海鳴記

歴史一般

続「生麦事件」(131) 松方日記(38)

2009-03-29 14:39:14 | 歴史
 前回で松方日記の「検証」は終わった。残念ながら、この「検証」でも決定的な情報を得ることはできなかった。文久2年(1862)8月21日の生麦事件の生の記録も、喜左衛門が亡くなった慶応元年(1865)閏5月18日前後の日記もまたそれ以降のものもなかったのだから、当然といえば当然だろう。
 ただ私には、日記を読み終わった後も、松方が晩年に語った喜左衛門が斬ったという証言は、何か白々しい感じがして仕方がなかった。特に印象に残るのは、松方は兄の喜左衛門より弟の繁とより親密だったことだ。それは、明治後、繁が官僚となってからも変わらない。最初は繁の若干の後輩として、のちには明治政府の上役としてあるが。
 だからと言って、松方は繁をかばったというつもりはない。しかし、「喜左衛門遂ニ一人ヲ斬リ二人ヲ傷ク」(『侯爵松方正義卿実記』)というのはないだろう。少なくとも松方があの行列の駕籠周りにいて生麦事件の「真相」や「事実」を語ったという記述ではない。喜左衛門を剣の達人として崇めようというのならともかく、一人で3人に対したというのはあまりにも杜撰で、ありえない「真相」だからだ。
 それもこれも、松方と繁は久光の寵臣たちだったということに関係があるに違いない。これは松方日記でも、あるいは『実記』でも充分推察できる。
松方は、明治政府の重鎮となってからも、島津家の財政アドバイザーとして生涯島津家と関わりが深かったらしい。その松方が、事件当時から久光が封印した生麦事件の「真相」を語れるはずがないのだ。
 それは、繁をかばうというより主家に対しての忠節なのである。だから松方は、晩年になっても曖昧で雑駁な言い方でしか、事件を語ることができなかったのである。


続「生麦事件」(130) 松方日記について(37)

2009-03-25 12:22:46 | 歴史
 松方日記への西郷登場で、やや先へ進めてしまったようだが、その西郷が戻った一週間前の7日の日記には、大久保のところへ、川上勘解由、村橋織衛、幸五郎らと一緒に出掛け、真夜中過ぎに帰った、とある。
 今までも何度もこういう場面は出てきたが、幸五郎と大久保、松方という明治後の関係がここにも見てとれる。
 翌日は、海江田が京都より戻り、幸五郎のところで京、大津辺りの水戸浪士の狼藉を取り静めたという話を聞き、一安心した、と書いている。さらに、翌9日は、内容がよくわからないが、幸五郎宅で集会があったので行き、夜の10時過ぎに帰っている。(今宵は幸五郎所へ初咄とも友中集会有之行く四過帰候)その4日後の13日もまた、奈良原氏へ差越夫ヨリ伊地知壮之丞殿所へ行く大久保氏、海江田武次、森岡清左衛門、山口鉄之助、平山龍助、岸良壮之丞也、とあり、いつものメンバーが揃っている。
 さて、ここでそのまま日記を抜き出したのは、奈良原氏が幸五郎か喜左衛門かであるが、喜左衛門という名前はこの最後の分冊には一度も出てこないところから判断して、喜左衛門はまだ鹿児島に帰っていなかったと考えざるをえない。だから幸五郎で問題ないと思うのだが、翌日の日記に、幸五郎へ曳合致す、とあり、紛らわしいといえば紛らわしい記述の仕方なのだ。ただ私は、13日の奈良原氏は、誰がこの日記を読んでも幸五郎で間違いないと判断すると思う。
 その後、幸五郎はあと2回登場するが、兄の喜左衛門はやはり一度も出てこない。そして、松方日記は正月20日ですべて終わっている。

 喜左衛門が最後に登場するのは、以前も書いた中村徳五郎編の『実記』に出てくる2月22日付の大久保宛松方書簡である。ということは、喜左衛門は松方の日記が終わった正月20日以降から、2月22日までの一ヶ月の間に鹿児島に帰ったことになる。

続「生麦事件」(129) 松方日記について(36)

