海鳴記

歴史一般

日本と英国の出会いー薩英戦争まで

2023-07-08 10:02:04 | 歴史

                         (10)アメリカとは

 天保8(1837)年6月、広東(広州)貿易に従事していた米国商船モリソン号が日本人漂流民7人を乗せ、那覇を経由して、6月28日浦賀沖に達した。ところが幕府は、漂流民受け取りを拒否し、12年前に出した「外国船打払令」を楯に砲撃すると、モリソン号は退去せざるを得なかった。モリソン号が再び姿を現したのは、鹿児島湾入り口にある山川港だった。7月11日のことである。薩摩藩は、家老を派遣し、オランダ人を介して上陸していた漂流民を送り返し、幕府の法令に基づき砲撃すると、モリソン号はやむなくマカオに去った。

 この事件以来、しばらく、来航船はなりを静めていた。清国の状況が不穏になってきて、各国がその成り行きに注視していたこともあるかもしれない。

 英国はすでに、1813年、東インド会社(EIC)の貿易独占権を廃止し、民間の会社へも門戸を開いていた。そして1833年には、EICの清国貿易独占権も廃止した。これで、インド貿易に参入していた民間会社は、それまでも密売品として清国にアヘンを売りつけてはいたが、以後その量は飛躍的に伸びていく。のちに横浜開港場に一番乗りを果たした、ジャーデン・マセソン商会などはその筆頭で、この莫大な収益に、議会はともかく、政府は見て見ぬ振りをしていた。1831年からホイッグ党(のち自由党)政権の外相になり、1865年に至るまで英国の外交を仕切ったと言われるパーマストン(1784~1865)は、首相時代(1855~1858、1859~1865)、「わが英国にとって、永遠の同盟もなければ永遠の敵もない。あるのはただ一つ、永遠の国益のみ」と語ったそうである。パクス・ブリタニカを築いた英国外交の真髄(しんずい)だろう。

 しかし、当然のことながら、このアヘンによる収奪は、清朝政府も放置するわけにはいかなかった。1839年、欽差(きんさ)大臣に任命された林則徐(1785~1850)は、広東に赴き、英国商人から2万箱(約1,400トン)のアヘンを没収し、廃棄したのである。これが契機となって、翌年のアヘン戦争になっていく。結局、近代的装備の強力な英国軍に敗れ、2年後、のちの日本との条約より過酷で不平等な南京条約を結ばされ、列国の草刈り場となっていくしかなかったのである。

 こういう清国の状況は、オランダを通して幕府にはつぶさに報告されていた。それに対する急場しのぎの対策として、文政7(1825)以来の異国船打払令を止め、薪水給与令を出し穏やかな対応をすることにしたのである。天保13(1842)年7月、17年振りのことだった。これ以後、各国は次の草刈り場は日本だ、とばかりに陸続と日本を目指してきた。『幕末の海防戦略』の表現を借りると、ペリー来航までの第3波となる。第2波のような捕鯨船の薪水・食料を求めて来るのとは、性格が違ってきたという訳である。

 この第3波は、薪水給与令を発した2年後の天保14(1844)年から始まる。同年3月、フランス西インドシナ艦隊から、軍艦アルクメール号が那覇港に来航し、琉球王府に通信・貿易・布教を要求して来た。産業革命も成功し、英国に負けじ、とアジアに植民地を探していたフランスは、既にベトナムに宣教師を送り込んでいたのである。この琉球王府との交渉の際、アヘン戦争で清国が敗れ、賠償金を取られ、また土地も割譲されたことを脅し文句に使っている。そして、フォカードという宣教師を強引に送り込んで来た。

