海鳴記

歴史一般

肩ふりサロン(45)

2008-07-31 14:18:13 | Weblog
 前回で、「新釈生麦事件物語」出版後の経緯を述べてきたが、一区切りをつけたと思っているので、再度、「肩ふりサロン」に戻ろうと思う。
 生麦事件で、英国人・リチャードソンを最初に斬りつけたのは、定説上の奈良原喜左衛門ではなく、弟の繁だよ、といい続けるのに少々疲れてきたのも事実である。また、鹿児島を離れたということがある種の情熱を奪っていったのかもしれない。
 ところで、鹿児島も港町だった。「だった」ではなく、昔から港町なのであるが、たとえば、今、私が住んでいる清水という港町とは、かなり雰囲気が違っている。鹿児島は「人」の移動する港という感じなのだが、清水は「物」が出入りしている港なのである。

 地図を見ればわかる通り、鹿児島から沖縄まで、それからまた台湾までと点々と島が存在する。天(あめ)のヌボコで小さな泥を垂らしたように。
 だから、鹿児島港の主要な埠頭には、それぞれの島や諸島に向かうフェリーや貨客船やホーバークラフトが占めていて、貨物埠頭は隅に追いやられているのである。ましてや、清水港にあるような巨大なガントリークレーン(注)を備えたコンテナ埠頭は、記憶にない。
 私は、人が主体の鹿児島のような港のほうが、情感があって好きだが、鹿児島の人たちは、自分たちが「港町」に住んでいるという意識はなかったように思える。つまり、港や海と一体化しているという感じがしないのだ。どうも街の対岸にある噴火山(桜島)の存在が目立ちすぎて、それを隠してしまっていたのかもしれない。
 一方、清水港は、現在、かつての海水浴場を埋め立てて、船長300メートルを超える巨大なコンテナ船が出入りする埠頭が主役になり、30年以上も前の、一般の貨物船に混じって、マグロ船や鰹船も頻繁に出入りするような賑やかさはなくなっている。その分、街の通りから一番近い埠頭は、親水公園のように整備され、ヨットハーバーや港内巡りの観光船や伊豆半島まで往復するフェリーの船着場になっている。なるほど、かつてから比べれば随分港が近くなったように思われるが、本来、港の主役の一人である外国船の船員の姿はどこに行ったのだろうか。
 30年以上も前は、外国船が着岸している岸壁に自由に出入りし、外国船の船員たちと身振り手振りでコミュニケーションをとろうとしたものだが、今はもうそこへは自由に往き来できなくなってしまっている。

(注)・・・コンテナ船は、荷役の省力化ためか合理性のためか、船自体には荷役設備はない。その代わり、岸壁に巨大なクレーンを備え付けなければ、荷の積み下ろしはできないのである。その岸壁にある巨大クレーンをガントリークレーンという。港にある最大の恐竜化石のように見える。


「生麦事件」後日譚(8)-(52)

2008-07-30 08:41:19 | 歴史
           <昭和3年(1928)>
 この年発行の『薩藩海軍史』中巻で、奈良原
喜左衛門が最初にリチャードソンに斬りつけた
人物として特定される。出典として『海江田
信義実歴史伝及直話』と『海江田信義口演並
実歴史伝』を挙げているが、そういう本は存在
しない。
               <昭和14年(1939)>
 この年発行の『鹿児島県史』第3巻で、奈良原
喜左衛門単独説が定着する。出典は『薩藩海軍史』
である。
               <昭和33年(1958)>
                 この年発行の『指宿市誌』の参考資料として、沢田延音という史家が戦前に採録した記録が翻刻されている。それには、生麦事件当時の行列で久光の駕籠を担いでいた兄弟の話として、奈良原幸五郎(繁)が人と馬を一緒に斬ったとある。(『指宿郷土資料一』)(第二次史料)
              
