海鳴記

歴史一般

寺田屋事件余波 (8)

2011-02-28 11:42:22 | 歴史
 親不孝者の私や姉は、母親を一人残して、すぐ近くの寺田屋に着いた。その日、寺田屋内部へ入ることができなかったが、落胆もしなかった。伏見の藩邸と寺田屋までの距離感をつかめばそれでよかったのだから。しばらく辺りをうろついたのち、母親のいる茶店に戻ろうとすると、月桂冠という銘柄の酒を造っている酒造会社があった。この辺りは、正月でも観光客が多いからか、その会社が経営している土産物店やレストランのようなものは開業している。それなら、ここで休憩しようと姉に頼んで母親を連れてきてもらうことにした。どちらにしても、この酒造会社は母親が休んだ茶店のすぐ裏手にあったのだ。
 ここでコーヒーやサービスの日本酒を飲みながら、30分ほど休んだ。母親の機嫌はすっかりよくなっていたので、今日最後の訪問地である大黒寺を目指すことにした。そして、住所はわかっていたものの、大黒寺を明示する地図をもたなかったのでまた若干の紆余曲折はあったが、何とかそこに辿り着くと、何とそこは、最初にタクシーを降りた中学校のすぐ近くだった。つまり、伏見の薩摩藩邸からも歩いて数分という場所にあったのである。それがわかっていたら、寺田屋へ行く前に寄るべき地点だったが、後の祭りだった。
 とにかく、寺としては地方のどこにでもあるような狭い、正月だからか参拝客の多い境内に入った。その賑わいは、有馬新七らを詣でに来た観光客だとは思わなかったが、なるほど大黒天を祀っている真言宗の寺だったからだろう。もうもうと線香の煙が立っている本殿とそれと隣合っている庫裏(くり)やの間に立つと、奥に墓地があるのが見える。その間を通って墓地に至ると、すぐ左手に有馬新七らの墓が並んでいた。さらにそれらと並んで、宝暦年間(1754~1755)、木曾三川の治水工事に駆りだされ、切腹や病死で80数名の犠牲者を出し、その責任を取って自害したといわれる家老・平田靭負(ゆきえ)の墓があった。これらは、明らかに道島五郎兵衛の墓と違って、ごく最近に造り直したものだった。おそらく、有馬ら9基の墓は、その関係者や保存会の人たちによって。また、平田の場合は、明治33年以降結ばれた木曽川三川地域と鹿児島の交流が主体となって。
 今回、私の問題意識は個々の墓の人物たちにはなく、薩摩藩とそれぞれの寺との関係がどうなっているのかということだった。そして、この大黒寺にやって来てわかったことは、やはりここも薩摩藩所縁(ゆかり)の寺であることがわかったことだ。おそらく、菩提寺だったといってもいいのかもしれない。そもそも、元和元年(1615)、島津義弘の守り本尊であるという大黒天と絡んで、薩摩藩の祈祷寺となり、元々の寺名も変えているほどなのだから。
 だが、東福寺塔頭即宗院で道島五郎兵衛の墓を見出したことから、私の関心はそちらのほうにも向けられるようになった。

寺田屋事件余波 (7)

2011-02-27 09:54:53 | 歴史
 要するに、この地図は、二本松藩邸が記入された後なのだから、少なくとも文久3年末以降に刷られたのだろう。だとすれば、そこでは錦小路も薩州邸となっているのだから、ここは取り壊されなかったということになる。いつまでかはわからないとしても。
 私がこんなどうでもいいことになぜこだわるかというと、即宗院との距離関係を問題にしているからである。錦小路の藩邸が幕末まで何らかの形で存在していたとすれば、その南東一里ほどの距離にある即衆院あるいは東福寺は、藩公認の寺として存在し続けていてもおかしくない。実際、喜左衛門は慶応元年(1865)閏5月に亡くなっているのであり、また、慶応4年の鳥羽・伏見で亡くなった藩士たちの墓があったのだから、二本松に藩邸が移ってからも薩摩藩公認の寺だったことは間違いない。問題は、それではなぜ伏見寺田屋で死んだ道島五郎兵衛の墓が即宗院にあったのかということである。即宗院は、すでに伏見に藩邸があった時代から、藩公認の寺だったのだろうか。それなら、なぜ、同じ寺田屋で死んだ有馬らは、伏見にある寺に葬られたのだろうか。

