海鳴記

歴史一般

8・18政変(6)

2009-07-31 11:38:55 | 歴史
 さて、9日の「鎮撫大将軍」任命に驚愕した中川宮は、高崎正風に使いを出し、意見を聴くと、高崎はこの任命は即今破約攘夷派の容易ならざる奸策だから、すぐ拒否するように使いの者に答えている。それを受け、翌10日、宮は孝明天皇に辞退を申し出たが、天皇も要領を得ない回答しかしなかったようだ。困り果てた宮は、12日、直接高崎を呼び、再度どう対処すればいいかを尋ねると、高崎は、宮がこれを「承諾した場合、<鎮撫大将軍>と<大和親征>が同時に仕組まれることは必然であり、この姦計に陥ってしまうと天皇は即今破約攘夷派の掌中に帰してしまい、まったく手出しができず、大事が去ってしまう。英断の上、これまでの奸謀の次第を直奏し、(天皇が)悔悟されれば<御処置被為在度(ごしょちあらせられたく)>」(『島津久光=幕末政治の焦点』)と政変の決断を迫り、宮は熟考の末に承知した。さらに高崎は、薩摩藩では兵力が過小であるため、探索の結果、会津藩がこれらの事態に最も憤激していたため、かれらと連携することを進言し、退出した。
 「高崎日記」によると、翌13日早朝、会津藩の秋月悌次郎に会い、その後中川宮邸に出向き、それから近衛忠煕・忠房父子とmo
会い、具体的な行動に出ているらしい。会津藩側資料でもある『鞅掌録』にも13日、「薩州人高崎佐太郎突然として我等の旅寓に来たり」と、高崎の行動を裏付けている。
 そして『鞅掌録』には、高崎の会津藩への具体的な働きが書かれており、それは、「最近の勅旨は三条実美と長州藩および真木和泉らとの結託による偽勅であり、大和行幸もその途上で陰謀をめぐらしており、実現となれば手遅れとなる。天皇も周知で中川宮に諮られたが、武臣で奸臣を排除する者もないとお嘆きである」(同上)と、高崎は訴えたようだ。
 さらに、高崎は、「薩摩藩はこの状況を傍観できず、意を決したが、兵力が少なく、尊藩の力を借りたい。もしそれができない場合でも薩藩単独でも立ち上がる」(同上)と言うと、秋月らその具体的策略を尋ねる。高崎は続けて、「中川宮はすでに機微を察して西国鎮撫大将軍を辞退しており、また宮に賛同する廷臣もいるので、彼らを頼れば必ず成功する」(同上)と明言した。

8・18政変(5)

2009-07-30 11:31:40 | 歴史
 そこで本来なら、再度、佐々木氏や町田氏の論文を読み返し、私なりの詳細な判定を下すべきなのだろうが、残念ながら、もうそこまでの熱意はない。それらを読み返し、それなりに気になる第一次史料(書簡・日記等)に目を通そうとすると、またまた膨大な時間を必要とするからだ。
 それに私は、この政変に興味を持ち出したのは、奈良原幸五郎(繁)が登場してきたからで、「政治史」にはさほど興味はないのである。
 また、町田氏の著書からあまり脱線して話を広げるのも本意ではない。だから、町田氏の『島津久光=幕末政治の焦点』に戻って、氏の論に耳を傾けてみよう。町田氏も、ここは本書のクライマックスだと言っており、周辺事情も詳しく述べているが、国元の指示なく、在京藩士たちが独自に政変を画策していったという氏の主張を、そしてその主体となった高崎正風の行動を取り上げて論じている。また、それを語っていくに際し、高崎が事変後の11月2日、伊達宗城(むねなり)に直接説明した顛末書である『伊達宗城在京日記』と、それを補強する薩摩藩側史料である「京都政変ニ付奈良原幸五郎覚書」を典拠に挙げている。
 町田氏はまず、「覚書」では、この政変の動機として、大和行幸の決定と分担金の負担、三条実美らの即今破約攘夷派の横暴、中川宮の西国鎮撫大将軍への任命問題を挙げ、在京薩摩藩士が絶対絶命の危機に陥ったとする状況認識から、8月10日ごろから頻りに諸藩の動静を窺っていた、と書いている。次に高崎正風書簡(8月8日、中山中左衛門、大久保一蔵宛)を取り挙げ、それには攘夷親征(注1)についてこのところ即今破約攘夷派の圧力が厳しさを増し、中川宮や近衛忠煕・忠房父子等へ繰り返しその実行を迫り、在京藩士たちは大いにその対応に苦慮していると書かれている、として、翌9日の中川宮の西国鎮撫大将軍任命(注2)問題、「覚書」にある10日頃からの諸藩探索と合わせて、薩摩藩としての最大の懸案は、藩と一心同体であった中川宮の窮地を救うことにあった、と町田氏は解説している。

