周辺の奇妙な動きでした。また、今考えれば、明治20年代の日本鉄道社長時代に背負った借金や、晩年の松方への生活窮乏の訴えは、単に繁の生活破綻者ぶりというより、喜左衛門の娘の養育費や独立にそれ相当のお金をつぎ込んでいたからかもしれません。少なくともそういうことを思わせる動きがあったようにも想像できます。
 さて、私がここまで申し上げても、なかには繁の子孫である貢氏の言動や喜左衛門の子孫だと名乗る山口政雄氏および奈良原雅雄氏の子孫氏の存在を簡単に否定する人がいると思います。 
しかしながら、実際に薩摩藩の内情をよく知っていた土佐脱藩士の那須信吾や久光の駕籠かきだった金左衛門らの明確な証言が、150年もの長い間無視されてきたのです。リチャードソンに最初に斬りつけたのは、兄の喜左衛門ではなく幸五郎つまり弟の繁だということを。
そうだとすれば、それを隠そうとした周辺の人物たちや、明治後、まがりなりにも新しい体制内に活路を見出した繁にとっても、それらのしがらみの中で、どうしても隠し通さなければならない事実だったのです。だからこそ、喜左衛門の娘たちを養いながらも、それと矛盾した行動もとったのです。
 私は、リチャードソン殺害事件において、奈良原繁が有罪だという前提で史料発掘に従事してきました。いやこういう言い方ha正確ではありません。史料を発掘すればするほど、奈良原繁の有罪疑惑が浮かび上がってきたというのが正確な表現です。そして今のところ、それを否定する史料が一切出てこなかったという点と、その間、明確に喜左衛門が犯人だという証拠も出てこなかったという2点で、弟・奈良原繁の有罪を訴えたいと思います」


チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(83)

2011-08-17 10:46:11 | 歴史
 どうでしょうか。たとえ、点と点を結んでいるに過ぎないにしてもトミさんの場合は明らかに喜左衛門の娘の可能性を示唆しています。それなら、なぜ奈良原雅雄家の子孫の由緒書にトミさんの名前がなかったのでしょう。単に「養兄」と「養妹」という関係だったからでしょうか。そういう可能性は確かにあります。
 しかしながら、新潟出身の、本来喜左衛門とはまったく縁も所縁もない原田雅雄氏夫妻が、奈良原家を継ぎ、喜左衛門の後裔だとするにはあまりにも形式的過ぎます。そこには喜左衛門に連なるトミさんが介在していないのですから。いや、正直いえば、私には、トミさんを除去したのは何か作為があったのではないかと思えてくるのです。
 私は、生麦事件研究家の浅海武夫氏から雅雄氏の子孫氏が東京にいると聞いた後、直接コンタクトを取ろうとしたことがあります。ところが、他の奈良原家の子孫氏と違ってひどく頑なで、浅海氏を通して、以後一切連絡しないでくれ、と言われてしまいました。
 最初私は、売名的に喜左衛門の子孫だと名乗ったことがばれるからだろうか、と考えたりもしていましたが、現在、雅雄家の由緒書に喜左衛門の名前があることからわかるように、また何か別な理由があったのでしょう。それが、トミさんを由緒書から消した秘密だったかもしれないのです。今ではそう考えています。さらにもう一つ付け加えたいことがあります。それは、奈良原貢氏が、長い間、喜左衛門の子孫と繁の子孫との間に諍いがあったと言っていることです。私は、鹿児島でそういう形跡を見つけたことはありませんし、大体、私が述べたような娘が二人しかいなかったとしたら、そういうことは想定できないのです。
さらに、エイさんの子供である山口政雄氏の本からはまるでそういう気配も感じられませんでした。
 ではまた貢氏特有の、人の注意を喚起したいというトリックスター的言辞でしょうか。あるいはそうかもしれません。あるいはもしそうでなく、トミさんが由緒書から消されたようなことを暗喩的に伝えようとしていたのかもしれません。それはよくわかりませんが、雅雄氏家族と繁およびその子孫との間に何かがあった可能性を否定することができません」
C委員;「一度触れたのかどうか定かではないのですが、雅雄氏家族が東京に移られたのは、大正元年頃でしたね。なぜ東京へ移ったのでしょうか。またそのころ、繁の跡を継いだ三次氏は、東京で何をしていたのですか」
長岡;「正直言いまして、大正元年に雅雄氏家族が東京に移転したというのは正確ではありません。この年に、トミさんから受け継いだ雅雄氏名義の土地が他人の手に渡っているので、そう推測したまでです。また、子供たちが東京で教育を受け、そこで自立していたから移った可能性が高いので、生活破綻のため鹿児島を去ったとは考えられません。

チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(82)