 こういう疑問も含めて、即宗院から伏見の藩邸に向ったのは正解だったのだが、地下鉄などを利用すると距離感がピンとこなくなるので、東福寺の境内を出た後は、すぐにタクシーを拾った。ところが、乗ったタクシーの運転手は、伏見の薩摩藩邸跡を知らなかった。もちろん、私もカーナビに入れられる住所は知らなかった。ただ、大まかな地図上では伏見中学校のすぐ近くだったので、できるだけ旧道を通ってそこに向ってくださいというしかなかった。
 結局、車内からはそれらしき跡を見出せなかったので、中学校の前で降りることにした。そして、私が所持していた地図をまた見つめると、先ほど渡ってきたと思われる川の近くが黒点だったので、そこまでもどってみた。するとあったのである。橋の向かい側に小さな標柱と案内板のようなものが。
 それを読んだ友人によると、どうやら、NHKの篤姫が放映されるあたりから、標柱などを造ったらしい。道理ですべて真新しい。
 とにかく、ここまでタクシーで来てしまったが、即宗院から6,7キロ、まあ、一里半という距離だろうか。私はこれで満足し、今度は船宿である寺田屋に向った。地図上でみてもそれほどの距離ではなさそうなので歩くことにした。タクシーを拾えそうな通りでもなかったので、仕方なかったが、この辺りから母親の機嫌が悪くなってきた。どこかで休憩しようと言い出したのである。だが私は、寺田屋に着いたら休憩するから、もう少し我慢してくれといって歩き続けてしまった。寺田屋に着く2、3百メートルほど手前辺りだろうか。文字通り入り口をオープンにした茶店のようなものがあった。母親はそこにスタスタ入ると、空いている椅子に坐りこんでしまったのである。あとで友人に叱られたが、ゆっくり歩いていたつもりでも、母親にはついていけないスピードだったというのだ。

寺田屋事件余波 (6)

2011-02-26 12:13:36 | 歴史
 そこで私は、その方の住所がわかれば有難いのですが、と言うと、間もなくその住所が書いてあるメモ用紙を持ってきてくれた。ああ、たぶんこれで碑文の問題も解決したと安堵し、即宗院を出た。
 次に向かったのは、当時は京都の外だった伏見の藩邸跡(現在は京都市伏見区)だった。伏見の藩邸は、まだ京に藩邸を造ることを許されない頃、江戸への参勤交代の途上、殿様一行の宿泊所などにも利用されていたようであるが、私は、いつ頃から大名が京都に藩邸を持てるようになったか知らない。ただ文久2年(1862)の久光の第一回率兵上京の際、伏見の藩邸にも泊まっているが、ほぼ錦小路(中京区)の藩邸を中心に行動しているので、この時点では、京都に藩邸があったことがわかる。
 ところが、翌年の3月、久光が2度目の上京のときは、錦小路藩邸には泊らず、鴨川東側にある知恩院(東山区)に泊っている。どうも錦小路藩邸はそれほど大きくなく手狭だったらしい。そこで、これまた正式にいつ頃造られたのかわからないが、文久3年10月、久光の3度目の上京では、二本松藩邸(上京区)という新しい場所に泊ったようである。11月18日、この新しい藩邸で、中川宮、近衛父子、右大臣・二条斉敬(なりゆき)、内大臣・徳大寺公純(きんいと)松平慶永、伊達宗城などを招いて、相撲見物会を催したという記事が見えるからである。
 それでは、錦小路の藩邸のほうはどうなったのだろうか。中には、取り壊したなどと書いているものがあるが、どうもよくわからない。私は、久光が2度目の上京で知恩院に泊ったあたりから、二本松藩邸に移る計画を立て、錦小路の藩邸は不要だと取り壊したのではないかと考えていた。が、今では取り壊したのかどうかもう自信がない。まず一つの理由として、文久3年以降、徳永和喜氏が詳細に論じたように薩摩藩は偽金造りを始めていた。とりあえず、琉球通宝と天保通宝である。だから、久光の文久3年の2回の上京の際は、この偽金造りも順調だったため、御所にも近く、広大な二本松藩邸を取得もできた。あまつさえ、錦小路の藩邸は取り壊さなくとも、そのまま残しておけばまた何かで使用できるという余裕もできた。つまり、取り壊さずそのまま残していたのではないか、と考えるようになったのである。
 こういう推測ができるようになったのは、まさに徳永氏の研究のたまものであるが、もう一つ、最近、これを裏付けるような史料を読んだのである。『史談会速記録』にある「柴山景綱事歴」の中に、元治元年(1864)ごろでも、錦(小路)邸の長屋とか錦邸の稽古所などという言葉が出てくるのである。
 さらに、禁売買とあり、いつ刷られたのかわからないが、西四辻殿蔵版という古地図の印刷したものがある。ここには、相国寺隣の広大な二本松藩邸とともに、錦小路の小さな藩邸も「薩州」と記録されているのである。

