海鳴記

歴史一般

チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(66)

2011-07-31 11:13:42 | 歴史
C委員;「吉次郎氏が士族家系でない、つまりかれの父親である奈良原市郎が士族でないといえる確証があるのですか。また、吉之助氏が吉次郎家に預けられたという証拠もあるのですか」
長岡;「確証とまでは言えませんが、ほぼ確実な状況証拠といえるものがあります。それは、奈良原市郎・吉次郎親子が、明治18年(1885)、鹿児島士族の屯田兵として北海道に渡った際、鹿児島の住所を記載しているのですが、そこが奈良原家の開墾地などの住所としか考えられない辺鄙な場所だったからです。つまり、繁が奈良原家の使用人だった市郎・ミツ夫妻に吉之助氏を預け、北海道へ渡らせたということです。また、吉之助氏と市郎・ミツ夫妻の子供たち、すなわち吉次郎氏の兄弟姉妹とは、容貌もまるで異なっているようですし、現在、吉之助氏の子孫と吉次郎氏の兄弟姉妹の子孫とは交流もないようなのです。さらに、吉之助氏は、明治35年、横浜にある私立中学を卒業しています。官舎住まいの吉次郎氏は、母親や他の4人の姉妹たちの面倒もみなければならなかったのですから、とても横浜の私立中学の学費を出す余裕などありません。では、だれが出していたのかといえば、これも確証はありませんが、奈良原繁としか考えられないのです。他人に預けたとはいえ、自分の子供だったのですから」
B委員;「自分の子供をどうして、他人に預けなければならなかったのですか」
長岡;「西洋人との間にできた子供だからだと思います。新聞記事の貢氏の容貌をみればわかると思いますが、綱淵が彫りの深い薩摩隼人と誤解するのも無理はありませんね。吉之助氏が西洋人との間にできた子供かどうかは、子孫の間で今でも話題に登っているようですが、私の親しい貢氏の縁者は、鹿児島で繁が西洋人女性と一緒に写っている写真を見たことがあると言っておりました」
A委員;「吉之助氏の生まれ明治16年ですよね。当時、日本に西洋人女性は多くいたんでしょうか」
長岡;「多かったかどうかはともかく、いたことはいたでしょう。開国以降、西洋人がどっと入り込んできたのですから、その中に女性がいなかったはずがありませんから。ただ、その間の子供というのは珍しかったでしょう。だから、繁のような地位にあった人物は、それを隠さなければならなかったのだと思います」
A委員;「その頃、奈良原繁は何をしていたのですか」
長岡;「静岡県令になる前でしたから、政府の上級役人でした。よろしいでしょうか。それでは、吉之助氏と吉次郎家すなわち養父母家との関係を示すもう一つの例をあげましょう。


チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(65)

