海鳴記

歴史一般

チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(7)

2011-05-31 09:56:39 | 歴史
 要するに、確かに現在散見される第一次史料の中でもっとも事件に近い資料に違いないのですが、これをもって奈良原喜左衛門がリチャードソンに斬りつけた、あるいは「犯人」として断定する証拠にはならないのではないか、ということなのです」
左門委員長;「わかりました。では、これに対して、委員の方で何かご質問等がありましたら、ご発言ください」
A委員;「初歩的質問で申し訳ございませんが、この①史料が現在の奈良原喜左衛門の「犯人」説になっているということでしょうか」
長岡;「いいえ、そういうわけではありません。この史料がいつ頃出てきたのかわかりませんが、公刊されたのは、昭和53年(1978)で、鹿児島県が発行している『鹿児島県史料旧記雑録追録第八巻』に収めてあります。奈良原喜左衛門が事件の「犯人」として定着してしまったのは、昭和14年(1939)の『鹿児島縣史第三巻』からとなります。ですから、それまでは、この史料を元に喜左衛門が「犯人」とされていったわけではありません」
D委員;「そうだとしますと、なぜあなたはこの史料を持ち出してきたのでしょうか。あなたがもし喜左衛門が「犯人」でないと主張するなら、この史料は逆にあなたにとって不利な証拠にならないでしょうか」
長岡;「確かにそういう点もあります。しかしながら、私がこの史料を持ち出したのは、今までこういう史料の存在すら誰も取り上げたことがなかったからです。正直言いますと、この第一次史料は、鹿児島在住の維新史研究者である芳(かんばし)即正(のりまさ)氏が指摘してくれたものなのです。
 今から7,8年ほど前から、私は、奈良原喜左衛門やその弟である、通称喜八郎(名乗りは幸五郎、明治後は繁)を調べ出したのですが、その過程で喜左衛門は生麦事件の「犯人」ではないのではないだろうか、と考えるようになったのです。そのため、面識のあった芳氏に直接会い、生麦事件等についていろいろ尋ねました。氏は、第一次史料等の文献を精査する歴史家でしたので、私が抱いたような疑問にさほど興味はなく、喜左衛門「犯人」説も疑っておりませんでした。ただ、私があまりに執拗だったからか、書棚から宮里孫八郎書簡が掲載されている本を取り出してきて、私に指し示したのです。
 すると、<奈良原喜左衛門殿御供目付事故、壱人を切殺し一人ニ手負せ>という部分が目に飛び込んできて、ああ、やはりこういう史料があったんだ、やはり「犯人」は喜左衛門で間違いないのか、とそのときはそう思いました。ところが、その後、何度も宮里書簡を読んでいるうちに先ほど述べましたような疑問が浮かび上がってきたというわけです」
D委員;「よくわかりました。ところで、あなたは、一旦、芳氏から宮里書簡を提示されて読んだ後、やはり喜左衛門が「犯人」なのかと思ったと言いましたよね。それなのに、どうしてまた疑い出したのしょうか」
長岡;「こういう文献とは別に喜左衛門が「犯人」として定着していく過程の資料を読んでいたからです。それらにはどうも作為的なものが見え隠れしてしかたがなかったからです」
D委員;「そうですか。そうだとしますと、あなたはこの宮里書簡を偏見の目をもって読んでいることになりませんかね。つまり、宮里はなるほど直接「犯人」を目撃したわけでもない。また英国人をアメリカ人と間違えている。さらに怪我もしなかった女性を怪我したと書いているような下級武士の書簡など、そもそも信用するに足りない、と。

チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(6)