              <昭和48年(1973)>
 喜左衛門の孫と称する山口政雄という人物
が『系図の履歴』という祖父喜左衛門の事歴
を連ねた本を自費出版する。しかし、喜左衛門
の資料がほとんどないので、脈絡のない「幕末
史」となっている。
              
             <昭和59年(1984)>
                    繁の孫と称する奈良原貢という人物が、リチャードソン殺害したのは、自分の祖父の奈良原繁だと、8月22日付『産経新聞』で初めて公表。9月9日付『産経新聞』インタビューでも大々的に応じている。
              
             <平成9年(1997)>
                   奈良原貢氏、5月11日付『読売新聞』でも、祖父繁の犯行という。兄喜左衛門は繁の犠牲になった、とインタビューに応える。

 3回にわたって、いわば通史的に「生麦事件」関係史料を提示してきたが、少ししは整理されてわかりやすくなっただろうか。また、新しい史料等が発見されれば、これに追加していくつもりである。これを読んだ人で何か別な史料等をお持ちの方は、ご連絡くだされば幸いです。また、ご批判も受けるつもりです。以上。

「生麦事件」後日譚(7)-(51)

2008-07-29 10:08:12 | 歴史
          <文久3年(1863)7月2日~>
   「薩英戦争」
喜左衛門は、海江田らと野菜売りなど    奈良原幸五郎は京都に滞在。
に化けて、英国艦に乗り込むが襲撃に
失敗。
             
          <文久3年8月18日>
             「八.一八クーデタ」幸五郎、高崎佐太郎らと暗躍。
         
        <元治元年(1864)7月19日~>
                 「禁門の変」
喜左衛門、出水隊の物主(隊長)として
出陣。      
         <慶応元年(1865)閏5月18日>
奈良原喜左衛門死去。京都・東福寺塔頭(たっちゅう)・即宗院
          
           <明治24年(1891)9月14日>
 海江田信義述・西河弥編『維新前後実歴史伝』には、「生麦事件」について喜左衛門の名前は勿論、自分が介錯したなどとはどこにも書いていない。
            
            <明治25年12月2日>
  この日の『史談会速記録』(「薩英戦争」の章)で、市来四郎は、英国人リチャードソンを殺したのは「奈良原繁が兄奈良原喜左衛門ガ始メ手ヲ下シタノデ、夫レカラ弟モ一緒ニ居リマシテ、手助ケイタシタソフデス、海江田信義モ其ノ一列ニ居ツテ、手ヲ下シタ面々デゴザリマス」という。(第二次史料)
             
             <明治25年12月12日>
 この日の『史談会速記録』(「生麦事件」の章)で、市来四郎は生麦事件の犯人は岡野新助ではなく、「奈良原喜左衛門等3、4名のもの」及び「奈良原繁」は助太刀したと言う。(第二次史料)
              
              <明治29年(1896)>
 この年発行の雑誌『太陽』二巻・二十一号に、春山育次郎という人物が書いた「生麦駅」というエッセイが掲載されている。そこには、喜左衛門が病気のために京都で亡くなったようなことは書いているが、海江田が介錯したなどとは書いていない。また、(子爵の此処(ここ)に来りし時、喜左衛門氏の弟にて当時幸五郎といへりし今の沖縄県知事奈良原男爵、家兄が外人を斫れりしよしきゝて来れり、外人はいづこにあるぞとて忙(せ)はしく尋ねゐたりしを
始めとして、此間子爵の話はなほ多かりけれど、憚ることあれば、省きてここにはしるさず)という割注を入れている。

 以上が、生麦事件の翌年の出来事から、明治29年までの事件関係(第二次)史料。



「生麦事件」後日譚(6)-(50)

2008-07-28 14:10:11 | 歴史
          生麦事件関係資料編年史
兄・喜左衛門              弟・喜八郎(幸五郎・繁) 
                   「寺田屋事件」
                 <文久2年(1862)4月23日>
                    奈良原喜八郎(幸五郎・繁)等が関係
「生麦事件」
              <文久2年8月21日>
定説・リチャードソンを最初に斬りつけ
致命傷を負わせた奈良原喜左衛門で、介
錯をしたのが海江田信義。 
(『鹿児島県史』、『神奈川県史』)               