(注1)・・・6月8日に入京していた真木和泉が長州藩士らと協議し、7月初め に攘夷親征の建言している。以来、親征論が高まり、これに反対する者は暗殺・ 脅迫で報復された。
(注2)・・・かねて攘夷親征に気のすすまない孝明天皇は、中川宮を西国鎮撫使 に任命、自分に代わらせようとしていた。

8・18政変(4)

2009-07-28 13:23:25 | 歴史
 次に第二の理由に移ろう。原口氏によると、この時期の薩摩藩は、諸藩連合および幕薩提携の運動にとり組んでいたらしい。こうした中で、在京藩士に奇襲的なクーデター方式の行動の指令出すということは考えられない、という。つまり、「遠隔の地で政情が日々変化する京都における非常手段の決行を指令することは、それ自体一大冒険であり失敗した場合の損失は計りしれない。尊攘激派がいかに薩摩藩を嫌悪し排斥しようとしているか、5月の姉小路公知暗殺事件や7月の島津久光召命取り消し(注1)等の経験からも充分予知できることであり、まして天皇の大和行幸への反対行動の失敗ともなれば、勅命への反逆として朝敵の指定にもなりかねず、また雄藩連合の自殺行為になるかも知れない」と考察し、「久光や大久保などが、こうした配慮なしに指令を発することは到底考えられない」と結んでいる。

 私は、これだけで芳説と原口説のどちらかに軍配を挙げるなどという偉そうなことは言うつもりはない。なぜなら、芳氏の場合は第一次史料(日記や書簡類等)を出して具体的に論述したものでもないし、原口氏の場合は、芳氏の論文は読んでいるものの、その反論として具体的に第一次史料を突き出して、述べているわけでもないからだ(注2)。それどころか、その後、芳説をより詳細にバックアップしたと思われる佐々木克氏の論文やまたその反論である町田氏の論文コピーを原口氏より戴き、それを読んでいながら、その内容の記憶がほぼ完璧に抜けているような有様なのだから。


(注)・・・7月12日、奈良原幸五郎(繁)は久光への天皇の勅書等を持って京都を出発しているが、その5日後の17日、その久光上京を命じた勅命が、三条実美らによって取り消されている。ちなみに、原口氏は第一の理由として、村山斎助という人物の例を出していたが、当時京都詰藩士だった村山は、この勅命取り消しを知らせるため、鹿児島に送られていたようだ。
(注2)・・・この件につき、直接原口氏にも質問したが、この政変自体に言及するつもりはもうないということだった。そして、佐々木克氏の論文と町田明広氏の論文コピーを手渡してもらったという次第である。

8・18政変(3)