2009-03-23 11:40:12 | 歴史
 前回、西郷が帰国したのは正月4日と書いてしまったが、4日は広島を出発した日だったようで、鹿児島着は、正月15日だった。私の年表では4日、西郷帰国の途につく、という書き方をしていたので、うっかりその日着いたと早トチリしてしまったのだ。何となく松方日記の先をめくっていたら、正月15日の最後に、今晩西郷氏、税所氏豊瑞丸ヨリ着 とあるのを見つけ、間違いに気づいたのである。
 ところで、松方日記に西郷の名前が出てきたのは、これが初めてはではないだろうか。確かに、松方の日記が書かれた時期が西郷の島暮らしと重なっていることも多少影響しているだろうが、どうもそういうことではなく、松方も久光側近の一人ということが一番の理由だろう。そして久光に見出された人物たちは、概ね西郷と距離を置いていたような気がする。この関係が明治になってもそのまま続き、幸五郎の場合などは、明治政府に仕えるようになってからも西郷に近い黒田清隆とはほとんど接触はなく、専ら松方頼りだった。黒田は反大久保というわけでもなかったし、西南戦争でも西郷に従って戦ったわけでもないが、西郷が長州処分などで活躍するころから、西郷寄りになっていったようである。
 西郷は兄の喜左衛門はともかく、弟の幸五郎を嫌っていた。それは、幸五郎が女色を好み、酒ぐせが悪いという評判や性格のため嫌っているというより、久光側近ということがネックになっていたようである。
 文久2年(1862)、久光の怒りをかって島流しの憂き目にあった西郷を、その2年後の元治元年(1864)、久光の下で仕えていた精忠組の同志たちは西郷の復帰を強く要望する。久光の主導した参予会議も慶喜との対立で暗礁に乗り上げ、二進も三進も立ち行かなくなっていたからである。そしてしぶしぶ西郷復帰を認めた久光は、入京した西郷に対して、「禁闕御守衛一筋」という指針を与えて自分は帰国してしまう。以後、西郷は久光に反抗することもなく大人しくその行動指針を守り幕末ぎりぎりまでの時局に対応している。しかし、元々久光とは考えも反りも合わなかった。だから、明治になると、かれらの疎隔は決定的なものになってくる。そういう二人の間で、幸五郎はいわば西郷の見張り役を務めていたのだから。




続「生麦事件」(128) 松方日記(35)

2009-03-20 17:09:41 | 歴史
 ところで、幸五郎らも連座したという逼塞、免職という「事件」がどんなものかというと、かれらがいつも君側にいて出世も早い(松方も幸五郎も御小納戸という重役になっていた)のを妬んだ讒言によるものらしい。『実記』の記述では、「・・・侯(松方)ヲ始メ此等ノ同志(幸五郎ら)ハ常ニ君側ニ在ルノ故ヲ以テ頗ル専横跋扈ヲ極メ且女色ニ耽リテ士風ヲ紊ルト在ルモノゝ如シ・・・実ニ奸曲邪妄ノ輩アリテ侯等ノ栄達眷遇ヲ嫉ミテ之レカ陥穽(かんせい)ヲ謀リ無根ノ事実ヲ虚構シテ讒誣(ざんぶ)シタルニ依ルナリ・・・」と、思いもよらぬ冤罪だったようである。
 これは、大監察・関山糺が横目・岩元六兵衛を使って、市井の一酌婦に虚説を流させたことが「真相」だとしているが、すぐにこの不当な冤罪を糾弾する者たちが現れ、10月27日には、藩主・忠義の口達書をもって処分の再審査を命じられている。そしてこの再審査の結果、11月2日には松方始め、幸五郎らも冤罪として許され、元の地位にもどったのである。
 もっとも、これらの裁定も政治勢力のぶつかり合いであり、「真相」は何ともいいようがない。市来四郎が幸五郎をよく言っていないのは、ひょっとすると、このときのことは冤罪ではなく、一部事実だったからかもしれない。

 松方日記の解題者と松方日記の印象の違いから話は横道にそれてしまったが、先に進もう。元治2年(1865)正月5日、午後2時ごろ城勤めを終え、4時ごろ帰宅すると、幸五郎が来て真夜中まで議論に及んだ、とある。
 松方と幸五郎は、前年10月、長州征伐軍の監察に任命され、幸五郎は征討軍の本陣である広島と薩軍の陣地があった小倉(正確には芦屋か)を往復し、松方は小倉の薩軍陣地周辺で任務についていた。そして、西郷の尽力で征討軍が解散すると、松方は前年暮の12月21日にその報告も兼ねて帰国している。
 幸五郎がいつ帰国していたのかわからないが、ひょっとすると、前日の4日の西郷とともに帰国していたのかもしれない。松方の日記には何の記述もないが。

続「生麦事件」(127) 松方日記について(34)

