さて、9日の「鎮撫大将軍」任命に驚愕した中川宮は、高崎正風に使いを出し、意見を聴くと、高崎はこの任命は即今破約攘夷派の容易ならざる奸策だから、すぐ拒否するように使いの者に答えている。それを受け、翌10日、宮は孝明天皇に辞退を申し出たが、天皇も要領を得ない回答しかしなかったようだ。困り果てた宮は、12日、直接高崎を呼び、再度どう対処すればいいかを尋ねると、高崎は、宮がこれを「承諾した場合、<鎮撫大将軍>と<大和親征>が同時に仕組まれることは必然であり、この姦計に陥ってしまうと天皇は即今破約攘夷派の掌中に帰してしまい、まったく手出しができず、大事が去ってしまう。英断の上、これまでの奸謀の次第を直奏し、(天皇が)悔悟されれば<御処置被為在度(ごしょちあらせられたく)>」(『島津久光=幕末政治の焦点』)と政変の決断を迫り、宮は熟考の末に承知した。さらに高崎は、薩摩藩では兵力が過小であるため、探索の結果、会津藩がこれらの事態に最も憤激していたため、かれらと連携することを進言し、退出した。
「高崎日記」によると、翌13日早朝、会津藩の秋月悌次郎に会い、その後中川宮邸に出向き、それから近衛忠煕・忠房父子とmo
会い、具体的な行動に出ているらしい。会津藩側資料でもある『鞅掌録』にも13日、「薩州人高崎佐太郎突然として我等の旅寓に来たり」と、高崎の行動を裏付けている。
そして『鞅掌録』には、高崎の会津藩への具体的な働きが書かれており、それは、「最近の勅旨は三条実美と長州藩および真木和泉らとの結託による偽勅であり、大和行幸もその途上で陰謀をめぐらしており、実現となれば手遅れとなる。天皇も周知で中川宮に諮られたが、武臣で奸臣を排除する者もないとお嘆きである」(同上)と、高崎は訴えたようだ。
さらに、高崎は、「薩摩藩はこの状況を傍観できず、意を決したが、兵力が少なく、尊藩の力を借りたい。もしそれができない場合でも薩藩単独でも立ち上がる」(同上)と言うと、秋月らその具体的策略を尋ねる。高崎は続けて、「中川宮はすでに機微を察して西国鎮撫大将軍を辞退しており、また宮に賛同する廷臣もいるので、彼らを頼れば必ず成功する」(同上)と明言した。
「高崎日記」によると、翌13日早朝、会津藩の秋月悌次郎に会い、その後中川宮邸に出向き、それから近衛忠煕・忠房父子とmo
会い、具体的な行動に出ているらしい。会津藩側資料でもある『鞅掌録』にも13日、「薩州人高崎佐太郎突然として我等の旅寓に来たり」と、高崎の行動を裏付けている。
そして『鞅掌録』には、高崎の会津藩への具体的な働きが書かれており、それは、「最近の勅旨は三条実美と長州藩および真木和泉らとの結託による偽勅であり、大和行幸もその途上で陰謀をめぐらしており、実現となれば手遅れとなる。天皇も周知で中川宮に諮られたが、武臣で奸臣を排除する者もないとお嘆きである」(同上)と、高崎は訴えたようだ。
さらに、高崎は、「薩摩藩はこの状況を傍観できず、意を決したが、兵力が少なく、尊藩の力を借りたい。もしそれができない場合でも薩藩単独でも立ち上がる」(同上)と言うと、秋月らその具体的策略を尋ねる。高崎は続けて、「中川宮はすでに機微を察して西国鎮撫大将軍を辞退しており、また宮に賛同する廷臣もいるので、彼らを頼れば必ず成功する」(同上)と明言した。