2011-07-30 11:16:54 | 歴史
F委員;「ほぼ間違いなく、というのは、どういう意味ですか。決定的な証拠がないということですか」
長岡;「はい。吉之助氏は初めから繁の戸籍に入れられず、別な人物の戸籍に入れられたからです。この状況証拠はたくさんあるのですが、繁が直接的にそうしたという文書等は残っていないということです」
E委員;「具体的な状況証拠というのは、ここの付帯資料にあるものですね。ただ、我々には正直言ってこれらの関連がよくわかりません。たとえば、2,3の例を挙げて説明してもらいたいのですが」
長岡;「わかりました。それではですね。明治34年と明治40年の奈良原繁書簡から見てみましょう。これは、私が懇意にしている貢氏の縁戚から見せてもらったもので、吉之助氏の長男家に保存されてあったものです。宛名は奈良原吉次郎となっておりますが、この人物は、明治18年に北海道に屯田兵として渡った奈良原市郎・ミツ夫妻の長男で、戸籍上は吉之助氏の兄にあたります。つまり、吉之助氏は、奈良原市郎夫妻に養われる形で、北海道に渡るようになったということです。ところで、明治34年4月3日付けの手紙の内容は、石狩国空知分監の官舎から、そこで役人をしている吉次郎氏が沖縄県知事だった繁に仕事か何かの頼みごとをしてきたのですね。ですから、最初沖縄へ手紙を出したのですが、繁は東京に出張中だったわけです。繁の周囲の人物たちは、この吉次郎という人物を知っていたでしょうから、折り返し東京へ送ったのです。そして4月3日に東京に届いた手紙を繁はその日に読み、即日返事を出しています。「親戚」でもなさそうな人物の手紙に対して、随分気を使っているのがわかります。
 次に明治40年2月15日付けの手紙をご覧ください。まあ、これも仕事か何かの依頼に対する返事ですね。この中に出てくる「川島」というのはサンズイの「河島」のことで、明治39年12月に北海道長官になった河島醇(じゅん)のことだと思います。河島は鹿児島出身で、前任の、これも鹿児島出身の園田安賢(やすかた)の後を受けて北海道長官になったのですが、繁は園田とも河島とも知り合いの間柄です。むしろ、かれらの先輩です。そこで、繁は吉次郎の頼み事を新任の河島に手紙で話しておいたから、かれに相談するようにというようなことを言っているのです。
 私は、この吉次郎氏の頼み事というのは、職の斡旋依頼だと考えています。おそらく吉次郎氏は、繁の世話で北海道の役人になりましたが、あまり長続きしなかったのだと思います。なぜなら、以前の役職と違うような住所から手紙を出していますし、そもそも吉次郎氏は士族の家系の生まれではなかったからです。これはどういうことかといいますと、屯田兵として渡った鹿児島人はほとんど士族出身で、その後ほとんどが閥を利用して北海道の役人になったことは容易に想像がつきます。その中で、同じ鹿児島出身でも士族でないということは、いわば肩身の狭い思いをしなければならなかったでしょう。そのため、吉次郎氏は役人として長続きできなかったのだと思います」


チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(64)

2011-07-29 11:26:23 | 歴史
 話が前後して混乱するかもしりませんが、私が奈良原貢氏の存在を知ったのは、綱淵謙錠という歴史小説家のエッセイからでした。綱淵は、その歴史エッセイの中で、生麦事件における薩摩藩の行動、つまり真犯人を出さなかったのは薩摩藩らしくない行動だというようなことを言っておりました。するとそれに対して、読者から、奈良原繁の孫がいて、実は犯人は兄の喜左衛門ではなく、弟の繁だったので出せなかったのだと主張している人物がいるから会ってみないか、と電話が来たのだそうです。そこで早速、雑誌の編集者とともに奈良原貢氏に会ったようです。そして綱淵は、新聞記事にある写真でもわかりますが、彫りの深い顔立ちをした貢氏に会うと、薩摩隼人と思い込み、細部まではともかく、ほぼ貢氏の家伝を信じたようでした。また、自分なりに実証的な調査をするようなことも書いておりました。
 正直言いますと、私はこの綱淵のエッセイを読んでいたころ、生麦事件にこれほど深く入り込もうとは予想もしませんでした。ただ、綱淵がその後どのようにこの問題を追っていくのだろうかと、その続きを待っている程度でした。ところが、いつまで経っても綱淵のエッセイは現れません。そのことで逆に痺れを切らし出した私は、綱淵とはまた違った視点で史料集めをしようと思い立ったのです。のちに私は綱淵が病気になり、一時的に回復したもののしばらくして亡くなったことを知りましたが、その間私は、鹿児島にいましたので、その地で史料収集や墓石調査をしたり、また、浅海武夫氏という地元鶴見区生麦で事件の資料を収集している人物に会って話を聞いたりしていました。 そしてそこで、貢氏とは違った系列の子孫から得た戸籍を辿ると、貢氏が繁の子孫に属していないことを知りました。要するに、浅海氏の資料から、貢氏の父親である吉之助氏は、繁の子供として戸籍には存在していないことを知ったのです。
 そうだとしますと、新聞記事で貢氏が繁の孫だと名乗ったことも嘘だということになります。私は、貢氏と交流のあった浅海氏にこのことを直接尋ねたのですが、明確な答えは得られませんでした。貢氏と直接交流があり、貢氏の性格を知っていたからこそ、言いにくかったのでしょう。
 それでは、貢氏は最初から単なるトリックスターで、場をかき回すためこんなインタヴューに応じたのでしょうか。それにしては、貢氏の縁戚にあたる人物たちは、貢氏の生麦事件に関する言動はともかく、吉之助氏が繁の子供であるということは誰も疑っておりませんでした。こうして私は、それが本当のことかどうか調べることにしたのです。これらに関する資料は⑫の付帯資料としてできるだけ提出しましたが、結論から先にいえば、ほぼ間違いなく吉之助氏は、繁の子供でした。つまり貢氏は孫の一人であるということができると私は確信しております」

チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(63)

2011-07-28 19:00:20 | 歴史
 ともかく、繁の孫である奈良原貢氏の言動から確認していきます。まず、祖父の奈良原繁がリチャードソンを斬ったというのは、どちらの記事でも父親の吉之助氏から聞いたと言っております。ところが、その時期が、サンケイ新聞記事と読売新聞記事では、やや異なっています。
 貢氏は日中戦争に応召し、中国戦線を転々としましたが、負傷除隊になり、終戦間際に日本に戻っています。ただ、前者では、その戻ってから、後者では、応召前に父親から聞かされたことになっております。まあ、このあたりのズレは年齢的なこともあり、目をつぶりましょう。少し問題となるのは、父親から聞いただけでなく、どちらもそのことを記している文書を東京の奈良原屋敷で読んだと言っていることです。そして、それが空襲で焼けてしまったということもです。これでは、やはり、「家伝」で済ますしかないのですが、どうもこれらのことも字義通りには信じられないのです。と言いますのは、確かに、父親の吉之助氏は昭和19年から21年まで、東京および千葉に住んでいましたが、東京には奈良原屋敷なるものはすでになかったのです。
 ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、繁の跡継ぎである奈良原三次は、国産飛行機を最初に飛ばした人物として知られております。明治44年(1911)のことでした。これを機に、三次は有料の巡回飛行事業に手を染めるのですが、結局失敗に終わり、借財を背負ってしまいました。そして、繁が亡くなった大正7年からしばらくして、繁から引き継いだ東京の屋敷も引き払っています。つまり、少なくともこの時点で繁が建てた屋敷は、奈良原家の手から離れ、以後取り戻した形跡はありません。ですから、戦争中、吉之助氏は繁が所有していた屋敷に住んでいたとは考えられないのです。
さらに、私がコンタクトを取った貢氏の縁者によれば、仮に貢氏が奈良原家の文書を見ていたとしても、そういう崩し字で書かれた文字を読めるような人ではないというのです。
 どうもこの貢氏という人物は、別に悪気はないようなのですが、大言壮語、いやトリックスター的な振る舞いが多く、しばしば周りの人たちを混乱させる面があったようです。言ってしまうと、身内からはあまり信用がなかったようなのです。そもそも、貢氏は3男で、上の二人の兄弟は、父親の吉之助氏から祖父の繁がリチャードソンを殺害したなどという話は全く聞いていないというのです。
 私もこれらの話を聞いたときは、やや当惑してしまいました。ただ私は、史料的に、繁がリチャードソン殺害に関わったということはもう疑っていませんでしたので、貢氏が多少話を脚色していたとしても、それはさほどの問題ではありませんでした。むしろ、史料的な裏づけばかりでなく、子孫の中にも、繁が犯人だという人物がいることに興味が引かれていたのです。それも本来は、いわば身内の恥となる秘密を暴露したのですから。

チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(62)

