海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(45)

2010-08-09 11:14:15 | 歴史
 とにかく、明白なことは、4月の3日か4日に上場に連行された12人全員が殺害されていたことだけだ。しかしながら、なかなか一筋縄にはいかない願書の内容であった。ただ、この出水事件の真相に関しては、この願書も『丁丑乱概』や『市来四郎君自序伝』と並んで重要な史料になってくるから、今後も触れることになるだろうが、この事件記述以後は、やや長々と改葬願いの理由を述べて終わっている。
 さて、この願書が出されたのは「明治十年七月」とだけなっており、日付はない。おそらく、黒江らが官軍に投降した7月3日以降だろう。おまけに6月22日には官軍が重冨に上陸し、そこから薩軍が撤退したあとは、政府軍が戸長役場を占拠していたのだから、もはや私学校徒たちに遠慮はいらない。
 もっとも、この地域の状況はそう単純に沈静化したわけではなかった。8月17日の深夜、可愛岳を突破し、鹿児島に戻ろうとした西郷軍は、28日には小林に入り、そこで一波乱を巻き起こしたことは以前述べた。その2日後の夜、溝辺(みぞべ)を経て、姶良の山田郷という地区に着いている。それから、翌日の8月31日、一行は山田を発って蒲生に向ったが、途中、自宅を政府側巡査に提供していたという理由で福重福右衛門という人物を捕らえ、蒲生まで連行し、そこで殺害したという。こういう報復行動は、かれらが小林を去った翌日の29日の夜、飯野(えびの市)でも行われている。政府軍に懇請されて戸長を務めていた松形祐高という人物の例だ。松形は、琉球生まれともいわれ、鹿児島城下から飯野郷の松形家に養子に入った人物で、農民たちの間では人望も高かった。しかし、地元士族の間では「よそもの」という意識が強く、妬みの対象でもあったらしい。いわば、その士族の誰かの告げ口によって、かれが仕事で出向いていた先の家で酒宴中に襲われている。そしてそこから連れ出されると、川内川の河原で斬首されているこ。
 この斬首を執行したのは、鹿児島城下出身の16歳の少年だったといわれている。このことを感じとった、すでに54歳の松形は、かれが後ろに回ると「しばらく」と一言し、「髪の毛が乱れている。それでは斬りにくかろう」とそれを手で撫であげ「もうよかろう」と静かに目を閉じたという(『えびの市史』平成6年刊)。
 なお、山田郷の福重福右衛門を斬ったのは、帖佐の小城隊に属していた帖佐士族だった。この帖佐隊の小城宗一郎については、のちのち触れることにするので、今回は詳述を避ける。次回は、いよいよ最初に薩軍から脱落した赤塚源太郎隊について述べることにしよう。