寺田屋事件余波 (5)

2011-02-25 12:22:29 | 歴史
 それがこの即宗院墓地にあったのだから、驚き混乱した。そして、徐々に写真のピントが合うかのように鎮撫使側の道島五郎兵衛だと認識したとき、私は非常に興奮した。なぜなら、即宗院が京都薩摩藩邸の菩提寺だったかどうかはともかく、藩公認の寺だったことは間違いないと確信したからである。
 この発見は、喜左衛門の墓域が削られて落胆した分を充分に埋め合わせた。それそころか、これはそれ以上の収穫だった。のちになっても、大きな広がりを見せてくれたからであった。
 ともかく私は、友人の、まず喜左衛門の墓に線香をあげたらどうかという声ももどかしく、この墓にまとわりついた。墓の四面に、碑銘が彫られていたので、それを読もうと必死になったのである。
 最初、写真を撮った。だが、これはすぐ無意味だとわかった。まだらの白い苔が光に反射して、肉眼でも見えにくかったのだから、写真で判読できるわけがないと判断したからである。それから墓を水洗いし、白い苔を取り除こうとした。しかし、これもしばらくして無理だとわかった。正面と右側面はともかく、左側面の隣に別な墓があり、それが邪魔になって充分洗い落とせなかったのだ。さらに背面側は、一段と低い通路になっている。それで、そちらのほうに廻ると、光の加減で暗く、たとえ水洗いをしても読めるかどうかわからなかったのである。仕方がないので、初めからできるだけ書き記そうと、正面に戻り、ノートに碑文を写していった。ところが、これも思うように進まなかった。落ちきれない白い苔が光に反射し、一字を読むのに相当な時間を要するものがあったからである。段々焦ってきた。周りを見ると、友人のYはともかく、母や姉はもう手持ち無沙汰な表情を見せていた。そこで私は、あきらめることにした。今回は、道島五郎兵衛の墓を発見しただけで満足しよう、碑文のほうは次回まで見送ろう、と。
 そう決めると、また気持ちに余裕が出てきて、辺りを見回した。道島五郎兵衛の墓の周りは、やはり鳥羽・伏見の戦いで戦死した藩士たちの墓のようで、これが、保存会の墓掃除のメインなのだろう。ほとんど無名の戦士たちである。
 さらに、少し離れた墓地の入り口近くに、京都府知事を務めたというより、パークス襲撃事件で名を馳せ有名になった薩摩藩出身の中井弘家の墓域があり、巨石を利用した奥方の墓が他を圧倒していた。
 この中井家の墓域見学を最後に即宗院墓地を後にした。帰り際、バケツや柄杓および線香台などを返すため、再度、隠居所に寄った。そして、先ほどの老婦人が出てきたので、お礼とともに道島五郎兵衛の墓の話をすると、思わぬ返事が返ってきた。道島五郎兵衛の子孫が存在し、ここ数年はともかく、以前は何度か墓参りに来ていた、という情報を耳にしたのである。

寺田屋事件余波 (4)