2011-08-16 11:25:07 | 歴史
D委員;「仮にそうだったにしても、なぜ奈良原繁を想定しなければならないのかよくわかりませんね。かれはなぜそんなに喜左衛門の家の継続にこだわったのでしょうか」
長岡;「それは、自分のために死んだ兄に対して申し訳ないという罪の意識があったからではないでしょうか。もちろん、これは私がそう考えるからこそ、トミさんが喜左衛門の娘で、またそこへ奈良原繁は雅雄氏を送り込んだと想定したのですから、表裏一体です。つまり切り離すことはできません」
D委員;「それなら、初めから奈良原繁ありきで点と点を結んでいっただけではないですか。これだけの情報しかなければ、話はどうにでも作れますよ」
長岡;「確かにD委員のおっしゃるように、ごく最近までそう言われてもこれだけでは反論できない弱さがありました。
 しかしながら、この審理が始まる直前に、私はトミさんが喜左衛門の娘であることにほぼ間違いないという有力な情報を入手したのです。
 それは、私の「奈良原家の戸籍の怪」というブログのコメントに、雅雄氏のご子孫の方が応答してくれてわかったのです。そしてその雅雄氏のご子孫の方の家は神道らしいのですが、その神棚の先祖書きのようなものに奈良原喜左衛門の名前があったというのです。これには驚きました。私が想像していた通り、やはり、雅雄氏が入った奈良原家は喜左衛門と関係があったのですから。
 ところが、どういうわけか雅雄氏の奥さんであるセツさんの名前はあるのですが、トミさんの名前がありませんでした。その理由については、ご子孫氏もわからなかったようです。しかし、雅雄氏以後の先祖名の他に、それ以前の名前として喜左衛門と弥六右衛門しかありません。この弥六右衛門というのは、戊辰戦争で亡くなった奈良原弥六左衛門のことだと推定されます。左衛門が右衛門になっておりますが間違いないと思います。崩し字を翻刻する際、時折、右と左の判断違いがあるからです。あるいは、なかなか右と左を明確に決定できない場合があるからです。そうだとすれば、トミさんは、この奈良原家の分家の一つである弥六右(左)衛門家に養女としてやられたことが推定されるのです。そして、戊辰戦争で当主が戦死し、他の家族も順次亡くなり、明治20年代にはトミさんしか残っていなかったとすれば、トミさんが一人戸主だったことも頷けます。
 私のこれらの推定が間違っていないとすれば、山口家に嫁に行ったエイさんのこともすべて氷解します。やはり、エイさんも別の奈良原家に養女に入ったのだ、と。



チャールズ・L.・リチャードソン殺害事件審理裁定(81)

2011-08-15 11:05:11 | 歴史
 ここのところはどうもよくわかりません。まず、考えられるのは、「養兄」としてか「先代の養子」してかどういう形式で奈良原家に入ったのかはわかりませんが、背後にこれらの話を進める人物がいたということです。そして、背後の有力な人物にとって、トミさんの家系を存続させることが第一の目的だとすれば、雅雄氏に本田家の養嗣子の地位を捨てさせ、奈良原家に入籍させるには何がしかの担保を与える必要があったに違いありません。たとえば、トミさんが亡くなったら、174坪のトミさん名義の土地は雅雄氏に譲るとか。その結果、雅雄氏は本田家より条件のいい奈良原家に移ることを了承し、実際、移って間もなくトミさんが亡くなってしまった。だから、入籍した4ヵ月後にはトミさんの土地は雅雄氏名義になった。
 ただ、こういう想像は、雅雄氏を打算的で欲深い人間にしてしまいます。たとえ、奥さんの勧めがあったとしても、です。ですから、逆に考えてみたらどうでしょう。背後にいる人物は、喜左衛門の娘であるトミさんの病状がよくないことを聞いた。そこで、トミさんが亡くなってからでは、喜左衛門家の継承は難しくなるので、元々養子か養兄候補として世話していた雅雄氏に対して、やや強引にトミさんの家に入ることを勧める。余所者の雅雄氏にとって鹿児島で役人としてやっていくには、背後にいる有力な人物を保証人にどうしても必要だった。それで、養嗣子として入っていた本田家には不義理なひどい話ですが、これは奥さんの実家の村内だったので、奥さんなり奥さんの実家の人達がなんとか説得して穏便に済ませたのではないでしょうか。要するに、こういう想像のほうが理にかなっているように思えます。
 そして、私が背後の有力な人物というのは、今までも言ってきましたが、奈良原繁のことです」
B委員;「しかし、奈良原繁は当時東京にいて、日本鉄道会社の社長だったのでしょう。どうして、そんな細かい指示ができるのですかね。電話もなかった時代に」
長岡;「ごもっともな考えですが、鹿児島には繁の縁戚はそれなりにいたでしょうし、それ以外でもたとえば繁の親戚の娘を嫁にした大石団蔵こと高見弥市なども鹿児島にいたのですから。高見などは繁の秘密を知っているので、ひょっとしたら、かれがそういうことをしていたかもしれません。あくまでも想像にすぎませんが。また、当時、確かに電話はありませんでしたが、電信である程度の連絡はできました。このこととは関係ありませんが、明治20年代、実際に繁と海江田信義の弟である有村国彦との電信記録が残っております」