2011-05-30 10:43:21 | 歴史
 長々と引用しましたのは、事件を直接目撃していない、また事件から20日ほど経た一般の薩摩藩士の状況認識を汲み取っていただきたいためであります。ただ、私が強調しておきたいことは、英国人4人をアメリカ人だと思っていたことや、無傷で逃げおおせたボラデイル夫人も怪我をしたという誤った伝聞が流布していたことなどではありません。
 ともかく、内容を追ってみます。久光の駕籠から1キロほど前を進んでいた宮里らは、馬に乗った4人のニクキ姿をした「アメリカ」人、その内一人は女性らを、歯噛みしながらそのままやり過ごし、しばらくすると、かれらのうち2人が激しく馬に鞭をあてながら駆け戻って来ました。仲間うちで何事か起ったのだろうかなどとささやきながら後ろを振り返りますと、また一人、馬で戻って来ます。そしてその後に一頭だけ離れてやって来るのが見えました。そこで、彼らは行列にぶつかり誰かが斬り殺そうとしたのだと思い、通り過ぎる異人の後ろ姿を見ると、左の脇の下からおびただしい血が流れています。これはたいへんな事が起きた、と一旦久光の駕籠の所へ駆けつけようとしましたが、思い通りにはいかずまた引き返しました。そんなところへ、お供衆の本多源五殿と黒田良助殿が逃げたアメリカ人どもを追いかけて来ましたので、かれらに事情を尋ねると、「奈良原喜左衛門殿はお供目付の事故、一人を斬り殺し一人に傷つけた」と申しましたので、これを(六郎殿か誰かに)届けました。
 以上のようなことを書いているのですが、問題は、「奈良原喜左衛門殿はお供目付のことゆえ」というところです。なるほど、確かにここで奈良原喜左衛門の名前は出てきました。しかし、どうも奇妙な表現です。直接誰が斬りつけたか見聞したと考えられるお供衆の本多や黒田から聞いたのであれば、なぜ宮里孫八郎は、「お供目付の奈良原喜左衛門殿、一人を斬り殺し一人を傷つけた」と明確に書かなかったのでしょうか。そう書かれておれば、私もやはり喜左衛門が最初に斬りつけたのか、と少しは納得せざるを得ません。ところが、「奈良原喜左衛門殿はお供目付だから、あるいはお供目付けなので、一人を切り殺し」と言うのは、何か奥歯に物が挟まった言い方、というより、どうものちに様々な情報が付け加わってきたため自信がなくなってきた、という印象が強いのです。さらに、そもそも本多も黒田もそのとき正確な情報を伝えたのかさえわからないのです。だいたい、本多や黒田が4人を追いかけてくる段階では、誰も死んではいないのですから、一人を斬り殺したと言ったのであれば、事実認識としてすでに間違いがあるのです。
 かりに百歩譲って、一人を斬り殺したという情報だけが宮里の単なる聞き間違いあるいは書き間違いだったとしましょう。それはそれでいいことにします。しかし、誰が斬りつけたかは、事件後すぐに緘口令がしかれ、ごく少数の者しか事実がわからなくなっていたのですから、ほとんどの一般武士たち口には、お供目付でその日の当番供頭、すなわち行列統率の最高責任者だった奈良原喜左衛門の名前が最後まで残るのは、ある意味で必然でした。だからこそ、本多や黒田がどんなことを言っていたとしても、宮里には、当番供頭の喜左衛門がなすべきことをやったということが頭から離れなかったのではないか。それで、あんなふうな表現になったのではないか、ということなのです。

チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(5)

2011-05-29 09:36:13 | 歴史
 それでは、審理委員の皆様にお配りした資料の①をご覧ください。この第一次史料は、リチャードソンが殺害された日から17日ほど経た閏8月8日付けの宮里孫八郎(正容)の書簡です。宮里は、おそらく鉄砲隊の一人として島津久光の行列に加わっており、閏8月7日、一行とともに京都に入っております。そして、その翌日、京都の宿舎から鹿児島の両親宛に手紙を送っているのです。では、ブログ陪審員の方々にもできるだけ素直に読んでもらうため、前置きを省いて、次にそれを掲げたいと思います。全文は長くて無理なので、いわゆる生麦事件に関わる部分を、弁明に必要な部分はできるだけ掲げることにします。

