海鳴記

歴史一般

8.18政変再び 佐々木克論文について(7)

2009-09-30 10:40:54 | 歴史
 どうもこの論文を最後まで読んでみても、容保がなぜ高崎の計画を薩摩藩首脳部の指示だと判断したのか、よくわからないのだが、5(章)の「政変の過程」の章の終わりごろに、佐々木氏自身の「はじめに」の断定を自分から否定するような矛盾した記述があるのには驚かざるを得なかった。
 順序が入り組んできて、わかりにくくなるかもしれないが、お許し願ってその部分を抜き書きすると、「13日、容保は政変計画に即座に同意した。容保が判断できたのは、池田慶徳(鳥取藩主・・・私注)らの有力諸侯(徳島、岡山、米沢?・・・私注)・藩の意思・姿勢を確認できていたからである。彼等有力諸侯の協力が得られると判断したから、容保は政変計画に乗ったのである」(同)と書いているのである。
 そうだとすると、べつに高崎の計画が薩摩藩首脳部の指示でなくとも、容保にとってそれなりに納得いくものだったら、かまわないことになるではないか。
 むしろこの部分は、逆に「非指示派」にとって有利な証言のように思える。だが、ことはそう単純ではない。

 8.18政変を総合的にも検証している佐々木氏は、政変の際、各門を固めるために出兵した主な藩と、その人数を一覧にあげているが、その主要な藩および合計人数等を計算していないので、大略算出してみる。
 会津藩1、888名、徳島藩523名、岡山藩523名、鳥取藩468名、米沢藩468名、淀藩468名、熊本藩269名、水戸藩241名、丸亀藩208名、大洲藩193名、土佐藩193名、鳥取(鹿奴)藩157名、薩摩藩150名、他13藩684名、総計27藩、6、737名である。
 つまり、これらの藩とその藩兵が、長州藩とその支藩である岩国、清末両藩(計約2,600名)に反して、政変を支持し、かれらに対抗していたということである。

8.18政変再び 佐々木克論文について(6)

2009-09-29 11:41:53 | 歴史
 そして最後に、「文久3年8月政変は、解明されるべき点がいくつも残されているのである」とし、この政変を正面から本格的に研究した論文として、原口清氏の「文久三年八月十八日政変に関する一考察」(1992)(注)と芳即正氏の「文久三年八月十八日政変と島津久光」(2001)があるだけであり、前者は、孝明天皇と中川宮の動向を中心に、後者は、久光が京都からの情報をどのようにうけとめて政変断行の指示を下したのか、薩摩藩の側から検討したものである、と整理し、本稿は、これらの成果の上に立って、薩摩藩の動きを中心にすえるが、朝廷や幕府、その他の諸藩の動向を含めて、総合的な検討を加えていきたい、と結んでいる。

 私に、この「はじめに」の部分で同調できるものがあるとすれば、ややはっきりしないものいいだが、「容保が京都守護職として、かつ会津藩主として、政変の計画に乗っていったのは、薩摩藩士高崎の話が信用できると判断したからである。つまり高崎の話した政変の計画は、薩摩藩首脳部によるものであると確信できたからであり、そして成功の見通しが高いと判断したからだろう」という部分である。逆にいうと、高崎らが独自の判断で政変の計画を練っていったとする側は、ここのところを飛ばすというか無視するきらいがあるのだ。
 まず、高崎が会津藩の秋月悌次郎、広沢富次郎らに話を持ちかけ、次に秋月らが藩主・容保に話を持っていく。すると、容保はすぐに高崎の計画に乗っていってしまうのだが、久光の指示がなかったとするいわば「非指示派」(以下、「指示派」と「非指示派」と簡略化する)は、どうしてこう簡単に容保が乗ってしまったのか納得のいく説明がないのである。

 最初は、中川宮も逡巡し、近衛父子も断った高崎の計画を、おそらく京都の薩摩藩邸に藩首脳部がいなかったことも知っていたはずの容保が、即座に首肯し、交替のため国元会津に向っていた藩兵を急きょ呼び返した根拠は何だったのだろうか。

(注)・・・芳氏の久光指示云々への批判は、「幕末政局の一考察」(2004)にある。

8.18政変再び 佐々木克論文について(5)