2009-07-27 12:41:43 | 歴史
 とくに原口清氏は、ほとんど一般向けの本を出さなかったようで(注)、氏の考えを知るには専門家向けの学会誌等に当たってみるしかなかった。しかしながら、当時、岩田書院から著作集が出だしたころで、それを入手すれば、氏の「歴史研究」に容易に触れることができるようになった。 そしてそれらは、氏の人柄同様私のような素人にもすんなり入っていけるものだった。
 ともかく、原口氏の論考を私なりに整理してみよう。原口氏は芳氏の『文久三年八・一八政変と島津久光』を踏まえて、「在京の高崎佐太郎(正風)・奈良原幸五郎らは、久光の指令を受けることなく、否、指令を待つ時間的余裕もなく、彼らの独自の判断で政変に参加したものである」と先に結論を述べ、次にその理由を二つ挙げている。
 その第一として、久光らが在京薩摩藩士に政変への指令を与えた証拠がない、と原口氏は言うのである。そしてその一例として、8月初めに鹿児島を発ち8月13日ごろに着京した村山斉助という藩士が、上京途上に大久保に宛てた手紙(『忠義公史料』第二巻)を挙げ、そこに書かれているのは、雄藩連合に関するもので、政変に関連することはまったく読みとることができない、としている。さらに村山の政変後に大久保に宛てた手紙でも、政変に関して「京師之模様意外之形勢ニ而、先ハ十分勝利ニ御座候得共」(けいしのもよういがいのけいせいにて、まずは十分勝利にござそうらえども)(同前三巻)とあるだけであり、政変参加の指令を授けられたことは片鱗も書かれていないらしい。これは、もし彼が指令伝達の使命を受けていたら、主君に対する礼としても考えられないことだ、と原口氏は主張している。
 また同様に、高崎佐太郎・奈良原幸五郎の政変後の報告書(同前二巻の773~777頁と788~789頁の「奈良原幸五郎帰国報告書」<芳氏の「奈良原覚書」のことだろう>等)にも、久光からの指令のことはまったく書かれていないようだ。あれだけの大事件で、指令を受けての行動ならば、失敗したら罪は一身に負い、成功すれば功は主君に帰すのが臣下の常道であるのに、そうしたことがまったくないのは、久光の政変に関する直接的な指示がなかったからだ、と述べている。

(注)・・・静岡新聞社から2冊の郷土向けの概説書は出しているが、維新・明治関係の単行本としては、『戊辰戦争』(塙書房)、『日本近代国家の形成』(岩波書店)、『明治前期地方史研究』上・下巻(塙書房)、『自由民権・静岡事件』(三一書房)とほぼ専門家向けである(田村貞雄氏の「業績目録」による)。



8・18政変(2)

2009-07-26 10:41:13 | 歴史
 さらに、芳氏が挙げるその具体的な内容を列挙してみよう。
1、 まず信頼できる協力藩を探すこと。
2、 武力で宮門を固め、尊攘夷派を排して勅命を仰ぐこと。
3、 宮中工作は中川宮や近衛家、特に中川宮に依頼する。
 これらは、小松や大久保の助言のもとに、久光の強い意志で決定されたものと思われる、としている。
 またこれらの命令を受けた奈良原はすぐに鹿児島を出発し、8月4日、京都に着き、十数日後にはクーデターに成功。奈良原は2日後の20日、また鹿児島に飛んで帰り、28日に帰り着いて成功を報告する(『旧邦秘録』)。その報告書が「奈良原覚書」である、と結んでいる。
 この芳氏の著書を初めて読んだとき、私は、単に奈良原繁と久光との関係をのみ追及していたので、この久光の奈良原繁への信頼の高さは何なのだろうと驚いたものである。これは繁の寺田屋での働きだけでは説明がつきにくい。やはり、生麦でもそれなりの「活躍」をしたのだろうか、と。
 ただ、どう考えても繁の生麦での「働き」がこれほど久光の気に入られたのか具体的なことは皆目わからなかった。ともかく繁は、この生麦事件以降あたりから久光の懐刀(ふとことがたな)として活躍し始め、以後、幕末から明治にかけて多少距離の開きはあったものの、西南戦争時まで、繁は久光と切っても切れない関係を結んでいくのである。

 さて、芳氏の8・18政変論以後、私が静岡に移り住み、原口清氏宅での明治史談会の集まりに顔を出すようになると、氏は芳氏の説に対して反論していることを知った。正直言って、私は静岡に移って初めて維新史の研究者としての原口氏を知ったが、それほど私は「歴史研究」などには無知だったと同時に、2人の高名な維新史研究者の面識を得ることができたことは幸運だった。そして関心のズレは感じながらも、専門家の「歴史研究」というものがどういうことなのか少しずつ理解するようになってきた。

