海鳴記

歴史一般

沈黙の百二十年

2021-09-30 07:54:57 | 歴史

 こうして三次らは、民間飛行家として、しばらく興行飛行の世界に身をゆだねることになったが、五月末に、千葉の稲毛(いなげ)海岸に拠点を移すことになる。理由は、陸軍機が増え、所沢での練習も制限されるようになったこと。また白戸に万一のことがあった場合、代わりとなる飛行士も養成する必要があったから、と言われている。

 六月に入ると、音次郎は、稲毛の干潟(ひがた)で初めて飛行練習をした。白戸はその練習振りを見て、勘がいいとほめたようだが、二、三日練習しただけで、その後は興行飛行がせまっていたこともあり、飛んでいないようだった。

 六月下旬、名古屋へ出かけたが、そこで燃料の入れ間違いで飛行機が飛ばず、失敗して帰って来た。これが原因で、東洋飛行機商会は解散せざるを得なくなったという。そこで三次は、エンジンの解体を請け負ったTM商会の鳥飼(とりかい)鵜(う)三郎という人物を支配人にして、また飛行機興行に活路を見出すことにした。そして、早速、七月十四日から、四日間、芝浦の埋立地で鳳号の興行飛行が開催され、まずまずの好評を得たが、収入面はそれほどでもなかった。

 この年七月三十日、明治天皇が崩御(ほうぎょ)。この日をもって大正と改元する。

 

 大正元(一九一二)年十月十三日。この日、世間は当然のことながら、奈良原家にとっても、やや衝撃的なことが起こった。白戸が、三次の愛人と言われた福島ヨネを同乗させ、海岸線に沿って、高度二十メートル、距離千メートルを往復したのである。 

 翌日の「東京日日新聞」記事は、「奈良原機、愛妾を乗せ初の同伴飛行・婦人飛行の嚆矢(こうし)」と喧伝(けんでん)した。おそらく奈良原家にも激震が走っただろう。なぜなら、三次の愛人ヨネさんが飛行機に乗った最初の日本女性として世間に知られたのだから。もっとも、ヨネさんが自発的に乗りたいといったわけではなかったようだ。今年五月、三次らが皇太子たちの前で公開飛行した日に、横浜で水上飛行機を飛ばしていたアトウォ―ターが再来日して、この日、日本女性を同乗させる計画が新聞で発表されていたのである。それが三次らの耳に入り、ややマンネリ化していた飛行練習に花を添えようとしたらしい。ヨネさんには突然のことだったろうが、座席もない、吹きさらしの複葉機によくも乗り込んだものである。おそらくヨネさんはさほど躊躇(ちゅうちょ)もしなかったに違いない。彼女は、男勝(まさ)りの大胆な女性であった。

 この二週間後の十月末から、鳳号は地方巡回飛行の旅に出た。興行支配人の鳥飼の故郷・広島を皮切りに、福岡、小倉、熊本、丸亀、岡山等を興行した。そして、十二月になり、九州日日新聞主催の熊本の渡(と)鹿(ろく)練兵場での興行の際だった。十二月二日以後、五回の飛行会を催したが、概(おおむ)ね好評だった。初日は、午前中の曇りが災いしたのか、観衆は一万五千人ほどだったという。四日に、白戸は、高度百三十メートル、距離十キロ余を飛び、8の字飛行を披露した。翌日の新聞では、これらの様子を報じた後、「奈良原けい子クンが、良人(おっと)と常に相携(あいたずさ)えて其ハイカラ姿を場中に見せた忠勤ぶりも、大いに観客の注意を惹(ひ)いた。飛行婦人幸に健全なれ」と付け加えているのである。

 私は、この記事に触れた時、ヨネさんも三次に同行していたことに確信がなかった。だから、この奈良原けい子クンとは一体何者なのだろうか、と考え、また混乱したことも覚えている。もちろん、ヨネさんのことではないかと推測はしていたが、確証はなかったし、そもそも、なぜ三次はヨネさんをそんな呼び方で記者に紹介したのか、皆目見当もつかなかったのである。そしてその後も長い間、この名前を記した資料に目を通したことはなかった。だが、伊藤音次郎日記が公開された今、ようやく確信をもって奈良原けい(敬)子クンが福島ヨネさんだったと言うことができる。日記公開と相前後して、福島家子孫氏からもその情報を得ることになったが。

 ここで、ヨネさんとけい子クンのいわれについて語る前に、まだまだ三次の事績について触れておこう。三次は、あまり長く、航空界の現場にはいなかったのだから。

 さて、三次が率いる飛行興行は、熊本から四国の丸亀に行き、そこから岡山の練兵場に移った。そこで、その年の地方公開飛行は終わり、その年の十二月末には東京へ戻った。

 


沈黙の百二十年

2021-09-29 07:22:58 | 歴史

 明治四十四(一九一一)年十二月一日。三号機が差し押さえにあったまま、音次郎青年は、大阪の輜重兵(しちょうへい)第四大隊に入営する。除隊して東京に戻ったのは翌年の明治四十五(一九一二)年三月で、すでに東京飛行機製作所は解散し、代わりに、京橋八丁目に東洋飛行機商会として事務所を構えていた。當間(とうま)安太郎と高井治兵衛(ぢへい)という二人の商人が出資者となり、操縦士の白戸栄之助や製作主任の大口豊吉はそのままだったが、新しく、田中舘(たなかだて)愛橘(あいきつ)博士の助手・志賀潔(きよし)理学士が、三次の参謀として入っていた。支配人だった住吉貞次郎一派は一掃(いっそう)されていたのである。

 三月下旬、東洋飛行機商会の深川工場で奈良原式四号機が完成し、修祓(しゅうばつ)式を兼ねた命名式があった。もっとも、三月三十日の朝日新聞によると、ここに至るまで、すんなり事が運んだわけではなかった。ノーム式五十馬力エンジンの所有権をめぐって、住吉一派が付いた側と東洋飛行機商会側は、かなり争っていたのである。一時は、三次の家の家財が差し押さえられたり、白戸や大口なども警察の事情聴取を受けたり、と紆余曲折(うよきょくせつ)があった。それも落ち着き四号機が完成すると、東洋飛行機商会は、四号機を鳳(おおとり)号と名付け、投下資金回収のため飛行機興行に乗り出していく。