 煩雑さを避けるため、多少端折(はしょ)る。フランスが琉球に通商を求めに来た2年後の弘化3(1846)年のことである。この年の4月5日、先ず英国船が那覇の港に入り、前年のフランスがやったように、ベッテルハイムという、ユダヤ人家族を上陸させるのである。ベッテルハイムは、英国に帰化した改宗(国教徒か)ユダヤ人で、医者で言語学者でもあったようだから、日本語を習得させる意味合いもあったのかもしれない。この翌日、今度は仏艦が那覇沖に現れ、滞留させておいたフォカードを呼び寄せ、打ち合わせをしてから、艦長ゼランとともに上陸した。また、この6日後、セシュ艦長率いるフランス艦3隻も入港し、通商交渉に臨んでいる。しかし、何の進展もなかったのか、仏艦隊は、フォカードとの交代要員を置いて、長崎に向かった。

 こうして、英仏の鍔(つば)ぜり合いが、琉球王国から始まるように見えた。ところが、その英仏の中に割って入るかのように、閏5月(陽暦7月)、米東インド艦隊の司令官であるジェームズ・ビドル(1783~1848)が軍艦2隻で浦賀に入港するのである。そのため、浦賀に奉行所を置いていた幕府が対応しなければならかった。そして、二人の浦賀奉行は臨機の処置を取った。以下、『幕末の海防戦略』を参考にする。奉行らが幕府に送った報告書によると、ビドルは、清国からの帰途立ち寄ったので、出港を急いでいるようだった。そこで奉行らは、米国へ帰る際の補給品リストより少ないとなれば、「国體(こくたい)」にも拘(かかわ)るので、「仁政」を示し、また通商は「国禁」であることを示し、退去を命じても拒絶されることはないだろうという報告書を送った。これに対して、前年、老中首座になった阿部正弘(1819~1857)は奉行所の対応を全面的に支持すると返答し、ビドルには、外国との通信・通商は国禁であるから米国とは通商はできないこと、また外国のことは、長崎が窓口であるから、再び浦賀には来航しないようにという諭書を送ったという。この諭書を渡す際、ちょっとしたいざこざがあったが、両者は何とか和解し、ビドルは浦賀を去った。

 老中・阿部正弘は、オランダ商館の風説書などを通して、清国のアヘン戦争、南京条約の過程を知るにつれ、開国も止むなし、と考えていたようである。また、この年の仏艦隊や英国艦の情報なども薩摩藩の世子(せいし)・島津斉彬(1809~1858)などから逐一報告を受けていただろう。しかしながら、このビドルへの対応のように、有効な開国への道筋を見いだせないまま、ペリーの浦賀来航を迎えるのである。

 では、この弘化3年の仏、英、米艦の来航から7年後、どうしてアメリカが抜け出し、一番初めに日本との開国に漕ぎつけたのだろうか。

 これまで、アメリカの捕鯨船が英国の捕鯨船以上に日本近海を操業していたのは、第2の波として述べてきた。米国の捕鯨業者は日本に寄港地を確保したかったし、米政府に働きかけもしていた。しかし、捕鯨船の基地確保だけで英国や仏国も成功していない開港を迫るのは、今はやりの言葉を使えば、コスパが悪すぎる。戦争になる可能性は充分ありえるのだから。やはり、巨大な市場である清国との貿易のため、そしてその中継基地として、日本に開港をせまったのだろうか。

 アメリカは、18世紀後半に英国との独立戦争に勝利し、英国とは離れた独自の国家運営をせざるを得なくなった。もっとも、独立戦争以前から、北米のニューヨークやボストンは、奴隷貿易港して繁栄していた。そういう基盤もあって、19世紀直前の1791年には、紀州串本へ捕鯨船が現れていたことは、既に述べた(補足3)。だから、貿易相手国として、当然清国へも足を伸ばすことも可能だった。というより、『幕末期のオランダ対日外交政策』(小暮実徳)によれば、ジョージ・ワシントン(1732~1799)が、初代大統領になった年の1789年から翌年までの1年間で、清国の広東に入港した米国商船は14隻にも及んでいるという。これは、EIC会社船21隻、同(EIC)インド在籍船40隻に及ばないとしても、オランダ船5隻、ポルトガル船3隻、フランス・デンマーク船各1隻から比べると断然多い。また、清国からの主要輸出品である茶に関しては、EICの6分の1程度だが、これでも第2位で、毛皮に関しては、1795年以降は他国を圧倒しているようである(補足3)。さらに、米国商人は、蘭領東インドのスマトラで、1790年から香辛料取引を開始してから、急速な成長を遂げ、広東での貿易に匹敵するほどになったというのである。

