こうして三次らは、民間飛行家として、しばらく興行飛行の世界に身をゆだねることになったが、五月末に、千葉の稲毛(いなげ)海岸に拠点を移すことになる。理由は、陸軍機が増え、所沢での練習も制限されるようになったこと。また白戸に万一のことがあった場合、代わりとなる飛行士も養成する必要があったから、と言われている。
六月に入ると、音次郎は、稲毛の干潟(ひがた)で初めて飛行練習をした。白戸はその練習振りを見て、勘がいいとほめたようだが、二、三日練習しただけで、その後は興行飛行がせまっていたこともあり、飛んでいないようだった。
六月下旬、名古屋へ出かけたが、そこで燃料の入れ間違いで飛行機が飛ばず、失敗して帰って来た。これが原因で、東洋飛行機商会は解散せざるを得なくなったという。そこで三次は、エンジンの解体を請け負ったTM商会の鳥飼(とりかい)鵜(う)三郎という人物を支配人にして、また飛行機興行に活路を見出すことにした。そして、早速、七月十四日から、四日間、芝浦の埋立地で鳳号の興行飛行が開催され、まずまずの好評を得たが、収入面はそれほどでもなかった。
この年七月三十日、明治天皇が崩御(ほうぎょ)。この日をもって大正と改元する。
大正元(一九一二)年十月十三日。この日、世間は当然のことながら、奈良原家にとっても、やや衝撃的なことが起こった。白戸が、三次の愛人と言われた福島ヨネを同乗させ、海岸線に沿って、高度二十メートル、距離千メートルを往復したのである。
翌日の「東京日日新聞」記事は、「奈良原機、愛妾を乗せ初の同伴飛行・婦人飛行の嚆矢(こうし)」と喧伝(けんでん)した。おそらく奈良原家にも激震が走っただろう。なぜなら、三次の愛人ヨネさんが飛行機に乗った最初の日本女性として世間に知られたのだから。もっとも、ヨネさんが自発的に乗りたいといったわけではなかったようだ。今年五月、三次らが皇太子たちの前で公開飛行した日に、横浜で水上飛行機を飛ばしていたアトウォ―ターが再来日して、この日、日本女性を同乗させる計画が新聞で発表されていたのである。それが三次らの耳に入り、ややマンネリ化していた飛行練習に花を添えようとしたらしい。ヨネさんには突然のことだったろうが、座席もない、吹きさらしの複葉機によくも乗り込んだものである。おそらくヨネさんはさほど躊躇(ちゅうちょ)もしなかったに違いない。彼女は、男勝(まさ)りの大胆な女性であった。
この二週間後の十月末から、鳳号は地方巡回飛行の旅に出た。興行支配人の鳥飼の故郷・広島を皮切りに、福岡、小倉、熊本、丸亀、岡山等を興行した。そして、十二月になり、九州日日新聞主催の熊本の渡(と)鹿(ろく)練兵場での興行の際だった。十二月二日以後、五回の飛行会を催したが、概(おおむ)ね好評だった。初日は、午前中の曇りが災いしたのか、観衆は一万五千人ほどだったという。四日に、白戸は、高度百三十メートル、距離十キロ余を飛び、8の字飛行を披露した。翌日の新聞では、これらの様子を報じた後、「奈良原けい子クンが、良人(おっと)と常に相携(あいたずさ)えて其ハイカラ姿を場中に見せた忠勤ぶりも、大いに観客の注意を惹(ひ)いた。飛行婦人幸に健全なれ」と付け加えているのである。
私は、この記事に触れた時、ヨネさんも三次に同行していたことに確信がなかった。だから、この奈良原けい子クンとは一体何者なのだろうか、と考え、また混乱したことも覚えている。もちろん、ヨネさんのことではないかと推測はしていたが、確証はなかったし、そもそも、なぜ三次はヨネさんをそんな呼び方で記者に紹介したのか、皆目見当もつかなかったのである。そしてその後も長い間、この名前を記した資料に目を通したことはなかった。だが、伊藤音次郎日記が公開された今、ようやく確信をもって奈良原けい(敬)子クンが福島ヨネさんだったと言うことができる。日記公開と相前後して、福島家子孫氏からもその情報を得ることになったが。
ここで、ヨネさんとけい子クンのいわれについて語る前に、まだまだ三次の事績について触れておこう。三次は、あまり長く、航空界の現場にはいなかったのだから。
さて、三次が率いる飛行興行は、熊本から四国の丸亀に行き、そこから岡山の練兵場に移った。そこで、その年の地方公開飛行は終わり、その年の十二月末には東京へ戻った。