 むろん、見世物としての飛行興行は、すでに行われていた。昨年の三月、大阪朝日新聞の招聘(しょうへい)で、アメリカのボールドウイン飛行団が来日し、同月十二日、大阪の練兵場で、無料公開飛行を行っているのである。音次郎はこれを翌日の新聞で知ったようだが、衝撃を受けた。八百メートルの高度から、頭上四十メートルの高度まで自在に飛行し、四十万人という大観衆を魅了したのである。昨年十二月に見た日野や徳川大尉の飛行など比較にならない、「サーカス飛行」だったのだ。その後、飛行団は東京に移り、同年四月一日、目黒競馬場で、十七、八メートルの強風の中、飛翔している。これを見物していた三次は、時事新報の記者に「(この強風で)飛びますかね」と尋ねられ、「飛ぶでしょう」と答えたとある。さらに、「所沢では六メートルの風でも飛ばないと聞きましたが」と質問されると、「ええ、ところが、じつは昨日、あの風の中を、日野さんがグラーデ機で飛びましてね。さかさまに墜落して大破しました。大尉は放り出されましたが、無事でした。まったく、運のいい人です。皆、驚いていました」と応じている。

 明治四十五(一九一二)年四月十三日。川崎競馬場で、鳳号による初の有料公開飛行が、行われ、まずまずの成功を収めた。これを皮切りに十六、十七日も有料公開飛行を実施したが、十七日に見物中の中学生の片腕に翼が触れ、骨折事故を起こす。主催者側が誠意を示したので、穏便に済んだという。

 五月に入ると、アメリカから来日していたアトウォーター飛行士が、水上機で横浜港外を飛行練習していたが、十一日午後三時から本飛行の予定であった。奇しくも、同日、鳳号にも晴れ舞台が訪れる。これが三次にとっては、生涯最高の晴れ舞台だったかもしれない。この日、青山練兵場で、鳳号による無料公開飛行が実施された。この練兵場と道路一つ隔てた東宮御所の控室に、皇太子(のちの大正天皇)が三皇孫(のちの昭和天皇、秩父宮、高松宮)を伴って台(たい)臨(りん)となったのである。そして、これに陪席した高官には、山県有(あり)朋(とも)元帥、岡市之助陸軍次官などがいた。

 三次は、技師長の志賀潔を伴い、そこへ挨拶に出向いた。そして、白戸の計三回にわたる飛行も成功裏(せいこうり)に終わった後、金一封を授けられている。この時、三次は三十五歳となっていた。他方、横浜港外では、予定通りアトウォーターが水上機を飛ばしている。伏見宮(ふしみみや)博義王(ひろよしおう)殿下、斎藤実(まこと)海軍大臣ら海軍士官三百余名が見守る中で。

 


沈黙の百二十年

2021-09-28 08:22:52 | 歴史

 ところで、奈良原家の家庭の事情に入る前に、まだ三次の飛行機発明家としての経歴を述べておこう。時間軸に沿ったほうが、すっきりするし、それにまだまだ初期航空界に確固とした名前を刻(きざ)むまでには至っていないのだから。

 三次は、海軍を辞めてから、二号機の設計・製作に取り掛かった。一号機のように四谷の自宅ではなく、新宿角筈(つのばず)の十二社(じゅうにそう)に東京飛行機製作所という看板を掲げ、本格的に取り組み出した。主として木製プロペラを作り、臨時軍用気球研究会に納入したりしていたようだが、二号機を作るほどの収入はない。ではその費用などどうしていたのだろうか。平木は、引き続き父・繁が出していたように書いているが、私は否定的である。海軍を辞めた息子を応援する気も失せただろうし、何より、自分が選んだ嫁を疎(うと)んじているのには我慢ならなかったに違いない。またもし、引き続き出していたとすれば、後にエンジンが差し押さえに合うこともなかっただろう。それに、一号機を気球研究会が買い上げていたとすれば、最初の費用はそれで相殺されているはずだから、男爵家の跡取りとあれば、借金も可能だったと思える。いや、ひょっとすると、母親のスガさんを通して金を引き出していたのかもしれない。

 ともかく、明治四十四(一九一一)年四月、二号機は完成した。そして陸軍が新たに造成した所沢飛行場を使用する許可を得て、同月二十七日、それを持ち込み、飛行練習を開始する。そこでは、徳川大尉や日野大尉も、ファルマン機やライト式複葉機に乗って飛行練習をしていた。

 五月五日になった。その日三次は、ノーム式五十馬力のエンジンを装着した二号機を自ら操縦し、地上四メートル、距離六十メートルの飛行に成功したのである。

 現場で三次の飛行を目撃したのは、東京飛行機製作所の所員とアメリカで操縦資格を取っていた、飛行家の都築(つづき)鉄三郎、そして四名の新聞記者だった。翌日の新聞では、「時事新報」のように「日本飛行機の大成功」と報じる記者もいた半面、「萬朝報」では、「遺憾ながら成功とは言い難い」と評価は分かれた。しかし、徳川好敏なども含め、「めぼしい成績ではなかったにしろ、二号機の飛行は間違いなく国産機の第一歩である」との評価が多く、航空史では、自作飛行機の最初の飛行として定着している。

 この日、二号機の製作に関わった所員たちは、芸者をあげ、明け方近くまでドンチャン騒ぎをしていたそうだが、三次はそれに加わらず、ヨネさんのいる青山の別宅に戻った。そして、しばらく飛行場には顔を出さなかったようである。そして、それ以降、自ら操縦することはなく、徳川好敏大尉から練習生として預かった白戸(しらと)栄之助(えいのすけ)が、後を継ぐことになる。平木は、親戚一同が操縦は危険だから反対したというが、そうなのかもしれない。だが、三次は、飛行機作りに情熱を失ったわけではなかった。