        「宮里孫八郎書簡」
              <文久2年閏8月8日付>
 生麦事件から20日以内の、一薩摩藩士が
国元の両親に宛てた手紙。斬りつけた犯人
として、喜左衛門の名前が出てくる。
しかし、曖昧な表現で解釈が分かれる。
それに、英国人がアメリカ人となっている。
(『鹿児島県史料・旧記雑録追録八』・・・第一次史料)              
         「大久保利通書簡」
              <文久2年閏8月15日付>
 佐土原藩側役・能勢直陳に宛てた大久保書簡では、幕府からどんなに厳しい追及があろうと、犯人は、足軽・岡野新助で通すように言明していると書いている。
         
          「那須信吾書簡」 
             <文久2年10月7日付>
                    兄・浜田金治宛てに出された手紙の中に、「是れに出合い候人数(外国人を斬りつけたのは)、海江田、奈良原喜左衛門が弟・喜八郎などの働きと承り候」とある。 当時、那須は、同じく、土佐藩参政・吉田東洋を暗殺した大石団蔵、安岡嘉助とともに薩摩藩邸に匿われており、内部情報として確証が高い。維新史家の原口清氏は、書簡内容も正確だし、喜左衛門と喜八郎の混同もなく極めて信憑性のある史料だとしている。(『那須信吾書簡一』・・・第一次史料)
             <文久2年10月5日~15日>
 幕府の風説書である玉虫左太夫編「薩州始末二」(『官武通紀巻六』)に、島津三郎(久光)家来の「林喜左衛門」という者が、生麦村で夷人を殺害したと書いている。

 以上が生麦事件が起きた文久2年内の史料等。

「新釈生麦事件物語」後日譚(5)-(49)

2008-07-27 09:40:19 | 歴史
 奈良原吉次郎というのは、奈良原繁の子供である吉之助氏の養い親である奈良原市郎・ミツ夫妻の長男で、明治18年、屯田兵として北海道に渡ったときには奈良原家の戸主として登録されている。『奈良原家一族祭日記録』によれば、空知支庁や営林署に奉職後、自力で林業を営むが失敗したようだ。大正2年8月16日、札幌の病院で亡くなっている。45歳だった。そうだとすると、明治40年付の後者の手紙は、林業を営んで四苦八苦しているときのことだったかもしれない。その頃、吉之助氏は31歳で、のち国鉄に組み込まれる鉄道会社に勤めだして数年も経っていなかった。養い親のミツ(市郎は明治28年に死亡)は、明治41年、吉之助氏が住んでいた国鉄の官舎で亡くなっているようだが、実子で長男の吉次郎は面倒をみる余裕がなかった。吉之助氏の孫の証言によれば、吉之助氏は誰に対しても面倒見がよく、かなり出世した晩年まで借家住まいだったという。
 ところで、ややプライベート過ぎて本には書かなかったが、養い親家族が困窮していたにもかかわらず、吉之助氏は、明治35年、内地の私立学校の中等科を卒業し、その後一年ほど正則英語学校で英語を学んでいる。これらの学費は誰が出したのか。K氏は少なくとも養い親家族にそんな余裕はなかったとしているが、私は、当然沖縄県知事だった繁が出していたのだと思う。
 これら二通の書簡が、そのことを保証しないとしても、繁と養い親家族との距離感などは感じとれると思う。少なくとも、吉次郎家と親戚―本当の親戚なら、繁がわざわざ山田有斌氏を親戚だなどとことわることもあるまいーでもないのに、ずいぶん気を遣っていることは伝わってくるだろう。

