海鳴記

歴史一般

袴田事件と被害者家族 拾遺(2)

2011-10-30 09:48:03 | 歴史
 これは一般にはあまり知られていないが、鹿児島では西郷に関する有名なエピソードのひとつだった。ただ、時代が違うという人もいよう。それでは、私の実際に経験したこの地方の実例をあげてみる。
 私は中学生になって清水に越してきたのだが、両親とともに、ある時期農家の一軒家を借りて住んでいたことがあった。そのとき、当然私は新参者だったので、周囲の大人にどこに住んでいるのかよく訊かれた。そこで、その場所を説明すると、大抵の人は「ああ、藪の花か」と頷くのが常だった。つまり、その家の苗字を答えても、例外なく家の通称名で納得するのだった。
 現在はともかく、少し前までは、日本の田舎というのはこんなものだったろう。具体的な苗字や名前はそれぞれの家を識別する「記号」ではなかったのである。というより、苗字が同じ血縁が近くに大勢住んでいれば、それでは識別できなかったので、その家を象徴する屋号のようなもので区別するしかなかったというのが実情だっただろう。
 「こがね味噌」が藤作氏の創業で、藤作氏が建てた家に藤平氏も住んでいたとなれば、その家は「藤作さんの家」と周囲が呼んでいたとしても何の不思議もない。これに加えて、事件当時、当の藤平氏が病院に入院中だった。それゆえ、事件直後の新聞等が充分な確認もせず、そのまま報道し、以後その名前で定着してしまったということもままありうることだろう。藤平氏は被疑者でもないどころか、声をかけるのも痛ましい被害者一家の祖父だったのだから。
 私は、今さらこんなことを言って、警察の初動捜査やマスコミ報道の危うさをあげつらうつもりはない。おそらく、事件直後の報道ではありがちのことだ。しかし、そんな事件とは直接関係のない小さな間違いでも、何か決定的な誤謬の象徴のように受け取れないこともない。
 繰り返すが、これらの推測は、墓の記述が絶対だと仮定しての話である。最終的には戸籍簿を確認するしかない。ただ、この件に関して、私はそれを確かめる術もないし、そのつもりもない。今、私にできることは合掌のみである。

袴田事件と被害者家族 拾遺(1)

2011-10-29 10:05:05 | 歴史
 前回の補遺で、今ひとつ納得いかないというか追及できないことがあった。それは、祖父・藤平氏の名前のことだった。その後、新聞報道のみならず、図書館から借りてきた袴田巌死刑囚の冤罪に関する本を紐解いても、例外なく橋本藤作となっているのである。どうしたことだろう。またまた私の早とちりだったのだろうか、と不安になった。そんなことはないと思いながら、昨日、4度目の墓地訪問をした。しかし、やはり何度指をなぞっても、橋本藤平だった。ほっとすると同時に、なぜこんなことになったのだろうかと再度自問した。
 墓に刻まれた名前に絶対間違いないと仮定しよう。前回も述べたが、藤作氏は藤平氏の先代に当たるのではないかと推定した。理由は、藤作氏は昭和元年(1926)に70歳で亡くなっているが、藤平氏の前の代の箇所に彫られていたからである。確かに順序的には、藤平氏の前に、昭和4年に亡くなった橋本安次郎・いち夫妻の名前が彫られてはいる。ところが、何歳で亡くなったのかもわからないし、隣の妻・いちさんに至っては、いつ亡くなったのかも彫られていない。
 だから、どうもかれらは、藤雄氏の叔父夫妻だったのではないだろうか。つまり、藤作氏の弟夫婦だったのだろうと推察できるのだ。
 藤作氏が亡くなった時、藤平氏は36歳だった。もし、藤作氏の代から味噌醸造業に従事していたとすれば、藤平氏がそのまま家業を継いでも何も問題なかった。が、おそらく藤作氏の弟である安次郎氏も家業を手伝っていたのだろう。そう考えれば、なぜ弟夫婦もこの墓に葬られているのか納得できるのである。
 それでは、なぜ藤平氏を藤作氏と報じたり、のちのち書かれた本にもそう記載されたりしているのだろうか。それは、たぶん藤作氏が味噌醸造という家業を始めた人物だからではないだろうか。そのため周囲の人たちには、橋本家の「こがね味噌」といえば、藤作さんと等号だったのではないだろうか。
 要するに、藤作氏の名前は屋号のようになっていたのではないだろうか。より具体的な例をあげれば、西郷隆盛の名前である。西郷の通称は吉之助だが、当時の実名である諱(いみな)は隆永(たかなが)であった。それでは、現在どうして隆盛という名前で知られるようになったかというと、明治になって新しい戸籍制度が導入されるときに間違いが起こったのである。
 当時の戸籍調査員が、聞き取りのため西郷家を訪問すると、西郷も西郷の実名を知っている家人も不在だった。そこで調査員は、仕方なく近所の誰かにその実名を尋ねると、「隆盛どんじゃなかと?」と、西郷の父親の名前を答えたらしい。今から考えれば笑い話だが、吏員もそれをそのまま西郷の名前として戸籍簿に記入し、それがそのまま西郷の「実名」として流布されてしまったのだ。


