海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(56)

2010-08-21 08:21:40 | 歴史
 少なくとも、西郷がその現場にいたなら、処刑は見送っていただろう。そういう場面は多々あったが、その西郷本人はいつも戦闘や処刑の場面から遠く離れている。そして、時々、落穂拾いでもするかのように、そういう「哀れな」話を聞くと、見舞金などを送って温情をばら撒く。
 いったい、「神」にまで祀り挙げられたこの人物は何を考えていたのだろうか。
西郷が、最終的に軍の解散命令を出したのは、延岡北方の長井村で政府軍の重囲にさらされていた8月17日(16日という説もあるらしい)だといわれている。これでは、遅きに失したのではないだろうか。それまでは、軍令は有効だったのだから、本来は総大将である西郷がこれらの責めを負わなければならない。
 そして、西郷に関して、こんなふうに「軽く」言うことすら、長い間タブーだったのである。少なくとも、鹿児島ではごくごく少数派であり、それは私が今まで紹介してきた各地の郷土史を見ても明らかであろう。
 だからこそ、かれが、維新史上、極めて大きく、偉大な事業を成し遂げていたとしても、また、すべての責めを一心に負うかのように城山の露に消えたとしても、この戦争における西郷の「立場」を擁護することはできまい。
 なぜ、どこかもっと早い時期にケリをつけられなかったのだろうか。
なぜ、他郷の人吉を撤退し、鹿児島に戻ったあたりで、「晋ドン、もうこの辺でよか」と言えなかったのだろうか。
 もちろん、今さらこんなことを言っても、意味のないことは知っている。ただ、これを強調し喧伝しなければ、私が追及してきたように、同じ同胞でありながら、いまだに「神」の外へ追いやられた人物たちは、永遠に浮かばれないではないか。これを西郷自身も喜んでいるだろうか。いや、懐の深い、「情」の西郷と呼ばれた人物が喜んでいるはずがないではないか。
 
 かつて私は、西南戦争とは、鹿児島出身者の官軍と薩軍に分かれて戦った、「骨肉相食む」戦争だと考えていた。現代のほとんどの鹿児島人ですら、そう思いこんでいるのではないだろうか。なるほど、官軍側にいて、のちに明治政府の顕官となった人物が、この戦争のため生涯故郷に帰れなかったなどという話を聞くと、むべなるかな、という気はする。だが、本当に「骨肉相食む」だといえるのは、ともに薩軍として戦い、途中で離脱した赤塚源太郎や黒江豊彦らのその後ではないだろうか。彼らは、故郷にもどこにも居場所がなかっただろうから。

西南戦争史料・拾遺(55)

2010-08-20 08:30:57 | 歴史
 野添日記では、小字(こあざ)地名というのか、私の大まかな地図では、ほとんど記載のない地名を書き連ねている。そのため、私も厳密にどの辺りなのかわからない場所が多い。ここもそうで、高野村近辺で起ったことなのだが、その高野村がどのあたりなのかよくわからない。そもそも、前日の6月30日の記述では、栗野の木田という所まで退き、「そこで炊き出しをしたが」というふうに途中で切れているのである。そして、翌日のこの日は、未明に官軍の攻撃を受けたので、横川を過ぎ踊(おどり)まで来たが、ここも危ないということで、踊の府本まで至り、ここに台場を築いて陣地にしようとした。ところが、そのあと、「日不分明トナリテ」と記し、また、松永村、大久保村などを転戦している。おそらく、戦闘に追われて、日記は2,3日分をまとめて書いたのだろう。転戦地も錯綜しているし、この日の日付のあとは、7月17日と大きく空いている有様なのだから。
 ともかく、高野村のあと「荘内」とか「都城」という地名が出てくるので、日向領内だと推測しているが、期日は、この日と書いているのでこの日の7月1日に起ったことだとする。
 この日、斥候隊の馬越士族児玉太左衛門ともう一人の名前のわからない馬越士族が脱走し、干城九番隊に捕縛され、それが辺見の雷撃隊本営に報告された。そして、翌日、軍令により処刑されている。

