「鞍替え」などと表現すると、どうも雅雄氏という人物はひじょうに打算的なように聞こえてくるが、事実はちがった。奥さんの実家の村内ということは、この養子縁組は、奥さんの実家や奥さんが関わったと考えたほうが無理がないような気がするのである。というのは、養嗣子として入ったのだから、雅雄氏は信頼されていたのは間違いない。ましてやたとえよそ者でも、県の役人として、また繁のような大物保証人がいるとなれば、それだけで充分だった。それをむしろ奥さん側がうまく利用したのではないだろうか。奥さんの娘夫婦が近くに生活しているとなれば、実家にとっても心強いのは今も昔も変わりはないはずだからだ。
そのため、これは繁家には断りなしだった。もっとも、繁家とはいえ、当時、東京在住だったのだから、雅雄氏に関する監督は他の誰かに任せていたはずだが、おそらく最初は彼らも知らなかったのだろう。雅雄氏が他家の養嗣子になっていたなどということは。ところが、これが東京にも知られるようになると、すぐさまそれを解消させ、今度は正式に喜左衛門家を継がせることにしたのだ、と。
こんなふうに想像してもさほど荒唐無稽な話とは思えないだろう。さらにもっとこれらの話をリアルなものにする材料を提供すれば、鹿児島に現存する墓を踏査した限り、当時繁家ほど勢力のある奈良原家は見出せなかったことが一つ挙げられる。また、実際に雅雄氏を世話する可能性のある人物として、エイさんが養女として入った奈良原喜格家やあるいはまた繁の世話で鹿児島に定住した高見弥一家などを挙げてもいいだろう。
そう、忘れていたが、奈良原繁という人物は、京都薩摩藩邸の長屋に匿われていた旧土佐脱藩士の一人である大石団蔵を、文久3年(1863)末には鹿児島まで連れてきて、薩摩藩士に取り立てられるのを全面的にバックアップしていたのである。これでいかに繁が世話好きな人物だということもわかるというものだろう。おそらく、大石団蔵を藩士にするときも随分苦労したに違いない。いかに久光側近で彼からかわいがられていたとはいえ、よそ者の、しかも暗殺者の一人だった人物の保証人になるというのはたいへんなことだった。
だが、繁はいわば「義侠心」というか「男気」のある人物だった。優秀で信頼に足ると見込んで鹿児島まで連れてきた人物を投げ出すことはなかった。その結果、高見弥一と名前を変えた土佐脱藩士は、見込み違いどころか、19人の薩摩英国留学生の一人に選ばれているほどなのだ。
高見は、2年弱で帰国を命じられたが、その後繁の世話で鹿児島の女性と結婚し、教師としてさほど待遇のいい扱い方をされなかったにもかかわらず、雅雄氏が養子縁組をする頃もまだ鹿児島にいた。このことははっきりしている。
そのため、これは繁家には断りなしだった。もっとも、繁家とはいえ、当時、東京在住だったのだから、雅雄氏に関する監督は他の誰かに任せていたはずだが、おそらく最初は彼らも知らなかったのだろう。雅雄氏が他家の養嗣子になっていたなどということは。ところが、これが東京にも知られるようになると、すぐさまそれを解消させ、今度は正式に喜左衛門家を継がせることにしたのだ、と。
こんなふうに想像してもさほど荒唐無稽な話とは思えないだろう。さらにもっとこれらの話をリアルなものにする材料を提供すれば、鹿児島に現存する墓を踏査した限り、当時繁家ほど勢力のある奈良原家は見出せなかったことが一つ挙げられる。また、実際に雅雄氏を世話する可能性のある人物として、エイさんが養女として入った奈良原喜格家やあるいはまた繁の世話で鹿児島に定住した高見弥一家などを挙げてもいいだろう。
そう、忘れていたが、奈良原繁という人物は、京都薩摩藩邸の長屋に匿われていた旧土佐脱藩士の一人である大石団蔵を、文久3年(1863)末には鹿児島まで連れてきて、薩摩藩士に取り立てられるのを全面的にバックアップしていたのである。これでいかに繁が世話好きな人物だということもわかるというものだろう。おそらく、大石団蔵を藩士にするときも随分苦労したに違いない。いかに久光側近で彼からかわいがられていたとはいえ、よそ者の、しかも暗殺者の一人だった人物の保証人になるというのはたいへんなことだった。
だが、繁はいわば「義侠心」というか「男気」のある人物だった。優秀で信頼に足ると見込んで鹿児島まで連れてきた人物を投げ出すことはなかった。その結果、高見弥一と名前を変えた土佐脱藩士は、見込み違いどころか、19人の薩摩英国留学生の一人に選ばれているほどなのだ。
高見は、2年弱で帰国を命じられたが、その後繁の世話で鹿児島の女性と結婚し、教師としてさほど待遇のいい扱い方をされなかったにもかかわらず、雅雄氏が養子縁組をする頃もまだ鹿児島にいた。このことははっきりしている。