袴田事件と被害者家族 補遺(4)

2011-10-25 09:43:18 | 歴史
 私は、この事件の被害者の一人が、かつてたまたま同じ中学校に通っていた同学年の生徒だったことで大きなショックを受けた。それからかなり時を隔てて、現在の宮崎県の山村で起った幼児子供4人を含む一家6人の惨殺事件を知った。私が以前何度も取りあげた大河平(おこびら)事件である。
 この隠されてきた殺害事件は、私が歴史上の冤罪だと主張している「生麦事件」を調べている過程で発見したものだった。今までもくどいほど繰り返してきたが、その被害者の墓には、おしなべて「死」という文字が刻まれていたのである。それゆえ、今回、いわゆる袴田事件を憶い出すことで被害者家族の墓がどうなっているのか調べてみた。そしてその結果、今まで述べてきたような私なりの結論めいたものを導き出した。むろん、こんなことが死者たちへの供養だなとは思ってもいない。そういうことなら、今ではごく少数の親族以外に線香を手向ける人もいなくなった墓前で黙って手を合わせればいいだけのことである。
 しかしながら、現在、この事件は袴田死刑囚の冤罪に関する情報しか得ることができない。もちろん、これはこれで仕方がない。いや当然といえば当然のことだろう。ただ、袴田死刑囚が冤罪を背負わされただけで犯人でないとしたら、被害者たちはどうなるのだろう。かれらも永遠の謎の中に埋もれなければならないのだろうか。そしてまた、宗教的な言葉を援用すれば、かれらの魂は浮かばれることなく、永遠に彷徨い続けることになるのだろうか。
 死者たちは何も言えないし、何も言わない。だからこそ、袴田死刑囚の冤罪問題とは別に、被害者らにも思いを馳せることで、少しでもかれらの魂を鎮められれば救いである。

 最後に、もう一度、被害者一家4人の戒名と、そのおよそ2ヶ月後の昭和41年9月6日に亡くなった祖父および昭和55年1月13日に亡くなった祖母の戒名も付記しておく。

永劫院失念法雄信士   昭和四十一年     橋本藤雄 
            六月三十日      四十二才
久遠院焼念妙恵信女   昭和四十一年     同人妻ちえ子
            六月三十日      三十九才
不咲妙示信女      昭和四十一年     橋本扶示子
            六月三十日      藤雄二女十七才
忘念法優雅信士     昭和四十一年     橋本雅一郎
            六月三十日      藤雄長男十四才

霊寳院松藤法涙居士   昭和四十一年     橋本藤平
            九月六日       六十七才
法善院妙輿信女     昭和五十五年     同人妻さよ
            一月十三日      七十五才

袴田事件と被害者家族 補遺(3)