2011-02-24 11:17:31 | 歴史
 さらに写真に撮られていた喜左衛門の墓域も削られ、墓の前面はほぼ広い通路に直接さらされているようになっていたのである。
 これはどうなっているのだろうか、とやや愕然としたが、以前の様子を写真に撮っていて助かったとも思った。西郷らの碑はともかく、陣幕の献灯碑があったことが重大な意味を持っていたのだから。
 これらのことをYと話し合うと、どうやら、即宗院側が何らかの理由で、というより、新しい墓を建てる場所を拡充するため、古い、無縁に近くなった墓を処分し、増地を計ったのだろうという結論に至った。その証拠として、以前来たときより新しい墓が目立つ、と友人が言ったからである。
 以前、Yがここを訪れたとき、戊辰戦争で亡くなった薩摩藩士も眠るこの墓地に、年に一度、鹿児島からここに来訪し、墓掃除をしているという話を聞いたそうである。さらに、関西の三州会(旧薩摩・大隅・日向出身者の集まり)もこの墓地の保存に関係しているとも即宗院側は言っていたらしい。もしそうだとすれば、いわゆる永代供養費などをそこからもらっていたのだろうが、どうもそれだけではかなりの墓域を占める薩摩藩士たちの墓の供養料としてはわりに合わなくなったのかもしれない。だから寺側は、関西三州会や鹿児島側の保存会(?)などとも話し合い、新しい墓のための墓域整理したのではないだろうか。
 もちろん、これらのことは単なる推測に過ぎないし、こんなことを即宗院側に訊ねることはできなかった。ただ、喜左衛門の墓の正面に立って辺りを見回したとき、左手の急な山側斜面の中段あたりにややおびただしい墓石群が積まれてあった。たぶんそこに陣幕や西郷らの碑なども置いているのだろうと推しはかり、それなら後々必要があれば確認できるはずだとその斜面を登っていかなかった。
 そんなことを考えているとき、私の背後で姉の、ここにも薩摩藩士の墓があるよ、と言う声がした。振り返ると、広い通路の斜め反対側に、ほとんど手をつけていない墓域があった。そして、かなり広い空間をとった冂地型の墓域に、なるほど、小さいが戊辰戦争時に戦死したと思われる藩士たちの墓が向かい合って、並んでいたのである。そして、その奥に一際目立つ苔むした墓があった。その墓は、何とあの寺田屋事件の際、鎮撫使側でたった一人亡くなった道島五郎兵衛正邦の墓だったのである。
 私は、最初にこれを目にしたとき、やや混乱した。実際、しばらくの間、誰だかわからなかった。というのは、伏見寺田屋で亡くなったかれは、有馬新七らの墓のある伏見の大黒寺に葬られているものだとばかり考えていたからである。たとえ、かれらと同列に並べられていなくとも。


寺田屋事件余波 (3)

2011-02-23 11:50:19 | 歴史
 ところで、臨済宗の大本山である東福寺と、またその中に別の門があって、独立した寺のようになっている塔頭(たっちゅう)・即宗院との関係が私にはよくわからなかったが、今手元にある『日本仏教語辞典』(平凡社・1988年刊)を紐解くと、次のように解説している。

①禅宗にて、開山(かいさん)あるいは祖師(そし)の廟所(塔)の近く(頭)に建造された、廟所を管理する僧のすむ僧院。この僧を「塔主」(たっす)という。はじめは、祖師などが死んだあと、その弟子が師の遺徳を慕って、その廟所の近くに僧房を構えて、廟所に奉侍したに由来する。
とあり、また、二つ目として、
②大寺院の境内にある小寺院。
 と説明し、その例として『沙石集』10末(3)にある「東福寺の長老、聖一和尚が病気になり、起居もままならなくなったので塔頭で療養した」とあることから、大寺院の役職者の住居であったり、大寺院の住職の隠居所であったり、その成立の原因はさまざまである、と結んでいる。