 私は、これからも私の推測を裏付ける資料が出てくることを疑っていないし、去年も繁書簡一通が鹿児島大学の丹羽謙治氏のもとで見つかり、それを解読して送ってもらっている。生麦事件とは関係なかったとしても(寺田屋事件の前に自害した人物の子孫を探しているという内容だった)、まだまだ史料は出てくるに違いない。嫡男の三次のことを書いた平木国夫氏のもとにも、伊藤音次郎が受け継いだ三次や娘の緑子の遺品があるという。そこにも何か歴史の闇を照らすものが眠っているかもしれない。

 次回は、生麦事件当時の史料を整理してみよう。

「新釈生麦事件物語」後日譚(4)-(48)

2008-07-26 12:13:32 | 歴史
 前回のような史料を提供されても、歴史研究者以外は読む気もしないだろうから、以下、本文のみ読み下すことにする。もちろん、これも読み飛ばしても構わない。書簡は公刊されたものではないので、研究者へ向けて公開しているのだから。目を通してくれるかどうかわからないが。

なおなお拙官にも両三日中帰県そうろうあいだ(両3日中にも沖縄へ帰るので)、この節こそ御用の時は沖縄へお申し遣し成されたくそうろう(沖縄のほうへお手紙ください)
             明治34年本文
本年3月10日の貴翰今日(4月3日)相届き当分上京致しおりそうろうところ(沖縄へ余りまた便りきそうろうあいだ大いに時日を費やし申しそうろう=沖縄宛の手紙が東京へ送られてきたので、たいへん時間がかかった)一先ず拝読致しそうろうところ、なおご安康ご奉職の由、珍重たてまつりそうろう。さて、ご身上の義につきお申し遣わしのおもむき事情承知致しそうろう拠(?)お察し申しあげそうろうにつき 山田有斌氏へ宛て(拙者の親類にてこれあり)依頼致し遣わしおきそうろうあいだ御直にもご面談これありたく何分遠隔のことにて充分のことは届き兼ねそうらえども応分のお世話は申しあぐべくこの段貴答まで 一筆かくのごとく御座そうろう 以上

             明治40年本文
先般来両度のご書面あい届きつつがなくご披見致しそうろうところ、おそろいご安康拝掌奉りそうろう ここもとにおいても皆異なくまかりありそうろうあいだ、さようごほうりょ(?)つかわされたくそうろう。さて、先般川島(河島醇北海道長官のこと)氏転住につきお申し遣わしあいなりそうろうぎは、ほかに同氏へ要用これあり書状差出そうろう(に)つきご依頼の旨趣申し遣わしそうろうあいだ、さようお含みおきくだされたく早速お知らせ申しあぐべくそうろう。このところここもと年内大風害のため視察北條侍従殿ご派遣中かれこれ遅延(?)に及びそうろうだんご推怒遣わされたく この旨一筆貴意を得奉りそうろう 以上

「新釈生麦事件物語」後日譚(3)-(47)奈良原繁書簡(1)

2008-07-26 10:17:29 | 歴史
明治三十四年四月
       北海道石狩国空知分監官舎第十一ノ二号
          奈良原吉次郎殿

       東京麹町区飯田町三丁目十三番地
           奈良原繁        

 尚々拙官ニモ両三日中帰縣候間此節社御用之時ハ沖縄江御申遣被成度候(尚々書部分)
本年三月十日之貴翰今日(四月三日)相届キ当分致上京居候処(割書き部分:沖縄江余リ亦便リ来候間大ニ時日ヲ費シ申候)一先致拝読候處尚御安康御奉職之由奉珍重候扨御身上之儀ニ付御申遣之趣致承知事情候無拠御察シ申上候ニ付山田有斌氏江宛テ(割書き:拙者之親類ニテ有之)致依頼遣置候間御直ニモ御面談有之度何分遠隔(?)之事ニ而充分之事者(ハ)届キ兼候得共應分之御世話者可申上此段貴答マテ一筆如斯御座候 以上
                   四月三日
                          奈良原繁
    奈良原吉次郎殿


            明治四十年(!?)
       北海道天塩国上川郡名寄市街
          奈良原吉次郎殿
                貴(??)