扨(さて)江戸御出立之日者(は)、神奈川之手前ニ而(にて)、亜墨利加(あめりか)人共四人馬ニ打乗り、内壱人者(うち一人は)女ニ而共ニ列立(つれだち)罷通(まかりとおり)候、私ニハ六郎殿同道ニ而
上様(久光)御行列ヨリ拾町(約一キロ)位御先に差越居候付(さしこしおりそうろうにつき)、誠ニ悪(にく)キ姿之者共ニ而歯切(はが?)ミをなして難なく罷通し候処、間もなく異人両人馬にむち打至極はけ(げ)しく罷帰申候付、何事到来候半(そうらわん)と私語(ささや)きなか(が)ら又跡を見かゑり申候処、今一人馬ヨリ駆戻り候、其跡ニはなれ馬壱疋(いっぴき)駆来り候付、夫(それ)ヨリ決而(けっして)渠等(かれら)御行列に相障(あいさわり)為(ママ)申共ニ而誰か(が)切殺候半(そうらわん)と思ひ、先江にけ(逃げ)行(いく)異人之後ろを見申候処、左之脇下よりおひ(び)たゝしく血なか(が)れ、扨は大変到来いたし候付御輿本(久光の駕籠元)江駆付申さて(で)不叶事(かなわざること)と相考へ引かへし候処、御供之内ヨリ本多源五殿・黒田良助(清隆)殿云(いわゆ)る両(人欠か)之衆追懸(おいかけ)来られ候付相尋申候処、推量通り之事ニ而、奈良原喜左衛門殿御供目付之事故、壱人を切殺し一人ニ手負せ為(ママ)申段承届、引返ス途中之草原江仰(あお)のけにたをれ居申候付、立寄(たちより)見申候処、いまた(だ)殺(ころし)きり不申候ニ付、六郎殿にらミ居られ候処、手を合せて断等敷事(ことわりらしきこと?)を申様に有之候得共、一向決り不申候、就而(ついて)者一人も不残打はたすへ(べ)き之処ニ、適々(たまたま)我々共御先ニ行なか(が)らケ様(かよう)之事とは夢不存候付、無(不)覚を取り残念之至奉存候、然共(しかれども)一人手を負ひ候異人、程なく神奈川之邊(あたり)ニ而落命いたし為(ママ)申由(もうすよし)承及(うけたまわりおよ)ひ(び)候、尤(もっとも)女も手を負ひ為(ママ)申と云へる人も有之候、・・・

チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(4)

2011-05-28 10:17:50 | 歴史
 まず、最初に言った第一段階の審理で、奈良原喜左衛門が英国商人であるチャールズ・L・リチャードソンが「犯人」であるかどうか、有罪か無罪かの裁定を行います。
 実際、事件から150年という途方もない年月を経た審理です。審理委員、陪審員とも全員一致という評決に至ることを初めから期待できません。ですから、審理委員の3分の2以上の評決を得れば、有罪か無罪のどちらかに決まることにします。その後、第二段階の審議に入り、本当の犯人は誰なのかという審査に入りたいと考えております。なお、この裁定に不服のブログ陪審員の方がおれば、第一段階、第二段階いずれの評決の後でも、直ちに反論して構いません。そして公開討議に入ります。その後の再評決は、陪審員が10人以上集らなければ、審理委員との合計の3分の2以上、陪審員のみで15人以上集まれば、陪審員のみの評決で3分の2以上が裁定となります。
 もちろん、これが最終の決定であることを意味しません。なぜなら、歴史史料というのは、まだまだ埋もれている可能性があるのですから、今後いつ決定的な第一次史料が発掘されるかもわからないのです。そのとき、改めて再審査に入るということにしなければ、真実追及に対する公正さを欠くことになります。
 以上、審理のプロセスを説明してまいりましたが、宜しいでしょうか。では、午前の部の時間が切迫してきましたので、これから審議に入りたいと思います。
 長岡さん、それでは口頭陳述を始めてください。
 長岡、「委員長、わかりました。本年3月11日に起った未曾有の東日本大地震以来、日本は、たいへん困難な状況に陥っております。太平洋戦争以来の国難という言葉さえ使っている人たちもいます。それは、巨大地震、大津波のみならず、未だどういう状況になるのかもわからない原子力発電所の問題も抱えているからです。正直言って、私自身、こんな時期に150年前の冤罪事件を取り上げることなど馬鹿げていることは重々承知しております。しかしながら、今後どんな最悪のシナリオが待っていたとしても、今私にできることは、今までやってきたことを続けるしかありません。たとえ、最悪の状況が起りつつあるとしても、また仮に起こったとしても、その後もこの世界に生きなければならないのです。そうだとすれば、いつかまた必ず過去を振り返る余裕が出てきます。そのとき、ここに記録を残すということは、必ずや何かの、あるいは誰かの役にたちうると考えております。           
 ともかく、こういう場を設けてくださったことに感謝申上げて、私の陳述を始めたいと思います。

チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(3)

2011-05-27 10:04:24 | 歴史
 と同時に、明治以降、日本人が圧倒的な西洋の文明や文化に接し、その導入に懸命に努力してきたのにもかかわらず、本質において極めて表面的な、底の浅い根付き方をしているものも少なくありません。たとえば、最近、とみに声高に発せられる人権などという概念などもその一つでありましょう。
 そもそも、西洋の長い歴史過程の中で生まれてきた人間や個人という概念が、日本の歴史の中でも存在しえたのかといえば、きわめて怪しいと言わざるを得ません。そこに、その個人の権利である人権(human rights)などという言葉を導入したところで、接木に接木をしたという批判をまぬがれないのであります。
 だからといって、歴史をやり直すことはできません。また批判だけですますこともできません。そのため、少なくとも当委員会は、日本の歴史を、単に政治史、経済史、思想史などという大上段な視点からではなく、あくまで個人を中心にした問題に光を当てることで、未だ根付いているとはいえない日本人の人権意識にも踏み込もうとするものであります。
 それにしても、長岡氏が提訴した150年前の事件の訴追検証は、やや荒唐無稽な常軌を逸した審理だと思われるかもしれません。しかしながら、長い間歴史の専門家が瑣末なこととして見過ごしてきた事象の、それも冤罪にかかわる事件だとすれば、これこそわが国が無視してきた個人や人権の歴史を浮き彫りにさせるものであり、こういう事件の徹底追及こそ、わが国独自の人権意識を醸成させる第一歩となるのではないかと考えるのであります。
 まあ、あまり意義ばかり申し上げても前に進みませんので、それでは、当委員会は、長岡氏が提訴した文久2年(1862)8月21日に起ったリチャードソン殺害事件、いわゆる生麦事件の「犯人」とされた奈良原喜左衛門が、実際の犯人だったかどうか只今より審理裁定に入りたいと思います。
 なお、審理には、当委員会より選出された7名の委員があたることになりますが、この名称を審理裁定委員会とします。また委員長として、私、当歴史調査究明委員会代表の左門孝平があたります。他の6名の裁定委員は、当委員会が無作為に選出した者ですが、彼らは調査究明委員会に属しているものの、様々な職業に就いている方たちです。ですから、歴史を専門としているわけではありません。私は、逆にそのほうが偏見なく、究明に当れると確信しております。さらにこの審理は、ブログ公開のため、いわば読者に裁判員、いや罰則がないのですから陪審員として参加可能となります。いや、より公正な審理裁定という点からいえば、より多くの人が加わるべきなのです。そして、徹底した追及討議が行われてこそ、当委員会がブログでこの審理裁定を開いた意義があるのです。

チャールズ・L.・リチャードソン殺害事件審理裁定(2)

