以上、奈良原繁の血を分けた子孫は、嫁に行った繁の長女の家系と幸彦の長女の家系だけで、男系の直系はすべて絶えている、と考えられるが、繁の長女の家系は確認していないので、今も続いているかどうかはよくわからない。
ただ、これで終わりだとしたら、何も問題なくすべてすっきりしているといえるのだが、奈良原繁の孫だといってはばからない人物がいたのである。
ブログの(11回)でも触れたが、綱淵謙錠が会った奈良原貢(みつぐ)氏のことである。
私は、綱淵が雑誌で発表した貢氏の「家伝」や平成7年度の読売新聞での10段抜きのインタビュー記事(注1)を読む限り、かれの周囲は盛り上がっているのかと思いきや、これが妙に冷ややかなので、最初ひどく困惑した。
たとえば、この事件を調べ出してからすぐ読んだ吉村昭の『生麦事件』(平成10年)などでは、貢氏の「家伝」など全く相手にせずに定説にそった「事件」(注2)を描いていたし、貢氏の縁戚の人物なども貢氏の「家伝」など信じていなかったのである。それゆえ、その後しばらくして会いに出かけた横浜の浅海氏の貢氏に対する反応(22回)なども何となく理解できたのである。
さらに、奈良原繁の除籍謄本を早くから入手していた平木國夫氏なども、あからさまには言わないまでも、貢氏をいわばペテン師扱いをしているほどだ。
浅海氏も、当然、繁の戸籍に載っていないことなども知っていただろうから、吉村昭氏が取材で浅海氏を訪れたときには、そのことも話しただろう。記録された歴史事実を重んじる氏は、戸籍にもない子孫の曖昧な「家伝」を信じる気にはなれなかったのかもしれない。
注1・・・貢氏のインタビュー記事は、昭和59年9月のサンケイ新聞・神奈川版にもあり、また同新聞には3回にわたる特集記事も掲載されている。
注2・・・吉村氏は定説どおりに描いたのはもちろん、事件当日、保土ヶ谷に泊まった小松帯刀が、江戸の薩摩藩邸に喜左衛門が斬ったという手紙を送ったと書いている。私がその典拠を吉村氏に問い合わせたところ、失念したので、鹿児島取材で世話になった黎明館の学芸員に尋ねてもらいたいという返事があった。しかしながら、その人物に問い合わせても、よくわからないという返事だった。その後、いくら探しても問題の書簡は見つからないので、この部分は、氏の創作だと思う。
ただ、これで終わりだとしたら、何も問題なくすべてすっきりしているといえるのだが、奈良原繁の孫だといってはばからない人物がいたのである。
ブログの(11回)でも触れたが、綱淵謙錠が会った奈良原貢(みつぐ)氏のことである。
私は、綱淵が雑誌で発表した貢氏の「家伝」や平成7年度の読売新聞での10段抜きのインタビュー記事(注1)を読む限り、かれの周囲は盛り上がっているのかと思いきや、これが妙に冷ややかなので、最初ひどく困惑した。
たとえば、この事件を調べ出してからすぐ読んだ吉村昭の『生麦事件』(平成10年)などでは、貢氏の「家伝」など全く相手にせずに定説にそった「事件」(注2)を描いていたし、貢氏の縁戚の人物なども貢氏の「家伝」など信じていなかったのである。それゆえ、その後しばらくして会いに出かけた横浜の浅海氏の貢氏に対する反応(22回)なども何となく理解できたのである。
さらに、奈良原繁の除籍謄本を早くから入手していた平木國夫氏なども、あからさまには言わないまでも、貢氏をいわばペテン師扱いをしているほどだ。
浅海氏も、当然、繁の戸籍に載っていないことなども知っていただろうから、吉村昭氏が取材で浅海氏を訪れたときには、そのことも話しただろう。記録された歴史事実を重んじる氏は、戸籍にもない子孫の曖昧な「家伝」を信じる気にはなれなかったのかもしれない。
注1・・・貢氏のインタビュー記事は、昭和59年9月のサンケイ新聞・神奈川版にもあり、また同新聞には3回にわたる特集記事も掲載されている。
注2・・・吉村氏は定説どおりに描いたのはもちろん、事件当日、保土ヶ谷に泊まった小松帯刀が、江戸の薩摩藩邸に喜左衛門が斬ったという手紙を送ったと書いている。私がその典拠を吉村氏に問い合わせたところ、失念したので、鹿児島取材で世話になった黎明館の学芸員に尋ねてもらいたいという返事があった。しかしながら、その人物に問い合わせても、よくわからないという返事だった。その後、いくら探しても問題の書簡は見つからないので、この部分は、氏の創作だと思う。