2011-07-27 17:25:02 | 歴史
長岡;「さて、第一裁定で喜左衛門が犯人として無罪の評決は得ました。これは疑わしきは被告人の利益にという現代的罪刑主義からはごく当然の帰結です。しかしながら、では弟の繁がリチャードソンに最初に斬りつけたのかという、いわゆる事実認定には、証拠が万全ではないと思われる方も多いと思われます。つまり、今までの歴史資料だけでは、あくまで喜左衛門が犯人ではない、という証拠を付け加えたにすぎないのではないか、ということです。
 そこで、これからは、歴史専門家が踏み込まない、あるいは踏み込めない領域といいますか、奈良原兄弟のそれぞれの子孫についての話に移りたいと思います。
 これは、プライベートな問題ですし、微妙な問題も含んでおります。ですから、歴史学的観点からは避けるべきなのでしょうが、それだけでは私のような確信を持つに至る人は少ないのではないかと思い、あえて取り上げることにしました。それに、この子孫の話をしない限り、喜左衛門が単に行列の責任者だったというだけで自害させられたという弁論は、私の推定だけに終わってしまうかもしれません。もっとも、これは正確な表現でありません。こういう結論に至ったのは、今まで取り上げてきた歴史的史料の存在もさることながら、奈良原兄弟の子孫を追うことで得られた結論でもあるからです。
 要するに、奈良原繁をリチャードソン殺害の最終的な被告人とするためには、その子孫に言及しないと完璧とはならないのです。
 それでは、始めます。資料⑫とある最初のプリントをご覧ください。これは、昭和59年(1984)9月9日付けのサンケイ新聞神奈川版の記事です。内容は奈良原繁の孫と名乗る奈良原貢氏のインタヴュー記事です。次のプリントは、平成9年(1997)5月11日付けの読売新聞神奈川版の同様な記事です。これ以外にも小さなインタヴュー記事はあるのですが、内容はこの二つに包含されておりますので、省きました。
現在の私から見ると、これらにはいくつかの歴史上の事実認識の間違い、またすでに検証不能な言説も見られます。しかしながら、少なくともリチャードソンに斬りつけたのは、喜左衛門ではなく、喜八郎すなわち奈良原繁であり、兄の喜左衛門は弟の身代わりで切腹したのだ、と言っております。つまり、私が今まで言ってきたことが、まさに奈良原繁の子孫家の家伝として存在していたというわけです」
D委員;「むしろ、それは逆じゃないのですか。あなたは、子孫家の家伝を知ったからこそ、それに沿う史料を集め、結果的に家伝は正しかったと言っているのです」
長岡;「<それに沿う史料を集め>は、言い過ぎですが、むろんあなたのように言っても私には何の問題もありません。どちらにしても、この事件に関する限り、家伝と歴史的事実を切り離すことはできなかったのですから。

チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(61)

2011-07-26 10:37:42 | 歴史
どうでしょうか。沙汰書というのは、公的な文書ですから、具体的に誰が誰に何を命じているのかを明記しなければなりません。これはそういう意味で典型的な沙汰書ですが、D委員が上げた一つ書きは、沙汰書ではありません。単に、沙汰書の内容を説明しているだけの一つ書きです」
D委員;「それでは、誰がこの一つ書きを書いたのですか」
長岡;「私にはわかりませんが、小松や当時の人が書いたものでないことだけは確かだと思います。そもそも厳しく緘口令を強いていた最大の責任者である小松が、文書の形で犯人の名前を残すわけはありませんし、おそらくこれは、松方家に残っていた沙汰書の類を、自伝にするための資料としてわかりやすくするため一つ書きのようにして並べ、ご内用が具体的にどういう内容なのか整理した人が付け加えたのでしょう。D委員は、松方正義関係文書を取り寄せて確認したのでしょうから、委員のほうがよくお分かりだと思いますが」
D委員;「・・・」
長岡;「前回、確かにD委員を紛らわすような言い方をしてしまい、D委員には申し訳ないことをしましたが、皆さんは、D委員が挙げた一つ書きが当時の沙汰書でないことだけはお分かりになったと思います。おそらく、『実記』の作者である中村徳五郎あたりが書いたのでしょうが、かれは松方が喜左衛門を犯人だと言っていたので、そのままそう書いただけだと思います。かれにとって、だれが犯人かなどということは重要なことではないのですから。むしろ、以前言いましたように、文久2年閏8月15日付の小松名の沙汰書のほうを重視し、松方の8月26日の静岡出発は無視したのです」
D委員;「そういう賢明な選択をする中村徳五郎が、松方から聞いたというだけで喜左衛門を犯人にしたとは言えないではないですか。やはり動かし難い理由なり根拠があったのですよ」
長岡;「その理由なり根拠がありましたなら、私もそれに従います。お示しください」
左門委員長;「はい。わかりました。ではここで皆さんにお知らせします。先ほどD委員が取り寄せた本を今確認させてもらいました。『松方正義関係文書』の10巻に収めてある「松方正義藩士時代の沙汰書」の解説書に長岡さんが言っているようなことが書いてあります。そこの部分を読んでみましょう。<本資料は藩から松方への沙汰書を編年体で綴ったものを中心として、その間の事情を箇条書で記したもの>とあります。ということは、長岡さんの言うことに間違いないと思います。D委員、宜しいですね。いつもD委員の鋭い質問や指摘には啓発されますが、今回はそういうことでいいですね。では、長岡さん、次に移りましょうか」

チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(60)

2011-07-25 10:30:29 | 歴史
左門委員長;「それでは全員お揃いのようですので始めたいと思います。午前中に、D委員のほうから確認事項があるから少し時間が欲しいということで昼食休憩に入りましたが、準備が整ったということですから、D委員のほうから宜しくお願いします」
D委員;「委員長、わかりました。さて前回、長岡さんは『薩藩海軍史』を批判した際、松方の沙汰書に言及しました。私は、長岡さんが最初、沙汰書といい、次に沙汰書のようなもの、と言ったのが気になりました。そのため、どうしてそのような曖昧な言い方をするようになったのかと資料を確認しますと、驚くべきことが書かれてありました。つまり、そこに喜左衛門がリチャードソンを殺害したと書かれてあったのです。皆さんは、途中から話が変わりそれについていくため資料を最後まで目にできなかったのではないかと思われますが、私はそれを発見してから、その資料の全体と編纂意図のようなものを確認したくて、特別に時間をもらったのです。
 前置きが長くなりましたが、その沙汰書というものをもう一度お読みください。一つ書きになっておりますので、私が読んでみます。

一 此節御内用之趣は
 三郎様江戸ヨリ御上京之節生麦市中ニおひて奈良原喜左衛門異人を致殺害候事件異人共色々難題之事抔(など)申出候付万一 御下国無之内異船前之濱へ襲来致し候節御所置振之次第 三郎様思召有之右を
太守様へ御直々奉申上其上攝津殿へ極内相達シ置候様との事ニ候

 宜しいでしょうか。長岡さんはおそらくこの沙汰書を読んでいるとき、この一つ書きに目が行き、ハっとして、それをごまかすために沙汰書のようなものと言い換えたに違いありません。そうじゃないですか、長岡さん」
長岡;「確かにそうです。全くD委員の明察には驚くばかりです。ただ、今、D委員に読んでもらってわかりました。前回、私が話をしていたときの私のメモには「此節御内用之趣は」の部分が省かれてあったので、「沙汰書」に喜左衛門異人殺害と書いてあると思い込んでややパニック状態になり、それをごまかすため「沙汰書のようなもの」と言ってしまったのです。それは間違いありません。しかし、今回、D委員より全部読んでもらって感謝しております。D委員、これは「沙汰書」ではありませんよ。正式な沙汰書はこの前にある一つ書きです。これは、私のほうが読みましょう。

一                        松方助左衛門
 右は御国許へ之儀有之明御内用後十七日急ニ而出立被仰付候条可申渡候
  但御兵具方足軽壱人被召付候
      文久二壬戌八月十五日     帯刀
右之通御滞京中御用部屋ヨリ同役森岡善助名代承り呉候仕舞料弐拾両頂戴す


チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(59)

