要するに、確かに現在散見される第一次史料の中でもっとも事件に近い資料に違いないのですが、これをもって奈良原喜左衛門がリチャードソンに斬りつけた、あるいは「犯人」として断定する証拠にはならないのではないか、ということなのです」
左門委員長;「わかりました。では、これに対して、委員の方で何かご質問等がありましたら、ご発言ください」
A委員;「初歩的質問で申し訳ございませんが、この①史料が現在の奈良原喜左衛門の「犯人」説になっているということでしょうか」
長岡;「いいえ、そういうわけではありません。この史料がいつ頃出てきたのかわかりませんが、公刊されたのは、昭和53年(1978)で、鹿児島県が発行している『鹿児島県史料旧記雑録追録第八巻』に収めてあります。奈良原喜左衛門が事件の「犯人」として定着してしまったのは、昭和14年(1939)の『鹿児島縣史第三巻』からとなります。ですから、それまでは、この史料を元に喜左衛門が「犯人」とされていったわけではありません」
D委員;「そうだとしますと、なぜあなたはこの史料を持ち出してきたのでしょうか。あなたがもし喜左衛門が「犯人」でないと主張するなら、この史料は逆にあなたにとって不利な証拠にならないでしょうか」
長岡;「確かにそういう点もあります。しかしながら、私がこの史料を持ち出したのは、今までこういう史料の存在すら誰も取り上げたことがなかったからです。正直言いますと、この第一次史料は、鹿児島在住の維新史研究者である芳(かんばし)即正(のりまさ)氏が指摘してくれたものなのです。
今から7,8年ほど前から、私は、奈良原喜左衛門やその弟である、通称喜八郎(名乗りは幸五郎、明治後は繁)を調べ出したのですが、その過程で喜左衛門は生麦事件の「犯人」ではないのではないだろうか、と考えるようになったのです。そのため、面識のあった芳氏に直接会い、生麦事件等についていろいろ尋ねました。氏は、第一次史料等の文献を精査する歴史家でしたので、私が抱いたような疑問にさほど興味はなく、喜左衛門「犯人」説も疑っておりませんでした。ただ、私があまりに執拗だったからか、書棚から宮里孫八郎書簡が掲載されている本を取り出してきて、私に指し示したのです。
すると、<奈良原喜左衛門殿御供目付事故、壱人を切殺し一人ニ手負せ>という部分が目に飛び込んできて、ああ、やはりこういう史料があったんだ、やはり「犯人」は喜左衛門で間違いないのか、とそのときはそう思いました。ところが、その後、何度も宮里書簡を読んでいるうちに先ほど述べましたような疑問が浮かび上がってきたというわけです」
D委員;「よくわかりました。ところで、あなたは、一旦、芳氏から宮里書簡を提示されて読んだ後、やはり喜左衛門が「犯人」なのかと思ったと言いましたよね。それなのに、どうしてまた疑い出したのしょうか」
長岡;「こういう文献とは別に喜左衛門が「犯人」として定着していく過程の資料を読んでいたからです。それらにはどうも作為的なものが見え隠れしてしかたがなかったからです」
D委員;「そうですか。そうだとしますと、あなたはこの宮里書簡を偏見の目をもって読んでいることになりませんかね。つまり、宮里はなるほど直接「犯人」を目撃したわけでもない。また英国人をアメリカ人と間違えている。さらに怪我もしなかった女性を怪我したと書いているような下級武士の書簡など、そもそも信用するに足りない、と。
左門委員長;「わかりました。では、これに対して、委員の方で何かご質問等がありましたら、ご発言ください」
A委員;「初歩的質問で申し訳ございませんが、この①史料が現在の奈良原喜左衛門の「犯人」説になっているということでしょうか」
長岡;「いいえ、そういうわけではありません。この史料がいつ頃出てきたのかわかりませんが、公刊されたのは、昭和53年(1978)で、鹿児島県が発行している『鹿児島県史料旧記雑録追録第八巻』に収めてあります。奈良原喜左衛門が事件の「犯人」として定着してしまったのは、昭和14年(1939)の『鹿児島縣史第三巻』からとなります。ですから、それまでは、この史料を元に喜左衛門が「犯人」とされていったわけではありません」
D委員;「そうだとしますと、なぜあなたはこの史料を持ち出してきたのでしょうか。あなたがもし喜左衛門が「犯人」でないと主張するなら、この史料は逆にあなたにとって不利な証拠にならないでしょうか」
長岡;「確かにそういう点もあります。しかしながら、私がこの史料を持ち出したのは、今までこういう史料の存在すら誰も取り上げたことがなかったからです。正直言いますと、この第一次史料は、鹿児島在住の維新史研究者である芳(かんばし)即正(のりまさ)氏が指摘してくれたものなのです。
今から7,8年ほど前から、私は、奈良原喜左衛門やその弟である、通称喜八郎(名乗りは幸五郎、明治後は繁)を調べ出したのですが、その過程で喜左衛門は生麦事件の「犯人」ではないのではないだろうか、と考えるようになったのです。そのため、面識のあった芳氏に直接会い、生麦事件等についていろいろ尋ねました。氏は、第一次史料等の文献を精査する歴史家でしたので、私が抱いたような疑問にさほど興味はなく、喜左衛門「犯人」説も疑っておりませんでした。ただ、私があまりに執拗だったからか、書棚から宮里孫八郎書簡が掲載されている本を取り出してきて、私に指し示したのです。
すると、<奈良原喜左衛門殿御供目付事故、壱人を切殺し一人ニ手負せ>という部分が目に飛び込んできて、ああ、やはりこういう史料があったんだ、やはり「犯人」は喜左衛門で間違いないのか、とそのときはそう思いました。ところが、その後、何度も宮里書簡を読んでいるうちに先ほど述べましたような疑問が浮かび上がってきたというわけです」
D委員;「よくわかりました。ところで、あなたは、一旦、芳氏から宮里書簡を提示されて読んだ後、やはり喜左衛門が「犯人」なのかと思ったと言いましたよね。それなのに、どうしてまた疑い出したのしょうか」
長岡;「こういう文献とは別に喜左衛門が「犯人」として定着していく過程の資料を読んでいたからです。それらにはどうも作為的なものが見え隠れしてしかたがなかったからです」
D委員;「そうですか。そうだとしますと、あなたはこの宮里書簡を偏見の目をもって読んでいることになりませんかね。つまり、宮里はなるほど直接「犯人」を目撃したわけでもない。また英国人をアメリカ人と間違えている。さらに怪我もしなかった女性を怪我したと書いているような下級武士の書簡など、そもそも信用するに足りない、と。