2009-09-28 09:55:49 | 歴史
 まあ、どうしてこんなことをいうのかと言えば、次の佐々木氏の、「では、その指示は、何時、どのように高崎に伝えられたのだろうか。そもそも、鹿児島の藩首脳が、政変を計画したのは、何時、どのようなことがきっかけとなっているのだろう。それはどのような状況判断によるものだったのだろうか」という部分の、その答えが明確にまたどこに書いてあるのかわからなかったからでもある。それなら、それを探せなかったお前が悪いのだ、と論者に言われてしまえばそれまでだが、実際のところ、「指示」というのがどの程度までが「指示」でどの程度がそうでないのかも明確でなかった気がする。たとえば、久光らの「指示」がなかったとする原口清氏でさえ、当時の薩摩藩の政策なり、久光の意向を踏まえた上で高崎らの計画はなされた、としており、それを暗黙の了解、つまりは暗黙の指示とやや強引に置き換えられなくもないような、不明確さがつきまとって仕方がなかったのである。
 どうして佐々木氏の論調が、そうなってくるのかと言うと、肝心の具体的史料がないからなのである。だから実際、この論文にも何度か出てくるが、「あくまで推測によるが」などという「正直な」表現を繰り返している。

 ところで、「はじめに」の部分はまだまだ続くので、また問題提起(わたしにはもう充分な問題を提示してくれた)の部分でもあるので、まだ追ってみよう。
前述の問題提示のあと、7月末まで京都藩邸にいて、8月3日に江戸に着いた、大久保利通に近い吉井仲介(友実)の事変後の手紙を紹介し、かれも何も知らなかったのは、この政変計画は、「薩摩藩首脳部のごく一部が知るものだった」(同)からだという。そして、政変を最終的に決断したのは、孝明天皇であるが、天皇自身、政変は会津藩の働きによるものだと評価していたように、「おそらく、天皇自身も、薩摩藩の役割の詳細は把握していなかった」(同)と続く。
 次にまた話が変わり、「公武合体派」(破約攘夷慎重派・・・自注)の薩摩藩と会津藩が共謀して、「尊攘派」(即時破約攘夷派・・・自注)の長州藩を京都から追放した事件というのが、政変の通説だが、「政変における薩摩藩の動きには、解明すべき事柄が、いくつも横たわっているのである」(同)と断定し、「また、「公武合体派」が「尊攘派」を追放した政変であると、政変を権力をめぐっての両派の闘争であると解釈すると、政変で長州藩を追放する側にたって重要な働きをした、「尊攘派」といわれている鳥取藩の立場を説明できなくなる」(同)と、私には全く新しい知見が披露されている。

8.18政変再び 佐々木克論文について(4)

2009-09-27 11:21:03 | 歴史
 ところで、「はじめに」の部分で、佐々木氏が問題提示をし、いわば氏が至った結論も書いているので、その部分を氏の文章なりフレーズをできるだけ抜書きして紹介してみよう。
 まず、「政変を最初に計画したのは薩摩藩で、その計画を薩摩藩が会津藩に告げたのは、政変の5日前の8月13日であった」(『人文学報』第87号・以下2度目以降は同とする)ことに誰も異論はないだろう。さらに続けて、「しかもこの重大な計画を会津藩に告げて、実行計画を具体的に練り上げたのは、高崎正風ほか数名の京都詰めの薩摩藩士である。このとき薩摩藩の要人は一人も京都に滞在していなかった」(同)ことも異論はないというか、そうなのだろう。次に会津藩主・松平容保について、「容保が京都守護職として、かつ会津藩主として、政変の計画に乗っていったのは、薩摩藩士高崎の話が信用できると判断したからである。そしてその成功の見通しが高いと判断したからであろう。一藩士の、重大な機密に属する話が、強い説得力を持っていたのである」と書き、次にすぐ「高崎が政変の計画を、会津藩に相談したのは、彼個人の意思でやったのではなく、鹿児島の藩首脳からの指示によるものである」と、かれの結論をもってきている。
 ここまでで、何か奇妙なことに気づかないだろうか。というか、私が最初にこの「はじめに」を読んだときから、この論文全体に感じる表現の曖昧さのようなものがもうここに出てくるのである。
 つまり、「実行計画を具体的に練り上げたのは、高崎正風ほか数名の京都詰の薩摩藩士である」と書きながら、「高崎が政変の計画を、会津藩に相談したのは、彼個人の意思でやったのではなく、鹿児島の藩首脳からの指示によるものである」と結論づけている部分である。前半の「実行計画を具体的に練り上げたのは」といわれると、高崎および数名の京都詰め薩摩藩士たちが主体的になって政変を実行していったかのように読めるが、後半では、全くそれを否定しているのである。
 私は何か偏見をもって、かれの論文を読もうとしているのだろうか。私の解釈は間違っているのだろうか。おそらく佐々木氏は、単に同じ意味合いのことを違う表現に置き換えたというつもりだったろうが、私にはそうは思えないのである。佐々木氏の中には、「鹿児島の藩首脳からの指示によるものである」と断定できない部分があって、それが前半部分の表現の中に無意識的に顔を出しているような気がするのである。