 こうなると、穏やかでないのは、アジアに大きな利権を持っていたオランダや英国だろう。フランスはベトナムには足がかりをつかんでいたものの、18世紀末から19世紀初めにかけての革命、ナポレオン戦争とアジアでは一歩も二歩も遅れをとっていた。そのため、まず米国を牽制するのは、オランダと英国となるが、両国は、1688年の名誉革命後、オランダ総督のウィレム3世が、メアリー2世とも英国の王家を継いでいる。また、オランダは英国にとって第二次英仏戦争の資金源でもあった。1750年におけるオランダのイングランド銀行やEIC会社への出資比率でも、他国を圧倒する90%近い投資を行っている。さらに、フランス革命で、革命政権がルイ16世を処刑したのち、1793年にはオランダと英国に宣戦布告し、2年後にはオランダ全土を制圧した時、オランダ総督・ウィレム5世は英国へ亡命しているのである。こういう関係は、フェートン号事件(1808)のような多少のいざこざがあったとしても、アジア利権においては、持ちつ持たれつの関係であった。

 そして、1814年、ナポレオンがエルバ島に流され、平和が訪れると、オランダはフランスから独立を回復する。この時、英国は以後、オランダと意味のないトラブルを起こさないよう、英国が占領していた蘭領東インド植民地をオランダに返還した。また10年後の1824年には、東アジアにおける両国の勢力範囲の画定、及び利害保持を確認したのである。

 その間隙をぬっていたアメリカの商人たちは、1830年代になると、インドから清国へのアヘン流入も増大し、清国と英国の関係が緊張していく中、うまく立ち回り、清国の官憲や商人たちにも好意的に迎えられていたようである。しかしながら、東アジアに拠点も手近な中継地もなく、英蘭のライバル商人との競争には不利なことは否定しようがなかった。清国の要地を狙おうと思っても、英蘭が目を光らせているので、うかつに手も出せない。貿易の拠点や中継地は、捕鯨船の基地のような小笠原諸島の父島やハワイのオアフ島では、小さ過ぎたり、遠過ぎたりでどうしようもない。

 そして、1840年、アヘン戦争が起こる。この結果、英国軍が清国軍にボロ勝ちし、その戦後処理の南京条約では、五港(上海・寧波(にんぽー)・福州・厦門(あもい)・広州)の開港、香港島の割譲、治外法権の承認、関税自主権の喪失等々の他、没収されたアヘンにイチャモンをつけ賠償金までせしめているのである。以後、清国は列強の草刈り場と化していくが、当然アメリカもそれらに加わることになった。

1844年、米国は、清国と南京条約とほぼ同じような望厦(ぼうか)条約を結んだ。いよいよ、清国との貿易に本腰を入れられる時が来たというわけである。

 こうして各国は、次は琉球だ、日本だとばかりに、前に記した弘化3(1846)年に4月、英・仏の軍艦が先ず琉球に現れ、閏5月(陽暦7月)、米東インド司令官が浦賀に寄港するのである。

 ところで、ビドルは、望厦条約を結んだ米国の清国特命全権公使ケイレブ・クッシングに対して、日本との外交交渉を開始せよとの米政府から指令書を携えて清国に至った。しかし、クッシングはすでに清国を去った後だった。そこで、ビドル自身が日本の通商交渉に向かったのだという。そして、不信を煽ることなく、穏やかな対応をせよと言われていたこともあり、幕府の諭書を素直に受け取って帰国の途に就いたというのが真相のようである。

 日本を去ったビドルは、12月に南米のチリに至るも、そこでアメリカとメキシコとの戦争を知り、翌年3月、カリフォルニアに移動。そこで、太平洋艦隊と合流し、そこの艦隊司令官となる。戦後は東海岸に戻り、1848年10月、フィラデルフィアで死去したという。

 


コメントを投稿