2011-10-24 11:30:09 | 歴史
私がこんな本当かどうかもわからない、いわば埓もないことを考えたのは、向かって右測面に彫られた碑銘が橋本家先祖の没年順ではなかったことにある。
 言い換えれば、いつ頃一家4人の碑銘が刻まれたのか不思議に思うようになったのである。
右測面スペースの余白の関係上、惨殺された一家四人の祖父母夫妻の碑銘が先に彫られたのは確からしく思われる。そうだとすれば、四人はその後ということになる。つまり、祖父は、昭和41年(1966)9月6日、祖母は、昭和55年(1980)1月13日に亡くなっているのだから、4人は、当然その後ということになる。逆に言えば、それまで四人の碑銘はなかったということになるのである。
 なぜなのだろう。なぜかくも長きにわたって碑銘が刻まれなかったのだろうか。事件直後の混乱期はそれどころではなかったにしろ、少なくとも、祖父が亡くなった昭和41年(1966)9月6日以後、かれの横に刻んでもよさそうなのに。あるいは、犯人が捕まり、昭和43年(1968)、その犯人が静岡地裁で死刑判決を受けた時点でもよかったのではないだろうか。
 なぜなのだろう。なぜ一緒に並べて祀るようなことをしなかったのだろうか。ひょっとすると、祖父の碑銘も、昭和55年に祖母が亡くなった後に彫ったということなのだろうか。まさか祖母にあたる人が、私とおじいさんを並べて彫ってほしいと言ったから、祖母が亡くなるまでそのままにしていたというわけでもあるまい。そんなことはあるわけがない。できるだけ早く四人の遺霊を鎮め、慰めなければならないのだから。
しかしながら、もし本当に祖母が亡くなるまで何も刻まなかったとすれば、何か理由があったのだろう。例えば、残された橋本家の直系や親族にとって、この異常な事件で死んだ4人をどのように祀り、慰霊すればいいのかわからなかったのではないだろうか。単独に墓や碑を建てるべきだとか、あるいは他の先祖と同じ碑銘でいいのだろうか、などと、長い間揉めていたか、ためらっていたのではないだろうか。そして、事件から14年を経た昭和55年に祖母が亡くなると、やや怨讐も薄れてきたこともあり、先祖累代の墓に、かれらと同じ碑銘にすることで決着をつけたのだと。
前回、私の推測した、平成三年(1991)に亡くなった女性が藤雄氏の姉だったとしたら、その辺りの事情を物語るのではないだろうか。また別な風に言えば、この異様な死に遭遇した橋本家の長きにわたる苦悩や悔恨が、このような逡巡を生み出したのではないだろか。

袴田事件と被害者家族 補遺(2)

2011-10-23 11:24:52 | 歴史
さて、故雅一郎君の隣にあった、平成3年(1991)に亡くなった女性は誰なのだろう。そしてその隣の男姓は。これも単なる推測に過ぎないが、年齢から前者は藤雄氏の姉にあたるのではないだろうか。事件当時、藤雄氏より5才上の47才だったからである。では、その隣の一番最近葬られた人物はというと、平成21年(2009)に62才で亡くなっているのだから、事件のとき、19才だった。
 とすれば、この男性は隣の女性名の子供だったのかもしれない。少なくとも年齢的には。また、姉は事件に遭わなかったのだから弟夫婦と一緒に住んでいたわけではない。そのため、どこかへ嫁いでいた姉が橋本家に戻って家を継いだのではないだろうか。
 なぜなら、藤雄氏に弟がいたとしても、当時、19才の息子がいたとは考えられないからだ。とにかく、誰か家を継ぐ者が必要だったろう。無残な最後を遂げた藤雄氏一家の墓を守り、その霊を鎮め続けなければならないのだから。
 ところで、前章でもう一つ正確でない記述があった。それは、幸か不幸か一人生き残った19才の長女のことである。新聞報道によれば、彼女は、19日夜10時頃、帰宅したとある。そして、父親の藤雄氏に「合図」をして別むねに向かったという。その際、片手でシャッタ―を開けようとしたが、開かなかったとも証言している。このシャッタ―というのは、おそらく表側(道路側)の母屋の入口部分に取り付けてあって、長女は、帰宅後、一旦毋屋に入ろうとしたが、片手でシャッタ―が開かなかったので、父親に「合図」をして別むねに向かったということなのだろう。つまり、私が前に「一人で親戚かどこかに泊りに行き」と言ったのは間違いで、事件当夜は、別むねにいて助かったのである。
私の友人から聞いた話によると、長女は後に結婚し、市内の某家に嫁いで行ったという。無理もない。橋本家に留まって殺された家族の菩提を弔らえ、と祖母や親威中に説得されても、事件の夜、無残な死に方をした父や母、そして妹や弟の近くにいて自分だけが助かったのだ。そういう立場に立たせられたら、誰もが一刻も早くその場から遁れたいと考えるだろう。絶えざる悪夢と一に生き続けられるほど人は強くないのだ。だから、結婚相手が婿入りしてもいい、と言ったとしても、彼女は拒否したにちがいないし、祖母や親族もあえて口を挟まなかっただろう。それに遠くへ嫁に行くのではない。同じ市内でかつ隣接町内なのである。彼女の死後、両親や弟の墓に葬られることはないにしろ、いつでもかれらの墓に線香を手向けられる距離にいるのだから。
ただ、だからといって、橋本家を絶やすことはできない。そのため、すでにどこかに嫁いでいた藤雄氏の姉家族を呼び寄せたのではないだろうか。