2011-05-26 09:07:05 | 歴史
 また、具体例を出せば、戦前の昭和17年(1942)9月、社会評論家の細川嘉六を治安維持法違反で検挙したのを皮切りに始まった、いわゆる横浜事件の場合であります。なるほどこれは殺人事件ではありませんが、ここでは再審請求がどこまで可能なのかという問題として挙げてみます。
 さて、細川に続き、当時の言論・出版関係者60余人は治安維持法違反で芋ずる式に検挙され、尋問中、全員過酷な拷問を受けました。そのうち4人がこの拷問がもとで獄死しております。最終的に30人ほどが、終戦直後の昭和20年(1945)8月下旬から9月にかけて、執行猶予付きの有罪とされましたが、GHQによる戦争犯罪訴追を免れようと当時の政府関係者が公判記録をすべて焼却処分したといわれます。これに対し、生き残った被害者たちは、昭和22年(1947)、特高警察官30人を特別公務員暴行傷害で横浜地方検察庁に共同告訴しました。その結果、昭和27年(1952)、確かに最高裁判所で3人が実刑判決を受けております。ところが、その年、サンフランシスコ平和条約が締結されたことによる恩赦のため、投獄されることもなく終わってしまったのです。これに対し、拷問を受けた被害者たちは次々に亡くなり、当の中心人物だった細川嘉六も昭和37年(1962)に亡くなってしまう。これらの無念の思いとは別に、そもそも冤罪事件として、昭和61年(1986)、生存している被害者を中心に再審請求を裁判所に提出しました。それにもかかわらず、横浜地方裁判所、東京高等裁判所、最高裁判所ともその請求を棄却しています。その理由として、すでに「裁判の記録がない」という、被害者側からすれば誠に理不尽な理由でした。
 むろん、これを不服として、被害者遺族およびその支援団体がその後も第2次、第3次の再審請求を要求しましたが、平成22年(2010)、罪の有無を判断せず裁判を打ち切る免訴という形でこの冤罪事件の裁判は終わっています(注)。
 要するに、もし現実に150年前の殺害事件を現代の裁判所に持ち込もうとしても、「裁判の記録がない」どころか裁判所自体が存在しなかった時代の事件など、そもそも取り上げようがないということなのです。
 それゆえ、当日本歴史事件調査究明委員会は、時間の経過や政治体制およびそれが依拠する法体制に左右されない審理機関を設立し、歴史の闇に埋もれさせることなく、冤罪事件を浮き彫りにさせようと決定したのであります。
 
(注)・・・Wikipediaおよび「横浜事件は決して過去の出来事ではない」を引用。

チャールズ・L.・リチャードソン殺害事件審理裁定(1)

2011-05-25 10:06:39 | 歴史
             150年目の審判記録

 平成22年×月×日、殺人事件の時効撤廃が国会を通過したことにより、日本歴史事件調査究明委員会は、文久2年(1862)8月21日(太陽暦では9月14日)、現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦で起きた、英国商人チャールズ・レノックス・リチャードソン殺害事件について、本日、平成23年(2011)×月×日、再審議をすることに決定しました。これは、最初に斬りつけた人物とされている奈良原喜左衛門が、実は捏造された犯人ではないかという、喜左衛門の弟である奈良原繁を研究してきた長岡由秀氏の訴えによるものであります。
 氏は、奈良原喜左衛門が「犯人」(注1)であるという明確な第一次史料(直接的証拠)(注2)は、どこにも存在しないと主張しています。いやむしろ、第一次史料という点では、現在、喜左衛門の弟である奈良原繁が「犯人」であるという書簡が存在すると言っております。こういうことを考慮し、殺人事件の時効撤廃法案を契機として、また、本年が150年という節目に当ることを鑑み、当歴史事件調査究明委員会は、長岡氏の訴える審理裁定に応じるものとします。
 なお、この審理の第一段階として、長い間、リチャードソン殺害事件の「犯人」とされてきた奈良原喜左衛門が、いわゆる冤罪であるのかどうかを裁定し、その後、つまり、第二段階として、氏が唱える真犯人の審理に当る予定とします。その前に、現在の日本の裁判審理とはいくつかの点で異なっていることを確認しておかねばなりません。つまり、事件の真相を究明しようとする点では共通するものの、当該事件の被疑者を被告人として訴追し、何らかの罰則を加えようとするものではありません。当然のことながら、すでに150年という時間が経過しているこの事件では、被疑者はもちろん、事件関係者すべてが物故しているのですから、罰則等を加えようがないのです。それのみならず、事件当時は、いわゆる安政の条約により治外法権下にあったばかりか、それを回復している現在でも、訴追可能側である英国側および日本の検察組織も、いかに殺人事件の時効が撤廃されたとしても、このような事件を現在の裁判法廷に持ち込むことは不可能でありましょう。