 即宗院が、どういう成り立ちの塔頭かわからないものの、それはやはり寺ではなく、広い、手入れの行き届いた庭のある隠棲所という造りの家だった。その玄関を開け、声を掛けると、中から女の人の返事があり、しばらくして70代半ばごろと思われる婦人が出てきた。どうやら、ここは家族が住んでいる家でもあるらしい。禅宗の僧は、妻帯可能と聞いているから驚きはしなし、さらに友人からこの話を聞いていたとしても、東福寺全体が修行寺のような感じがするのに対して、若干の違和を感じたのも否定できない。
 型どおりの挨拶を済ました後、私は奈良原喜左衛門の墓参りに来た者であることを告げた。すると老婦人は、友人のほうを向いて、
 「ああ、こちらYさんから聞いております。それで、場所はおわかりですね」と言って、また友人のほうを向いた。友人のYは、それに頷いたものの、何か自信なさそうだった。正直言って、1度訪ねてきたはずの即宗院の門を見つけるのに少し手間どっていたのだから。もっとも、訪ねたのは10年ほど前だし、正月の参詣人で騒がしい広大な東福寺境内では無理もない。
 ところが、また墓地を探すのに多少時間がかかった。どうも以前と様子が違っていたらしい。確かに、どうにか喜左衛門の墓の前に至ると、私が写真で送ってもらった墓域の様子と明らかに違っていた。
 かつてあった薩摩藩お抱え相撲取りの陣幕が建てた一対の献灯碑や、西郷や大久保を筆頭とする精忠組同志たちの名前入りの碑も消えていたのである。



寺田屋事件余波 (2)

2011-02-22 13:49:46 | 歴史
 これは、私たちが金を出しますよ、ということだったので私は断る理由もなかった。最初からそう願っていたのだから。ただ京都では一緒に行動をするのか、別々の行動をするのか決めないまま京都に着いてしまい、この昼食の席で、はっきりしなければならなかった。
 友人と母親や姉との挨拶が終わると、私は、地図を取り出して、私の予定を説明した。まず1時に即宗院に入り、そこを終えたら、伏見の薩摩藩邸跡を確認し、そこから歩いて寺田屋に至るのが最低限のコースでそれでもまだ明るかったら、有馬新七らの墓のある大黒寺に至る、と。姉も母親も観光旅行で何度か京都を訪れているし、かえって普通は行かない寺巡りなので、それで何の問題もないと言った。もちろん、初めから私の予定は告げてあったので、姉のほうは了解ずみだったのだが、心変わりの早い母親のほうがどうなるかわからなかったのである。これで一応出資者との問題は解決した。
 さて、腹ごしらえも終わり時間を確認すると、12時前だったので、店を出てしばらく歩くことにした。まず、東本願寺まで行き、そこでお参りすることにした。
 小さい頃、友人の叔父がこの通りに呉服店を出していたので、この辺りは遊び場だったなどという話を聞きながら、浄土真宗大谷派の総本山に入ると、広い境内はともかく、隅々には結構雪が残っているので驚いた。前日か前々日に雪が降ったようである。しかし、その日は晴れていたせいか、それほど寒くはない。運もよかったようだ。
 そこを出ると、南北の通りを北上して数ブロック歩き、信号の間合いを見計らって右に曲がり、東西を走る裏通りに入った。その通りを東に向えば、鴨川にぶつかると友人が言ったからである。つまり、鴨川を渡って鳥羽街道、あるいは奈良街道というのかよくわからないが、そこを南下した方向に東福寺があったというわけだ。
 まだ少し雪が残っている裏通りを歩くと、この通りは、五条大橋の一つ手前の通りだったようで、鴨川の近くまでくると、必然的にその橋に行き着くようになっていた。そして、橋を渡り終えると、南北走る地下鉄駅があった。友人は2駅ほどなのでそれに乗っていくかと尋ねたが、時間を見ると、12時半を廻っていた。そこで、タクシーに乗らないと1時まで間に合わないのではと思ったので、友人にそう言って、タクシーを拾うことにした。が、これは失敗だった。すぐ乗れたものの、途中で伏見稲荷に向う車の列と重なり合い、なかなか踏み切りを越せなかったのである。そこで、途中でタクシーを降り、歩くことにした。そして、何とか東福寺まで辿り着き、その広さに驚きながら、即宗院の門をくぐったときはちょうど1時だった。

寺田屋事件余波 (1)