 ところで、二号機の飛行や製作に関して、音次郎青年の名前は出てこなかった。それもそのはずで、彼が三次と直接顔を合わせたのは、三次の飛行成功後だった。三次の周りには、支配人だった住吉貞次郎、工兵軍曹で除隊した白戸栄之助、製作主任の大口豊吉(とよきち)らがいたが、所沢で三次が飛行練習していた時、彼らは近くの宿屋に泊まり込んでいたのである。そこへ、音次郎青年が顔を出し、助手として使って欲しいと頼んだという。それから洋傘商店もすぐに辞し、五月六日、正式に東京飛行機製作所の所員となった。無給だったが、覚悟の上だった。大阪の姉からもらった金で、一年ほど何とかしのげるようだった。

 その後音次郎は、三次が現れない所沢飛行場で、白戸が操縦する二号機の練習を見たり、すぐ壊れる脚部の修理の手伝いをしたりしながら、徐々に飛行機というものを肌で感じとっていった。五月二十日には、白戸が、奈良原式二号機で、「階段を登るように高さ十五メートルに達し、距離四百メートルの距離」を飛んだのも目撃している。そして、その月末、所沢に久しぶりに現れた三次と顔を合わせたのである。平木の作品では、三次は、多忙で手紙の返事を出せなかったことを詫(わ)び、給料のことはともかく、親切に住まいの心配までしてくれた、とある。また音次郎は、すでに面識のあった徳川大尉と同じ育ちのよさを感じとったようである。そして以後、彼は、三次に対して何度か不信感を抱いたこともあったが、終生変わらぬ敬愛の念を持ち続けることになる。

 この年の九月下旬、新宿にある東京飛行機製作所で、三号機が完成した。金のかかった贅沢な作りの飛行機だった。十一月半ば過ぎ、所沢へ運び、白戸が試験飛行し、一応の成績を残したようである。ところが、二、三日後、突風に煽(あお)られ、中破してしまう。また、その数日後には、執達吏(しったつり)が来て、差し押さえにあってしまうのである。

平木は、支配人住吉貞次郎の乱脈経営のためだったと断言している。さらに、彼に実印まで預け、金の流れなどに一向無頓着だった、三次の若様気質も暴(あば)いている。

 ついでだが、父親の繁も、金には無頓着だった。というより、性格破綻(はたん)者とは言えないまでも、何かトラウマでも抱えていたかのように、生涯金遣いが荒かった。

 明治二十五(一八九二)年、繁が七年ほど社長だった日本鉄道会社も、鉄道局から離れ、一民間会社へ変わろうとしていた。それを潮時と考えたのか、繁は当時総理大臣だった松方正義を頼りに猟官(りょうかん)運動を始めていた。黒田清隆などへも根回しをして、北海道長官職を切望していたが、松方にも直接訴えた手紙が残っている。それには、家政困却の上、借金も抱えていることも訴えているのだから、何をか況(いわん)や、である。日本鉄道会社でもかなりの給料を貰っていたにも関わらず、だ。彼は、鉄道会社へ入る前、静岡県令を務めているが、その時の月俸が二百五十円だった。だから、鉄道会社の社長になってからそれを下回る筈がない。正式に社長を辞めたのは、同年三月二十四日だが、その後すぐではなかったにしろ、七千円の退職金を受け取っているのだ。小学校教員の初任給が、十円にも満たない時代に。

 ちなみに、待ち望んだ北海道長官職は、薩摩閥悪弊(あくへい)の温床として新聞で叩かれていたためか、あるいは繁がそこを治める力がないと判断されたのか、結局、沖縄県知事に収まった。七月二十日のことだった。

 


沈黙の百二十年

2021-09-27 07:11:56 | 歴史

 平木は、戦前、横浜飛行訓練所で水上機の操縦訓練を受け、昭和二十(一九四五)年四月、学鷲血盟特別隊に加わったものの、出撃を前に終戦を迎えた。戦後、民間の航空会社に勤めながら、運輸省航空大学校の航空史の講師もしていた。おそらく、その時、伊藤音次郎を知ったのであろう。同時に日記の存在も。

 平木の履歴によれば、伊藤音次郎に会って、日記を読ませて貰いたいと懇願した。しかし、音次郎は、最初、個人的なものだからと言って断った。あきらめきれない平木は、一年ほど通いつめ、その熱意に負けた音次郎は、明治四十三年から昭和三年に至るまでの日記を貸し出したという。その結果、平木の作品が世に出たのである。

 現在、伊藤音次郎日記は、明治四十二(一九〇九)年から昭和十八(一九四三)年まで、年齢でいえば、十七歳から五十一歳まで、存在している。その内、明治四十四(一九一一)年から大正二(一九一三)年までの三年分と、大正十一(一九二二)年と大正十三(一九二四)年と合わせて五年分欠損している。それゆえ、欠けている部分は、平木の『空気の階段を登れ』などから引用することになる。平木は、日記の外に生前の音次郎から直接話も聞いているから、ほぼ事実を下敷きにしていたと考えていいはずである。

 明治四十三(一九一〇)年十一月半ば、十九歳で上京した音次郎青年は、やはり真っ先に四谷の奈良原邸に赴いた。ところが、「若様」は、都合で青山北七丁目に仮住まいしているから、そこへ行ったほうがいいだろうと言われる。そしてそこに出向くと、目つきのするどい壮士風の男が出て来て、「留守だ」という。いつ頃戻るのか尋ねると、「それはわからない。若様は軍務多忙だから」と返され、会うことができなかった。どちらも何か居留守を使われているように感じたらしい。また、大阪時代には思いもしなかったような身分の違いも意識し出したという。それに、その年の二月に履歴書や診断書を送れという手紙以来、三次からは何の音信もなかったことも、その後の三次訪問を躊躇(ちゅうちょ)させた。