(注1)・・・リチャードソンを最初に斬りつけた人物が、最終殺害者であるかどうかわからないのにも関わらず、一般には事件の「犯人」(殺害者)であるかのように定着してしまっている。ここでの「 」はそういう意味合いである。
(注2)・・・いわゆる裁判における直接的証拠に相当するもので、歴史上における第一次史料というのは、書簡や日記等をさす。


奈良原喜左衛門に子供はいたのか。補遺(5)

2011-05-10 11:09:57 | 歴史
 いったい、これはどういう意味なのだろうか。なぜ、7月26日の時点でも、原田雅雄という名前が出てくるのだろうか。ひょっとしてどこかの時点で、原田雅雄氏はこの土地を譲り受けていたということなのだろうか。どうもよくわからない。今のところ、これだけは推測や想像の域を超えている。
 
 まったく、原田雅雄氏こと奈良原雅雄氏は謎ばかり残す人物である。これは、最初の本でも触れたが、鹿児島に奈良原雅雄氏名義の墓域も残されていたことを伝えておこう。
 私は、奈良原家の墓地探索を始めてしばらくすると、ある墓地の名簿に奈良原雅雄氏名義の墓域を見つけた。というより、そこの墓地管理人が、私の質問に対して、別な墓地の管理人とは違ってプライバシーなどまったく気にせず、すぐに墓地名簿を開き、探してくれたお蔭だった。さらにその管理人は、私がその場所がどの辺りなのか尋ねたのに対して、わざわざその場所へ案内してくれたのである。ところが、その場所へ行っても、墓はなかった。一坪ほどの墓域は、草が生えた空き地だったのである。このとき管理人は、誰かが夜のうちにでも運び去ったのだろうか、などと冗談とは思えない真面目な調子で呟いた。私は、まさかそんなことは、と言おうとしたが、口にはしなかった。というのも、別な地区の墓地の管理人からは、つい最近、墓荒らしがあったと聞いたばかりだったからだ。
 それは、近代西洋絵画の最初の導入者であり、またその後の日本の西洋絵画の方向性を確立したといってもいい黒田清輝の先祖の墓が荒らされた事件だった。
 このことも何度か触れたが、鹿児島市内にあるそれぞれの広大な墓地は寺が管理しているわけではなく、市の管理下にあるので、夜など出入り自由なのであった。また、車でも、目当ての墓近くに乗り付けることが可能だった。そのため、もし盗掘や墓を持ち去ろうと思えば、不可能ではなかったのである。
 だからと言って、私は雅雄氏の墓が夜の間に運び去られたと考えたわけではない。いやそういうことはなかったであろう。想像するに、雅雄氏は鹿児島に骨を埋めるつもりだった。しかしながら、何かの理由で、晩年東京へ移ることになった。息子たちがそれなりの教育を受け、東京で生活していたからだろう。ところが、その前からトミさんや自分の墓をそこに建てようと、墓地を購入していたのである。そして、墓地を処分することもなく、鹿児島を去った。そのように考えたほうがすっきりする。

 私は、とうとう鹿児島にトミさんの墓も見出せなかった。雅雄氏が東京で亡くなり、そこに墓を建てたとすれば、トミさんの墓もそこにあるのかもしれないが、私は確認していない。

奈良原喜左衛門に子供はいたのか。補遺(4)

2011-05-09 10:58:07 | 歴史
 ここで、ようやく、雅雄氏が「養子」としてではなく、単独に「養兄」として奈良原家に入った可能性があるということがわかった。ところが、山畠氏の論文にあるように、あくまで「相続」とは関係がない場合のようである。ただ、たとえ相続を前提としない入籍をしたとしても、土地を所有していた前戸主である「養妹」が死亡したら、どうなるのだろうか。他に誰も継ぐ者がいなかったら、「養兄」が前戸主の財産を受け継ぐしかなかったのではないだろうか。つまり、以前もそういう推測をしたが、たとえばトミさんが病弱で余命いくばくもないところに、雅雄氏は、奈良原家に入籍した。ここでは、「養兄」として。 
 そうこうするうちに、案の定、トミさんの病が悪化し、しばらくして亡くなってしまった。雅雄氏が入籍した日とトミさんの財産と思われる土地をその4ヶ月後に書き換えたというタイム・ラグを考えると、ありえないことではない。
 