8.18政変再び 佐々木克論文について(3)

2009-09-27 11:12:14 | 歴史
 本題になかなか入っていかないのが、どうもこの章への逡巡ぶりが出ていて、我ながら苦笑せざるをえないが、いまだに入(はい)り口が決まらず困っている。ともかく、とてもじゃないがこの論文の全項目について論じることはできないので、まず佐々木氏自身が最初に書いている章立を掲げてみよう。

    はじめに
    1 文久3年春の京都
    2 久光への上京要請
    3 久光上京の勅命
    4 攘夷親征と小倉藩処分問題
     (1) 攘夷親征をめぐる動き
     (2) 小倉藩処分問題
     (3) 八幡行幸から大和行幸へ
    5 政変の過程
     (1) 村山斉助の上京
     (2) 政変にいたる動き
     (3) 実行計画案
     (4) 政変の決行
    6 おわりに -薩摩藩・久光の決断とその背景
       『人文学報』第87号(2002年12月)
  (京大人文科学研究所) 
 
 以上、この辺りに詳しい人は、ああ、これはこの年に起った政治的動きを、オーソドックスに時間を追って論述しているな、とおわかりになるだろうから、ここではあえて1~4の事象を飛ばして、5、6の事象を中心にして話を進めることをお許し願いたい。町田氏のように、姉小路公知暗殺事件が薩摩藩に及ぼした影響が大きかった、というような従来ほとんど重視しなかった事件でも取り上げていれば別だろうが。

8.18政変再び 佐々木克論文について(2)

2009-09-26 10:01:06 | 歴史
 さて、多々ある8.18政変に関する先行論文のうち、とくに久光およびかれを支えている薩摩藩首脳部の指示があったと論じた芳即正氏説に、原口清氏は、「幕末政局の一考察―文久・元治期について」の中で反論した。ただ原口氏の反論は、具体的実証に著しく欠け、結論のみを急いだ感が否めない、と町田明広氏が指摘したように、いわば、強烈だが2、3発のジャブを放ったというところだろう。それに対して佐々木氏は、芳氏の論を特に擁護するという意味合いから久光の指示云々に言及した、というより、長年の研究から到達していた氏自身の結論(推論)を、たまたまこの時期に発表したと考えたほうが納得のいくような、詳細で長い展開の論文だった。だから私はうんざりしたのだが、それはともかく、私自身も書きながら理解していくという方法をとり、のんびり進めていこうと思う。
 その前に、佐々木氏のプロフィールに少し触れてみる。私がまだ鹿児島にいたころ、かれは、大久保利通の孫にあたる歴史学者・大久保利謙(としあき)氏のいわば「弟子」筋に位置する人だということを耳にしていた。氏は、鹿児島における大久保利通の企画展などの講演などのため、ときどき鹿児島を訪れ、郷土史家たちにもそれなりに知られていたからだろう。もちろん、どの程度の「弟子」筋なのか私にはわからないが、大久保氏が立教大学文学部史学科で教えていたころ、佐々木氏も同大同学科に在籍していたのは事実のようだ。そういう契機からか、佐々木氏は幕末の薩摩藩の動向に関して、長年、多大な関心を抱いていたのだろう。氏の長い論文「文久3年8月政変と薩摩藩」を読んだ限りでいえば、それが誇張でなく伝わってくる。私自身は、これを読むまで氏の講演を聴いたこともなかったし、著書に触れたこともなかったが、名前だけは聞いていたというわけだ。ところで、以前も言ったことがあるが、原口清氏に関しては、静岡に来るまで名前すら聞いたこともなかった。最初、鹿児島大学の超有名な薩摩藩幕末史研究者の原口泉氏の親戚かと思ったほどなのだ。まあ、これは半分以上冗談だが。

8.18政変再び 佐々木克論文について(1)