 そこで、一旦、東京郊外巣鴨(すがも)村の伊丹(いたみ)という知り合いのもとに落ち着くことになった。伊丹は洋傘(ようがさ)商店の工場長をしていたが、もとは佐渡島銅鉄商店の工場長をしていたというから、当然顔見知りだった。そして運よく、営業マンの仕事を得て、伊丹宅に住み込めることになった。十二月に入ると、日野や徳川大尉らの飛行練習の情報を耳にし、伊丹の許可を取って、代々木の練兵場に繰り込み、熱心に見物していたという。

 

ところで、三次が青山北七丁目で仮住まいしていた、という記述である。音次郎青年がここを訪ねたということが間違いないとすれば、すでに三次は、本妻の亀尾と別居状態だったということである。つまり、平木の言葉を借りれば、すでに愛人の福島ヨネと同居していたことになる。もちろん、単なる愛人だったとすれば、のことだが。しかしながら、奈良原家にはもっと込み入った事情があった。

 三次は、明治四十一(一九〇八)年に大学を卒業すると、その年の八月に許嫁だった亀尾と結婚した。そして、翌年七月、長女の緑子(みどりこ)が誕生している。それなのに、もう結婚二年後には、別居しているのである。ヨネさんと一緒に暮らしたいために。

 平木によれば、三次とヨネさんの付き合いは、大学在学中からで、その頃ヨネさんは神田(かんだ)明神下(みょうじんした)の芸者だった、という。それなりの根拠があるのだろうが、ヨネさんの母親が京都御所で女官をしていたというのは極めて怪しい。というのも、ヨネさんの母親であるカツさんは、京都にいた形跡がないのである。カツさんは生まれも東京であり、後年、娘のヨネさんと一緒に生活するまで、浅草に住所があったのである。

 私は、これらの情報をヨネさんの子孫氏が提供した戸籍で確認している。もっとも、ヨネさんには、実子がいなかった。だから、福島家を継いだのは、実弟の娘なのだが、戸籍や他の書類は残っていた。そして、神田明神下にいたかどうかははっきりしないが、ヨネさんが芸者だったことは否定できないらしい。なぜなら、母親のカツさんは、浅草で芸者置屋を営んでいた形跡があるからなのである。

 戦後、ヨネさんは、なかなか力のある女性として、政界筋で有名になった。そこでは、ヨネさんのご落胤(らくいん)説がまことしやかにささやかれていた。それを目にしたか耳にしたか、平木は母親が京都で女官をしていたと推測したのかもしれない。私には、真偽のほどはよくわからない。だが、当時の奈良原家にとっては、そんなことは知る由もなかった。


沈黙の百二十年

2021-09-26 08:46:32 | 歴史

 田中良の母親は、繁の長女・ナカである。父親は、獣医学博士で、東京帝国大学教授となった宏である。そして、宏の母は、繁の妹・於(お)秋(あき)の子供なのである。つまり、非常に濃い血縁関係にあった、ということである。また、宏の家は麹町(こうじまち)にあり、四谷(よつや)にあった繁の家との往き来も容易だったと思われる。田中良が、三次の一号機を手伝っていた頃、彼は東京美術学校(のちの東京芸術大学)の学生だった。だから、比較的時間にも余裕があったし、繁家の内情も手に取るようにわかっていたのである。

 私は、三次が新聞記者にどうして、父親は一銭の金も出さなかったなどというデタラメを言ったのかはともかく、「頑固一徹」というのは、むしろ三次の結婚問題に関して、ではないかと推測している。また、「一文の金も出さなかった」のは、二号機以降の事を指していると考えている。平木は、その後も繁が金を出していると言っているが。

 なるほど、繁は明治四十一(一九〇八)年四月には、沖縄県知事職を解かれている。だが、前年の十二月に、勅選の貴族院議員に任じられてもいる。もっとも、これから収入があったわけではない。が、年間の歳費は三千円使えた。これで、引退後は、東京と鹿児島を頻繁に往復できただろう。ところで、知事時代の俸給はというと、すでに明治三十四(一九〇一)年の時点で、一級俸の年三千六百円だった。これで、堅実な官僚だったらかなりの蓄えが可能だったろうが、浪費癖のある繁にはもうさほどの金額ではなかったかもしれない。しかし、彼にはもっと大きな収入もあった。利権である。

「琉球王」と揶揄(やゆ)された知事時代の奈良原繁は、沖縄では押しなべて評判が悪い。それでも、十六年という長きに渡り、「琉球王」であり続けられたのは、中央と強いパイプがあったからにほかならない。松方正義や伊藤博文ばかりでなく、大隈重信や黒田清隆といった、幕末から明治以降も活躍した人物たちとの手紙のやり取りが、多数残っているのである。

そんな彼が、沖縄で成し遂げた仕事の一つに、他の知事たちがなかなか手のつけられなかった土地整理事業があった。それを、半ば強引に押し進め、やり遂げたのである。

 現代でも土地改革や整理には、大きな金が動く。そして、なかなか表に出てこない金も同様である。繁にも相当な金が入ってきたことは、ほぼ間違いない。なぜなら、繁の取り巻きの一人だった『南島夜話』の著者は、その中で、彼を持ち上げる余り、日本一の金持ち知事と書いているのである。

 それゆえ、三次が飛行機を作るころはまだまだ繁にも余裕があった。さらに繁には、金を出す別な理由もあった。息子が海軍に属し、日本で最初に飛行機を飛ばしたとなれば、同郷の海軍軍人の中でも鼻が高いではないか。繁は、寺田屋事件で勇名を馳(は)せた後、久光の側近となり、やむなく文官に終始した。だから、同郷の軍人武官には複雑な感情もあった。