2009-03-18 11:47:25 | 歴史
 さて、松方が遺した最後の日記分冊は、元治二年(慶応元年)正月元日から正月20日までである。もうこの他に遺されているものはないらしい。
 松方日記の解題者である大久保達正氏によれば、同日記は欠けている部分がきわめて多く、非連続的なので、その空白期間を埋める日記が存在するかもしれないという疑いもあるという。ただ、分冊としてまとめられた日記をみると、それぞれの終わりの部分が若干の余白部分を残しているので、連続的に日記を残している可能性も少ないそうである。
 さらに日記は、松方の詳細な行動記録ではあるが、その行動に伴うかれの見解、あるいは自己の内面を窺わせる記述がほとんど存在しないのは、一つには動乱期における自己を率直に述べることの危険性を挙げている。またそれが徹底しているのは、松方のきわめて慎重な性格に起因している、とも書いている。
もっとも、松方の日記は、大久保のと比較すれば、まだまだ冗長で慎重な性格という感じはない。私には、むしろ比較的オープンな性格なのではないかと思われる。それに、自己の見解や内面を書かなかったのは、危険性云々というより、むしろそれが当時の武士の普通の日記の書き方であっただけだと考えたほうがいいような気がする。なぜなら、危険性を感じるくらいならば、日記など書かなければいいのだし、そもそも付き合い関係など書くこと自体が危険なことなのだから。
 このことは、実際に松方自身が経験し、以後それを恐れて日記を付けなくなった理由の一つとも考えられる、ある「事件」と関連している。『侯爵松方正義卿実記』の中に、一時逼塞させられたことが書かれてあったのだ。のちに冤罪とわかってすぐに元に復帰したが、これがいつ頃かというと、松方の日記が終わった年の慶応元年10月15日のことであった。この日付で、逼塞を命じられた沙汰書が残っているのである。さらにこの『実記』には、同僚の森岡清左衛門、奈良原幸五郎、山口鉄之助なども連座し、免職の憂き目にあっていると書いてあったので、非常に驚いた記憶がある。幸五郎が一時的にも逼塞、免職になっていたという事実を、私は全く知らなかったからである。

 ともかく、松方は、この「事件」以前はわりに無頓着に日記をつけていたように思えるのである。だが、この「事件」を境にして、日記を付けるというのは危険(諸刃の剣)であるということに気づき、以後記録を残すことをしなくなったのではないだろうか。


続「生麦事件」(126) 松方正義日記について(33)

2009-03-16 13:36:47 | 歴史
 松方の日記に移ると、10月23日の最初の日に、幸五郎と松方両名宛の沙汰書が写されている。長州征伐出陣に付き、その監察を命ずるというものである。
この長州征伐については何回もふれたので詳しいことは省くが、この時期は、西郷がその解決を図ろうとして、征討軍の本営がある広島と長州を往復している頃であった。しかし、その解決もみない10月11日、幕府が長州藩の攻め口に軍勢を送るようにと諸大名に通達したために、薩摩藩もまだその動向を探る必要があったのだろう。
 松方の日記では、25日の夜、広島にある本営の評議がどうなっているのかわかり次第、小倉にある薩摩軍陣地に知らせる役目として、まず幸五郎を出発させたと書き、前夜は前夜で、幸五郎と二人で在郷中だった大久保宅に出向き、真夜中まで長州征討について論じたとも記録している。
松方自身は、11月1日に、家老島津主殿、軍賦役坂本廉四郎らと蒸気船安行丸で鹿児島を出発し、3日には博多に着き、上陸している。
 そしてその後、松方らは小倉に近い芦屋の薩軍陣地に赴いているが、松方の眼病がひどくなったらしく、と10日付けで、この3分冊目の日記は終わっている。

続「生麦事件」(125) 松方正義日記(32)

