親不孝者の私や姉は、母親を一人残して、すぐ近くの寺田屋に着いた。その日、寺田屋内部へ入ることができなかったが、落胆もしなかった。伏見の藩邸と寺田屋までの距離感をつかめばそれでよかったのだから。しばらく辺りをうろついたのち、母親のいる茶店に戻ろうとすると、月桂冠という銘柄の酒を造っている酒造会社があった。この辺りは、正月でも観光客が多いからか、その会社が経営している土産物店やレストランのようなものは開業している。それなら、ここで休憩しようと姉に頼んで母親を連れてきてもらうことにした。どちらにしても、この酒造会社は母親が休んだ茶店のすぐ裏手にあったのだ。
ここでコーヒーやサービスの日本酒を飲みながら、30分ほど休んだ。母親の機嫌はすっかりよくなっていたので、今日最後の訪問地である大黒寺を目指すことにした。そして、住所はわかっていたものの、大黒寺を明示する地図をもたなかったのでまた若干の紆余曲折はあったが、何とかそこに辿り着くと、何とそこは、最初にタクシーを降りた中学校のすぐ近くだった。つまり、伏見の薩摩藩邸からも歩いて数分という場所にあったのである。それがわかっていたら、寺田屋へ行く前に寄るべき地点だったが、後の祭りだった。
とにかく、寺としては地方のどこにでもあるような狭い、正月だからか参拝客の多い境内に入った。その賑わいは、有馬新七らを詣でに来た観光客だとは思わなかったが、なるほど大黒天を祀っている真言宗の寺だったからだろう。もうもうと線香の煙が立っている本殿とそれと隣合っている庫裏(くり)やの間に立つと、奥に墓地があるのが見える。その間を通って墓地に至ると、すぐ左手に有馬新七らの墓が並んでいた。さらにそれらと並んで、宝暦年間(1754~1755)、木曾三川の治水工事に駆りだされ、切腹や病死で80数名の犠牲者を出し、その責任を取って自害したといわれる家老・平田靭負(ゆきえ)の墓があった。これらは、明らかに道島五郎兵衛の墓と違って、ごく最近に造り直したものだった。おそらく、有馬ら9基の墓は、その関係者や保存会の人たちによって。また、平田の場合は、明治33年以降結ばれた木曽川三川地域と鹿児島の交流が主体となって。
今回、私の問題意識は個々の墓の人物たちにはなく、薩摩藩とそれぞれの寺との関係がどうなっているのかということだった。そして、この大黒寺にやって来てわかったことは、やはりここも薩摩藩所縁(ゆかり)の寺であることがわかったことだ。おそらく、菩提寺だったといってもいいのかもしれない。そもそも、元和元年(1615)、島津義弘の守り本尊であるという大黒天と絡んで、薩摩藩の祈祷寺となり、元々の寺名も変えているほどなのだから。
だが、東福寺塔頭即宗院で道島五郎兵衛の墓を見出したことから、私の関心はそちらのほうにも向けられるようになった。
ここでコーヒーやサービスの日本酒を飲みながら、30分ほど休んだ。母親の機嫌はすっかりよくなっていたので、今日最後の訪問地である大黒寺を目指すことにした。そして、住所はわかっていたものの、大黒寺を明示する地図をもたなかったのでまた若干の紆余曲折はあったが、何とかそこに辿り着くと、何とそこは、最初にタクシーを降りた中学校のすぐ近くだった。つまり、伏見の薩摩藩邸からも歩いて数分という場所にあったのである。それがわかっていたら、寺田屋へ行く前に寄るべき地点だったが、後の祭りだった。
とにかく、寺としては地方のどこにでもあるような狭い、正月だからか参拝客の多い境内に入った。その賑わいは、有馬新七らを詣でに来た観光客だとは思わなかったが、なるほど大黒天を祀っている真言宗の寺だったからだろう。もうもうと線香の煙が立っている本殿とそれと隣合っている庫裏(くり)やの間に立つと、奥に墓地があるのが見える。その間を通って墓地に至ると、すぐ左手に有馬新七らの墓が並んでいた。さらにそれらと並んで、宝暦年間(1754~1755)、木曾三川の治水工事に駆りだされ、切腹や病死で80数名の犠牲者を出し、その責任を取って自害したといわれる家老・平田靭負(ゆきえ)の墓があった。これらは、明らかに道島五郎兵衛の墓と違って、ごく最近に造り直したものだった。おそらく、有馬ら9基の墓は、その関係者や保存会の人たちによって。また、平田の場合は、明治33年以降結ばれた木曽川三川地域と鹿児島の交流が主体となって。
今回、私の問題意識は個々の墓の人物たちにはなく、薩摩藩とそれぞれの寺との関係がどうなっているのかということだった。そして、この大黒寺にやって来てわかったことは、やはりここも薩摩藩所縁(ゆかり)の寺であることがわかったことだ。おそらく、菩提寺だったといってもいいのかもしれない。そもそも、元和元年(1615)、島津義弘の守り本尊であるという大黒天と絡んで、薩摩藩の祈祷寺となり、元々の寺名も変えているほどなのだから。
だが、東福寺塔頭即宗院で道島五郎兵衛の墓を見出したことから、私の関心はそちらのほうにも向けられるようになった。