 この年、奈良原式一号機の飛翔失敗後、三次が本当に佐世保に転任したかどうかわからない。代々木練兵場で飛行練習をしていた徳川大尉の飛行機が故障したりすると、修理の手伝いをしたという情報もあるからだ。さらに、日野、徳川両大尉らが、代々木で挑んでいた十二月十五日の予備飛行実験には、三次もいたというから、東京に居て推移を見守っていたのかもしれない。それから四日後の十二月十九日、日野はドイツ製グラーデ式二十四馬力エンジン、徳川はフランス製ファルマン式ノーム五十馬力エンジンで初飛行に成功した。陸軍の公式記録は、これを日本における最初の飛行としている。ただ、これには異論があるようである。『日野熊蔵伝』の著者・渋谷敦によれば、日野は、十二月十四日の地上滑走中、「高さ一メートル、距離三十メートル浮き上がり、更に続けて高度十メートル(二メートル)、距離六十メートル(百メートル)を飛んで」いたのである。ところが軍は、この日は公式の飛行実施日ではなかったので、これを「滑走中、余勢であやまって離陸した」と記載し、初飛行とは認めなかったというのである。伝記の著者は、飛行成功に公式も非公式もあるものか、と憤慨(ふんがい)している。当然だろう。翌日の新聞では、我国の最初の飛翔(ひしょう)である、と報じているのだ。軍という組織は、何食わぬ顔でこういう操作をするのである。そればかりではない。日野は、エンジンも含め、自作飛行機にこだわり、翌年、その実験を試みるが、ことごとく失敗する。その結果だけかどうかわからないが、その年の十二月一日付で、小倉の連隊付けに異動させられている。少佐に昇進したものの実質的な左遷(させん)である。三次が一号機を完成させたのちに、佐世保への転任辞令が出たのも、同じように上層部の思惑が透けて見える。日野の場合、頑なで、やや独善的な性格も災いしたのだろうが、生涯中佐止まりだった。一方、徳川御三卿・清水家出身で、人当たりもいい徳川好敏は、中将まで上り、一旦途絶えていた男爵家も復活させている。

 三次が、彼らの飛行成功をどう見ていたのかはわからない。徳川大尉の飛行機の修理の手伝いもしていたというから、人の好い面も発揮したのであろう。が、内心忸怩(じくじ)たる思いもあったに違いない。十二月二十七日付で、突然、海軍を停職になると、すぐ海軍を辞めているからである。

 新聞は、停職の理由を巨額の負債を負って上官の忌避(きひ)に触れたのではないか、と書いている。が、これは素直に頷(うなず)けない話である。『初飛行』の著者・村岡正明は、奈良原式一号機を、「地上滑走研究用」という名目で、気球研究会側が一、八四三円で買い上げているという。だから、いわば初期投資をそれで相殺できたはずなのである。三次が、負債で苦しむのは、民間人として飛行機作りを始めてからで、父親は以後、金を出すことはなかった。海軍から離れた息子に金を出すほどお人好ではなかった。

 私には、三次が海軍を停職になった理由は、佐世保への転任を拒(こば)んだからではないか、と思えるのである。新聞でも、停職なら、金銭問題も解決すれば復職できる可能性はある、と書いているが、三次は停職後、辞任している。つまり三次は、どうしても東京を離れたくなかったようなのである。

 さて、三次の行動に一喜一憂していた音次郎少年は、どうしていたのだろうか。三次が履歴書や健康診断書を送れと言ってきた時にはさすがに困惑していた。なかなか父親にも話せず、履歴書はともかく、健康診断書はかなり遅くなって出している。十月末になって、三次が佐世保に転任になることを新聞で知ってからも、思い悩み、まだ迷っていた。そして、最終的に上京したのは、十一月半ばだったらしい。「らしい」というのは、明治四十三(一九一〇)年の音次郎日記は、十月三十一日で、終わっているからである。では、誰が音次郎少年の上京を教えてくれたのかというと、平木國夫だった。


沈黙の百二十年

2021-09-25 07:02:26 | 歴史

 この失敗については、二つの説がある。一つは、平木國夫説である。

 三次は、フランスにノーム式五十馬力のエンジンを注文していたが、どうした手違いか、アンザニ二十五馬力エンジンが届いたというのである。そして、それを使用しなければならなかったので、三十(五十)センチくらいしか浮揚(ふよう)しなかったのだという。

 他方、『初飛行』の著者・村岡正明は、そうは言っていない。臨時軍用気球研究会は、三次がアンザニ二十五馬力のエンジンを使用するという条件で、実験を許可したというのである。

 これでは、随分意味合いが違ってくる。平木説では不運のため、村岡説では、研究会側が意図的に飛ばないようにしたため、となる。一体、どちらが正しいのだろうか。

 明治四十二年七月発足以来、臨時軍用気球研究会は、陸軍主導だった。最初の研究会の構成メンバーは、田中舘(たなかだて)愛橘(あいきつ)のような学者も加え、陸海のバランスも保っているように見える。ところが、会長は、長岡外史(がいし)陸軍中将だった。そして、ほぼ一年で、長岡会長が退くと、今度も石本新六という陸軍中将が就いたのである。陸海のバランスを保つというのなら、その席に海軍中将の誰かが座ってもいいのだが。

 なるほど、研究会は最初、相原四郎海軍大尉を欧米に派遣した。しかし、これは早急の飛行機操縦技術習得のためではなく、語学研修を含めた長期の留学である。その相原が日本を出発して一か月も経たない四月十四日に、日野熊蔵・徳川好敏両陸軍工兵大尉を欧州へ派遣しているのである。これは、相原と違って、飛行技術習得のための短期派遣なのである。それゆえ、研究会の委員とはいえ、三次のような海軍の技士風情(ふぜい)に先を越されたくはない、と研究会委員の主流派が考えたとしてもおかしいことではない。ましてや、三次が一号機を飛ばす前に、横須賀から佐世保へ転任の辞令が出ているのである。私は、その転任の正確な日付を知らないが、音次郎日記では、十月二十七日に、「萬朝報」で知ったとある。だから、三次は転任までの間にどうしても一号機を飛ばしたかったのであろう。

 おそらく、研究会の陸軍側はこれも渋ったかもしれない。だが、三次側にも、それなりの助っ人はいた。父親の繁である。知事職は退いたが、貴族院議員である。軍に働きかける力はないものの、海軍には繁の親戚や後輩たちが大勢いたのである。日露戦争で活躍した薩摩の海軍出身者たちが。だから、アンザニ二十五馬力という限定つきでも何とか許されたのかもしれない。