 私は、各地の郷土史を読んできて、ときどき、辺見十郎太の「勇猛さ」や「激烈さ」を目にしてきた。その極端な例を挙げれば、『出水の歴史と物語』にあった、「偉丈夫辺見十郎太は無反りの長刀を背負い、馬を飛ばして縦横に戦線を馳駆し、在郷士族の徴募を行い、官軍に内通する者、戦線を離脱する者は容赦なく斬って捨てた。官軍に魚を売ったというだけで斬殺され、首をさらされた婦人もいた」などという記述である。
 もちろん何の裏づけのないこういう話は、私自身も信じないし、ほぼ誇張だろう。ただ、誇張されるに足る人物だったということは、この野添日記の記録でも明らかである。たとえ、軍令に沿っていたとしても、この時期に至っては見逃す隊長もいたに違いないのだ。ただ、その記録がほとんどないというだけに過ぎない。戦争は、大砲や銃や刀を使う残酷な殺戮行為にはちがいないが、それを使用する人間の行為でもあるのだから、こういう場合、必ず見逃す人間もいる。たとえば、鹿児島へ戻る途中の小林で、戸長役場の諸帳簿を持ち出そうして傷つけられた使丁に、見舞金を送った西郷のような人物なら。


西南戦争史料・拾遺(54)

2010-08-19 08:07:12 | 歴史
 この投降に加わった分隊長以下は、知行高を取り揚げ、家屋敷を没収すること。押伍四役場は知行取り揚げで、三官も同様であること。また、分隊長、三官、押伍、四役場は、男子15才以上60才まで捕縛し、禁固に処すこと。伍長より兵士は、男子15才以上60才まで親子兄弟まで含めて座中謹慎すること。従卒は門高取り揚げのこと。
 以上の布達で、蒲生郷は「大混雑ヲ来セリ」と、野添日記は結んでいる。

 私は、四役場とか三官というのがどういう地位の兵士なのかよくわからないが、この赤塚源太郎らの隊の投降は、蒲生郷の関係者にも衝撃を与え、大混乱に陥ったことは想像に難くない。もっとも、この布達を出した薩軍にとっては、それ以上に衝撃的なことだったし、怒り心頭に発する一大事だった。
人吉本営もジリジリと追い込まれていたといえ、まだまだ薩軍やその他の地域から参戦した兵士たちの志気は高かった。それにも拘らず、最初に身内から脱落者を出してしまったのだから。

 この後の野添日記は、野添本人もこれにショックを受けたのか1ヶ月ほど空いた旧5月12日、新暦の6月22日から始まる。この日は、あの『帖佐村郷土史』でも繰り返し、繰り返し強調された日、帖佐の医師である岩爪隆助なる者が青駕篭に乗せられて連れ去られ、処刑された日でもある。いや、事実は、官軍が重冨に上陸した日であった。
 この日、この戦いのためか、即刻、蒲生郷士族26人が帰隊した、と書いている。おそらく、野添もかなり傷が癒えていたのだろう。翌日、仲間とともに出発し、その日、溝辺の石原町に泊った。さらに翌日、湯ノ尾の雷撃給養所に立ち寄ると、溝辺から3里離れた本城という所に本営があると聞き、そこで帰隊の届けを出した。すると、辺見(十郎太)より一両日休息せよ、といわれている。
 その2日後の6月26日。この日、本営から出頭を命じられ、十一番雷撃隊の給養方に配属され、すぐ前田へ宿舎を調達に出掛けた。
 こうして、重冨とは反対に内陸の方を日向路に向って転戦することになるが、この過程の7月1日に、これもまたその地の郷土史に記載されていないと思われる記事があった。


西南戦争史料・拾遺(53)

2010-08-18 08:19:11 | 歴史
 ともかく、人吉より下流の球磨川沿いで起きた最初の投降事件は、1週間後の22日、この負傷療養で蒲生近在にいた野添氏の耳に届いたとすれば、何の矛盾もない。どちらも信用にたる情報だろう。一方は腹に据えかねる事件だったとしても。
 さて、ここで、吉留盛美なる者が2度も出てくるので、かれについて少し触れておこう。但し、この人物のことは、よく分からない。というのは、この名前の人物は、昭和版、平成版『蒲生郷土誌』の出兵人名簿に名前がないのである。あるのは、「吉留盛喜」なる人物名で、最初、「美」と「喜」の間違いではないかと考えたが、どうもそう単純な問題ではなかった。
 この「吉留盛喜」なる人物は、明治10年12月30日、蒲生警視派出所へ、蒲生町戸長心得として、「十年役出兵人名簿」を提出しているのだ。つまり、戦後蒲生郷の首長になっているということなのである。一体、薩軍の最初の脱走者が、その村政の責任者に返り咲くことなど可能だったのだろうか。
 どうもよくわからない。仮に、かれが政府軍に協力し、村政が完全に政府や県の行政支配化に収まったあとだったとしても。それなら、赤塚源太郎らも堂々と村に帰り、その後も無視されずに済んだのではないだろうか。
 この問題は、再度『蒲生郷土誌』を検討する際に振り返る予定なので、ここで一旦筆を折り、赤塚源太郎の話に戻ろう。