袴田事件と被害者家族 補遺(1)

2011-10-22 15:47:21 | 歴史
袴田事件と冤罪 補遺(1)
 前章で、墓に刻まれた数字を確認もしないまま話を進めて失敗した。今朝、たまたま近くまで用事ができたので墓地に寄ってみると、またいつもの早合点に気がついた。私と同学年の被害者、橋本雅一郎君の隣に彫られた人物の没年が、平成3年に間違いなかったのはいいとして、問題は女性名を男性名と思いこんでいたのである。何というそそっかしさだろう。理由は見えにくかった縦の溝だったにしろ、「子」を「二」と見誤っていたのだから。そもそも戒名をしっかり読んでいたら、こんな結果にはならなかったのだろうが、これこそ私のいつものせっかちさのせいなのだからどうしようもない。
 これだけではない。被害者の橋本藤雄氏の父親である藤平氏(注)の碑銘はなかったと書いてしまったが、実は見落していたのだ。
 私は、向かって右測面に彫られた碑銘が橋本家先祖の没年順だと思いこんでしまったため、被害者一家の後だろうと勝手に堆し測っていただけなのである。実際、それは間違いだった。被害者家族の前にあったのだから。
 前章でも言っているように、向かって右測面は読みにくかった。2度目は日暮れ近かったので、やや焦ってよく確認しなかった。しかし、3度目の今回、全員の碑銘をノートに書き写していると、被害者夫妻の前にある二人の故人の没年が、被害者夫妻のそれより後だったのである。ということは、没年順に刻まれたというのは嘘だったということになる。では、二人の故人というのは、誰だろう。言うまでもない。被害者一家の祖父毋夫妻だったのである。
 これは帰宅してから新聞記事で確認した。祖父の藤平氏は、事件当時、リューマチで病院に入院中とあり、年齢も墓に記されたのと同じく67才だった。
 藤平氏は、息子家族が殺された日から約2ケ月後の、昭和41年(1966)9月6日に亡くなっている。リューマチが死因とは考えられないので、ショックによる心労がたたったのだろうか。
 ともかく、橋本家は、その年、5人を弔ったことになる。ちなみに藤平氏の奥さんは、昭和55年、75才まで生きていたので彼女がすべてを執りしきらざるを得なかったろう。私が思い違いをしていた藤雄氏の弟がいなかったとなればなおさらである。もっとも、年齢的にはまだ生きていてもおかしくはないので迂濶なことは言えない。

(注)・・・新聞では藤作氏となっていたが、墓には藤平と彫られている。まさか墓に彫られたのが間違いだとは考えにくい。なぜそんなミスが起ったのだろうか。というのも、昭和元年(1926)に70才で亡くなった故人の名前が藤作と刻まれているのである。どうも、藤平氏は、名前や年齢から藤作氏の子と推測できるのだが、新聞記者が近所の人の誤った記憶か、あるいは地方ではよくある「通称名」を聞いてそれを書き留めたのだろうか。しかしながら、警察の発表を下に書いているのだとすれば、これも怪しくなる。墓に彫られていることが絶対に正しいということもない。今のところ、この正否は戸藉を参照するしかない。