 陸軍の三次への対応を、『初飛行』の著者は、次のように続けている。

 三次が、試験飛行の現場で、「アンザニ二十五馬力のエンジンは、十五馬力位しか出ておらず、これでは飛翔できない。だから、手持ちの発動機(ノーム式五十馬力)で再度挑戦させて貰いたい」と井上陸軍工兵大佐に頼んでも、頑(かたく)なに断られた、と。

 私は、三次がノーム式五十馬力のエンジンを既に手にしていたかどうかは知らない。しかし、徳川陸軍大尉は、フランスからファルマン式飛行機を持ち込んでおり、それにはノーム式五十馬力エンジンが付いていたのである。もし、陸軍側にそのエンジンを貸す度量があったら、三次が初飛行を記録したとしても何ら不思議ではなかったのである。

 私は、三次の最初の挑戦には、繁が背後にいた、と述べた。これには説明がいるかもしれない。平木や航空史では、三次の最初の自作飛行機には、当時、二千円ほどかかったという。では、三次がその金をどこで調達したのだろうか。

 平木の新聞連載作品である「南国のイカロス」では、昭和八(一九三三)年、三次は、東京朝日の記者に、沖縄県知事だった父は、頑固一徹で「人間が空を飛べるか」と一文の金も出さなかったと言っている。だが、一号機製作の手伝いをしていた従弟の田中良の証言によると、そんなことはなかった、という。続けて平木は、田中は、四谷の三次の家に泊まり込んで手伝っていたのだから、田中の話は信憑(しんぴょう)性が高い、と結んでいる。私もそう考えているが、少し田中良のことにも触れておかなければなるまい。のちのちも顔を出すし、奈良原家とは強い結びつきがあるからでもある。

 


沈黙の百二十年

2021-09-24 08:38:38 | 歴史

 この頃、日本の軍部でも、戦争の武器になりうるものとして飛行機が注目されるようになっていた。ライト兄弟が最初に飛行機を飛ばしたのは、明治三十六(一九〇三)年十二月だったが、当時は、フランスやドイツなどのヨーロッパの方の情報が先に入っていた。実際、日本の新聞で飛行機に関する最初の情報がもたらされたのは、明治四十(一九〇七)年三月二十五日の「萬朝報」の記事だったという。それもライト兄弟の飛行成功記事ではなく、フランスの飛行家の成功を報じたものだったのである。その後軍部は、明治四十二(一九〇九)年七月になって、「臨時軍用気球研究会」なるものを発足させ、本格的に飛行機の研究に取り掛かった。そして、研究会委員十四名の中には、奈良原三次もいたのである。陸軍の気球隊そのものは、中野にあったが、まだ、「飛行機」という言葉が定着せず、従来ある「気球」という用語で立ち上げた、研究会の最初のメンバーとして。

 三次は、この研究会に属していたものの、音次郎少年が記(しる)していたように、すでに独自に設計をし、自作飛行機の製作に取り掛かろうとしていた。

 翌明治四十三(一九一〇)年二月四日の音次郎日記には、三次から二度目の手紙が来たことが書かれている。内容は、「飛行器操縦者として人間が必要だから、履歴書と写真、及び医師の診断書をすぐに送られたし」ということだった。以前の手紙では、軍人でなければだめだと書いてきたのに、周囲の状況が変わったのだろうか。

 臨時軍用気球研究会は、同年二月末に、相原(あいはら)四郎海軍大尉を、主として飛行機調査を目的にした二年の欧米出張を命じている。おそらく、内々にこういう話を耳にした三次は、自分は技士だから、また年齢のことも考えれば、欧米へ出向くことはあり得ないと考え、軍とは別に独自に飛行機を作り、軍人ではない操縦士が必要になったのかもしれない。

 今回のやや唐突な三次の手紙に、音次郎自身も困惑気味で、父親に三次の手紙を見せ、上京の許可を得なければ、と思い悩んでいる。

 四月になると、さらに研究会側は、日野熊蔵(くまぞう)と徳川好敏(よしとし)という二人の陸軍工兵大尉を欧州へ派遣した。三次は、軍務の傍(かたわ)ら、飛行機製作に従事しなければならなかったので、焦りを感じていたのかもしれない。日野や徳川は、相原海軍大尉と違って、短期の飛行機操縦技術の習得が目的だったのだから。そして、彼らがそこで訓練した飛行機をそのまま持ち帰り、日本で飛ばそうとしていたのである。

 六月半ば、音次郎少年は、「萬(よろず)朝報」の記事に、三次の飛行機が竣成したとあるのを見て、喜んだ。ただ、フランスに注文したエンジンがまだ届いていないので、完成は来月になるだろう、とあった。それに対して音次郎少年は、「他ノ誰ニモ先乗(さきのり)リサレテタマルモノカ」と気焔(きえん)をあげている。

 三次の飛行機、いわゆる「奈良原式一号機」が実際に完成の域に達したのは、十月に入ってからだったようである。もっとも、すぐ飛んだわけではない。飛行実験もしなければならなかっただろうし、三次の勤務状況もあったであろう。さらに、飛行場の問題もあった。

 当時、飛行場として利用できたのは、戸山ヶ原にある代々木(よよぎ)の練兵場くらいであった。それも軍のもので、個人的に利用できる場所でもなかった。そうこうしている内に、解体した飛行機をすでに送ってきていた、日野、徳川両大尉も帰国した。十月二十五日のことである。  

 そして、五日後の十月三十日。この日三次は、代々木の練兵場で何とか一号機を繰り出し、飛行を試みた。だが、エンジンの馬力が足りず、地上五〇センチほど浮上滑走しただけで、日本での初飛行の偉業はならなかった。


沈黙の百二十年

2021-09-23 07:05:07 | 歴史

 ヨネさんの話に入る前に、とにかく、初期航空界に一閃(いっせん)を灯(とも)した奈良原三次の履歴を述べなければなるまい。そこにヨネさんの影ばかりでなく、彼女自身も現れるからである。