 『薩南血涙史』の怒りとそれに惑わされた私の読み違いで、やや遠回りしてしまったが、野添日記は信頼に足る記録だということがわかった。では、まだ、残りの記録で、赤塚源太郎の一隊がどう扱われているか見てみる。
 この5月22日、赤塚源太郎一隊が投降したという報告を聞いたあと、次ぎは4日後の5月26日の記録である。
 この日は、最初に赤塚らの行動が「甚(はなは)タ以(もって)存外ノ至リト吹?シ」(注)、鹿児島本営にいる別府晋輔(ママ)氏より布達があったとして、次ぎのように記述している。

(注)・・・「?」の文字は、くずし方もさることながら、こんな漢字があるのかどうかわからなかったので、「?」にした。誰かに問い合わせてわかったら、埋めることにする。


西南戦争史料・拾遺(52)

2010-08-17 08:16:05 | 歴史
 今回、3月4日の吉次峠の戦いまで読み進んだあと、この野添日記はかなり正確なのではないか、そしてそれを写し取った原田直哉氏に間違いはないのではないかと考え出したその夜、ようやく『薩南血涙史』の頁をめくってみた。5月22日以前の日付のある項目を。なぜなら、野添日記では、5月22日に赤塚隊が、すでに降伏したという報告を耳にしたのだから、投降は当然その前になるからだ。
 それでは、かなり長くなるが、第四節 薩軍赤塚源太郎以下降伏という見出しのある項目を掲げてみる。

五月十五日
是(これ)より先き屋敷野越の薩軍守備破竹四番中隊半隊長吉留(よしどめ)盛美、分隊長福島安(やすし)、押伍田中藤之進、鈴木弥助なるもの夜潜(ひそか)に出でゝ官軍に降れり、此日鈴木は総督よりの帰順告諭書を以て説く所あり破竹二番中隊長赤塚源太郎、小隊長山内種徳(蒲生郷の隊)は其部下九十八名を率ゐ共に官軍に降れり(此蒲生郷の兵は初め出軍の際二心あるものにして出軍を許さゞるものなりしが後、別府、邊見等再び募集せし兵なりし)大野口の指揮長淵辺群平之を聞き直に此の由を大口本営邊見十郎太に報ぜり、此時恰(あたか)も大口方面激戦の際なりしかば戦ひ止みて邊見大(おおい)に怒り蒲生郷の士赤塚眞志(しんし)湯田某に謂(いつ)て曰く「子(し)速(すみやか)に帰郷し源太郎以下のもの潜に逃れ帰らば悉(ことごと)く捕へ来(きた)れ」と赤塚等令を受け帰郷三十餘日に及びしも帰り来らざりしを以て還(かへ)つて之を邊見に復命せり(著者曰く赤塚隊中六名降伏に与(く)みせざる者あり河野之に勧めて曰く一隊已(すで)に降る卿等意あらば降れと六名胥(あいみ)かず後に至るまで其志を変ぜざりしと云惜(おしむ)らくは其名を失したり)        <下線部は、黒丸点。また、一部旧字を新字体に直してある>

 また、5月22日の項と同じような出だしだが、この吉留盛美らは、いつ脱走したのかわからない。これより先とあるのだから、15日の前の屋敷野越にいたときだろうが、5月10日の節である「屋敷野、箙瀬の戦」には、吉留らの記述は何もない。もちろん、これ以前に至ってはそういう場所が出てこないので、ありえないということになる。だから、おそらく、この著者にもはっきりした日がわからなかったので、15日の赤塚隊の降伏と一緒に書いたということなのだろう。それにしても、日時を分けて、2度も同じことを繰り返しているのは、これぐらいではなかろうか。

西南戦争史料・拾遺(51)