 ところで、トミさんは174坪の土地を所有していたと何度も言ったが、正直いうと、これは、正確なことではない。どういうことかというと、現存の旧土地台帳には、雅雄氏の前の所有者名が記載されていないのである。その理由は、現在、土地登記に関する管轄が法務省にあるように、明治の初めの頃は大蔵省が管轄していたので、所管が移る前の明治20年前後で記録が切れているようなのだ。
 要するに、明治23年7月26日の雅雄氏の土地「登記」は、一番最初に記載されているということなのである。ではどうして、それ以前はトミさんが所有していたといえるのだろうか。
 それは、私が鹿児島で入手した雅雄氏の除籍抄本の本籍地の住所、すなわち前戸主のトミさんの本籍地がその土地の住所だったからである。だから、トミさんが所有していたと判断したが、本当のことを言えば、その土地はトミさん所有の土地だったのかどうかはわからない。たとえば、それは奈良原繁所有の土地で、トミさんの本籍地をそこにしていただけかのかもしれないのである。
 むろん、現代では本籍地と現住所が一致しなくとも何の問題もないが、当時はどうだったかのだろうか。雅雄氏は鹿児島でも本籍地を変えているし、東京に移ってからは、最終的に東京に変更している。ということは、現代とさほど変わらなかったといえるかもしれない。
 また、今まで問題を複雑にしないために控えていたが、旧土地台帳には奇妙な記述があった。原田雅雄氏は、明治23年3月26日、トミさんの「先代ノ戸主」の「養子」としてなのか、単独の「養兄」として入籍したのかよくわからないものの、この時点で原田から奈良原姓に変わったはずである。しかしながら、4ヵ月後の7月26日の土地登記の欄には、同日原田雅雄更正奈良原雅雄と書かれていたのである。

奈良原喜左衛門に子供はいたのか。 補遺(3)

2011-05-08 08:33:48 | 歴史
 ここで、また「取組」という単語が出てきたが、私には正確な法律上の定義がよくわからない。ただ、「相続」に対立する言葉のようであることは間違いないようだ。そうだとすると、以前、私の(注)で取り上げた櫻田太吉少年のような例であろう。つまり、養子であっても、嗣子(跡継ぎ)ではない養子ということになる。
 では、「養弟妹取組」というのは、どういう目的で行われたのかというと、<伺・指令によってみるかぎり、その目的は養子縁組とまったく同じである>(同論文)と言う。 
 そして、<たとえば「二三男養子」と同じような趣旨とされる「養弟」、養子縁組を前提とする家格付与のための「養弟」である。後者と同趣旨での婚姻のための「養妹」も多かったであろうことは推測に難くない>(論文)と解説している。
 2・3男養子と同じような趣旨というのは、山畠氏が挙げている(注)の例を読んでも何だかよくわからなかったが、「家格付与」というのは、よくわかった。たとえば、島津斉彬の養女になった篤姫が、将軍家へ嫁入りするのに家格が釣り合わないので、五摂家の筆頭である近衛家へ養女として入り、近衛家から嫁いだような形式にするようなことであろう。これは、まったく便宜的なもので、なるほど、こういうことは珍しいことではなかった。

 さらに続けて山畠氏の論文を追ってみる。

(「養子」と「養弟妹」で)ただ一点異なるのは、継嗣を目的とするものがないということである。養子と養弟妹の違いは実はこの点からきているように思う。
というのは、嗣子の場合には「養子」であることを必要とするが、相続に関わりない場合であれば、かならずしも「養子」でなければならぬという理由はないからである。年齢差があまりない場合であれば、むしろ「養弟」や「養妹」のほうがよりふさわしいといってよい。いわんや年長者となると、養嗣子でなければ、「養兄」「養姉」とするのがはるかに自然である。むしろこれは健全な慣行であったといえよう。(同論文)