2011-02-21 12:10:39 | 歴史
 今年の正月2日、3日、私は京都を訪れた。一番の目的は、東福寺塔頭(たっちゅう)即宗院(そくしゅういん)にある奈良原喜左衛門の墓をこの目で確認することだった。それと同時に、有馬新七らの墓のある伏見の大黒寺や、西郷派と目されている家老・桂久武の先祖の墓があるという浄福寺が、京都における薩摩藩藩邸とどういう関係にあったのか知りたいためであった。
 奈良原喜左衛門の墓に関しては、うんざりするほど校正ミスが目立つ最初の本を出す前、大阪の友人に頼んで写真を撮ってもらい、それを参考にして書上げている。だから、実際には喜左衛門の墓を見ていたわけではなかった。鹿児島から京都は遠い、というより、そのころは文献の探索に忙しく、そこまで手が廻らなかったというほうが正解かもしれない。なぜなら、東京の国会図書館には、わざわざ鹿児島から出掛けていたのだから。明治期の新聞や雑誌を紐解くために。
 とにかく、今回、また大阪の友人に頼んで、一般人が入れないという即宗院にコンタクトを取ってもらい、旅費を浮かせるため家の者まで同行させて、最初の喜左衛門墓への邂逅となったわけである。
 旅程のほうは、最初、車で出掛ける予定だったが、前々日に関が原付近に大雪が降り、車では時間の予定がつかないというので、当日は新幹線に切り替え、京都駅近くで大阪の友人と落ち合うことになった。
 その日、11時半前には京都駅に着き、待ち合わせの京都タワー入り口前に着くと、すぐ友人も現れた。この友人と会うのも十数年ぶりである。私の白髪はとにかく、友人の頭の禿げ具合を見ると、時間の非情さ、無常を感じざるを得なかった。ああ全く、「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えまた結びて久しくとどまるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」である。
 もっとも、京都に来たからといって、こんな賀茂長明節に浸っているわけにはいかなかった。実際、そんな余裕もなかった。前もって地図を確認してきたものの、距離感覚をつかむためにもできりだけ歩きたかったので、時間が欲しかったのである。そこでともかく昼食を済ませようと近くにある中華料理店に入ることになった。
 ここでようやく、私の家の者、つまり母親と姉を友人に紹介した形になったが、正直にいえば、私はできるだけ金を遣わず京都に行きたいため、正月の旅行という名目で、母親と姉夫婦を誘っていた。市内に住んでいる姉夫婦を誘ったのは、乗り心地のいい最新の車を持っているからであった。ただ義兄のほうは毎年恒例の祭りのため抜け出せないということだったので、一時は私一人で出掛けることになった。それはそれで仕方がないと思っていたら、姉も母親も正月の気晴らしのため一緒に京都に行きたいということになったのである。

『偽金づくりと明治維新』から (31)

2011-02-08 10:17:06 | 歴史
 大久保らが贋金造りを推進した頃は、このことを予想しなかったに違いない。なぜなら、これに取り掛かった頃、徳川が倒れ、新しい時代を迎えるという想定は困難だったのだから。だが、これに成功し、榎本武揚らが抵抗する箱館戦争もほぼメドがつき、これから内政・外交に専念しなければならなくなったとき、困ったことになった。当然である。市中に贋金が出回り、それが諸物価高騰の一因となっており、また贋金をつかまされた諸外国も強い圧力をかけてくる。それゆえ、これを駆逐し、早急に新しい貨幣を流通貨幣としなければならなくなった。以上のような状況が、明治2年5月28日の贋金密造およびその流通に対して厳罰に処するという禁令に至る過程である。
 だから大久保は、この禁令が出る1ヶ月ほど前に、鹿児島藩庁に連絡し、それをたしなめているという。これも当然だろう。確かに、幕末期には他藩も多く贋金造りに精を出していたとはいえ、自分の出身母体がそれに一番積極的に関わっていた。それも、おそらく他を圧するほど大量に。
 このことを誰あろう、大久保自身が一番よく知っていたのだから。