2010-08-16 12:20:56 | 歴史
 今回は、『薩南血涙史』の記述に入ろう。この著者の加治木常樹氏は、よほど蒲生隊の裏切りに腹を立てていたのだろう。私が、最初に蒲生隊赤塚源太郎らの投降を知った、6月4日の項は、本来は人吉隊の投降がメーンなのに、蒲生隊への腹立ちのあまり、ここで繰り返していたのである。言い換えれば、私は、この繰り返しのため、人吉隊と同じ日に投降したものと勘違いしたのであった。
 では、もう一度、私が読み間違えた『薩南血涙史』の部分を抜き書きしてみよう。前回は途中からだったような気がするが、始めから。

六月四日
是より先き屋敷野越(やしきのごえ)の守備破竹四番中隊半隊長吉留盛美、分隊長福島安(やすし)、押伍田中藤之進、鈴木弥助等官軍に降り尋(つい)で箙瀬(えびらせ)の破竹二番中隊赤塚源太郎其(その)部下九十八名を率ゐて官軍に降りしが、この日亦(また)人吉隊々長犬童治成、丸尾静、軍監瀧川俊蔵等其部下二百八十名を引率し別働第二旅団本部に降伏せり、後(の)ち破竹二番中隊長赤塚源太郎、人吉隊長犬童治成、、丸尾静、瀧川俊蔵等の帰順するや、頻(しき)りに功を建て前罪を償(つぐな)はんと請(こ)ふ所あり・・・・・・

 もちろん、私は、これよりさき、と始まったので、当然、破竹四番中隊半隊長の吉留盛美らは、この6月4日前に投降したのだろう、と読んだ。だが、また言い訳がましくいえば、この『薩南血涙史』の書き方では、この前の項は6月1日の「人吉の戦」で始まっていて、そこには、吉留盛美のことなど何の記述もなかった。さらにその数頁前の第6章人吉方面から読み出しても、それらしい記載もなかった。
 とにかく私は、赤塚源太郎を追及していたし、やや先を急いでいたせいか、「尋(つい)で」をほとんど読み飛ばし、「箙瀬(えびらせ)の破竹四番中隊赤塚源太郎其部下九十八名を率ゐて官軍に降りしが」は、次ぎの「此日亦(この日また)」に掛ってくると思いこんでしまっていたのである。
 おまけに、もう一度、人吉隊の犬童らと並んで出てくるではないか。これで、この日、人吉隊とともに、赤塚隊も降伏した、と疑わなくなっていた。


西南戦争史料・拾遺(50)

2010-08-14 08:06:30 | 歴史
 鹿児島への行程は、木山町から九州山地の裾野を通り、球磨川上流の江代を経由して、4月7日に人吉に着いている。翌朝は人吉を出発し、そこから6里の旅程で、日向領(だと思うが)の真幸馬関田(まさきまんがた)、また翌日には、7里歩いてようやく大隈領の溝辺(みぞべ)に至った。それから、4月10日には加治木に到着し、そこの病院で治療を受け、種々の薬をもらっている。そして、前もって連絡をしていたのか、自分の子供や弟を含め、故郷から大勢の出迎え人とともに蒲生郷に帰った。
 ここから少し時間が飛んだことを示すため一行空けられている。また、新暦、旧暦併用の日記が旧暦のみの表示に取って代わられた。地方では旧暦がまだまだ一般的で便利だったからだろう。そして、日付の飛びも大きく、戦場にいたときのようなこまめさはない。
ところで、日記は旧3月13日、新暦に直すと、4月26日から始まっている。この日は、鎮台兵が鹿児島に上陸し、蒲生郷にも闖入するという知らせを聞き、負傷病人ともども隠れたとある。そして自分は、赤塚甚左衛門氏と白男の湯ノ脇浅右衛門氏のところに「忍伏セリ」と書いている。
 次ぎは、その3日後の旧3月16日(4月29日)で、「帰宅シタリ」とだけあるので、「忍伏」先から戻ったということだろう。ただ、翌日の旧3月17日(4月30日)には、鹿児島には味方の兵が追々集合し、小戦を繰り返している。それで、鹿児島に兵を出すかどうかで蒲生も「混雑ト聞ク」とあるので、白男の湯ノ脇家にでも戻っていたのかもしれない。
次ぎの日付はこれから22日も飛んだ、旧4月10日、新暦の5月22日になるが、これが今までの私に大問題だった日付なのである。この野添篤日記の中で初めて赤塚源太郎の名前が出てきた日だったのだから。
 つまり、以前論じたように、私は、『人吉市史』や『薩南血涙史』などにより、6月4日の人吉隊の降伏とともに、この日、赤塚源太郎以下百余名の投降もあったと思いこんでいたのだ。だから、どうしてもこの日付に納得できなかったというわけなのである。
 では、この辺りを、それぞれの史料に基づいて再度確認してみよう。
 まず、野添日記では、どう書いているか全文を掲げる。