            南琉(琉球)
          奈良原繁

先般来両度之御書面相届恙致披見候處御曽路ヒ(おそろい)御安康奉拝掌候於爰元ニモ皆無異罷在候間左様御放慮(念?)被遣度候扨先般川島氏転住ニ付御申遣相成候儀者外ニ同氏江要用有之書状差出候付御依頼之旨趣申遣置候間左様御含置被下度早速御報可申上候之
處爰元年内大風害之為視察北條侍従殿御派遣中彼是及達(遅?)延ニ候段御推怒被遣度
此旨一筆奉得貴意候 以上
           二月十五日  奈良原繁
           奈良原吉次郎殿


「新釈生麦事件物語」後日譚(2)-(46)

2008-07-25 13:34:15 | 歴史
 前回、かなり厳しい結論で終わったが、まだまだ言い足りない気がしている。なぜなら、歴史上の大事件の犯人が、いわばでっち上げられたまま、140年以上も経過し、それを単に関係者の子孫のとるに足らない「家伝」として無視し続けるのは、過去に対する冒涜であり、不遜な態度である。歴史家というのは、それを戒めるために存在するのではないか。
 「口碑」など歴史学の対象にならないし、歴史学の史料としても使えないというのなら、それはそれでいい。ただ、どんな学問も「疑い」から発するのだ。つまり、ものごとを疑うことから「学問」は始まるのではないか。
 子孫氏の、歴史学の素養もない人物の発言だから無視しても構わない、という倣岸な態度の学者は、どちらにしても大した研究者ではないから除くとしても、あれだけ新聞でも取り上げられた子孫氏の記事に対して、
 「ほほう、それなら、当時の史料に当たってみるか」
 という柔軟な対応をする歴史家はいなかったのだろうか。残念ながら、私の知る限りそういう真摯な研究者を見出せなかった。少なくとも、鹿児島では。
もっとも、いそうもなかったからこそ、素人の私が飛び込み始めたともいえるのだが。そして始めは、奈良原繁の孫だと名乗る奈良原貢氏が無視されていることに同情して。

 ところで、今回は、44回で中断した「すべては生麦事件から」の続きから始める気はないし、もうする気もない。というのは、奈良原貢氏の「家伝」の否定的な論証は、もうしたくないのだ。もしどうしても知りたいという方は、図書館から借りるなり(県立図書館レベルなら、どこからでも借りられると思う)、アマゾンで入手してもらいたい。それが高いというのなら、文春に再版を要求してもらいたい。
 とにかく、次回は、沖縄県知事・奈良原繁から吉之助氏(貢氏の父親)の養い親である市郎氏の息子に宛てた手紙を公開したいと思う。

ご意見・ご感想・・・shounai@marine.odn.ne.jp

「新釈生麦事件物語」後日譚(1)-(45)

2008-07-24 12:58:53 | 歴史
 さて、前回で「生麦事件」(44回)と「肩ふりサロン」(44回)の回数がちょうど同じになったので、今回どうしようか迷ったが、迷ったら最初に戻ろう、という鉄則に従って、「生麦事件」の後日譚にする。
 遅かれ早かれ歴史学会も注目せざるをえないと信じているが、歴史学者にとっては定説上の犯人の名前が変るだけで、維新史の大勢には何の変化もないというのなら、逆に早く結論づけて変えてもらいたいものだ。
 とにかく、「鹿児島県史全8巻」(注1)とそれをそのまま踏襲している「神奈川県史」(通史編、資料編等を含めて全20巻)をそのまま「信用」して、生麦事件を引用している歴史作家や歴史・時代小説家は跡を絶たない。もちろん、かれらに非があるわけではない。かれらは、歴史学者の書いた「大説」を信用して、それをかれらの「小説」に使っているだけなのだから。
 確かに、私が「那須信吾の手紙」の件で神奈川新聞社を訪れたとき、若い記者氏が冷ややかに、「なぜ生麦事件の犯人のことがそんなに重大なことなのですか」と言ってきたが、一般的にもその程度の反応だろう。
 だが、歴史学会(学界?)では、佐久間象山の象山が、「ぞうざん」と読むのか「しょうざん」と読むのか重大な問題になるのだ。「生麦事件」のような維新史の中でも画期的な事件の犯人が違っていたか否かなどという問題は、それに比べて重大ではないというのだろうか。ましてや、歴史など興味もない人間にとっても、「冤罪事件」となれば、簡単に見過ごすことができないのではないだろうか。もし、それが歴史上のことだからという理由でどうでもいいというのなら、日本人に来年から施行される裁判員制度の裁判員になる資格はないように思える。


