C委員;「吉次郎氏が士族家系でない、つまりかれの父親である奈良原市郎が士族でないといえる確証があるのですか。また、吉之助氏が吉次郎家に預けられたという証拠もあるのですか」
長岡;「確証とまでは言えませんが、ほぼ確実な状況証拠といえるものがあります。それは、奈良原市郎・吉次郎親子が、明治18年(1885)、鹿児島士族の屯田兵として北海道に渡った際、鹿児島の住所を記載しているのですが、そこが奈良原家の開墾地などの住所としか考えられない辺鄙な場所だったからです。つまり、繁が奈良原家の使用人だった市郎・ミツ夫妻に吉之助氏を預け、北海道へ渡らせたということです。また、吉之助氏と市郎・ミツ夫妻の子供たち、すなわち吉次郎氏の兄弟姉妹とは、容貌もまるで異なっているようですし、現在、吉之助氏の子孫と吉次郎氏の兄弟姉妹の子孫とは交流もないようなのです。さらに、吉之助氏は、明治35年、横浜にある私立中学を卒業しています。官舎住まいの吉次郎氏は、母親や他の4人の姉妹たちの面倒もみなければならなかったのですから、とても横浜の私立中学の学費を出す余裕などありません。では、だれが出していたのかといえば、これも確証はありませんが、奈良原繁としか考えられないのです。他人に預けたとはいえ、自分の子供だったのですから」
B委員;「自分の子供をどうして、他人に預けなければならなかったのですか」
長岡;「西洋人との間にできた子供だからだと思います。新聞記事の貢氏の容貌をみればわかると思いますが、綱淵が彫りの深い薩摩隼人と誤解するのも無理はありませんね。吉之助氏が西洋人との間にできた子供かどうかは、子孫の間で今でも話題に登っているようですが、私の親しい貢氏の縁者は、鹿児島で繁が西洋人女性と一緒に写っている写真を見たことがあると言っておりました」
A委員;「吉之助氏の生まれ明治16年ですよね。当時、日本に西洋人女性は多くいたんでしょうか」
長岡;「多かったかどうかはともかく、いたことはいたでしょう。開国以降、西洋人がどっと入り込んできたのですから、その中に女性がいなかったはずがありませんから。ただ、その間の子供というのは珍しかったでしょう。だから、繁のような地位にあった人物は、それを隠さなければならなかったのだと思います」
A委員;「その頃、奈良原繁は何をしていたのですか」
長岡;「静岡県令になる前でしたから、政府の上級役人でした。よろしいでしょうか。それでは、吉之助氏と吉次郎家すなわち養父母家との関係を示すもう一つの例をあげましょう。
長岡;「確証とまでは言えませんが、ほぼ確実な状況証拠といえるものがあります。それは、奈良原市郎・吉次郎親子が、明治18年(1885)、鹿児島士族の屯田兵として北海道に渡った際、鹿児島の住所を記載しているのですが、そこが奈良原家の開墾地などの住所としか考えられない辺鄙な場所だったからです。つまり、繁が奈良原家の使用人だった市郎・ミツ夫妻に吉之助氏を預け、北海道へ渡らせたということです。また、吉之助氏と市郎・ミツ夫妻の子供たち、すなわち吉次郎氏の兄弟姉妹とは、容貌もまるで異なっているようですし、現在、吉之助氏の子孫と吉次郎氏の兄弟姉妹の子孫とは交流もないようなのです。さらに、吉之助氏は、明治35年、横浜にある私立中学を卒業しています。官舎住まいの吉次郎氏は、母親や他の4人の姉妹たちの面倒もみなければならなかったのですから、とても横浜の私立中学の学費を出す余裕などありません。では、だれが出していたのかといえば、これも確証はありませんが、奈良原繁としか考えられないのです。他人に預けたとはいえ、自分の子供だったのですから」
B委員;「自分の子供をどうして、他人に預けなければならなかったのですか」
長岡;「西洋人との間にできた子供だからだと思います。新聞記事の貢氏の容貌をみればわかると思いますが、綱淵が彫りの深い薩摩隼人と誤解するのも無理はありませんね。吉之助氏が西洋人との間にできた子供かどうかは、子孫の間で今でも話題に登っているようですが、私の親しい貢氏の縁者は、鹿児島で繁が西洋人女性と一緒に写っている写真を見たことがあると言っておりました」
A委員;「吉之助氏の生まれ明治16年ですよね。当時、日本に西洋人女性は多くいたんでしょうか」
長岡;「多かったかどうかはともかく、いたことはいたでしょう。開国以降、西洋人がどっと入り込んできたのですから、その中に女性がいなかったはずがありませんから。ただ、その間の子供というのは珍しかったでしょう。だから、繁のような地位にあった人物は、それを隠さなければならなかったのだと思います」
A委員;「その頃、奈良原繁は何をしていたのですか」
長岡;「静岡県令になる前でしたから、政府の上級役人でした。よろしいでしょうか。それでは、吉之助氏と吉次郎家すなわち養父母家との関係を示すもう一つの例をあげましょう。