旧四月十日(5月22日)
蒲生郷二番立赤塚源太郎氏一隊七十九名従卒其他ヲ合セ百余名降参セリト赤塚雄介氏報告ニナリタリ
 

西南戦争史料・拾遺(49)

2010-08-13 11:36:02 | 歴史
 前回まで、この野添日記を綴ってきたが、またまた大きな読み違いというか読み不足があったことに気づき、今やや意気消沈している。と同時に、私の『薩南血涙史』に対する抜き難い偏見がここまで強かったのかと改めて驚いている。
 この私の偏見というものをもっと具体的にいえば、出水事件や大河平事件ばかりでなく、数々の斬殺・処刑をまるでなかったかのように記述した、この厚冊の本を許せなかったということなのである。薩軍側の最初の鎮魂の書であり、その子孫たちのバイブルとなっただけに。
 それゆえ、できるだけこの厚冊の本を紐解きたくなかった。そういう私の心情が、大きく反映していたのだろうか。今回もその結果の読み落としがあったことに昨夜気づかされたのである。
 言い訳ばかりしてもしょうがないので、結論を先に言おう。野添日記にある赤塚源太郎の投降日に関する話は、『薩南血涙史』の記述と矛盾しなかったのである。
つまり、『原田直哉覚書』の中に収められている「野添日記」の信憑性が高まったと同時に、『薩南血涙史』の記録性も無視できなくなったということだ。
 これらのことを詳述する前に、前回の野添日記の続きから述べていこう。まだ赤塚らの話は出てきていないし、出てきたときに『薩南血涙史』と照合していけばいいのだから。ただ、今回の失態を話しておかないと、あとで辻褄合わせに苦労すると思い、正直に先に触れたのだから。

 さて、篠原らが戦死した3月4日の戦い以降、野添の隊は大小の戦いを繰り返しながら、しばらくの間、吉次峠を死守している。しかしながら、4月1日の「思ヒノ外大戦争」で、野添本人が負傷してしまい、戦線を離脱せざるを得なくなった。それから、撤退する病院を追って川尻,三船(みふね)と移動し、4月3日に木山町の病院に入る。そこで、治療を受け、自宅療養が可能と判断されたのか、帰郷願いを出すと、翌日、その許可がおり、その日の夕方、同行の者数人と鹿児島に向け出発した。野添本人の負傷がどの程度のものか、またどこをどう負傷したのか何も書いていないが、少なくとも歩けることから、足を負傷したということでなさそうである。そして、それほどの重傷でもなかった。

西南戦争史料・拾遺(48)