2011-07-24 10:41:59 | 歴史
B委員;「しかし、以前あなたは、奈良原繁を出せば、兄や海江田などはもちろんのこと、久光まで禍が及ぶから真犯人を出さなかったのだ、と言ったような気がするのですが」
長岡;「確かに言いましたし、その可能性だってあったわけです。ですから、一先ず足軽・岡野新助という架空の人物を挙げたのでしょう。まあ、うるさい幕府側の追及に対してですが。ただ、それでずうっとごまかし続けたということは、異人などの言いなりになってはならないという大多数の攘夷的気分や背景があったからです。その証拠に、英国との戦争に備えて軍編成をする際、海岸防備のほうは西洋式で通しましたが、陸戦に備えては、西洋式部隊編成をやめて、旧式の日本型体制に戻したほどなのです。それほど、藩の首脳部は、攘夷的空気に敏感だったのです」
B委員;「それはわかります。しかし、薩英戦争後は、やはり攘夷ではダメだという空気が支配するようになったんじゃないでしょうか」
長岡;「確かに、上層部や一部の人たちはそう感じたでしょう。だから、英国との交渉を始めるのですが、最初はごく内密でした。まだまだ善戦したなどと思っている頑固な者がいたからです。文久3年11月1日の英国との最終合意でも、薩摩藩側が犯人問題は今後も懸案事項としたのは、すべて妥協したわけではないぞというポーズだったのかもしれません。むろん、英国側は、幕府からも薩摩藩からも多額の賠償金をせしめていますから、もはや犯人処刑問題はさほどの問題ではなかったので、そのままにしたのでしょう。さらに、薩摩藩側から軍艦が欲しいなどという要求もありましたから、商売上もこれ以上刺激したくなかったのかもしれません。以後、何事もなかったように両国の関係は進展します。しかしながら、薩摩藩側とすれば、絶えず英国側の顔色を伺うような関係でもあったわけですから、やはり、犯人処刑問題というのは気がかりだったわけです。そして、上海領事だった強気な新しい公使が赴任したという段階で、決断したのです」
C委員;「あなたのいう行列統率の責任者だった喜左衛門を切腹させたことですね」
長岡;「そうです」
左門委員長;「はい。わかりました。さて、D委員のほうから確認したいことがあるということで、休憩を求められました。まだ、時間がありますが、ここで午前の部は終わりにして、午後1時より再開としたいと思いますが、よろしいでしょうか。はい。ご了解ありがとうございました。それでは、昼食休憩とします」

チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(58)

2011-07-23 10:37:02 | 歴史
長岡;「もちろん、考えられるでしょう。ただ、腰の部分で幅30センチ、深さ十数センチと書いているだけでは、縦になのか横になのかあるいは斜めになのか、どのようにしてできた傷なのかはっきりわかりません。ですから、そのことは何とも言えないのではないでしょうか。私は以前にも申上げましたが、実際、検証してみればいいのですよ。先ほども例に出した駕籠の右後方から飛び出した人物が、2,30人の小姓の間をかけ抜け、馬上のリチャードソンのところまでどのくらいの時間でいけるかどうかも、です。実地に検証してみれば、言われてきたことの正否がある程度わかるでしょう」
左門委員長;「長岡さんは簡単におっしゃりますが、日本歴史事件調査究明委員会でも無理ですね。そういうお金はないでしょうから」
長岡;「そんなにお金がかかりますかね。何人かの有志の人に集まってもらえば、それほどお金はかからないと思うんですが」
B委員;「そういう話は、左門委員長に任せるとして、もう一つお聞きしたいことがあります。どうもこの駕籠かきの話が出てくるのは、遅すぎるというか突然というか、作為的なものが感じられないでもありません。まさか、のちのち偽造れたということは考えられませんか」
長岡;「そう思われたのでしたら、あなた自身が指宿市の教育委員会なりに問い合わせ、この資料がどのように出てきたのか、確認すれば宜しんではないでしょうか。私は、鹿児島時代、これ以外にも繁が犯人だという言い伝えのようなものを聞いています。ただ、それは紙の上に残された記録ではありませんでしたし、喜八郎と喜左衛門を混同している可能性もあることですから、今までそういうことを言いませんでした。しかしながら、この金左衛門の証言は、それらを集約し顕在化した史料だと考えているほどです」
A委員;「今さらと思われるような質問で申し訳ございませんが、さきほど、薩摩藩はこの事件を、犯人を曖昧にしたかったと言っていましたね。それは、どうしてでしょうか。やはり、犯人を出せば、それが誰であろうと、久光の使嗾(しそう)を疑われるようになるからということでしょうか」
長岡;「そういうことではないと思います。もとより、偶発的な事件だったということは、疑いようがありませんし、私もそう考えています。そして、当時の史料を読む限り、一般の武士たちには攘夷的な空気が圧倒的でした。久光すらこれを抑えられなかったのは、「異人が行列に障ったので斬り捨てました」と注進に来た家臣に、本当はつまらないことをしたと思っているのに、「士気に関わるから黙って応えなかった」と市来に言わせていることからもわかります。これは、翌年の薩英戦争に至るまで変わりません。つまり、大事になるとわかっていても真犯人を出さなかったのは、小松や大久保ら上層部の弱腰を非難され、統率が効かなくなるのを恐れたのが第一の理由だと思われます」

チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(57)

2011-07-22 10:25:11 | 歴史
 ⑪の付帯資料としてお渡していますが、『横浜市史 資料編五』にある幕府側史料でした。これは事件当日の「武州生麦村地内におゐて外国人逢殺害(殺害に逢い)候始末申上候書付」と題された神奈川奉行・阿部越前守名の書付記録です。そしてこの中に、次ぎのような記述があったのです。

・・・右外国人共三郎(久光)乗駕近く乗寄候に付供方之内人数不知抜連(知れず抜き連れ)外国人乗居(のりおり)候人馬共疵為負(きずおわせ)・・・

 この他に、日付はよくわからないのですが、より詳細な記録として、

一、馬之手負(ておい)腰之方幅一尺深さ八寸と申事にて治療届候由ニ御座候

 とあったのです。以上、確認しましたように、久光の駕籠かきだった金左衛門の証言は、現場近くで直接目撃していなければ到底言えないようなものだったのです。たとえれば、犯人だけが知りうる事件の詳細に通じるものです。実際、薩摩藩の記録にはこういうリアルで生々しい記録は一切ありませんでした。それほど、事件を、犯人を曖昧にしたかったからです。
 もう一度、金左衛門の証言を読みましょう。薩摩藩側の史料では、幸五郎こと奈良原繁はどこにいるのか皆目わかりませんでした。むろん、海江田にしろ松方にしろ、喜左衛門を犯人と言っているわけですから、弟の繁がどこにいようが関係ありません。しかし、ここでは供目付として、久光の駕籠の前で行列を組んでいる先供、あるいは中小姓の先頭あたりにいたように描かれています。これは非常に理にかなっているように思われます。なぜなら、久光の駕籠の前に2,30人の中小姓たちがいたのですよ。それも、リチャードソンが混み入ったその行列を前にしてしり込みし、馬首を廻(めぐ)らそうとしたとき、久光の駕籠の右後方にいた喜左衛門が斬りつけたと口を揃えて言っているのです。おかしいと思いませんか。十数メートル以上も続く、その混み入ったゴタゴタしている小姓たちの間を1、2秒でかけ抜け、牛若丸のように飛び上がってリチャードソンに斬りつける。これではまるでスーパーマンとしかいいようがありません。要するに、そのときもっとリチャードソンに近いところにいた誰かを想定したほうが合理的だということです。
 さて、市来四郎が『史談会速記録』で、「弟の繁は助太刀をしたと聞いております」と2度ほど繰り返しておりました。これこそまさに、繁がすぐ近くにいたということの裏づけであり、金左衛門の証言のように助太刀ではなく、兄の代わりに斬りつけたということです」
B委員;「馬が傷ついたということは、『海軍史』で言っていたように、上から斬り下げれば、刀の行き場がなくなり傷ついたとも考えられますよね」