袴田事件と被害者家族 (5)

2011-10-13 16:51:28 | 歴史
この橋本家の4人の死者たちに対する慰霊の仕方は、他の橋本家の故人の慰霊と何も変わっていない。大河平家の一家6人の場合は、あきらかに他の先祖の死者とは違った碑銘だった。つまり、没年の下に「死」という文字を刻み込んでいるので、すぐただならぬ死に方が想起されたのだが、橋本家の場合、そういう他と区別する表記は何もない。後世の掃苔家(そうたいか)が見ても、家族4人が事故死を遂げたか、あるいは火事で亡くなったと想像するのが関の山だろう。碑銘だけでは、だれもメッタ刺しにされ、その後火をつけられて死んだなどと想像するのは困難なのである。それなら、遺族はどういう思いで彼らの死を受け止めたのだろうか。
 当時の新聞報道によれば、親族でかれらを見送ったのは、一人で親戚かどこかに泊りに行き、あやうく難を逃れた19歳の長女と別の近くの家に住んでいた祖父母夫妻だった。新聞には見出せなかったが、今回の墓を調べてわかったのは、どうも墓石の左側面の平成3年(1991)に亡くなったのは、名前から被害者たちの叔父だったように思える。ただ、単純計算すると、事件当時47歳なってしまうので無盾する。平成13年なら無盾しないので、写し間違ちがえたのだろか。折をみて再確認して来なければならないが、もし跡取り一家が亡くなり、弟夫婦でもいたとなれば、かれらに家を継がせるのが自然だろう。そもそも、事件当時60歳を過ぎていたと思われる祖父母夫妻の碑銘が見当らなかったのだから。要するに、故人名が順序通り彫られているのだとすれば、被害者一家の次に来るのは祖父母父妻だがそれがない。となれば、弟の存在でも考えなければ治まりがつかないのである。先祖累代之墓とあるのだから。
 こんなふうに推測していけば、祖父母夫妻はかなりの長命だということになるが、現代では驚くに値しないのかもしれない。ましてや不慮の事故で亡くなったというわけではないのである。その無念さは、止まることを知らないであろう。そして、その執念だけで生きているのかもしれない。この世での「念」を失った息子家族をできるだけ長く弔うために。
 もしこれらのことが当らずといえども遠からずというのなら、かれらの周辺にいる人たちには、事件に関連したことを話すのは未だにタブ―なのだ。最初のころ墓地を見出せなかったのは、そういう空気が支配していたからかもしれない。
 私は、今のところ被害者家族にも、冤罪の可能性の高い袴田死刑囚に対してもどう言葉をかけていいのかわからない。だいたい、第一審の静岡地方裁判所で死刑判決を下した裁判官の一人は、退職後、涙ながらに冤罪を訴えているのである。どうして未だに再審請求への許可が下りないのだろうか。
 私は、この事件の被害者の一人と全く無縁ではなかったと言った。と同時に、冤罪を訴えて続けている姉の袴田秀子氏とも全く無緑というわけでもなかったのである。
 簡単に説明すると、いっときの生計のため、私の家の裏手の空き地を利用してカラオケバ―にしていた母親が、それをやめた後、袴田秀子氏の求めに応じてしばらくそこを貸していたという。これは鹿児島から帰ってから聞いた話である。20年以上も前のことであるが。


袴田事件と被害者家族 (4)