『島津久光=幕末政治の焦点』8・18政変(1)

2009-07-26 10:34:28 | 歴史
 この文久3年(1863)の最大の政治ショーは、薩摩藩と会津藩が手を結んで、長州藩とかれらの同調者である三条実美を始めとする七卿を都落ちさせたことだった。町田氏の言葉を借りれば、一日にして「攘夷実行慎重派」が長州および朝廷内の「即今破約攘夷派」を追い出したクーデターにほかならない。
 これまでこの政変の研究に関して、私が触れた説および論文等を追ってみよう。まず、芳(かんばし)氏の論文、『文久三年八月十八日政変と島津久光』(明治維新史学会会報)を挙げるべきだろうが、残念ながら、私は読んでいない。ただその結論を『島津久光と明治維新』にも書いているので、それを紹介したい。先に結論をいえば、芳氏はこの政変は久光の指示だったと主張している。

 5月20日の姉小路暗殺事件以来、朝廷内において「攘夷実行慎重派」である薩摩藩の政治活動が封印されると、長州藩をバックにした三条実美らの「即今破約攘夷派」の勢いにますます手がつけられなくなり、天皇身づからの意思も表明できない状況だった。そのため孝明天皇は、久光に上京を促す宸翰を出し、それが中川宮を通して京都留守居の本田親雄に渡され、本田は6月9日、鹿児島に帰り着く。ところが、当時、イギリス艦隊が鹿児島に来航する可能性が高く、久光は国元を離れられない。そして6月末に英国艦隊が来航し、結局、戦争になってしまう。そのニュースが京都に届いたころの7月12日、再度久光の上京を促す天皇の沙汰書と、近衛の建白書その他をもって、奈良原幸五郎(繁)が京都を出発し、7月20日、鹿児島に帰り着いた。だが、まだ戦争直後で藩主・忠義も久光も動きがとれない。
 そこで久光は、戦後処理に多忙で出発できない旨と、ついては「家来奈良原幸五郎(繁)へ委細申し含め候趣もござ候間」と書き、次に「右趣意通り相違し候えば」、久光に何か問題が起きても一門家老の誰かに、多数の家来を添えて上京させるつもりだ、という返書を認めている。(『玉里島津家史料』)
 そして、この奈良幸五郎に言い含めたことというのが、クーデター計画ではなかったか、と芳氏は推測しているのである。

        

『島津久光=幕末政治の焦点』(18)

2009-07-22 10:03:00 | 歴史
 どうもよくわからない。「(捕まってから?)完全に狂ったようになっていた。それ以前も言っていることがはっきりしなかった」という内容は、いわばどうとでも解釈できると思うのだが。
 たとえば、刀を「紛失した」あるいは「盗まれた」ということに対して、田中にとってこれだけでは自害の契機にはならなかったが、捕らえられる以前から、武士として不覚をとったことに焦燥を感じ、冷静に話すことができなかったのだ。また、その「紛失した」あるいは「盗まれた」刀が事件現場に遺棄されていたと告げられと、それがどれほど藩にとって不利益をもたらすことかすぐに理解した田中は、脇差を抜き、「狂ったように」腹を切り、その返す刀で首を刺し自害したのだ(注)、などと。

 私は一素人裁判員として、田中新兵衛が有罪だとする専門家の「調書」に疑問を投げかけたが、それ以外の「調書」に対しては、目を見張る新しい見解で、この朔平門外の変の背後を鮮やかに照射していることは間違いない。そして、この事件を契機とする8・18政変に関しても、納得のいく優れた論であることを否定しない。

