海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(59)

2010-08-24 08:29:22 | 歴史
 くどいようだが、もう一度『薩南血涙史』の5月15日の項を引用する。

五月十五日
是(これ)より先き屋敷野越の薩軍守備破竹四番中隊半隊長吉留(よしどめ)盛美、分隊長福島安(やすし)、押伍田中藤之進、鈴木弥助なるもの夜潜(ひそか)に出でゝ官軍に降れり、此日鈴木は総督よりの帰順告諭書を以て説く所あり破竹二番中隊長赤塚源太郎、小隊長山内種徳(蒲生郷の隊)は其部下九十八名を率ゐ共に官軍に降れり・・・(下線部は黒丸点)

 これでは、どう読んでも鈴木弥助も破竹四番中隊・半隊長の吉留らの仲間になるし、そういう書き方である。但し、曖昧な表現だが、鈴木(弥助)は官軍に降伏したのち、官軍側の使者として、5月15日の赤塚源太郎の降伏に一役買ったように書かれている。『薩南血涙史』の著者・加治木常樹の間違いだったのだろうか。これもどちらを信じていいのかよくわからない。
 とにかく、わからないことはわからないこととして次に進めよう。平成版『蒲生郷土誌』では、吉留の報告書と在郷軍人会調べをどう言っているかというと、ほぼ昭和版と同じであるが、報告書総数486人、軍人会189人となっており、これは私が数えた数と矛盾しない。だが、昭和版の数が合っていないことなど何も触れていない。
 次に人名に関して論じてみよう。どうも人名を見ていくと、すべてとはいえないかもしれないが、戸長心得吉留盛喜は、投降者たちを無視して報告しているようなのだ。つまり、吉留が投降者たちを出兵人名簿の中に入れなかったために、在郷軍人会の中に加えられている投降者たちを「漏れた」人名として分けて記載しているようなのである。ただ、そう断定できる自信は私にはない。なぜなら、昭和版・平成版とも吉留盛喜自身は、「漏れた」数の中にいるのだから。これも何だかよくわからない。
 それと昭和版には赤塚源太郎の名前はどこにもない、と言ったが、吉留の報告書にも在郷軍人会の名簿にもないということだ。ところが、面白いことに、「漏れた」人名の中に、赤塚源五郎という人物がいた。私は、最初、「太」を「五」と誤記したのかと考えていたのだが、以前紹介した蒲生の郷土史家・南實氏の『西南戦争と蒲生』を読むと、何と赤塚源五郎は、源太郎の息子なのである。