2011-10-12 11:45:45 | 歴史
 こうして、またしばらくして墓地を再訪すると、前回、読み取れなかったのも無理もなかった。文字が小さく彫りが浅いため、そこに汚れが溜まると、ていねいに洗い出し、指先や細い棒もなどで文字をなぞらないと読めないのである。動画が撮られたのは十数年も前で、まだそういう汚れも目立たなかったから、カメラアイでも読み取ることができたのだろう。
 さて、最初に彫られているのは、二女である。法号は、不咲妙示信女とあり、その下に名前と年齢および没年が彫られている。17歳で殺されたのだから、「不咲」なのだろう。むろん、これを読んだだけでは、「殺された」ということは全くわからない。むしろ、何かの病気で亡くなり、未婚のまま亡くなったために法号に「不咲」という文字が与えられたと考えるのが自然だろう。
次に彫られているのは、私と2年間同じ中学校に通っていた14歳の少年である。法号は、忘念法雅信士とあるが、「忘念」とはどういう意味合いだろうか。数々あった「念(おも)いは忘れてください」などという意味合いなのだろうか。
 ここまで読み取っても、かれらが「殺された」ということを暗示する文字はない。ただ、没年が姉と同じく昭和41年6月30日ということだけが、かれらが病気で死んだという可能性をほぼなくしている。だから、次にかれらの両親の没年が並べてあれば、初めて何か不穏な死を遂げたということが実感できるのだろうが、次にあるのは、両親のものではない。平成3年に、77歳で亡くなった人物の法号や名前、その隣が平成21年、62歳で亡くなった女性名なのである。
 どうなっているのだろうかと、改めて正面の碑銘を見ると、「橋本家累代之墓」とあり、右側面には、また小さく浅く彫られた故人名があった。当然、最初に来たときにはここを読もうとしたのだが、上段の6名はともかく、下段に刻まれた6名の文字は、ほとんど読み取れなかったのである。そのため、早々と諦めて、他の墓に移ってしまったというわけなのだ。
 だから、今回は下段のほうを集中的に洗い出して見た。すると、全体の故人名がくっきり浮かび上がるようになった。それでわかったのは、右上段から続いた橋本家の故人名が没年の順に彫られているということだった。最初が明治45年で、次が大正3年となり、下段左隅の二列が昭和41年6月30日だったのである。つまり、左側面にあった姉弟の両親の碑銘だったのである。
 これでは、最初に来たときにこの墓だという確信をもてなかったのも無理はない。私は、大河平家の墓の印象が強烈だったために、橋本家の碑銘も並べて彫られていると当然のように考えていたのである。おまけに橋本家の碑銘は丁寧に洗いださない限り読めなかったのだから。バラバラに離れて彫られているなどということは考えもしなかったのである。
 ともかく、最初にある42歳で「殺された」父親の法号を書き留めた。永劫院失念法雄信士である。それと並んで下段左隅に刻まれた法号は、久遠院焼念妙恵信女である。39歳だった。

袴田事件と被害者家族 (3)

2011-10-11 14:16:03 | 歴史
 こういうことはショッキングな事件であればあるほど、無理からぬことかもしれない。一応それらしい犯人を警察が捕まえ、裁判で死刑が確定したとなれば、今さら犯人でなかったかもしれないなどと言われても、ただ困惑させ、心の平安を失わせるだけだろう。袴田被告を犯人だと思い込んでいる人たちには。だから、未だに話題そのものに抵抗を感じ、中には怒り出す人もいるのかもしれない。なぜなら、墓の下にいる被害者たちには、犯人は死刑になったから安らかに眠ってください、と報告を済ませているのだから。それが覆るとなれば、自分たちの身の置き所がなくなってしまうだろう。とにかく、何も語りたくないし、もう触れてもらいたくない話題なのだ。自分たちも傷つきたくないために。
 私は、大河平事件がなぜタブーになったのか、何となくわかるようになった。いたいけない幼児まで殺害するに至った動機には、おそらく共同体全体に絡んだ恨みのようなものがあったのだろう。そうだとすれば、それを語ることは、自分も共同体から抹殺される可能性があったということである。それゆえ、誰もが沈黙を通すしかなかったのだ、と。
 袴田事件は、私にはよくわからない。しかしながら、個々人は知らないが、未だにこの地区の人々が袴田死刑囚支援に動いている気配はない。さらに、裁判所側も、再審請求に応じていないとなれば、この共同体に関わる何かがあるのではないかと疑いたくなる。
 