2010-08-12 12:18:22 | 歴史
 何はともあれ、『原田直哉覚書』に収められた野添篤という蒲生士族の従軍日記を紐解いていくことで、その信憑性を探ってみよう。
 まず最初に、西郷、桐野、篠原らが、県令大山綱良にいわば政府へお伺いの筋があり、鹿児島を出発することを届け出たと、蒲生戸長である辺見十郎太より聞いたとある。そして、自分(野添篤)は、出兵の2日前に私学校に入った、と書いたあと、明治10年丁丑(ていちゅう)2月13日という日付のある日記が始まる。この日は、旧暦の正月元日で、しばらく、この旧暦も併記されている。
 ところで以前、14、15日(旧正月2,3日)と大雪が降ったと書いたが、この日記では、元日も5、6寸(10数センチ)降ったようだ。その中を鹿児島に向かい、その日は城下の若宮学校内に泊った。
 翌日の14日は、練兵場に行き、武器などの検閲を受けたあと、第一大隊三番小隊に組み込まれたとある。大隊長は、もちろん篠原国幹だが、小隊長は浅江直之進だった。もっとも、かれがのちに戸長役場に提出した「帰郷書」には、浅江直之丞と書かれている。私には、これを写した原田直哉氏の間違いなのか野添篤氏の間違いなのかわからない。原田氏は、ペンを使って写しているのだが、当然、「くずし字」で、中には私の読めない字もあるが、これは明らかに「進」と「丞」であることを断っておく。
 さて、2月15日は、一番大隊の出発の日である。西目回り、つまり通常の参勤交代で通る街道を、阿久根、出水と泊りながら、肥後の水俣には、18日に着いている。その後、22日、前夜から評議が続いていたが、午前3時に川尻を出発し、熊本城近くの谷山口から攻撃に入り、午前8時頃から本格的な銃戦となったと、とある。
 こうして熊本城攻撃が始まった。が、ご承知の通り、結局、これを奪えず、一番大隊長の篠原は、早くも3月4日の吉次峠の戦いで命を落としている。この日の野添日記にもそのことが書かれており、また蒲生士族の戦死者名も記録している。土橋庄右衛門、瀬之口厚謙、野村善右衛門、野村新五兵衛の4名であった。これは、昭和版、平成版の郷土誌にも戦死者名簿に名前はあるが、野村善右衛門だけは、吉次峠ではなく、田原坂で戦死したことになっている。ただ、吉次峠で戦死したことになっている3名も、戦死した日付はバラバラで、土橋庄右衛門は正月7日(新暦の2月19日)、野村新五兵衛は3月25日(新暦)、瀬之口厚謙だけが、3月4日(旧暦1月20日)という日付になっている。
 土橋庄右衛門の正月7日は、戦闘前の水俣を出発した日なのだから、何かの間違いだとしても、どちらがより正確なことを言っているのかよくわからない。
 一つだけ野添日記に肩をもつとすれば、その日、野村新五兵衛の死骸だけが不明だったと書いていることだ。ひょっとすると、その死骸が3月25日頃確認され、郷土誌ではその日を戦死した日としたのかもしれない。

西南戦争史料・拾遺(47)

2010-08-11 11:23:41 | 歴史
 では、最初に挙げた赤塚源太郎に関する資料を紹介する。
 私は、友人に『蒲生郷土誌』の戦前版と戦後版を頼んだのだが、戦前は発行していないらしく、昭和44年版と平成3年版だけが送られてきた。戦前版を発行していないとすれば、これはこれで『帖佐村郷土誌』とはまた違った意味で意味深モノだが、ともかく、戦前版を補うのに充分なかつ興味深い資料が2点付け加えられていたのである。そしてこれらは、『蒲生郷土誌』ではほぼ素通りしている赤塚源太郎の関する記述を充分に補っていてくれていた。ところが、このうちの1点は、非常に厄介な問題も提示してくれていたので、前回、読みこなすのがたいへんだった、と言ったのである。
 まず、この資料から紹介し、他の3点と照らし合わせながら、述べていこうと思う。
この資料は、『原田直哉覚書』という全3巻本の第2巻に収められた、蒲生郷出身の野添篤という人物の従軍日記である。しかしながら、この記録は、原田直哉(宮之城士族らしい)という人物が、どこかでこの日記を入手し、それをかれが写しとった、いわば写本なのである。それを翻刻もせず、影印本というのか写真にとって、原田直哉氏のご子孫が出版している。本来、『原田直哉覚書』が第1級史料として認められていれば、少なくとも翻刻されて出版されてもいいはずなのだろうが、それはなされていない。また私は、鹿児島の研究者による『原田直哉覚書』の評価も、その中にある従軍日記の評価も知らないし(注)、実際、私自身この史料を「西南戦争史」の中でどのように位置づけしていいのかよくわからない。さらに、これを歴史学でいう第1次史料と呼んでいいのかどうかもわからない。ただ、平成版『蒲生郷土誌』では、この日記を引用して、人物特定などをしているところから判断すると、1次と2次史料の間(私の友人の表現)ぐらいになるのだろうか。
 なぜ、こんなことにこだわらなければならないかというと、確かに赤塚源太郎以下100余名の投降の記述はあるのだが、その日が、『薩南血涙史』で書いている日とは大きくズレがあるのである。
 だからもし、これが本当のことだとすれば、西南戦争史の一部を変えてしまうだろうし、今までの私の考えも大きく変更しなければならなくなるのだ。

(注)・・・このことに関しては、地元の郷土史家以外、手もつけていない可能性が高い。