海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(58)

2010-08-23 08:05:52 | 歴史
 では、今回からは、昭和版・平成版『蒲生郷土誌』を覗いてみよう。もちろん、昭和版に関する限り、赤塚源太郎の名前さえ出てこない。また、平成版にしたって、それほど踏み込んだ記述ではない。
 それゆえ、ここでは、以前、途中で保留にしておいた、『薩南血涙史』で一番初めに寝返ったとされる吉留盛美らについて論じようと思う。ただ、吉留盛美という人物は、「蒲生郷出兵人名簿」に名前はなく、その人物だと推定される吉留盛喜という名前があるだけであり、その人物は、その年に戸長心得になっているということも触れておいた。そして、もし吉留盛美と吉留盛喜が同一人物なら、そういうことはありうるだろうか、ということも。

 さて、この昭和版・平成版の郷土史の中で、共通して興味深い記録を載せている。それは、戸長心得の吉留盛喜名で、蒲生警視派出所へ提出した「明治10年役出兵人名簿」で、その提出期日は、同年12月30日とある。と同時に、在郷軍人会が調査したものの内、吉留盛喜の報告書から「漏れた」出兵人もそのあとに併記している。
 しかしながら、本来、どちらも百数十年前の資料であるから、同一数、同一人名であるべきなのに、それらが「微妙」に違っているのである。
 まず、私が数えた昭和版の吉留報告書数は、489人。そこから漏れた在郷軍人会調査数は、193人。次に、平成版では、前者が486人、後者が189人となっている。
これらのことを昭和版郷土史では、「戦後の混乱のため確実なる資料を見出せ得ない。したがって出兵総数も詳らかではないが明治10年12月30日蒲生郷戸長心得吉留盛喜より、蒲生警視派出所へ報告せる十年役出兵名簿(総数四百八十六名)及び在郷軍人会調査によるもののうち前期、吉留盛喜報告書に記載漏れの分(一九七名)を左にきすことにした」と書いているが、上記、私が何度も数えた数とも違っている。どうもよくわからない。
さらに、この続きとして、「然し乍ら在郷軍人会の調査による出兵人名の中には、官軍側として出兵した鈴木弥助等の氏名があり、その外氏名の誤記及び改名による重記のおそれもあるので正確なものとは断定できない」と結んでいる。
 だとすると、私はまたまた『薩南血涙史』を読み違えていたことになるのだろうか。
私は、在郷軍人会出兵人名簿に吉留盛美はともかく、福島康(安)、田中藤之進、鈴木弥助らの名前もあったし、『薩南血涙史』の書き方では、鈴木弥助もかれらと並んで書かれていたので何も疑わなかったのである。