 また三次の事績ついては、すでに平木國夫の物語に詳しく書かれているが、ここで改めて振り返ることにする。というのも、平成三十(二〇一八)年七月、平木も基礎資料にした、伊藤音次郎の日記が公開されたからである。同時に、平木の若干の誤解や勘違いも解いておきたかった。

 さて、私が三十年間にわたる彼の日記に目を通した限り、音次郎と三次との間には、切っても切れない、深い交流があった。平木が描いたような恨(うら)みがましく、突き放したものではなかったのである。音次郎は終始、三次に対する尊敬の念を失うことはなかった。それゆえ、三次と並行して、音次郎がどんな人物かも触れなければなるまい。

 明治二十四(一八九一)年、大坂に生まれた彼は、高等小学校を卒業すると、銅や鉄の売買を業とする佐渡島銅鉄商店に勤め出した。当時としては、丁稚奉公というのだろう。そんな中、明治四十一(一九〇八)年末、道頓堀の朝日座でライト兄弟の活動写真を見てから飛行家に憧(あこが)れたという。そして翌年九月、「萬(よろず)朝報」紙に載った「奈良原三次中技士の複葉機発明」という記事を読んで感動し、三次の下(もと)で飛行家を目指したいと、手紙を出したのである。日記では、この時の心境を「余ハタチマチ決シタ。積日ノ志ヲ達スルハコノ機ニアリ」と書き綴っている。しかし、三次からの返事は、「飛行機は軍事上の機密でもあるから、軍人の他採用できない。その内民間のほうにもできるだろうから、そちらに向けて尽力しなさい」ということだった。音次郎少年は落胆した。が、すぐ気を取り直し、三次の工学の知識があったほうがよいという助言で、夜学にも通い出した。彼は勉強家であった。夜学での物理、代数、機械学、設計、製図などの他に、スマイルズの『西国立志編』(『自助論』)なども並行して読んでいるのである。こうした彼の飛行機に対する情熱や知的向上心は、この一時だけでなく、終生変わらず続くことになる。


沈黙の百二十年

2021-09-22 07:05:47 | 歴史

奈良原繁(喜八郎・幸五郎)×スガ(旧姓・毛利)

            長女・ナカ(明治元年生まれ~)×田中宏

            ―→田中良

            長男・竹熊(明治三年~明治二十六年)

            次女・トキ(明治四年十月十日~明治二十二年)

            次男・三次(明治九年十二月二十九日~昭和十九

             年七月十四日)×亀尾(キヲ・旧姓東郷<・・・ 

             ~大正五年七月十五日>)                

             ―→奈良原緑子(明治四十二年七月二十日~昭和    

             二十一年八月六日)

繁×多賀タキ       →次男・幸彦(明治八年七月六日~)×ヒサ(旧     

             姓太田)(・・・・~昭和二十年四月十五日)

             ―→カツ(片野坂家へ)

             ―→隼人(明治四十三年~昭和二十一年四月二十  

             四日)

繁×西洋人(フランス人) →吉之助(明治十六年十一月十三日~昭和三十五

             年三月一日)

             ―→奈良原貢(三男)(大正十年一月六 

             日・・・~平成十二年七月)

繁×(不明)       →櫻田太吉(明治八年九月十二日~

         

             (三)

      奈良原三次とその周辺及び伊藤音次郎

 私は、福島ヨネ家の子孫氏から、多大なご教示を戴いた。そして、これから述べることも子孫氏の許可の下(もと)に書き進めていく。

 ヨネさんは、平木國夫の作品の中では、奈良原三次の愛人とされているが、どうもそういう言葉では、おさまりつかなかった。夫婦と言ってもいい、内縁関係にあったのである。

 では先ず、繁の直系相続人である、奈良原三次から話を持って行くことにする。繁と同様、記録も多く残っており、ある点で繁以上に有名だったからである。少なくとも、日本の初期航空界では、彼を抜きにして語れないのだから。日本で最初に自作飛行機を飛ばした男として。

 奈良原三次は、航空史ではほぼ明治十(一八七七)年二月十一日を生誕日としているが、これは正確ではない。繁の除籍謄本を入手していた平木國夫は、訂正前の明治九(一八七六)年十二月二十九日であることは当然知っていたが、いつの間にか、航空史では十年生まれが定着している。年齢を数える際、さほど問題にはならないが、私は、他の係累のこともあり、正確に、明治九年十二月二十九日に生まれたとしておく。繁の戸籍訂正、或いは書入れは、五、六回に及び、それには、それなりの理由があった。

 さて、三次が鹿児島で生まれた頃、繁は島津家の家令だった。ところが、明治十(一八七七)年三月、久光から勅使・柳原とともに東京に戻されることになった。その時、三次らはどうしたかという問題だが、平木も推測していたように、おそらくその船で家族ともども東京へ向かったのだろう。なぜなら、西南戦争が起こると、大久保や警視庁大警視だった川路利(とし)良(よし)の家々、さらに大久保側と見なされた奈良原の家なども暴徒により打ち壊(こわ)しにあっているのだ。そのため、繁の家族は、鹿児島郊外の谷山辺りに避難していたと考えられるのである。そして、鹿児島港外の七ツ島(谷山近く)辺りで、乗船させたと考えられる。あくまでも、勅使がいた船に乗ることができたならば、の話だが。

 ともかく、三次らは東京に移り、その後はそこで育った。三次の場合、順調に育ったかどうかは何とも言えない。はっきりわかっているのは、明治三十五(一九〇二)年に岡山の第六高等学校に入学したことである。そして、そこを卒業し、明治三十八(一九〇五)年四月に、東京帝国大学工学部造兵学科に入学した。

 高校の入学が二十五歳というのは、遅すぎるが、何があったのだろうか。ウィキぺディア欄には、旧制戸山中学を卒業した後、八年のブランクの後、高校に入学したと書かれている。が、私はこの出典を知らないし、確認もできなかった。もし、その情報が正しいとすれば、何かそれなりの理由があったのであろう。その理由の一つとして考えられるのは、結核の療養をしていたのではないか、ということである。