2009-03-14 11:02:58 | 歴史
 次の松方日記は、第3分冊目で、10月23日から11月10日まで残っているが、元治元年分はこれで終わりである。
 その内容に入る前に、前回からこれまでの京情勢を垣間見ておく。6月5日の新撰組による池田屋の変が長州に伝わると、その報復もあって長州藩強硬派は京都に兵を送り、その藩兵が24日、伏見に到着する。それに対して幕府は、薩摩藩邸にいた西郷らに出兵を命じるが、かれらは即座にこれを断った。というのは、これらは会津と長州の私的な戦いだから、名分のない戦争に兵を送ることはできないと判断したからである。それは、幕府に愛想をつかして帰って行った久光の、「禁闕(天皇の御所)御守衛」一筋という方針からも当然のことであった。 
 しかしながら、朝廷から長州追討令が出ると、薩摩藩もようやく出兵することになる。その結果、7月19日、長州軍は、幕府、会津、薩摩軍を相手に戦端の火蓋をきるが、あえなく一日で敗退し、京都を追放されることになった。いわゆる禁門の変である。
 何度も言うが、この戦闘の一翼で、喜左衛門は戦っていた。より正確に記せば、出水組(100名前後)の物主(隊長)として天龍寺に出陣し、凱歌を上げていたのである。そして、10月末ごろまでその部隊の隊長として、関西周辺で長州軍の残党狩などに従事している。その後どうなったかはっきりしないが、次の日記にも出てこないところをみると、まだしばらく京都あたりにいたのだろう。
 ところで、喜左衛門が出水部隊の隊長に任命される前、松方が京での用事を終え、鹿児島に帰る3月の半ば、大坂で喜左衛門と同僚の志岐藤九郎に会っている。そのとき、かれらは、大坂探索と蒸気船矩則一件の沙汰を受けていた。 
 これは、まだ在京していた久光の意思が入っていたかもしれないが、この出水隊物主の命令は誰が発したのだろうか。久光はすでに鹿児島へ戻っていたし、部隊の隊長の任命をいちいち鹿児島にお伺いを立てるということはありそうもないから、どうも在京していた藩邸幹部たちの人選だろう。だとすると、小松帯刀だろうが、城下隊も含め、いくつもある部隊の隊長の名前に、それまで久光の周りにいた人物など見当たらないし、私がほとんど目にしたことがない名前ばかりだった。 
 ただ、このあたりの人選に何かある、と考えても何かの結論が得られるわけでもなさそうだ。

続「生麦事件」(124) 松方正義日記(31)

2009-03-12 10:49:37 | 歴史
 新しく設置された「議政所」が出てきたついでに触れておくことがある。何日かはっきりしないが、「開成所」という洋学の教育機関もこの月に設けられているのだ。この開成所に、前年の文久3年(1863)12月、幸五郎が鹿児島に連れてきた土佐脱藩士・大石団蔵こと高見弥市が第二等諸生に選ばれ、入学している。ほとんどの入学生が藩校「造士館」から選び抜かれた俊才たちあったのに、元土佐藩士が選ばれたのは異例のことだったという。かれは、蘭学を中心に砲術、天文地理、物理学、測量術、数学などを学んだとされるが、翌年の密航英国留学生にも選ばれているから、これも問題なくこなしたのだろう。もっとも、高見の場合、資金難を理由に1年数ヶ月で帰国させられているから、留学してきたといえるかどうか。また、それほどの俊才でありながら、「留学」後は安月給の教師に終始したのは不思議といえば不思議である。「留学」が不徹底だったからだろうか。あるいは土佐藩参政・吉田東洋を暗殺したという過去が、何らかの足枷にでもなったのだろうか。明治政府に出仕することもなく、亡くなるまでほぼ鹿児島にいたということは。

 さて、話を戻して松方の日記に移る。6月10日は、海江田の家に大久保、伊地知壮之丞、森岡清左衛門、幸五郎などが集まり、翌日は翌日で、平輔殿宅へ、幸五郎、海江田、森岡、山口等が集まった、とある。14日、松方は朝の10時ごろ幸五郎の家に行き、腫れ物ができて城へ上がれないし、代わりに出てもらうということも申し訳ないことなので、湯治お暇願いを届けてもらいたいと頼むとすぐに承諾してくれた、と書いている。ところが、すぐそのあとに昼より谷山へ大久保、島津求馬、伊集院平治、幸五郎など十数名で遠乗りに出掛けたとあるので、松方の腫れ物は大丈夫なのかと思ったが、翌日は、市来温泉に出発しているので、馬に乗るぐらいは何でもなかったのだろう。
 こうして、松方は、6月16日から、この元治元年の第2分冊が終わっている28日まで市来温泉で療養しているが、その間の27日、幸五郎、指宿市介、大山弥九郎、鈴木郷十郎の4人で、松方の見舞いに来たとある。
この辺りを読む限り、松方と幸五郎・繁は、親友だったといってもいいくらいである。


続「生麦事件」(123) 松方日記について(30)