 閑話休題。鹿児島では、田中新兵衛など誰も調べている人がいなかったと書いたことがあるが、いったいかれの墓などあるのだろうか。おそらく、鹿児島にはないだろうし、京都にもないような気がする。かれの不可解な行動で窮地に陥った薩摩藩側としては、墓どころか、薩摩藩士だったことすら否定したかっただろうから。実行犯であろうが、なかろうが。
 明治になっても、いや明治になったからこそかもしれないが、公家殺害に関わったという風評は、かれが故郷でも無視された最大の理由だったのだろうか。

(注)・・・切腹という行為には、ふつう介錯人がつく。それは、腹を切るだけではなかなか死ねないからだろう。だから、一人で腹を切り、首まで刺して死ぬということは、「狂った」ようにでもならなければ、不可能のようにも思える。


『島津久光=幕末政治の焦点』(17)

2009-07-20 10:26:08 | 歴史
 もう一つ、田中がとった行動で腑に落ちないことがある。それは、もし田中が実行犯で現場に刀を遺棄してきたのだとすると、前にも言ったように、場数を踏んだ人斬りらしからぬ間抜けさぶりだが、帰ってから何の行動も取らなかったということが不思議なのである。つまり、田中のように単独行動をとれる暗殺者が、不覚をとった行動だったとしてなぜすぐ自刃しなかったのだろうか、と。それこそ藩に影響を及ぼすなどと考える間もなく。それが鎌倉武士の名誉(不名誉)意識をそのまま引き継いだ幕末薩摩藩士の強烈な倫理意識なのだ、と。
 あの寺田屋事件の前(同日の4月23日だが)、永田佐一郎という藩士(什長―10人位の長)が、部下(過激藩士)を引き止められなかったという理由だけで腹を切った行為に対して、私は薩摩藩士のある収斂された倫理性をみた。そして田中も、同じ峻厳な倫理性の持ち主だと思っている。ましてや、藩内における田中の位置がはっきりしないところからすれば、かれ自身いっそう厳しく身を律しようとしたのではないだろうか。
 だから私は、単に宴会で刀を「盗まれ」、何が何だかわからないうちに仁礼とともに奉行所へ連行され、そこでその刀を見せられ、刀が現場から見つかったということ自体が藩に迷惑をかけたとして責任をとったのだ、と考えたこともある。田中が実行犯の一人で、もう言い逃れができなくなったから、と捉えなくとも。
町田氏は事件後の様々な薩摩藩側の反応を挙げた中で、このあとの8・18政変での主役(町田氏説)である高崎正風の言説を取り出して次のように書いている。

 仁礼源之丞はまったくの冤罪であり、田中新兵衛は屠腹したため、疑惑が深まり残念至極である。また、田中は「全ク発狂之様ニ相見候、其巳前(そのいぜん)より言語も不揃」(『尊攘録探索書』(5月29日条)であって、身に覚えがあっての自殺とは思えないと他藩士に語っている。薩摩藩の関与を否定しつつ、田中単独犯行には含みを残した注目すべき内容である。さらに、いかに弁解しても聞き入れられないので、真犯人を捕縛して冤罪を雪(そそ)ぐ必要があるとし、心当たりがあれば知らせて欲しいと懇請した。

 「田中単独犯行には含みを残した注目すべき内容」というのは、『尊攘録探索書』の全文を読んでいないので、よくわからないが、「全ク発狂之様ニ相見候、其巳前より言語も不揃」を指して言っているのだろうか。



『島津久光=幕末政治の焦点』(16)