 こうして、鹿児島藩の贋金造りは終わった。私は、主としてどうしてこういう研究が鹿児島でなされてこなかったのか、という側面から徳永氏の著書を論じてきた。
 だが、最終的に感じるのは、大久保という人物の底の深さというか「凄み」である。これに比べると、幕末期の西郷の「働き」など、底が知れているという感じがしてくる。もちろん、変革期の「政治家」としての一面で。
 大久保は、この「凄み」を明治になってかれが暗殺されるまで維持した。明治期の大ジャーナリストで史家でもあった徳富蘇峰は、維新期以降10年頃まで、大久保と木戸が6対4の割合で、新政府をリードしてきたというようなことを書いていた。私は、これを読んだとき、単にそうなのかというぐらいの感慨しか持たなかったが、徳永氏の著書を読んだ後は、まさにさもあろうという認識に変わってしまった。恐るべし、大久保である。

 話は変わるが、今年の最初の原口清氏の維新史談会でのことである。まあ、1月なので新年会を兼ねていた。その酒がまわっているとき、私は盛んに薩摩藩について原口氏に質問していた。そして、その間合いをぬって誰かが原口氏に、西郷と大久保についてどう思うかという質問をしてきた。正直言って、西郷に関してどう言ったかすっかり忘れてしまったが、大久保については、しっかり耳に残っている。
 原口氏は、どちらに対しても好き嫌いという感情はない、と前置きして、大久保は政治家として稀にみる能力のある人物だった、と言った。
 私が最後にこんなエピソードを持ち出したのは、もうそろそろ、地元鹿児島でもこういう視点から大久保をとらえ、そのよってきたる由縁等を研究する人物が現れてもいいのではないかということなのである。
 それが大人としての態度であり、同時にかつて併走した西郷への手向けにもなろう。


『偽金づくりと明治維新』から (30)

2011-02-06 11:41:42 | 歴史
 ところで、ここで徳永氏の『偽金づくりと明治維新』という作品について、もっと正直に語ろうと思う。
 私は、この章の最初のほうで、徳永氏の作品について、「やや思いつくままに書いている部分が全体として集中力を欠いた散漫な印象を与えていた」などという偉そうなことを言ってしまった。
 これは、言ってしまうと、あくまでも『薩摩藩対外交渉史の研究』との比較からのことであって、単独に前者を読む限りにおいては、さほど問題にする必要がないかもしれない。しかしながら、氏は歴史研究の専門家なのである。そうであるなら、たとえ外側からしか攻められない問題だったとしても、そのことだけに集中した「作品」にすべきだったのではないか、と思わざるを得なかったのである。
 なるほど、多少生き抜きしたかったのかもしれない。ただそれなら、『天璋院篤姫』(新人物往来社・2007年刊)だけでも充分だったのではないか。新しい発見と言っても過言ではない薩摩藩の「偽金造り」については、純粋に研究書として出したほうが本当はより説得力があったのではないだろうか。まず初めに研究者たちにとって。次に我々に浸透していけばよかったのではないだろうか。そのほうが、揺るぎない「作品」になったのではないか、と。
 徳永氏の意思とは関係のない厳しい要求かもしれない。だが、天保通宝の鋳造を試みた斉彬とは関係のない事柄を持ち出して、斉彬を賞賛する必要がどこにあったのだろうか。別に私は斉彬否定論者でもないし、実際のところ、久光以上によく知らない。しかし私は、斉彬を知りたければ、斉彬について書かれた本を読む。何も「偽金造り」に関しての本で、斉彬や島津氏の伝統を知ろうとも思わない。それが偽金造りと密接につながっているのならともかく。
 徳永氏は、誰かに遠慮しているのだろうか。あるいは、そのような「閑話」を挿入することで、自分が研究している「偽金造り」はあくまで事実探求のためであって、「他意」はないということを言うためだろうか。
 これらは、私の疑り深い心性から発した邪推にすぎないことなのかもしれない。ただ私の言いたかったことは、こういう邪推も抱かせないような「作品」にして欲しかったということだけである。

 最後にしよう。徳永氏によれば、「薩摩藩の史料では、いまだに贋金(二分金)の密造場所も不明であり、密造の終了時期も確定できない」という。だから、時期に関しては、明治2年5月28日に出された明治新政府の贋金への厳格な禁止令が、一つのメルクマール(指標)になるとしている。当時、この貨幣の贋造禁止および売買を禁止するという法令は、まさにこの贋金造りを薩摩藩内で推進した大久保の関与するところだった。