2009-09-24 11:26:03 | 歴史
 前々回の章で、町田明広氏の『島津久光=幕末政治の焦点』の中の8.18政変について述べた際、氏と反対の解釈をしている佐々木克(すぐる)氏の論文について触れると書いたが、どうも気が進まないたこともあって、先に静岡県令時代の奈良原繁に入ってしまった。
 今回、佐々木克氏の論文に目を通してみて、改めて、こりゃ私のような素人が手を出すべき論文ではないな、という感想を抱いてしまった。ただ、何とか最後まで目を通すことができたのは、佐々木氏の論文には、奈良原繁の役割は大きく、かなり頻繁に名前が出てくる、という理由と、佐々木氏の論文コピーを原口清氏からもらったこともあり、原口氏自身が疑問に思った部分にアンダーラインをほどこしていたこともあったからだと思う。その部分がどういう意味合いなのか考えざるを得なかったので。
 そういうことがなければ、最後まで読み通せたかどうかはわからない。それほど、この政変に至るまで政治状況の説明が長く複雑で、はっきり言って政治史などにさほど興味のない読み手には苦痛以外の何ものでもなかった。
 だから、これから私が述べることは、かなり割り引いて聞いてもらうしかない。そうでないと、この佐々木氏の重厚長大な8.18政変論を歪めてしまうだろうから。もっとも、政変論といっても、実際は島津久光なりその背後にいた薩摩藩首脳部が、この政変にどれだけ関与したのかという、失礼ながら、私に言わせれば瑣末などうでもいい問題であることも付け加えておこう(注)。
 たとえ、8.18政変が文久3年の政治状況を一変した画期的な事件だったとしても。

(注)・・・何度も強調して言うが、ある事件で一人の人間が殺され、その処置を曖昧にしたため、三代にわたって何らかの災いをもたらしたとすれば、私はそれのほうが重大な問題だと思う。少なくとも政治という共同体の問題と、その共同体内の個人の問題は等価でなければならないと考えているし、私はそういう視点から過去や歴史というものを探ってきた。そして、これからもそうしていくつもりである。

清水次郎長との邂逅 静岡県令時代の奈良原繁(27)

2009-09-21 11:53:48 | 歴史
 戦前、生んだ子供を養えないという貧しい家庭は大勢あった。だから、「藁の上の養子」などという言葉が生まれたのだろう。それも農民が多かったことの証明だ。赤ん坊を粗末な着物に包み、農家の納屋や小屋に積んである藁の上に置いて逃げる者が多かったのだろうから。
 この櫻田太吉という少年も、どういう経緯で一人戸籍になったのかわからない。ただ、東京に生まれたことになっているから、ひょっとすると、東京に住んでいた本妻のスカ(ガ?)さんを経由して奈良原繁家の養子になったのかもしれない。しかしながら、このスガさんには、すでに明治元年生まれの長女ナカ(明治18年―だと思うが、従兄弟の田中宏と結婚している)、明治3年生まれの長男竹熊、明治9年生まれの次男三次、また生年は失念したが、次女トキもいる。さらに三次の生まれる前年には、繁が多賀タキという女性に生ませた幸彦という男の子もいたのだ。いかに本妻のスガさんが人情家だろうと、ここにまた年齢の近い、親の名前もわからない男の子を養子として迎えるだろうか。
 だから私には、スガさんが積極的に太吉少年を養子にしたとは思えないのだ。とすると、何らかの理由で繁が動いたとしか考えられないではないか。では、どういう理由で、なぜ?
 こういう永遠にわかりそうもない家族の謎を考え出すと、奈良原繁の除籍謄本を入手したことが悔やまれるほどだ。最初は小躍りして喜んだのに。

 ともかく、私が言いたかったのは、表面は豪放に見えても、人間の内面はわからないものだ、ということである。これは、歴史上や過去の人間に関わらず、どんな人間にも言えることで、多かれ少なかれ、個人は他人には覗けない内面や秘密を抱えているということでもあろう。言い換えれば、人間は外から窺える所作や言動だけでは、なかなかその個人を正確に理解することなどできないのだ、ということを。

 この養子縁組から11年後の明治28年、奈良原繁は、この太吉少年と養子縁組を解消している。このとき、除籍謄本には、棄児姓小柳を新立して、某家へ養子に出したとしている。つまり、ある段階で太吉少年を棄てた親の姓が小柳だとわかり、その戸籍を新たに作ってやってから某家へ養子に出したと解釈できる内容なのである。

 このころ、奈良原繁は沖縄県知事になって3年目だった。

清水次郎長との邂逅 静岡県令時代の奈良原繁(26)