(注1)・・・昭和10年代の発行だが、戦後も権威ある本として普及(復刻版もある)している。研究者が、県に「皇国史観に基づいた戦前の県史を廃して新しい県史を」と願い出ても、背後に頭の固いネイティブの郷土史研究者たちがいて、県史は戦前のでいい、としているらしい。ただ、さすがに古代史編と現代史編は、新しく出す予定だという。また、毎年二冊県史料集を発行していて、既に60数巻になっているが、これはあくまでも資料編であって、通史編(戦前の発行のままは鹿児島ぐらいしかないらしい)ではない。ちなみに、私が鹿児島で古本屋を始めた頃の県史全8巻の古書価が(15万~)25万円だった。

肩ふりサロン(44)

2008-07-23 13:54:12 | Weblog
 この事件には一種の後日譚(ごじつたん)がある。
 Kが川に落ちたことを家に報せに行ったあと、母親はすぐ叔父の家に、叔父の家から長兄の家へと瞬く間に話が伝わった。ちょうどその頃、長兄の伯父の家に勤めていたKの父親が、トラックで他の従業員らとともに下流にある川原の砂利採取に出掛けていたときであり、その場所は、発電所からの川(電気川といっていた)と最上川の支流(寒河江川)がぶつかるところからそれほど遠くない対岸だった。だから、Kの父親がそこにいると知っていた人なら、対岸からそれを知らせても事情は察せられただろう。Kの父親らは、そのまた下流に架かっている橋(画龍橋といった)にトラックで駆けつけ、その橋の上からKが流れてくるのを見張っていたというのだ。そして、その橋の下を流れてくるKを見つけると、父親は10メートル(子供にはそれ以上に思われた)もある橋の上から飛び込み、息子を救い上げた。もうすでに冷たくなってはいたが。

 私の記憶では、この事件の季節が混乱している。私の脳裏には、Kが渡ろうとしたときの板が濡れている映像が焼きついているので、なぜか梅雨の季節だったという記憶がある。また、周囲に雪の映像も浮かばないのだ。また、もし冬で雪が積もっていたら、子供がそう簡単にその板のところまで辿りつけない場所でもあった。しかしながら、Kの葬式の準備のためかどうかわからないが、長兄が押す箱橇(ぞり)に乗ってお寺に使いに行った記憶もあるのである。
 過去の記憶など、たとえどんな強烈なものでも曖昧なものである。

 この「身代わり」という言葉で、前々回あたりから連想していたことがある。私が追及してきた「生麦事件」関係者の子孫である奈良原貢氏の「身代わり説」である。あの兄の喜左衛門が弟の喜八郎(幸五郎・繁)の「身代わり」として切腹したという話のことである。私は、拙著「新釈生麦事件物語」の中ではもちろん、出版後、歴史作家の桐野作人氏より送られてきた喜八郎が犯人だったというほぼ決定的な史料を含めて、誰も相手にしなかった貢氏の「家伝」を私は「真実」だと物語ってきた。だが、笛吹けど誰も踊らないので疲れてしまい、ブログは途中でストップしたままだった。
 どうしようか。