 繁と妻のスガさんの間には、四人の子供がいた。明治元(一八六八)年生まれの長女・ナカ。同三年生まれの長男・竹熊。翌年の次女・トキ。そして明治九(一八七六)年生まれの三次である。長女ナカと三次は、生き延びたが、長男の竹熊は、ドイツ留学中に病気となり、中途で帰国。鹿児島で療養生活送った後、明治二十六(一八九三)年十月九日、二十三歳で亡くなっている。また、次女トキも、明治二十二(一八八九)年十二月二十一日、十九歳で病死している。どちらも肺を病み、亡くなったと考えられる。三次の六高時代の写真を見ても、やせ型で、いかにも肺を病(や)む体質のように見える。つまり、繁家の子供たちは、皆、肺疾患を患(わずら)う傾向があったといえるのだ。

三次は、明治四十一(一九〇八)年三月、三十一歳で東京帝国大学を卒業すると、横須賀海軍工廠(こうしょう)造兵部に、海軍少技士(しょうぎし)として奉職。要するに、技術職として海軍に入ったが、それでもかなり遅かった。おそらく、父親が同胞や親族に手を廻し、その職につけさせた可能性は充分ある。繁は、この年七十五歳で、十六年にわたる沖縄県知事の職を四月に解かれてはいたものの、貴族院議員ではあった。

 そして三次は、同年八月六日、東郷亀尾(キヲ)と結婚する。ただこの結婚は、父親が敷いたレールに乗っただけだった。というのも、亀尾は、五年前、いわば三次の許嫁(いいなずけ)として、奈良原家に入籍していたのである。明治二十九(一八九六)年、すでに男爵位を受けていた繁は、着々と跡取り息子の結婚準備をしていたということになる。

 亀尾は、鹿児島士族・東郷重持の三女だった。繁が、島津家の家令をしていた頃の同僚の娘だった。同郷で、家柄としても過不足はない。繁家が亀尾を十六歳で養女にしてからは、学習院の女学部に通わせている。だから、外目には、跡取り息子の申し分のない結婚相手だった。

 ところが、どうも内輪ではそうではなかった。福島ヨネという女性が奈良原家の前に現れたからである。


沈黙の百二十年

2021-09-21 07:14:31 | 歴史

 貢氏が、父親・吉之助氏から聞いた話として、新聞で祖父・繁が犯人だと発表してから、一番驚いたのは、彼の北海道の親族だった。というのは、親族でそんな話を聞いたのは、誰もいなかったからだ。吉之助氏は一切繁との関係も話さなかったし、ましてや繁が生麦事件の犯人だったなどということは寝耳に水だったのである。もちろん、親族の中には、繁が吉之助氏の父親ではないかと疑う人はいた。養父家族と吉之助家族があまりにも違っていたことで、吉之助氏の出自を調べていた人がいたのである。私に情報をもたらしてくれたのは、まさにその人だった。

 吉之助氏は、戦前の家長の典型のように家族の前では寡黙な人だった。しかし、「奈良原家一族祭日(さいじつ)記録」や自己の職歴を記した「履歴書」、さらに前に取り上げた繁の書簡も手元に遺(のこ)していたのである。

 私が、吉之助氏の「祭日記録」を読んで、怪訝(けげん)に思ったのは、養父家族のことも細部にわたり記載しながら、「奈良原家ハ毎月十八日ヲ氏神(うじがみ)の祭日トス」と書いていたことだった。本来、最初に北海道に渡った養父・市郎の忌日(きじつ)を氏神の祭日とする、というのなら納得できるが、この十八日というのは、市郎ではなく、妻の月命日と同じなのである。吉之助氏の妻は早くに亡くなり、その命日は五月十八日だった。だから、養家の父の命日を氏神の祭日とせず、他家から来た妻を奈良原家の氏神としたのだろうか。他家から来ようが、妻を愛し、追慕(ついぼ)の念を刻(きざ)みたかったから。ただ、この忌日は、紛らわしいのである。繁の兄・喜左衛門もこの日付で亡くなっているのだ。つまり、吉之助氏は、奈良原繁や喜左衛門との関係を家族には話さなかったものの、知っていたのではないだろうか。貢氏は、父親から生麦事件の経緯を聞いたと公表している。では、吉之助氏は三男の貢氏にだけ繁家の真実を話したのだろうか。

 確かに、二人だけの接点はあった。貢氏は、大正十(一九二一)年に生まれ、北海中学を経て、函館オーシャンというノンプロの野球選手になった。投手として活躍したらしい。そこから、日中戦争に応召したが、昭和二十(一九四五)年二月、負傷して帰還している。一方、吉之助氏は、昭和十(一九三五)年、五十一歳で国鉄を退職した後、すぐ愛知の豊川鉄道支配人になった。それも昭和十三年には退き、翌年には、札幌鉄道構内商業組合理事となり、太平洋戦争半ばの昭和十八年、組織改編に伴い、全国鉄道旅客供食業統制組合理事として、東京駐在を命じられている。要するに、貢氏が中国から帰還し、東京に戻った頃、吉之助氏も東京にいたのである。そして貢氏は、北海道には戻らず、しばらく父親と一緒に生活していた。それゆえ、吉之助氏が、貢氏にだけ繁家の話をした可能性はある。

 ところで、貢氏は、やや風変りな人物だった。彼の姪の話によると、「貢叔父さんは冗談ばかり言って面白い人だったけど、言ってることは信じられない」と私に話したことがある。おそらく、他の親族も、大なり小なり、貢氏をそう捉えていた。そして、自分でも歴史に詳しいようなことを新聞で語っていたが、これも疑っていた親族がいた。私も、兄と弟を混同するような、そしてそれを訂正しようともしない人物の歴史知識は疑わしいと思わざるを得ない。

 それでは、貢氏は、世間を騒がす、単なるトリックスターだったのだろうか。あるいは、本当に父親から聞いて、話していたのだろうか。また、吉之助氏も知っていたとしたら、誰から話を聞いたのだろうか。

私は、この解明には長い、長い時間を要した。しかし、どうやら彼に繁家の「秘密」を伝えた人物がいたのである。福島ヨネという女性だった。