海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(48)

2010-08-12 12:18:22 | 歴史
 何はともあれ、『原田直哉覚書』に収められた野添篤という蒲生士族の従軍日記を紐解いていくことで、その信憑性を探ってみよう。
 まず最初に、西郷、桐野、篠原らが、県令大山綱良にいわば政府へお伺いの筋があり、鹿児島を出発することを届け出たと、蒲生戸長である辺見十郎太より聞いたとある。そして、自分(野添篤)は、出兵の2日前に私学校に入った、と書いたあと、明治10年丁丑(ていちゅう)2月13日という日付のある日記が始まる。この日は、旧暦の正月元日で、しばらく、この旧暦も併記されている。
 ところで以前、14、15日(旧正月2,3日)と大雪が降ったと書いたが、この日記では、元日も5、6寸(10数センチ)降ったようだ。その中を鹿児島に向かい、その日は城下の若宮学校内に泊った。
 翌日の14日は、練兵場に行き、武器などの検閲を受けたあと、第一大隊三番小隊に組み込まれたとある。大隊長は、もちろん篠原国幹だが、小隊長は浅江直之進だった。もっとも、かれがのちに戸長役場に提出した「帰郷書」には、浅江直之丞と書かれている。私には、これを写した原田直哉氏の間違いなのか野添篤氏の間違いなのかわからない。原田氏は、ペンを使って写しているのだが、当然、「くずし字」で、中には私の読めない字もあるが、これは明らかに「進」と「丞」であることを断っておく。
 さて、2月15日は、一番大隊の出発の日である。西目回り、つまり通常の参勤交代で通る街道を、阿久根、出水と泊りながら、肥後の水俣には、18日に着いている。その後、22日、前夜から評議が続いていたが、午前3時に川尻を出発し、熊本城近くの谷山口から攻撃に入り、午前8時頃から本格的な銃戦となったと、とある。
 こうして熊本城攻撃が始まった。が、ご承知の通り、結局、これを奪えず、一番大隊長の篠原は、早くも3月4日の吉次峠の戦いで命を落としている。この日の野添日記にもそのことが書かれており、また蒲生士族の戦死者名も記録している。土橋庄右衛門、瀬之口厚謙、野村善右衛門、野村新五兵衛の4名であった。これは、昭和版、平成版の郷土誌にも戦死者名簿に名前はあるが、野村善右衛門だけは、吉次峠ではなく、田原坂で戦死したことになっている。ただ、吉次峠で戦死したことになっている3名も、戦死した日付はバラバラで、土橋庄右衛門は正月7日(新暦の2月19日)、野村新五兵衛は3月25日(新暦)、瀬之口厚謙だけが、3月4日(旧暦1月20日)という日付になっている。
 土橋庄右衛門の正月7日は、戦闘前の水俣を出発した日なのだから、何かの間違いだとしても、どちらがより正確なことを言っているのかよくわからない。
 一つだけ野添日記に肩をもつとすれば、その日、野村新五兵衛の死骸だけが不明だったと書いていることだ。ひょっとすると、その死骸が3月25日頃確認され、郷土誌ではその日を戦死した日としたのかもしれない。