2009-09-19 14:02:38 | 歴史
 次郎長がなぜ奈良原繁の申し出を断ったのか、その真意はわからずじまいだが、こうして奈良原繁と次郎長との邂逅は終わった。県令時代ではなかったとはいえ、最終的に、無事地元の有名人の顔を立てたようになったことはめでたし、めでたしであった。
 ただ、私が静岡県令時代の奈良原繁を持ち出してきたのは、何も次郎長翁と会ったことを奇貨とし、面白いと思ったばかりではない。かれが静岡で残した表向きの顔と、かれの家庭人としての姿というか、かれの内面性というか、その落差があまりに大きいことを了解してもらいたかったからである。
 というのは、この県令時代の表向きの顔は、県会に顔を出し、そこに出した案件を通す努力もしていたようであるが、それ以外の多くは、「磯馴(そなれ)」という料理屋に入り浸り、美技を侍らせ、斟酌低吟していたのだろう。『県議会史』にも豪放磊落な県令などという形容詞がつけられているのも無理もない。これらが表向きの顔の最大公約数だろう。
 だが、かれの家庭を覗いてみると、なかなかこういう表向きの顔と一致しないのだ。いや、私はいまだもって理解できない不可解で、謎めいた家庭の秘密に悩まされている。

 繁が静岡県令を辞め、工部大書記官へ異動するおよそ2ヶ月近く前の8月7日に、かれは櫻田太吉という、明治8年生まれの少年を養子に迎えている。ところが、この櫻田太吉という少年は、どうも芸者や二号さんに生ませてできた子供というわけでもなさそうなのである。というのは、繁には、二号さんに生ませた子を認知した事例があるのだが、その際、戸籍には、誰々(女性名)の私生児に付、除籍とか入籍とかいう記述があるのに対して、この太吉少年の場合はそういう記述が一切なく、願済廃家名入籍ス、とだけ記載されているのだ。この(櫻田という)家名を廃するというのは、もともとこの少年には家族がなく、一人戸籍だったというのである。
 この意味を、私は市役所の戸籍係に聞いたのであるが、たとえば、父親も母親もわからない捨て子の場合、まずその子の戸籍をつくらなければならなかった。それらしい名前と住所で。

清水次郎長との邂逅 静岡県令時代の奈良原繁(25)

2009-09-17 10:55:22 | 歴史
 さて、三河武士の娘である三代目おちょうさんの言うことを信じれば、奈良原繁は、清水にやって来ると川口楼というお茶屋に入り、役場の吏員を呼んで
 「清水の長五郎に会いたい」
 と切り出した。吏員は早速次郎長のところに飛んで行った。ところが次郎長は、奈良原県令時代に監獄にぶち込まれたことやら何やらで面白く思っていない。そこで返事を渋っていると、第2、第3の吏員がやって来て説得する。さすがの次郎長も大人気ないと判断したのか、ようやく重い腰を上げ、川口楼に向った。
 
 次郎長が吏員とともに川口楼の奈良原の前に顔を出すと、繁はたいへん機嫌よく、
 「親分、去年はまことに飛んだことで・・・。我輩も来たばかりで何も知らなかったから、いろいろ気の毒なことをしたね。その侘びというわけじゃないが、ちょうど東海道に汽車が通るから、その工事を一つ請け負ってみちゃどうかい」
 と、以前私が推測したような意味で次郎長の逮捕を指令していたのなら、まことに白々しいせりふだが、次郎長もおちょうさんもそんなことを少しも疑っている様子はない。だが、この奈良原繁の申し出に対して次郎長は、
 「先生、せっかくだが、俺どもに銭儲けの事は駄目ですがね。それに第一、そんなことを請け負う金がありませんやね」
 と断る。これに繁は、
 「まあ金のことはどうにでもなるだろう。それに親分が直接手を下さんでも、元の乾分も大勢いるだろうから、それにさせてもいいじゃないか。とにかく引き受けてくれないか」
 と頼んだが、次郎長はきっぱり断って帰ってきた、という。
 もっとも、これを聞いた乾分(こぶん)は、
 「親分、惜しいことをしましたな。なぜ引き受けて来なかったんですか。惜しいことをしましたなあ」
 と残念がった。そういう乾分たちに向って次郎長は、
 「銭儲けなどしなくたっていい。銭はなくとも旅はできるぜ。けちけちしたことをいいなさんな」
 と軽くいなした、という。