前回で松方日記の「検証」は終わった。残念ながら、この「検証」でも決定的な情報を得ることはできなかった。文久2年(1862)8月21日の生麦事件の生の記録も、喜左衛門が亡くなった慶応元年(1865)閏5月18日前後の日記もまたそれ以降のものもなかったのだから、当然といえば当然だろう。
ただ私には、日記を読み終わった後も、松方が晩年に語った喜左衛門が斬ったという証言は、何か白々しい感じがして仕方がなかった。特に印象に残るのは、松方は兄の喜左衛門より弟の繁とより親密だったことだ。それは、明治後、繁が官僚となってからも変わらない。最初は繁の若干の後輩として、のちには明治政府の上役としてあるが。
だからと言って、松方は繁をかばったというつもりはない。しかし、「喜左衛門遂ニ一人ヲ斬リ二人ヲ傷ク」(『侯爵松方正義卿実記』)というのはないだろう。少なくとも松方があの行列の駕籠周りにいて生麦事件の「真相」や「事実」を語ったという記述ではない。喜左衛門を剣の達人として崇めようというのならともかく、一人で3人に対したというのはあまりにも杜撰で、ありえない「真相」だからだ。
それもこれも、松方と繁は久光の寵臣たちだったということに関係があるに違いない。これは松方日記でも、あるいは『実記』でも充分推察できる。
松方は、明治政府の重鎮となってからも、島津家の財政アドバイザーとして生涯島津家と関わりが深かったらしい。その松方が、事件当時から久光が封印した生麦事件の「真相」を語れるはずがないのだ。
それは、繁をかばうというより主家に対しての忠節なのである。だから松方は、晩年になっても曖昧で雑駁な言い方でしか、事件を語ることができなかったのである。
ただ私には、日記を読み終わった後も、松方が晩年に語った喜左衛門が斬ったという証言は、何か白々しい感じがして仕方がなかった。特に印象に残るのは、松方は兄の喜左衛門より弟の繁とより親密だったことだ。それは、明治後、繁が官僚となってからも変わらない。最初は繁の若干の後輩として、のちには明治政府の上役としてあるが。
だからと言って、松方は繁をかばったというつもりはない。しかし、「喜左衛門遂ニ一人ヲ斬リ二人ヲ傷ク」(『侯爵松方正義卿実記』)というのはないだろう。少なくとも松方があの行列の駕籠周りにいて生麦事件の「真相」や「事実」を語ったという記述ではない。喜左衛門を剣の達人として崇めようというのならともかく、一人で3人に対したというのはあまりにも杜撰で、ありえない「真相」だからだ。
それもこれも、松方と繁は久光の寵臣たちだったということに関係があるに違いない。これは松方日記でも、あるいは『実記』でも充分推察できる。
松方は、明治政府の重鎮となってからも、島津家の財政アドバイザーとして生涯島津家と関わりが深かったらしい。その松方が、事件当時から久光が封印した生麦事件の「真相」を語れるはずがないのだ。
それは、繁をかばうというより主家に対しての忠節なのである。だから松方は、晩年になっても曖昧で雑駁な言い方でしか、事件を語ることができなかったのである。