 私は、被害者の墓の所在がわからないまま、2年ほどそのままにしていた。今回、多少時間があったので、袴田事件の動画サイトを覗いて見た。すると、以前、見ていなかった動画記録があったのである。そしてそれには、墓が撮られていたし、その墓のある墓地は、以前、やみくもに訪れた墓地の一つだったということがすぐにわかった。そこで、数日後にそこに出向いてみた。
 ところで、この墓地は、鹿児島の墓地のように寺が管理している墓地ではない。最近はやりの霊園である。それも狭い、急峻な山間(あい)を利用した場所にあり、また鹿児島の墓地の広さから比べれば、十分の一、二十分の一という規模なのですぐ確認できると思い込んでいたことが失敗だった。確かにここだと思われる墓を見出しても、彫られた文字が浅くて小さすぎるのと、光の加減で被害者の名前や没年も確認できない。急に思い込んでいた自信がぐらつき、他の位置にあるのかもしれないと、方々探している間に、辺りは段々暗くなっていた。仕方なく、動画をもう一度確認してから再訪しようとそこを去った。
 家に帰ってから、もう一度動画を確認すると、やはり最初に目星をつけた墓に間違いなかった。そして、左側面に彫られた、私と同学年の被害者の名前を読み取ることもできた。一瞬、これでまあいいか、という気持ちも起ったが、段々、全部確認しなければ、済まされないような気になっていた。未確認のまま中途半端な作業で終わらせたりすると、冤罪事件に限らず、後でかえって余分な時間を使ってしまう経験を何度もしていたからだ。
 
 

袴田事件と被害者家族 (2)

2011-10-10 21:11:28 | 歴史
                  (2)
 だが、どうも死刑囚となった袴田巌氏の周辺では、違った反応をしていたようである。つまり、強引で杜撰な思い込み捜査によって、袴田氏は犯人にデッチあげられたというのである。
 今、この詳細を語るのは止める。時間がないこともあるが、実際、私のこの事件に対する認識度は、インターネットや当時の新聞等で得られた情報だけのものであり、いわば孫引き、玄孫(やしゃご)引き程度のものにすぎないのだから。
 それでも、全体の印象を述べよと言われれば、現代の冤罪事件につきものの、可視化されていない取調べ室での自白調書が主たる「証拠」だったこと。そして、それと矛盾する数々の証言や証拠が出ているとすれば、「疑わしきは被告人の利益に」という観点から、即刻、再審が行われてもおかしくはないのではないかといえると思う。
 
 私は、生麦事件の被害者、英国商人・チャールズ・レノックス・リチャードソン殺害の犯人は、定説の奈良原喜左衛門でないということをそれなりに実証できてきたと思っている。つまり、いつの間にかデッチ上げられた冤罪事件だったということを。
こういう冤罪事件は、現代でも数えればキリがないほど見出すことができる。インターネット動画サイトを覗けば、これでもかこれでもかでという、冤罪事件のオンパレードである。とくに早くから陪審員制度を導入し、民主国家のようにみえるアメリカの場合など、驚くほかない。百何十名もの死刑囚に冤罪の疑いがあり、何人かは、DNA鑑定の採用で無実だったことが次々と明るみに出されていったというだから。日本でも、DNA鑑定で2、3の事件の冤罪が明らかになったことは記憶に新しいが、なんとも残酷で不条理な話としかいいようがない。
 ところで、袴田事件に話を戻すと、最初の探索で被害者の墓を見出せなかったということは、ある意味でショックだった。というのも、一方で冤罪を訴えている袴田巌氏の実姉やその支援者、さらに輪島功一氏やファイティング原田こと原田政彦氏や渡嘉敷勝男氏などの錚々たる元世界チャンピョンを並べた日本プロボクシング協会などが大々的に冤罪を訴えているのにもかかわらず、地元清水では未だに冷ややかというか口を閉ざす空気が支配しているように思えたからである。
つまり、すでに事件から40数年の時間が経過しているとはいえ、私が訪ねた事件現場近くの人は、よくわからないと首を振るだけだったし、また卒業した中学時代の同級生にその場所を探してもらうように頼んでもよくわからなかった。というより、友人は熱心にいろんな人に当ってくれたのだが、どうも反感をかうことが多かったらしく、それで受けたストレスを私にぶつけてきたほどだ。今さら、どうとでも言える昔の事件を掘り下げないほうがいい、と。
 むろん、私はこの事件を掘り下げるつもりなどなかった。そんな時間は今でもないし、そのときは被害者の墓を探し出し、大河平家の墓碑銘と比較したいだけのことだったのだから。