海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(38)

2010-08-02 11:11:04 | 歴史
 それでは、この旧暦の5月12日(6月22日)というのはどういう日だったのかという前に、まず黒江らの行動記録を見てみよう。
 前々回触れたように、黒江は、別府晋介の前衛連合大隊・第七大隊二番小隊長として、また、のちに黒江と行動をともにする川崎吉兵衛、川崎助左衛門らは、それぞれ第七大隊五番、七番小隊の隊長として先発していた。それが、4月末に人吉へ退却したあと、隊の全面的編制替のため、黒江は行進十番中隊の中隊長、両川崎は、その隊の小隊長となっている。そして、かれらは薩軍人吉撤退前の5月初めに鹿児島に入り、5月8日から、帖佐、重冨を守備していた。
 それから6月22日まで、昭和版『姶良町郷土誌』には具体的な行動記録は何も書かれていないが、この日、官軍の第四旅団、別働第一および第三旅団が、艦船で海側から重冨に上陸し、そこで薩軍と戦闘を交えたとあるのである。そして、行進十番中隊を率いていた黒江豊彦らもこれに出撃したが、「利あらず」と退却している。
だから、重冨に住んでいた女の子にとって、まだまだ地方では当たり前だった旧暦表示の5月12日が、生涯忘れられない日となったのである。戦争の恐ろしさを象徴する日として。
その結果、本当は3月の半ばに辺見や淵辺らによって募兵され、4月3日に出水の上場で斬殺された岩爪隆助(注)もすべてこの日に集約されて記憶されたのだろう。だが、他の青駕籠に乗せられたと思われる別府量輔、中村兼武、山口一斉、高山一角、黒石川仁助らはどうしたのだろう。なぜ岩爪隆助だけが記憶され、他の被斬殺者は記憶されなかったのだろう。
 実際、本当のところはよくわからない。ただ、岩爪隆助の名前だけが記憶に残っていたとすれば、かれは医師として娘の家だった溝口藤十郎家に出入りしていたのではないか、と考えられるだけだ。つまり、溝口家では、この医師の名前が頻繁に語られ、のちのちまでこの女の子の記憶に強烈に焼きついたのではないか、と。
 もっとも、この女の子自身は、父親が殺されず、その代わり岩爪隆助ドンが殺されたことに「まあ、よかったわ」と言っているようなのだが、養女として貰われた隣村の山田家でも何度も耳にしていた可能性はある。

(注)・・・平成版『姶良町郷土誌』では、詳細はわからないとして公的には認めていない。だが、あの出水上場に建てられた墓にはかれの名前はしっかり刻まれている。