2009-07-19 07:16:22 | 歴史
 ただもし私がこの事件の裁判員に選ばれたとしたら、この本だけの「検事調書」では、納得できないのである。
 たとえば、この事件に武市も一枚噛んでいて(注1)、黒幕である滋野井(注2)、西四辻(注3)らに田中を紹介した可能性があるなどという史料でも出されたら、私は躊躇なく田中を暗殺実行犯の一人として有罪としたであろう。それがたとえ状況証拠に過ぎないとしても。だが、黒幕と田中の関係がはっきりしない以上、有罪の評決を下せないのである。
 これまで挙げた田中の行動がある程度正しいとすれば、2度目の入京後は、岡田以蔵と一緒に暗殺をしたという記録も風聞もなさそうだし、ましてや、かれらに指示を与えていた武市が4月に帰国していたとすれば、武市は姉小路の「変節」ぶりも知らなかっただろう。それゆえ、武市が絡んでいたとは言えそうもない。
 では、一体だれが田中と朝廷急進派を結びつけたのだろうか。仁礼源之丞だろうか。はたまた、田中を気遣って名前を変えた藤井良節だろうか。
 慶応3年11月15日の龍馬暗殺に薩摩藩が関わったという説があるそうだが、それ以上にこの事件で薩摩藩が関わったということはありそうもない。田中が嫌疑をかけられただけで、薩摩藩は,乾門の守衛を解かれ、藩士の九門出入りも禁じられ、政治活動を封印されたのだから。それだけならまだしも、朝敵という烙印を押されかねなかったのだから。

 (注1)・・・武市は、この年4月に帰国しているらしいから、この線はありえないだろう。
(注2)・・・天保14年(1843)生まれで、このとき20歳。事件後、慶応4年(1868)1月、相楽総三を隊長とする赤報隊が結成されると、綾小路俊実と共に盟主として擁立された。維新後は甲府県知事等を歴任したらしい。
(注3)・・・天保9年(1838)生まれで、このとき25歳。事件後の慶応2年(1866)、中御門経之らと国事犯赦免等を求めた二十二卿列参に加わり蟄居を命じられる。赦免後、王政復古の際に参与助役に任じられ、明治元年(1868)、東征大総督府参謀として活躍する。町田氏によれば、二人とも筋金入りの過激廷臣であったという。


『島津久光=幕末政治の焦点』(15)

2009-07-18 11:42:51 | 歴史
 今まで姉小路暗殺事件は、何となく、薩摩藩を貶めるために田中新兵衛という人斬りが利用された事件のように考えられ、それ以上誰も踏み込むことはなかった。幕末政治史の全体では、一個の人斬りの有罪・無罪など大した問題ではないからだ。いや、政治の流れに絡んでこない人斬りの運命など考えるにも値しない、と。
 確かにそうだろう。複雑な「政治」の動きをより正確に把握するには、過去の多くの研究者の業績も踏まえ、旧出、新出に限らず、膨大な史料に目を通さなければなければ、前へ進めないのだから。おまけに、未だに素性のわからない、正式な薩摩藩士として認められているのかどうかもわからないような人物に目を向け、それを論じるなど、専門の研究者にとって危険この上ない試みに違いない。
 町田氏も、そのあたりは重々承知の上だろう。ただ文久3年(1863)の一番大きな政治的事件である8・18政変にとって、この朔平門外で暗殺された姉小路事件を無視することは出来ないし、いや町田氏の場合はその逆で、8・18政変を調べていくうちにこの暗殺事件の重要性に気がついたのだろう。なぜなら、8・18政変の契機の一つとなったのがほかならぬこの暗殺事件だったのだから。
 ともかく、町田氏の姉小路暗殺事件に関する考察をもう一度整理してみる。
まず、単独に田中新兵衛が3人の実行犯の1人に間違いないだろう(注)と推理した。次に、姉小路の「即今破約攘夷派」から「攘夷実行慎重派」への「変節」ぶりを、勝義邦(海舟)の日記等の第一次史料を踏まえて論証した。さらに、その「変節」ぶりに危機感を抱いた「即今破約攘夷派」は、滋野井公寿と西四辻公業という二人の下級公家を黒幕とする姉小路暗殺チーム(?!)をつくり、二人の公家が、実行犯として田中新兵衛と他の二人(特定していないが)を「巻き込んだ」と。
 私が長々と書いてきた最後のところはともかく、町田氏の論証は、今まで誰も踏み込まなかった(と思うが)から新鮮だったし、かつ充分な説得力もあり、最後も紙数の都合で割愛した可能性も考慮すれば、かれの結論通りかもしれない。

(注)・・・(4)で、箇条書きにしてまとめた。