海鳴記

歴史一般

日本と英国の出会いー薩英戦争まで

2023-07-04 12:22:29 | 歴史

          (6)宗教鎖国から開国へ

 もともと、幕末の薩摩(日本)と英国との関係を眺めようと思った時、どうしても気になることがあった。それは、日本に最初に上陸したウィリアム・アダムズという英国人であり、またその国が当時どんな国だったということであった。もっとも、冒頭で語ったように、実際は日本人のほうが、早く英国に渡っていたということを知ったときは驚いた。私自身その史料を目にしていないし、その文献調査も必要だろうが、充分あり得ると思っている。埋もれている史料が出てくれば、そしてその史料が信頼に足れば歴史は書き換えられるのだから。

 ともかく、アダムズが来日した頃と幕末に来た英国人、或いはイギリスという国がどう変わっていったか確認したかったのである。

 さて、すでに何度も触れたように、元和(げんな)9(1623)年、英東インド会社(EIC)が、モルッカ諸島でオランダ東インド会社(VOC)との利権争いに敗れ、と同時に、平戸の商館を閉めるに至った。そして、その50年後の延宝(えんぽう)元(1673)年に、チャールズ2世の国書を携えたEICのリターン号が長崎を訪れ、貿易再開を切望した。しかしながら、幕府はこれを拒否している。EICが、日本との貿易再開を望んだのは、台湾の鄭(てい)氏政権(1662~1683)と英国が前年に通商条約を結んだことが契機だったと思われる。ここで少し台湾のことにも触れておく。

 まず、鄭氏政権というのは、1644年、明朝が滅び、満州(女真族)政権である清国が成立した。それに対して、明朝の復権を望む鄭成功(1624年平戸生まれ~1662)が大陸を逃れ、1662年、当時、オランダが一部支配(タイオワン)していた台湾を占領。鄭成功は、その年そこで急死するものの、その後は一族が清国に平定されるまで、台湾に割拠したのである。それ以前の1624年以来、オランダがタイオワン(台南市の外港)に城塞を築き、中国(明・清)との貿易拠点としていたが、鄭成功の侵攻によって追われてしまう。ただ、インドネシア(バタヴィア)と日本との間に拠点が欲しかったオランダは、鄭氏政権に何度か反撃を試みたが、取り返すには至らなかった。その後の1683年、鄭氏政権は、清国軍に敗れ、22年の支配は終わっている。

 江戸初期の日本をめぐる状況は以上だが、その後、英国が日本の扉を叩くのは、文化5(1808)年8月15日のことである。この日、英国海軍の軍艦・フェートン号がオランダの国旗を掲げて長崎港内に入って来たのである。そして、オランダ船と勘違いした出島の商館員二名を同艦に拉致し、出島の商館の引き渡しを要求した。ところが、翌日、結果的に水と食料の交換で二人の商館員を解放し、フェートン号は翌未明に錨を揚げ、長崎港外へ去って行ったのである。この突然の襲来に、幕府から長崎港の警備を任されていた佐賀鍋島藩は臨機な対応が取れなかった。太平の世に慣れ、通常の十分の一程度の警備人数しか配置していなかったのである。この事件は、オランダにも日本にも何の実害をもたらさなかったものの、長崎奉行は自ら切腹。さらに失態を演じた佐賀藩は数名の家老も責任を負わされて切腹し、藩主も100日間の閉門を命じられている。このことが幕末佐賀藩の近代化路線を進めた原因と言われているが、日本近海には次第に外国船の姿が見え隠れするようになる。

 ところで、英国海軍がなぜ長崎にやって来たのか、ということを簡単に見ていくことにする。当時のヨーロッパの情勢は、江戸初期の状況とは大きく変化していた。それには英国とフランスの第二次百年戦争と呼ばれる世界の覇権争いから始めなければなるまい。  

 17、8世紀の英仏は、ルイ14世下のフランスが仕掛けたファルツ(継承)戦争(1688~1697)から始まり、スペイン継承戦争(1701~1713)、オーストリア継承戦争(1740~1748)、七年戦争(1756~1763)まで4度の戦争を繰り返し、またそれに付随した北米大陸でも4度の植民地争奪戦を引き起こしていた。これは、インドをめぐる英仏の争いも同じで、いわば熾烈な覇権争いであった。この死闘の最終的な結果、英国はフランスに勝利を収め、産業革命の勃興とともに世界の覇権を握るに至っている。その後は、アメリカの独立(1776)、フランス革命(1789)、と徳川政権の平穏とは無縁の闘争に明け暮れていた。

 オランダはどうかと言えば、フランス革命後のヨーロッパ情勢が込み入っているので、ナポレオン以降の概略だけにする。

 フェートン号が長崎に現れる2年前の1806年11月にナポレオンが大陸封鎖令を出し、イギリスとヨーロッパ大陸との通商を禁止した。これは、フランスとの同盟諸国を含め、経済的な困窮を迫り、様々な軋轢(あつれき)を生む結果となってしまった。英国も然(しか)り、ナポレオン戦争でも中立的立場にいた米国も然りだった。その頃オランダは、仏革命戦争以来、仏の同盟国として共和国になっていたので、英国とは相対立する立場にあったと。それゆえ、大陸封鎖令に圧(お)された英国は、東アジアにあるオランダ(フランス)の拠点を襲い、オランダ(フランス)船を拿捕し始めたのである。その中の一隻が長崎港への出現だった。もっとも、なぜすぐに立ち去ったのかはよくわからない。

 英国は、すでに清国の広東に商館を設置(1711年)しており、南シナ海を自由に航行していた。そのため、英国は、フランス領になっていたバタヴィァや出島のオランダ船を追うことは可能だった。ただ、実際には、フェートン号が長崎に現れる12年前の寛政8(1796)年8月には、海図作成のため、測量船プロヴィデンス号(船長ブロートン)が北海道の室蘭に来航している。そして、翌年、琉球(那覇)に寄港し、水・食料を補給しているのである。つまり、既に日本に探りをいれていたのである。そのためか、フェートン号は、オランダ商館引き渡しなど強引には進めなかった。脅しておくだけで充分だったのであろう。要するに、植民地としてインドは手中に収めつつあるものの、清国が次のターゲットだったので、日本のような小国とトラブルを起こして時間を浪費できず、すぐに立ち去ったのかもしれない。

 ではここで、一直線に幕末の日本と英国の関係に入る前に、ロシアとアメリカが幕末の日本とどう関わってきたかも寄り道してみる。

 


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