2009-03-11 11:26:59 | 歴史
 この元治元年(1864)当時、喜左衛門は34歳(海江田は喜左衛門の一つ下)、繁は31歳、松方は30歳で、年齢的な意味からも、繁と松方が親密なのは当然かもしれない。地位的にもほぼ横並びというところだろうか。ただ、翌6月7日には、繁は小納戸に出世しているから、兄・喜左衛門より上になることは確かだ。それに反して、喜左衛門は御供目付から変わっている様子も記録もない。それどころか、6月18日の出水郷士の日記には、物主という実戦部隊の隊長として出てくるのだ。この時点で喜左衛門は確実に久光や藩主の側から離れてしまっている。どうなっているのだろう、と言いたいくらいである。仮に、生麦事件が尾を引き、あるいは海江田とともに発案したといわれる薩英戦争時の野菜売りの作戦が失敗していたとしても、松方日記を読んでいるかぎり、それらによって影響を受けた様子は感じられないのに、何かあったのだろうか。
 まあ、ともかく先へ進もう。
 大龍寺馬場で、幸五郎と馬で競争をした日から5日後の5月30日の夕方、幸五郎は馬で松方の家までやって来る。奥御小姓衆が谷山へ遠乗りに行ったのでそれを迎えに行こうとの誘いである。その日、城勤めを終えていた松方もすぐ誘いに応じ、一緒に柴立松少し先まで行くと、もう小姓たちも帰って来るところだった。そこでそこから引き返し、ついでにまた馬で3度ほど競争をして帰った、とある。二人とも乗馬が好きだったようだ。
 さらにその2日後の6月2日、昼過ぎに城からあがった松方は、幸五郎と演武館に行き、和田流とか大山流の稽古を見分している。また、大久保から今日島津求馬殿宅に行くから一緒に来るようにと連絡がきたので、幸五郎と一緒に求馬殿宅に行き、両館一条(?)その外段々議論にも及んで、帰ったのは12時ごろだった、と書いている。
 そのあとは、すでに触れたように、6月7日の幸五郎の小納戸拝命の記録である。日記には「議政所掛被仰付」とあるが、この「議政所」というのは、家老や側用人、小納戸役の者たちの横断的な話し合いの場のようだ。ただ単に上意下達だけでは、めまぐるしく変化する情勢に対応できなくなったため、新しく設けられたもののようである。
 早速、その議政所での会議が9日に開かれるが、その日、特に差し迫った議題はなかった。そこで、これからはそれぞれが持ち寄った問題を箇条書きにしてそれぞれ論じ合うことにしてどうか、と幸五郎が提案すると、皆もっともだと言ってその日の会議は終わった、と記録している。


続「生麦事件」(122) 松方正義日記(29)

2009-03-10 11:15:34 | 歴史
 久光一行は、大久保と一緒に5月8日に鹿児島に着いているが、幸五郎はどうしたのかというと、かれらより一足早く帰国していたようである。というのは、5月5日付けで、松方と幸五郎両名宛の大久保書簡があるからである。
 松方は、4月3日以来、鹿児島を離れていないので、二人の名前があるということは、幸五郎も鹿児島にいたということに違いない。このときの久光の旅程ははっきりしないが、しばらく大坂に滞在していた可能性があるので、幸五郎だけは一足先に鹿児島に向かい、藩主・忠義に久光の帰国報告でもしていたのだろう。前回と同様、宮崎の細島から陸路をとった可能性が高い。かなり時間がかかっているし、まだ長州近辺は通れなかったからだ。
 その大久保の手紙は鹿児島に着く3日前の日付だから、都城あたりから手紙を出したのだろう。内容は、久光の名代島津久治の上京趣意と長州が朝廷と幕府に大罪を犯したので、順序を踏まえてことにあたるべき云々と、特に急がなければならないものではなさそうだが。

 さて、5月20日から始まる第二分冊の日記を読んでいこう。この日は海江田の名前が出てくるが、久光の帰国とともに帰っていたのだろうか。松方が京を出立し、大坂に着いて船待ちしていた3月16日に、喜左衛門、志岐藤九郎、海江田らが一緒に出てきたのが最後だったのだ。
 翌日は、幸五郎が出てくる。この日、松方は市来温泉に行っている岸良七之丞に用事があったので、一緒に行く予定だった谷村や幸五郎を誘いに行くと、幸五郎の家にいた志岐太郎次郎も一緒に出掛けることになった。馬で午後2時前に着き、湯にも一度入り、酒など飲みながら用事を済まし、帰ったのは真夜中過ぎだったとある。
 次に、幸五郎が出てくるのは、5月25日である。この日は、島津備後(久光3男)が上京するので、その際の御召物や道具取調べのため、幸五郎、谷村小吉らと午後2時ごろ城を出て重冨屋敷まで出掛けた、とある。その用事を5時ごろまでに済まし、大龍寺馬場までやってくると、幸五郎の馬と2度、競争している。それから谷村小吉も一緒に木藤角太夫宅に寄り、そこを10時ごろ出るが、その帰りがけ、今度は田中八郎次という幸五郎の親類のところへ立ち寄ったとも書いている。 松方は、兄喜左衛門ともいい関係を築いているが、繁とはそれ以上に親密で、距離が近いようだ。